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#12:遠慮という名の罪

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-05-22 11:51:28

「カルロさん、どうされました?」

 エレナは柔らかく声をかけながら、老人のもとへ歩み寄った。慌てさせないよう、その歩幅はいつもよりさらに穏やかだった。

「……その」

 カルロと呼ばれた老人は、何かを言いかけて、そのまま深く俯いてしまった。皺に縁取られた唇が、言葉を選びあぐねるように小さく震えている。

 その沈黙に、信者たちの視線が一斉にカルロへと集まった。

「ど、どうしました?」

 最初に口火を切ったのは、先ほど悩みを打ち明けていた青年だった。自分の番が終わったばかりだからこそ、言い出せない苦しさがよくわかるのだろう。身を乗り出すようにして、気遣わしげに老人を見上げる。

「なにかあるんなら、この場で言っちゃいなさいよ?」

 軽やかな声で背を押したのは、先ほどの女信者だ。からりとした物言いの裏に、確かな優しさが滲んでいる。

「そうだぞ。悩みってのはな、皆で解決するもんだ」

 いかつい老信者までもが、太い腕を組んだまま、ぶっきらぼうに言葉を添えた。

 それでも、カルロはなかなか顔を上げられない。

「しかし……私の問題で、皆さんの集会の場を壊す訳には……」

 やっとのことで絞り出したその声は、かすかに掠れていた。月に一度の、皆が心待ちにしている集会──それを自分の事情で乱すことが、どうしても忍びないのだろう。曲がった背が、さらに小さく縮こまる。

 その遠慮を、ふわりと押し返す声があった。

「何言ってんだい」

 皺だらけの手で膝を軽く叩き、老婆信者が顔を上げる。

「集会ならまた出来るよ。あんたのその顔つきからして、よほど急ぎの用なんだろう?」

 きっぱりとした、それでいてどこまでも温かい声だった。

 カルロの肩が、びくりと小さく揺れる。

「……皆さんの言う通りです」

 エレナは静かに引き取り、老人の傍らに膝を折った。目線を合わせるように、ほんの少し身をかがめる。

「こういった集まりの場は、私がまた、いつでも作りますから。──カルロさん、どうされたんですか?」

 優しく、けれど逃げ道を与えないように、まっすぐ問いかける。

 カルロは、ようやく顔を上げた。潤んだ瞳の奥に、深い怯えと、すがるような色が浮かんでいる。

「実は……先日、妻が薬草を取りに、森へ行ったんです」

 震える声が、言葉を一つずつ拾い上げるようにして続く。

「ですが、その時に……魔物に襲われてしまったみたいで……」

「っ……」

 エレナの喉が、ひゅっと小さく鳴った。組んだ指先に、思わず力がこもる。

「魔物の魔力が、体の中に入り込んでしまったようで……妻は今、急性魔力中毒に陥ってしまっているんです……」

 告げられた病名に、エレナの背筋を冷たいものが走り抜けた。

(それは──命に関わる事態だ……!)

 急性魔力中毒。魔物由来の異質な魔力が体内で暴れ、肉体そのものを内側から蝕んでいく症状。進行が早ければ、数日と保たない。下手をすれば、今この瞬間にも。

 エレナは一度だけ深く息を吸い、そしてすぐに立ち上がった。聖女見習いとしての柔らかな微笑みはそのままに、けれど、その瞳の奥にはもう、迷いの色は欠片も残っていなかった。

「皆さん」

 澄んだ声が、聖堂に凛と響く。

「私は、これからカルロさんのお宅へ向かいます。集会は──」

 続けようとした言葉を、穏やかな声が優しく遮った。

「儂らは大丈夫ですよ」

 先ほどの老婆信者だった。皺の刻まれた顔に、安心させるような笑みをたたえて、彼女はゆっくりと頷いてみせる。

「行ってきてやってください」

 その一言に、周囲の信者たちも次々と頷いた。青年は真剣な面持ちで、女信者は軽く手を振るようにして、いかつい老信者は無言のまま腕を組んだまま、深く顎を引いて。

 誰一人、不満げな顔をしている者はいなかった。

 エレナの胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。いつもそうだ。この人たちは、いつだって彼女の背を押してくれる。聖女見習いという肩書きの下にいるただのエレナを、ちゃんと信じて、送り出してくれる。​​​​​​​​​​​​​​​​

「カルロさん。そういうことですから──案内していただけますね?」

 エレナは迷わず老人に向き直り、穏やかに、けれど芯の通った声でそう告げた。

「申し訳……ございません……」

 カルロは震える声で頭を下げる。その背はさらに小さく縮こまり、皺だらけの手が杖の頭をきつく握りしめていた。

 エレナは、その姿を静かに見つめる。

 聖女見習いの身でありながら、彼女は知っていた。信仰心とは何か。それが人々に、どれほどの影響を与えるものなのか。──そして、信仰とは時として、甘やかな顔をした劇毒にもなり得るということを。

 目の前の老人は、妻が死の淵に立たされているその時でさえ、自分の悩みを口にすることをためらった。月に一度の集会を、自分の事情で壊してはいけないと、そう思い込んでしまえるほどに。

(自分の身を削ってまで耐え忍ぶことを、美徳と言うけれど……)

 胸の内で、エレナは静かに唇を引き結ぶ。

 そんなものに、納得などできなかった。

 人は、助け合うために神を仰いでいるはずだ。自分を押し殺し、痛みを呑み込み、尊さの名のもとに黙って耐え続けることを──信仰と呼んでしまっていいはずがない。

「行きましょう」

 エレナは、カルロの背にそっと手を添えた。急かすでもなく、けれど確かに、その一歩を後押しするように。

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 首都ベルステラの外れ。街の喧騒からわずかに離れた、静かな一角。

 そこに、カルロの家はひっそりと佇んでいた。古びた木彫りの小さな家屋。年月を重ねた木目は柔らかな飴色に変わり、扉の前には手入れの行き届いた小さな薬草畑が並んでいる。妻が育てていたものだろうか。

「すみません……。こんな、汚い家に、エレナ様を……」

 玄関先でカルロは再び身を縮めて詫びた。土間の隅に立てかけられた古い箒、擦り減った敷物、壁に掛けられた古い木彫りの装飾──どれもが、決して豪奢ではないけれど、大切に手入れされていることが一目でわかる。

「何を仰っているんですか」

 エレナは微笑んでみせた。作りものではない、心からの微笑みだ。

「生活感があって、良いです」

 言葉を飾らずに、ただそう告げる。カルロの曇った瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。

「……どうぞ」

 老人は掠れた声で促し、奥の部屋へと彼女を案内した。軋む床板を踏みしめ、短い廊下を抜けた先──薄暗い寝室の、粗末な寝台の上に、その人は横たわっていた。

「……これは」

 戸口で、エレナの足が一瞬だけ止まる。

 まずい。一目でわかった。

 カルロの妻は、浅く、苦しげに呻いていた。汗で額に張りついた灰色の髪。固く閉じられた瞼が、ぴくぴくと痙攣するように震えている。荒い呼吸は不規則で、喉の奥からは時折、しゃくり上げるような苦鳴が漏れ出していた。

 そして──露わになった腕や、首筋、鎖骨のあたり。

 そこに、紫色のアザのような文様が、毒々しく浮かび上がっていた。血管に沿うようにしてじわじわと広がり、肌の下で蠢いているようにすら見える。

 接続者は、進化の過程で魔力という恩恵を手に入れた。かつて万象神が持っていたとされる、奇跡の力──属性。それと接続することによって、人はようやく属性を扱えるようになったのだ。

 だが、接続者にも個体差がある。器の広さ、魔力への耐性、属性との親和性──それらは人によって異なる。そして、前線を退いた古い接続者たちは、年月とともに内側から魔力を生み出す力が衰えていく。自らの中で巡るべき魔力が細り、その代わりに外側の──特に魔物のような、歪な魔力を体内へ取り込んでしまった時。

 急性魔力中毒。

 それが、今まさに、カルロの妻の身体の中で起きていることだった。

 紫の文様は、異物の侵食そのものだ。体内で暴れる魔物由来の魔力が、血の流れに乗って全身を蝕み、臓腑を、神経を、命そのものを内側から焼き焦がしていく。

 進行は、決して遅くない。

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