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#12:戦士は舞台を去る

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-22 11:51:28

「さあ、もっとだ。私に見せてくれ」

 エレンが口の端に獰猛な笑みを刻んだ、その瞬間。

 空気が――わずかに軋んだ。

 爆発の余熱がまだ漂う闘技場の中心へ、彼はゆっくりと歩み出す。

 焦りはない。ためらいもない。

 ただ、圧倒的な“支配者の歩み”だけが、熱の残り香を踏みしめていく。

 瞳に燃えるのは――終わらせるつもりのない、純粋な戦意。

(……それでなくては、面白くない)

「まだまだ、こんなもので終わりませんよ!!」

 吠えるような雄叫びとともに、シイナが一気に踏み込んだ。

 先ほどより速い。鋭い。怒りと執念が、足音を重くする。

 だが――

 エレンは、静かだった。

 剣を中段に構え、刃の角度を微細に調整する。

 まるで目前の突進を、“何度も経験した現象”として処理しているかのように。怖れも驚きも、刃先へ届く前に切り捨てられていく。

 狙うのは一点だけ。

 シイナの右腕――手首関節、そのわずかな継ぎ目。

 金属と肉の境目、力が“繋がり直す”瞬間の弱さ。

 振り下ろされる拳に合わせ、剣を滑り込ませる。

 狙いは寸分も狂わない。拳の軌道が逸れ、力が逃げ、右の拳は床へ叩きつけられた。

 ドンッッ!!

 闘技場の床が爆ぜるように砕け、石片が跳ね上がる。

 砕けた破片が熱を帯びて飛び、観客の喉から悲鳴が漏れる。

「くっ……!」

 シイナは拳を引き抜きながら体勢を崩す。

 それでも止まらない。狂気すら帯びた左拳を――投げ捨てるように、叩き込んできた。

 エレンの身体が、ふわりと揺れる。

 流れるような回避。余計な動きが一つもない。

 そして、逆手に近い角度からの一撃。

 今度は下から。

 寸分違わず同じ箇所――左手首の継ぎ目を打ち据えた。

「ぐっ……!」

 シイナの身体が宙へ跳ね、空気が歪む。

 衝撃の波が、足元の砂埃を輪にして広げた。

(……その手は、もう私には通じんぞ。シイナ)

 エレンは一歩先を読むのではない。

 三手、五手――いや、呼吸より前に生まれる“衝動”を、すでに掴んでいる。

 派手に着地したシイナが、三度、咆哮とともに突き進む。

 速い。努力も、才能も、激情もある。

 だが――相手が悪い。

(お前が壊したこの舞台。そっくり、そのまま返してやろう)

 エレンは静かに告げ、右足を深く踏み込んだ。

 地が鳴る。

 先ほどシイナが破壊した足場――その継ぎ目に、エレンの力が走った。

 砕けた岩盤が、意思を持ったみたいに盛り上がる。闘技場の地形そのものが、呼吸するように歪んでいく。

 まるで、戦場そのものがエレンの味方をしているかのように。

 石の軋みが、低い唸りとなって腹の底へ響いた。

「なっ……!? 床が……!」

 盛り上がった床石に足を取られ、突進していたシイナの身体が大きく跳ね上がる。

 踏み込みの勢いがそのまま裏切りに変わり、重い躯が――まるで見えない手に掬い上げられたかのように宙へ放り出された。

「おかげで助かったよ。さっき、お前が豪快に床を壊してくれたおかげでな」

 エレンは口の端を上げた。獣の獰猛さとは違う、“狩人の笑み”。

 そのまま地を蹴り、軽々とシイナの高度へ跳ぶ。

 宙。

 逃げ場も、踏み場もない。

 地面という味方を失った瞬間、鉄属性の重いガントレットは――防具ではなく枷になる。

 エレンの剣が、月光のような軌跡を描いた。

 ひと振り。

 続く二撃、三撃。

 それは“連続攻撃”というより、シイナの身体に刻まれる運命の刻印だった。滑らかで、無慈悲で、正確。

 刃が触れるたび、空気が裂け、火花が散り、鎧が軋む。

 空中のシイナの身体が、打撃のたびに不規則に揺れる。軌道を乱され、姿勢を取り戻す暇がない。

 受け止める術も、踏ん張る場所もない――ただ、落ちていく時間だけが残酷に進む。

 エレンの瞳が、ほんの一瞬だけ細められた。

 怒りではない。冷静な“照準”の目だ。

 そして――連撃は終わらない。

 祝福の鎧に、次々と亀裂が走る。

 甲高い音が連なり、ひび割れた光が散って、砕けた欠片が宙で星屑みたいに舞った。

 さらにエレンは空中で、しなやかに身体をひねる。

 刹那、宙が静まる。風の音さえ遠のく。

 その沈黙の中で、軸足とは逆の左脚を――

 天を突き破るように、高く、高く引き上げた。

 古流武術に伝わる、“天を蹴り上げる”必殺の型。

 その動きそのものがひとつの儀式みたいに、美しく、獰猛だった。筋肉が伸び切り、次の瞬間にすべてを叩きつけるために、世界が息を止める。

「――これで終わりだ!!」

 短い呼気が刃物のように走る。

 直後。

 重心を一点に収束させた強烈な蹴りが、寸分違わずシイナの胸へ突き刺さった。

 砲弾じみた衝撃がシイナの身体を貫き、軌道を真っ直ぐに塗り替えた。

 闘技場の端――いや、壁際を越えたその先。完全なる場外へ、一直線に叩きつけられる。

 ドン……ッ。

 土煙が遅れて噴き上がり、地鳴りが腹の奥を揺らした。

 観客席から吸い込まれた息が、一拍遅れて爆発する。

 エレンは静かだった。

 余韻を引くように剣を鞘へ納め、しなる猫のように――音もなく地へ着地する。膝がわずかに沈み、すぐに戻る。その動作に“勝った者の余裕”だけが滲んだ。

『じょ、じょ、場外ぃぃぃぃ!!!

 勝者、エレンゥゥゥゥ!!!!

 なんという壮絶な空中戦!! エレン選手、準決勝を見事勝利だァァァ!!』

 歓声が爆発し、嵐のように闘技場全体を揺らす。

 熱気が波になって押し寄せ、空の色すら震えて見えるほどだった。

 火花の残り香と土の匂いが混じり、世界がまだ戦いの余熱で鳴っている。

 〜*〜*〜*〜

 数分後。

 興奮の熱が消えきらない闘技場で、エレンは場外へ降り立った。

 壁際の地面に大の字で倒れたまま、シイナが荒い息を整えている。胸が上下し、喉がひゅう、と鳴るたび苦痛が顔に走ったが――意識は折れていない。

 エレンはその傍へ歩み寄り、見下ろすでもなく、ただ距離を測るように立った。

「……参りました、エレンさん。完敗です」

 悔しさがある。だが、それだけじゃない。

 やり切った者だけが持つ、清々しさが声の底に混じっていた。

「いや、いい戦いだった」

 エレンは淡々と言い、しかし瞳だけは確かに熱を帯びている。

「お前の戦術眼と発想力は、実に見事だったぞ」

 そう言って手を差し出す。

 シイナは一瞬、目を見開いた。次いで、照れ臭そうに口元を歪め――それでも力強く、その手を握り返した。掌同士が触れた瞬間、痛みとは別の緊張がほどける。

「はは……俺も、努力した甲斐がありました」

 立ち上がったシイナは、額の汗を拭いながら、ふっと表情を引き締めた。

 軽口の皮を一枚剥ぐように、視線が鋭くなる。

「さて、次はいよいよ決勝戦ですね。相手は……この国の騎士団総長にして最強の騎士――マゼンダ卿ですよ」

「……あの人だけは、本当に規格外ですから。気をつけてください」

「マゼンダ、か。その名は私も聞き及んでいる──王国最強の騎士」

 本来なら、そう告げるだけでエレンの魂は歓喜に打ち震えたはずだった。

 未知の強者。勝利の先に待つ、さらに高い壁。

 だが――今のエレンは、違った。

「……いや。悪いが私は、ここで接続者選抜戦リンカーズ・セレクションを降りさせてもらう」

「――えぇっ!?」

(――えぇっ!?)

 シイナと、内側に寄り添うエレナ。

 二人の驚きがまったく同じ声色で重なり、エレンの肩がわずかに揺れた。笑ったのではない。奇妙な一致に、ほんの一瞬だけ息が漏れただけだ。

(ちょ、ちょっとエレン!? 急にどうして!? もう少しで優勝なのに!)

 エレナの声は明らかに動揺していた。

 純粋な悔しさと、それでもエレンを信じたい気持ちが、同じ速さで胸を叩いている。

 エレンは闘技場の高みに広がる空を仰ぐ。

 誰にも聞こえない、彼女だけに向けた声を、意識の底へ落とした。

(……連日の激戦で、消耗が激しすぎた。何より、君のこの身体に――そろそろ限界が来ている)

(アドレナリンで誤魔化しているが、指先が微かに痙攣している。身体が悲鳴を上げているのが、手に取るように分かる)

 それは自分の痛みを語る声ではない。

 “エレナの肉体”が受けている負荷を、ひとつも取りこぼさない声だった。

(そんな……エレン……私の、ために……)

 胸の奥からふっと漏れた感情は、温かさと切なさと誇らしさが入り混じった、震えに近いものだった。

(なに。もう十分楽しんだ。これほど心が躍る戦いができたのだから、私としては満足だ)

(……そっか。そうだね。エレンがそう言うなら……うん、わかったよ)

 寂しさを含んだ声。

 それでもエレナは、彼の判断を受け止めた。言葉の端々に、無理に笑おうとする気配すら混じっている。

 二人の心は、いつの間にか“勝敗より確かなもの”で結ばれていた。

「……まさか、エレンさんがここで棄権するなんて。ある意味、最大の番狂わせですよ、これ」

 シイナは呆れ半分、感心半分の苦笑を浮かべる。

 勝者を称える喧噪がまだ残る中、その言葉だけが妙に現実味を帯びて響いた。

「あぁ、そうかもしれないな。だが……少し野暮用があってな」

「そちらを優先させてもらう」

 エレンは穏やかに言い、踵を返す。

 名声も、優勝の栄誉も――今の彼には、遠い。

(名声も、優勝の栄誉も、今の私には必要ない)

 歩みに迷いはなかった。

 まるで最初から道はひとつしかなかったかのように、一直線に。

(それよりもずっと……大切なものがある)

 背後で、決勝の名が渦巻き、観客の熱がまだ闘技場を揺らしている。

 けれどエレンは振り返らない。

 彼の足音だけが、熱の残る石畳に確かなリズムを刻みながら――次の“用事”へと進んでいった。

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