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#58:尾ひれの追いつかぬ少女

Author: 渡瀬藍兵
last update Petsa ng paglalathala: 2025-08-13 11:48:45

 拍手の音が、夜空にゆるやかに広がっていく。

 その輪の真ん中で、エレナは小さく息を吸い、申し訳なさそうに眉を下げた。

「皆さん――まだ、喜ぶには早いです」

 声音はやわらかい。けれど、響きには明確な区切りがあった。歓声を制するための強さではない。これだけは届けなければ、という芯のある柔らかさだった。

「皆さんの体内には、まだ、再発の根が残っています。あれを完全に取り除くことは、私の力では叶いませんでした。それほどに……皆さんの中に巣食っていたものは、強かったのです」

 頭を、深く下げる。

 拍手が止む。代わりに、村人たちの間から、また別の声がいくつも上がった。

「でも、エレナ様がなんとかしてくださるって――俺たちは、信じてますよ!」

「そうだとも! だって、あの聖女様だぜ!? こんな辺鄙な村にまで足を運んでくださって……噂に聞いていた通り、本当に聖母のようなお人だ……!」

「とは言うてもなぁ、まだわしらの孫らと年も変わらんやろうに……それで、こんなご立派な働きをなさるとは……」

 誰かの言葉に、別の誰かが頷く。その頷きにまた、別の声が重なる。賞賛の波は、止める間もなく場を満たしていった。

 ――エレナの噂は、王都ベルステラでは知らぬ者のほうが少ない。

 誰よりも民に親身に寄り添い、悩みを聞き、解決のために自ら足を運ぶ。聖女見習いという肩書きが、いつの間にか実体を追い越してしまったほどに。

 噂には、当然のように尾ひれがつく。けれどエレナの場合、その尾ひれの大半が、本人の手の届く範疇に収まっていた。盛られた逸話のほとんどが、実際に彼女が為してきたことの、ほんの少し先に過ぎない。

 ベルノ王国において、エレナは見習いの位に留まりながら、すでに誰よりも聖女と呼ぶに相応しい存在になっていた。

 今この瞬間、辺境の小さな村でも、それが証明されようとしている。

「み、皆さん……落ち着いて、ください……! 皆さんのことは、きちんと治しますから……ちゃんと、お話を……」

 うろたえた声で、エレナが両手を小さく振る。

 けれどその声は、四方から押し寄せる感謝と賞賛の波に、いとも容易くかき消されてしまう。

 一方、賞賛の輪の後方では、また別の会話が交わされていた。

 炉の光がぎりぎり届くか届かないか――そんな半影のなかで、四つの背中が肩を並べている。シイナ、グレン、シオン、ミスト。村人たちの熱気からは少しだけ距離を取り、それでも目だけは、輪の中心に立つ少女から離さない。

「ふっ……エレナ様は、本当に慕われているな」

 最初に口を開いたのはシイナだった。腕を組み、口の端をわずかに引き上げている。

「当然だろ」

 即答だった。

 グレンが鼻を鳴らす。

「旅を始めてまだ数日だぜ? それでもよ、エレナの人となりはもう十分わかった。あいつは、尊敬に値する女だ」

「『当然』、というあなたの返答自体には、私も賛同しますが」

 すかさず、横からシオンの声が滑り込んだ。

「そろそろ、その口の利き方を改めていただけませんか。聞いているこちらが落ち着かないほど、失礼ですよ」

「いいじゃねぇか別に!」

 グレンが片手を振る。

「飾りっ気がねえほうが、エレナだって肩の力が抜けるってもんだ。本人だって、こうして喋ってるほうが嬉しそうじゃねえか?」

「まぁまぁまぁーっ!」

 ミストがふたりの間に跳ねるように割って入った。

「たしかにっ、グレンさんとエレナ様の会話、ときどき聞いててヒヤッとする瞬間はあります、ありますよ! でも、エレナ様はグレンさんのその気さくさに、ちゃんと救われてる様子ですし……ねぇっ?」

「しかしですね」

 シオンの声は、譲らない。

「彼女は、いずれ正式に聖女の位を授かるお方ですよ。今のうちから慣れ合うことが、後々――」

「分かってるって」

 グレンの語尾が、思いのほか静かに落ちた。

「分かってる。でもよ、シオン。今のあいつは聖女じゃねえ。オレたちのパーティの……オレたちの、仲間のエレナだ。そうだろ?」

 言葉が、夜気のなかに置かれた。

 シオンが、押し黙る。

 常ならばすぐに何か返してくる男が、視線を斜め下へ落としたまま、唇だけを薄く結んでいた。

「……まさか、あなたに、説き伏せられる日が来るとは」

 ようやく漏れたのは、不機嫌を装った呟きだった。けれど、その奥に潜んでいたのは、確かな苦笑のようなものだ。

「悪かったなあ!」

 グレンが大きく笑う。

「でもよ、きっとあいつ、聖堂でもさぞかし畏まった生活してきたんだろ? 誰彼かまわず様付けされて、頭下げられて、身を慎んで――そんなのばっかりだ。なら、せめてオレの前くらいは、聖女じゃなくて、ただの仲間の女の子としてのアイツを見てやりてぇ。それだけだ」

「……驚きましたァ」

 ミストが、目を丸くしてグレンを見上げた。

「グレンさん、まさかそんなことまで考えて、わざとエレナ様のこと呼び捨てにしたり、タメ口で話してたんですか?」

「いや?」

 グレンが、あっさり首を傾げた。

「気づいたのは、つい最近だな!」

「一瞬でも、あなたを認めかけた自分が、心底恥ずかしい」

「おいッ!?」

 グレンが思いきり噛みついた。

 その横で、シイナが堪えきれずに肩を揺らす。ミストは遠慮なく声を上げて笑い、つられたようにグレン自身も、ばつが悪そうにしかめた口元を、結局は緩めてしまった。

 炉の朱を背にして、男たちの輪郭が、ゆるやかに揺れている。

 その輪へ、村人たちの賞賛をどうにか掻い潜って、エレナがようやく辿り着いた。

「み、皆さーん……ダメです……。あの、村人の皆さんが私のことを、過大評価しすぎていて……」

 駆け寄りながら困り顔で訴えるその姿に、シイナがふっと笑った。

「それだけ、あなたという人柄が、人々を惹きつけている証拠ですよ」

「シ、シイナさんまでぇ……!」

 エレナが、ぷくりと頬を膨らませる。

 咎めるつもりだったのだろう。けれど、その膨らみ方には威厳の欠片もない。むしろ咎めた相手をその場に縫いとめてしまうほどの、いっそ無防備な可愛らしさだった。

(か、かわいい……)

(エレナ様……お美しいだけでなく、あんな表情まで……)

 遠巻きに見ていた村人たちのあいだで、堪えきれない呟きが、ひとつ、またひとつと漏れていく。当のエレナが気づかぬうちに、静かなどよめきとなって輪を満たしていった。

「……す、すみません」

 よりにもよって、シイナまでが、ぎこちなく頭を掻いて視線を逸らした。

 冷静沈着な研究者の顔の下で、可愛らしさの一撃を受け流しきれなかったらしい。仲間内ですらこれなのだから、村人たちの興奮も、もはや咎められたものではない。

「エレナ様ーっ! シチューの準備、ばっちり整ってますよーっ!」

 空気を切り替えるように、シイナの背後からミストの腕がぴょこんと突き上がった。

「いつでもお声がけください! もう、火加減も完璧ですからねっ!」

「……こ、こほん」

 エレナが小さく咳払いをして、頬の熱を散らすように姿勢を正す。

「それでは――皆さんに、振る舞わせていただきましょうか。ミストさん、ご案内をお願いできますか?」

「もちろんですともッ! こちらにどうぞーっ!」

 ミストが片手を高く掲げ、跳ねるような足取りで先に立った。

 炉の火が、また一段、軽やかに爆ぜた。

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