剣の先は、動くたびに光を細く刻んだ。朝の回廊は石が冷たい。近衛たちの靴音が規則正しく続く。ローランは一歩も無駄にしない歩幅で列の前に立った。
「剣先、二枚。前列、半身。右、納骨堂の口」 低い声に、兵が二羽の鳥のように開く。斜めに伸びた刃の向きが、広場から大聖堂へ、そこから地下街の段にまで一本で繋がる図になった。剣の先が触れてはいけない相手を指さず、必要なものだけを守る配置。無駄がない。 「舞踏儀礼の間、鐘の七打。黙礼から半拍遅れで交差。誰も触れるな。触れるのは目だけだ」 「応」 乾いた返答。帝都は騒がしいのに、ここだけ海の底のように静かだった。 皇子は柱の陰からそれを見ていた。衣の裾を手の中で折りたたみながら、息をひとつ置く。細い肩が一度だけ上下した。王子が脇にいた。彼は笑って、ひとさし指を唇にあてる。 「大丈夫。剣は君の方を向いていない」 「わかっている。君がいる」 短い囁きで、胸が少し広くなった。 条約婚は昨夜に成立した。封蝋の匂いがまだ脳裏に残っている。公開の舞踏儀礼が昼にある。皇子は公で前に出る。これは決まっている。私室では王子が支える。それも決めた。言葉ではなく、紙と印で。 二人は前夜、机をはさんで契約を読み合わせた。羊皮紙はしっとりしていた。灯の火が赤くゆらいだ。 「可。不可。合図。アフターケア。順に読もう」 王子が指で項目をなぞる。紙の縁を皇子の爪がかすめる。こすれる音が聞こえた。 「口にするのが必要だ。可は、手首を預けること。不可は……跪かせること、現時点では不可」 「了解。不可に踏み込まない」 「合図は、言葉が『灯台』。言えない時は右肩を三回。もしそれも無理な時は、鈴を鳴らす」 皇子の喉にかかった青い鈴が小さく揺れた。 「アフターケアは、甘い茶、温めた布、言葉を三つ。『良くできた』『ここにいる』『君は選べる』」 王子の声がそこだけ柔らかくなった。 「週に一度、青の曜はスイッチ・デー。公私問わず、判断は君に委ねる。私室では私が従う」 「……ありがとう」 皇子は少し笑った。その笑みは、痛みの跡に貼られた絆創膏みたいだった。剥がれにくいものがいい、と王子は思った。 朝、式次第は二重に詰め込まれていた。若い従者が台帳を抱えて走り込む。息が上がっている。 「殿下、剣舞の稽古がこの後に」 「剣舞踏ではないのか?」 皇子が首を傾げた。王子が目を瞬かせた。従者が固まる。 「……剣舞と、舞踏は別件でして」 「つまり二件重なっている?」 「はい。どちらも……今」 廊下の空気がぴりっとした。ローランがこちらに向く。目だけで「どうする?」と聞いてきた。 王子は肩をすくめた。軽い笑いをひとつ。 「剣はローランに、舞は私に。皇子は前。稽古は実戦。ね?」 「了解」 皇子はすっと前に出る。ローランの剣先がわずかに動いた。「剣先、三枚」とひとこと。近衛が階段へと分かれる。地下街への口も、納骨堂への古い扉も視界に入れる形になった。大聖堂の石は冷たく、鐘は遠い。 儀礼の衣装は重みがある。肩に縫い込まれた金糸が皮膚を押す。王子の手が背から裾へと、癖を直すように滑った。一瞬の圧。それだけで呼吸が揃う。 音楽が始まる。弦が土の匂いをまとっていた。皇子は前に出る。王子は半歩後ろ、左斜め。二重の影のように。 踵が石に触れる音。裾が空気を払う音。剣の金属音が遠くで合図を切った。地下街の方で人がざわめく気配がする。納骨堂の扉の向こう、古い骨の気配が静かに眠っているように感じた。 一度、王子が皇子の手首を取る。圧は軽い。合意の範囲内。皇子の呼吸は落ち着いている。彼は合図を試す。短い間を狙って、囁いた。 「灯台」 音は音楽に溶けるはずなのに、王子は即座に動きを弱めた。手を離し、指先で「見ている」と示す。近衛の列が、さざ波のように剣先を少し外へ向ける。一拍の停止が生まれる。観客席から「演出だ」と小声が漏れる。ほっとする笑い。間違いも、遊びに見せることができる。コメディは味方だ。 儀礼を終えると、権力の場が待っていた。大聖堂の高い席。地下街の頭目が腕を組む。納骨堂を預かる老女の瞳は乾いている。三者は黙って皇子を見た。 王子は椅子の背に手を置く。彼は前に出ない。今日、公では皇子が前なのだ。 「道は一本にしない。三つの口を開け、互いが互いを見通せるようにする。近衛は剣先で境を示すが、剣は降ろしたまま。触れない。目だけが働く。取り決めはここで交わす」 皇子の声は低かった。地下街の頭目が鼻で笑う。 「見透かされるのはごめんだね。商売は影でやる」 「影は必要だ。影があるから光が見える。だから影の境を、私が決める。地下街は露店を二割増やせ。しかし通路は塞がない。納骨堂へ行く路は開ける。大聖堂の階段では物売りをしない。その代わりに、儀礼の終わりには鐘の下で市を開く。祈りの後にパンの匂いがするのはいい」 老女が目を細めた。 「骨を踏むな。それだけ守るなら、わたしは文句を言わない」 大聖堂の司祭が袖を正した。 「聖別の時、雑音は……」 「鐘が七つ鳴った後に始める。聖別には石だけが聞く。市は七つの後だ」 王子がわずかに笑った。皇子は続ける。 「この三者と近衛で、月札を回す。監督は週ごとに交代。記録は公開する。剣が口になる。剣先は示すだけで、命じない。命令するのは、私だ」 地下街の頭目が肩を上げた。退屈そうに。 「やってみな。見物させてもらうよ」 ローランは剣先を一度だけ下げた。了承の合図のように見えた。 会議が終わると、私室の扉が重く閉まる。王子は扉に鍵を掛けず、ただ開けたままにしておく。逃げ道はいつもある、という約束。 「上出来」 「君が背中で支えた」 「支えただけ。立っているのは君だ」 王子は皇子の足首から鎖飾りを外す。金の糸を外して、肌に残った跡を指で温める。湯の湯気が甘い。薄荷の葉をつぶした香りがする。茶は少しだけ砂糖が多い。 「言葉を三つ」 皇子が目を伏せる。王子は迷わずに言う。 「良くできた。ここにいる。君は選べる」 喉元の鈴が小さく鳴った。音が胸の中まで降りてくる。呼吸が深く整った。 「青の曜のことだがな」 「スイッチ・デーだ」 「今日は青の曜ではないが、君に任せたい。明日の地図はどうする?」 皇子は地図を取り出して机に広げた。大聖堂、地下街、納骨堂。三つの輪が重なる辺りに、ローランの剣先の印。そこに小さな青い点を置く。 「ここに立つ。公では私が前。私室では……」 「私が従う」 笑いがひとつ混じる。従者が控えの帳の向こうでくしゃみをした。二人は顔を見合わせた。王子が小声で言う。 「次は青の曜にちゃんと重ねような。台帳の人には菓子を」 「了解」 午後、帝都の風は甘いものと鉄の匂いが混ざっていた。ローランの近衛は剣先で静かに境を示している。人びとは怖がらず、線のこちら側と向こう側を選ぶ。選べる線は争いにならない。皇子の姿は人に見える場所へ、王子の手は見えない背へ。 剣の先は彼らの約束に似ていた。触れず、示し、支える。感情にも策略にも、刃の厚みがあった。 次回、第15話:囮の祝宴王子は巻物の端を押さえ、皇子の指先が震えていないか確かめた。爪の白が薄く灯り、皮膚の温度は一定。控え室は蜂蜜蝋の匂いが濃く、灯心が低く唸る。外からは鐘の余韻が薄い金の帯のように流れ込み、床下からは納骨堂の冷気が糸のように這い上がる。——三つの権威(王権・教権・祖霊)が、いま一枚の羊皮紙へ集約されつつある。「合意契約、読み上げる。短くな」皇子が頷く。真珠色の喉が上下し、呼吸は吸三・止一・吐五で安定。公では皇子が前に、私室では王子が背を支える——それが二人の二重統治の背骨である。王子は項を指でなぞり、要点だけを声に置く。声は刃ではなく定規として。——可:手首を取る/跪拝の指示/口づけの主導。——不可:頸への拘束/痕の残る行為/儀礼前の過度な刺激。——合図:顎下二度=減速/手の甲三度=停止。——停止語:『雨宿り』(※当都の公儀に準拠。私室は従前どおり『柘榴』)。——アフターケア:水と甘味/皮膚の確認/言葉の安堵。「週一回、役目を入れ替える。月の七日目だ」「うん。スイッチ・デーは守る」
ユリウスは手袋を外し、蝋の縁を爪でそっとなぞった。指先に伝わるのは乾いた殻のような脆さ——温度が乗らない粉っぽい手触り。押せば白い罅が走り、たちまち砕けるだろう。封蝋には二重の紋——摂政印と主祭壇印。二つ重ねれば「不可侵」の威を装える。だが本来、同格の印は重ならない。過剰な権威は、ときに矛盾の匂いを放つ。香炉の煙は甘く重い。粘りを帯びた甘さが肺の内壁に膜のように張りつき、吐く息を鈍らせる。納骨堂の空気は凍った井戸の縁に顔を寄せたときの冷えに似て、霜が石の継ぎ目でぱきりと鳴った。冷気は音を小分けにし、音は胆へ沈む。「触れる前に、合図を」皇子の囁きが闇に吸われる。黒いフードの陰で光った瞳は静かだが、底に硬い意志を沈めていた。——公では彼が前に。今夜は私室の延長でも、その約定は続行される。週一のスイッチ・デー。主導権は皇子にある、と二人で決めた。ユリウスは頷き、右手の甲に宿る青紋を掲げる。短い言葉で運用をそろえ、互いを律する儀礼を始める。——可:固定/視界制限なし/低強度の拘束。——不可:出血/痕が残る力/口封じ。——停止語:『青鈴』(今都の公儀に準拠)。
鐘が三つ、四つ。石畳に重い音が落ち、朝の霧がほどけていく。森を抜け、次の都へ。二人はまっすぐ大聖堂の前に立った。王子は半歩うしろ、皇子が前。——公の顔はそうやって成り立つ。私室では逆転することを、二人だけが知っている。「息、整えて」王子の低い声。「大丈夫だ」皇子は喉を鳴らし、右手をひらいて見せた。赤い縄が手首を撫でる。儀礼のための赤、契約の色。成人の二人に課された、公と私を結わえる印。扉が開けば、香草の煙が甘く立ちのぼる。参列者の衣擦れ——地下街の商人、納骨堂の守り手、聖職者。三つの権力が同じ空気を吸っていた。誓約台の羊皮紙には条約婚の条が細かく刻まれる。政治の文と、合意の文が並ぶ。——可と不可。——合図。——アフターケア。——週一のスイッチ・デー。公では皇子が前に、私室では王子が支える。合言葉と解き方。すべてが署名の対象だ。「合図は、言葉と、手」王子が確認する。「言葉は『常夜灯』。手は親指三度」「呼吸が固まったら?」「噛む」皇子は小さな木玉を口に含んだ。銀線で通された赤い玉。——二度噛めば、縄の魔紋がほどける。声が出なくても解ける仕組み。緊張に飲まれても、自分で戻れる道。(※今都式に合わせ、公儀の停止語は『常夜灯』を採用。私室の停止語『柘榴』は従前どおり。)「ほんとに大聖堂で噛むのかい?」地下街の姐御がこそこそ笑う。「いざという時の話だ」皇子の視線は堂々として、以前よりずっと前を見ていた。王子はその背を指先で押す。——ここで前に立つのは皇子、支えるのは自分。◆◆◆儀礼が始まる。大司教の詠唱。赤縄が二人の手首を軽く結ぶ。祭壇には納骨堂から持ち出された小さな骨壺——祖の目。「条約婚の成立を、この鐘とともに」鐘
朝、王妹来訪の報が入った。皇子は鏡の前で肩を回す。重い礼服の肩紐が、まだ痛点に触れていた。王子が背で布の落ちを整え、襟元を指でそっと引く。「苦しい?」「少し。……いや、少しじゃない。——青鈴」王子の手が即座に止まり、布が緩む。皇子は息を吐いた。合図は声でも触覚でもいい——二人で決めた運用だ。青鈴=完全停止、掌三度=減速。日常の小さな不快から使うのがよい、と王子は言った。異論はない。青鈴を言えた自分へ、皇子は小さく頷く。「水」「はい」蜂蜜水が渡り、甘さが喉から体へ戻る。王子は肩に手を置き、親指で筋をほぐす。「痛みが戻ったら知らせて。——今日は公のお前が前に立つ」「わかっている。……ありがとう」二重統治。その手触りが肩に宿る。私室で支えられるから、公で立てる。扉が二度、軽やかに叩かれた。約した速さ。王妹は時間に正確だ。「入って」王妹は旅装の上に宮廷色の短外套。香は軽く、目はよく笑うが底を見せない。王の妹——議席の束ね役だ。「久しぶり。礼は簡素でいいわ。今日は姉ではなく、議席の束ねとして来た」「歓迎する。……外套、似合う」「ありがとう、皇子。あなたの前置きの短さ、好きよ」王子が卓へ契約文を広げる。条約婚は、国境と流路の管理を定める条約に結びつき、その付属書として互いの合意契約が添えられている。王妹は目を走らせ、欄外の印を確かめた。「可はここ、不可はここ。合図とアフターケアの確認は付属書一。週一のスイッチ・デーは火の四日目に固定。……ええ、宮廷文書に入れても問題ない」「公的に残すのか」「曖昧にして後で攻撃されるくらいなら、明文化が強い。**『私室の契約は公の安定の礎』**と書けば、古い議員も飲む。文句があれば、私が叱る」王子はわずかに笑い、皇子の喉の奥が熱くなる。
香の煙がゆっくり広がり、白い鳩を柔らかく包んだ。羽が光を受けて一瞬だけ霞のように透け、輪郭がふっと溶ける。鐘がひとつ、予定より早く鳴る。乾いた金属音が空を割り、小姓が石段の端で足をひねったのだ。ざわめきと笑いが波紋のように広場を巡り、張り詰めた糸が一本、音を立てて緩む。皇子はその隙に、胸の奥でひとつ呼吸を落とし、一歩、前へ。——公では皇子が前に。それが、二人で選び抜いた二重統治のかたち。大聖堂の階段。白大理石は夕陽を吸って桃色に温み、司祭の掲げる紅の糸が刃のように赤く光を返す。結びの儀に使う古い掟の道具。その絹が皇子の手首に触れた刹那——体が勝手に跳ねた。指が硬直し、喉が冷たい刃で切られたように凍る。幼い日に声を奪う訓練を受けた記憶が、縄の擦れる音と皮膚の焼ける匂いまで連れて甦る。「待て」王子の声が落ちた。短く、低く、地面に重さを置くように。糸ははらりと解かれ、石段へと滑り落ちる。王子は司祭の視線を正面から受け、礼を尽くした笑みと深い一礼で、剣の先を鞘に戻すみたいに空気を収める。「式次第は尊ぶ。だが様式は選ぶ。——指の結紋で代える」朱を指に引き、王子は自分の指と皇子の指先をそっと重ね合わせた。触れたところからじわりと金の灯りが滲み、同じ紋が二人の手に浮かぶ。光は細枝のように広がって脈を打ち、皮膚の下で合意の言葉が脈絡を持ちはじめる。
鐘楼の影はゆるやかに長く伸び、白亜の大聖堂の石床に夕陽の金の欠片が散った。条約婚の公開儀礼は、群衆の喧噪を吸い込みながら、思いのほか静かに、しかし確実に幕を閉じる。祭壇の前、皇子が一歩先に立ち、王子は半歩後ろを守る。片手に指輪、もう片手に契約書。掌の温度差まで、役割の輪郭をなぞっていた。魔紋司が二人の手首に淡い紋を引く。緑と銀の線が重なり、細枝の脈のようにゆっくり鼓動しながら光を刻む。触れ合うたび微かな痺れが走り、皮膚の下で“共同”という語が温度を持つ。「共治の誓い。公では皇子が前に。私室では王子が支える。週に一度のスイッチ・デーを設け、判断の重石を共に担う」司祭の声は高く、石柱に沿って震え、天蓋の暗がりへ吸い上げられる。地下から吹き上がる冷気が裾を撫で、納骨堂の空気を思わせた。——大聖堂は、地上と地下街と骨の層を一本の柱で貫く。権力もまた、階層を上下し、音もなく形を変える。◆◆◆夜。宿の小部屋。灯火は小さく脈打ち、壁に二人の影を薄く二重写しにする。合意契約を読み合わせる声は、紙の擦れと混じって一定のリズムを刻んだ。紙の縁は湿気と汗で柔らかく、触れるたびに乾いた音が鳴る。王子が短く、区切りよく読み上げる。——可:手首まで。——不可:首輪/露出。—