大聖堂の鐘が三度、空の薄雲を震わせた。石畳は冷え、香の匂いが衣に沈む。皇子は短く息を整え、王子の指先が自分の手首の脈を一度、二度、と確かめるのを見た。確認の合図。承諾の合図。彼らのやり方は、儀礼の鎖より軽く、しかし契約の鎖より切れにくかった。
「支度は整っております、殿下方」とセラフィナが言った。黒衣の襟に銀の糸が光る。侍祭長への謁見と、市参事会、そして地下街組合との折衝。詰め込まれた日程表を指で弾きながら、彼女は最後に別の羊皮紙を差し出した。「合意契約の更新案です。政治日程と練習日程が噛み合うように組み直しました」
王子が軽く眉を上げた。「読み上げて」
セラフィナは淡々と項目を追った。「可は、拘束は短時間のみ、指示語の使用、姿勢矯正、視線維持の練習、呼吸法の誘導。不可は、傷跡の残る行為、公共の場での首輪、宗教儀礼中の触れ。合図は手首への二回タップで『中止』、肩への一回タップで『休止』。セーフワードは『暁』。アフターケアは温水と糖分補給、15分の抱擁、言語による肯定の確認。週一回のスイッチ・デーは、火曜日の夕刻から翌朝まで。以上」
皇子は喉の奥で小さく笑ってから、真顔に戻った。「政治の予定は」
「午後から侍祭長の所見を伺い、公開儀礼の動線確認。夕刻から地下街の組合長と納骨堂の守人の仲裁です。スイッチ・デーと被るので、練習は短縮版をご提案します」
王子が顎で合図をし、皇子の手を一度だけ強く握った。それは公の場では王子が支えるという知らせ。私室に戻れば、支え方は反転する。「うちの近衛が巡察に入る日だ。短縮でいい」
セラフィナがほっと微笑んだ。「それと、条約婚の成立を本日、侍祭長の前で公開します。魔紋の刻印は浅く、象徴に留めます。森での出会いが神縁だったと、人々は見たがっていますから」
皇子の耳たぶがうっすら紅くなった。旅立ちの朝の霧、森の湧水の音、剣先より柔らかな王子の声。あの瞬間が儀礼で言葉になると思うと、胸がむずむずした。王子は平然を装ったが、袖の下の指先は少しだけ汗ばんでいた。
侍祭長の執務間は白い光で満ちていた。灰色の瞳が二人を測るように瞬いた。「所見を求められていると聞きました。条約婚は双方の国に利益をもたらすでしょう。大聖堂は公開の誓いを司る。だが、地下街と納骨堂は別の力が渦巻いている。骨壺の搬送路を誰が握るかで、街の影の税が変わる」
王子が一歩引き、皇子が半歩前に出た。公では皇子が前に。胸骨の上で息が静かに上下する。「大聖堂の上層は貴殿らの聖域。公開儀礼の秩序は尊重します。地下街は市の管理下で商人組合と治安官が共治。納骨堂は儀礼権は祭司にあり、しかし安全は市と共同で。骨壺の路は封鎖せず路傍の税も固定とする。収益は三分割。監査には双方から人を出す」
侍祭長は短く笑った。「皇子はよく学んでいる。森で怯えていた方とは思えぬ」
「怯えていない」と王子が割って入る声は穏やかだった。「彼は観察していた。雄になるとは吠えることではないと理解している」
皇子は震えを押さえて顎を引いた。訓練通り、相手の瞳を逃さない。王子が背中で支える。声が低く落ちた。「私室では王子が支えます。公では私が前に出る。二重の統治を契約として明文化したい」
「よろしい。儀礼の言葉にして刻もう」と侍祭長は銀の針を手に取った。「魔紋は輪。切れず、締めすぎず。民が見るところで、互いに見せ合いなさい」
儀礼の稽古のため、一度私室に戻る。鐘の余韻がまだ壁に揺れている。王子が衣を緩め、皇子の肩甲骨のラインを指でなぞった。「姿勢。肩は後ろ。顎は少しだけ。声は床に落とす」
「床に?」
「胸から出すと軽くなる。腹から落とす。試せ」
皇子が短く言葉を落とす。「所見を」
重さが出た。王子は満足げに唇の端を上げた。「よくできた」
「褒め方が雑」と皇子は少し拗ねた。拗ねた、と自覚するとさらに頬が熱くなる。王子は看破して、指で皇子の耳の裏をゆっくり撫でた。蜜ではなく、湯気のような甘さ。これがアフターケアの導入だとセラフィナは記していた。
扉の外でノックの音。若い従者が少し慌てた声を潜める。「セーフワンドをお持ちしました!」
王子が扉を開けて笑いを堪えた。「それは杖だ。要るのは言葉」
従者は真っ赤になり、木の棒を抱えて退散した。セラフィナが肩をすくめる。「表記、直しておきます」
皇子は笑いながらも、自分の手首を王子の手に預けた。「『暁』ね。念のため」
王子は頷き、タップの練習を二人で何度か繰り返した。二回で中止。一回で休止。口で言うよりも体の記憶に刻む。鐘の音がもう一度、遠くから刺してきて、皇子の呼吸が一瞬、細くなった。
「……暁」
瞬間、王子の手が離れ、抱き上げるように肩を包み、温水の入った杯が差し出された。指先でこめかみの脈が落ち着くのを待つ。何も問わない。問わないことが、どれほどの保護になるか王子は学んでいた。
「大丈夫。鐘の音が、前の森の夜を思い出させただけ」と皇子が言葉を見つける。「誰かの呼吸が止まる音と、似ていた」
「お前の呼吸は止めない」と王子はゆっくりと告げた。「政治でも、私室でも。止めないために止める。だから言葉を置く。暁はよい言葉だ」
セラフィナがさりげなく砂糖入りの温茶を差し出す。甘さが舌に広がる。「スイッチ・デーの短縮版は、呼吸法だけにしましょう。近衛の査閲と重なりますし」
皇子が茶杯を持ちながら、ぽつりと言った。「スイッチの日でも、公では私が前に出る」
王子は微笑んだ。「契約通りだ。私が後ろから押す。誓う」
午後、広場は民衆で埋まった。大聖堂の階段に侍祭長が立ち、銀の針を揺らす。魔紋は輪、一筆書きの光。皇子が王子の手首に触れ、針を浅く入れた。痛みは紙で指を切った程度。二人の血がほんのすこし交わり、光が輪になって皮膚に沈む。
「共に治める」と皇子は重い声で言った。「前に立つ者が倒れれば、後ろの者が支える」
王子が続けた。「後ろにいる者は押しすぎない。引きすぎない。合図を聞く。言葉を守る」
侍祭長の所見は簡潔だった。「契約を信仰に混ぜるのは危うい。しかし民は形を求める。形を持たない誓いほど、早く忘れられる。私は今日の形を支持する」
地下街の組合長と納骨堂の守人との会合は、香と汗と、乾いた紙の匂いで満ちていた。「骨壺は路で揺れると割れます」と守人が言い、組合長は帳簿を叩いた。「路を占有すると商いが死ぬ」
皇子は一度だけ手首を自分で叩いた。休止。深呼吸。王子が背中で、不可視の壁のように支えた。彼はゆっくりと両者の間に手を差し出した。「路を聖と俗で時間分けする。日没から夜半は納骨堂、夜半から暁までは商い。納める税は固定。検数は相互に立ち会う。争いは私と王子が交互に裁定する」
守人が渋い顔を緩め、組合長が計算を指でなぞり、やがて頷いた。侍祭長が静かに見守っている。所見はまだ言葉にならないが、彼の目の皺はわずかにほどけていた。
夜、私室で温水が湯気を上げる。セラフィナが報告書を整えながら、ふと目を上げた。「次の目的地は近衛の詰所です。共治の宣言に伴い、剣先の儀の立ち会いを要請されています」
王子が肩で笑い、皇子に視線を落とした。「剣を持つ者とも話す。お前の声で」
皇子は湯の匂いを吸い込んだ。甘い皮付きの果物が皿に盛られる。王子の手が髪を撫で、言葉が頭皮に落ちていく。「今日はよくやった。強さは形を変える。お前の形は、今日も正しかった」
「あなたの形が、私を支えている」と皇子が言った。「契約を明文化したから、怖くない」
セラフィナが最後の羊皮紙を机に置いた。中央に二人の魔紋が押し印として重なっている。「条約婚の成立、公開儀礼の完遂、合意契約の更新。週一回のスイッチ・デーの記載も確認済み。納骨堂と地下街の共治に関する覚書は、明朝、侍祭長に回します」
王子と皇子は互いの手首の輪を見せ合い、指先で軽く触れた。鐘は鳴らなかった。静けさの中で、契約の言葉だけが呼吸のリズムに寄り添っていた。
次回、第14話:近衛の剣先
王子は巻物の端を押さえ、皇子の指先が震えていないか確かめた。爪の白が薄く灯り、皮膚の温度は一定。控え室は蜂蜜蝋の匂いが濃く、灯心が低く唸る。外からは鐘の余韻が薄い金の帯のように流れ込み、床下からは納骨堂の冷気が糸のように這い上がる。——三つの権威(王権・教権・祖霊)が、いま一枚の羊皮紙へ集約されつつある。「合意契約、読み上げる。短くな」皇子が頷く。真珠色の喉が上下し、呼吸は吸三・止一・吐五で安定。公では皇子が前に、私室では王子が背を支える——それが二人の二重統治の背骨である。王子は項を指でなぞり、要点だけを声に置く。声は刃ではなく定規として。——可:手首を取る/跪拝の指示/口づけの主導。——不可:頸への拘束/痕の残る行為/儀礼前の過度な刺激。——合図:顎下二度=減速/手の甲三度=停止。——停止語:『雨宿り』(※当都の公儀に準拠。私室は従前どおり『柘榴』)。——アフターケア:水と甘味/皮膚の確認/言葉の安堵。「週一回、役目を入れ替える。月の七日目だ」「うん。スイッチ・デーは守る」
ユリウスは手袋を外し、蝋の縁を爪でそっとなぞった。指先に伝わるのは乾いた殻のような脆さ——温度が乗らない粉っぽい手触り。押せば白い罅が走り、たちまち砕けるだろう。封蝋には二重の紋——摂政印と主祭壇印。二つ重ねれば「不可侵」の威を装える。だが本来、同格の印は重ならない。過剰な権威は、ときに矛盾の匂いを放つ。香炉の煙は甘く重い。粘りを帯びた甘さが肺の内壁に膜のように張りつき、吐く息を鈍らせる。納骨堂の空気は凍った井戸の縁に顔を寄せたときの冷えに似て、霜が石の継ぎ目でぱきりと鳴った。冷気は音を小分けにし、音は胆へ沈む。「触れる前に、合図を」皇子の囁きが闇に吸われる。黒いフードの陰で光った瞳は静かだが、底に硬い意志を沈めていた。——公では彼が前に。今夜は私室の延長でも、その約定は続行される。週一のスイッチ・デー。主導権は皇子にある、と二人で決めた。ユリウスは頷き、右手の甲に宿る青紋を掲げる。短い言葉で運用をそろえ、互いを律する儀礼を始める。——可:固定/視界制限なし/低強度の拘束。——不可:出血/痕が残る力/口封じ。——停止語:『青鈴』(今都の公儀に準拠)。
鐘が三つ、四つ。石畳に重い音が落ち、朝の霧がほどけていく。森を抜け、次の都へ。二人はまっすぐ大聖堂の前に立った。王子は半歩うしろ、皇子が前。——公の顔はそうやって成り立つ。私室では逆転することを、二人だけが知っている。「息、整えて」王子の低い声。「大丈夫だ」皇子は喉を鳴らし、右手をひらいて見せた。赤い縄が手首を撫でる。儀礼のための赤、契約の色。成人の二人に課された、公と私を結わえる印。扉が開けば、香草の煙が甘く立ちのぼる。参列者の衣擦れ——地下街の商人、納骨堂の守り手、聖職者。三つの権力が同じ空気を吸っていた。誓約台の羊皮紙には条約婚の条が細かく刻まれる。政治の文と、合意の文が並ぶ。——可と不可。——合図。——アフターケア。——週一のスイッチ・デー。公では皇子が前に、私室では王子が支える。合言葉と解き方。すべてが署名の対象だ。「合図は、言葉と、手」王子が確認する。「言葉は『常夜灯』。手は親指三度」「呼吸が固まったら?」「噛む」皇子は小さな木玉を口に含んだ。銀線で通された赤い玉。——二度噛めば、縄の魔紋がほどける。声が出なくても解ける仕組み。緊張に飲まれても、自分で戻れる道。(※今都式に合わせ、公儀の停止語は『常夜灯』を採用。私室の停止語『柘榴』は従前どおり。)「ほんとに大聖堂で噛むのかい?」地下街の姐御がこそこそ笑う。「いざという時の話だ」皇子の視線は堂々として、以前よりずっと前を見ていた。王子はその背を指先で押す。——ここで前に立つのは皇子、支えるのは自分。◆◆◆儀礼が始まる。大司教の詠唱。赤縄が二人の手首を軽く結ぶ。祭壇には納骨堂から持ち出された小さな骨壺——祖の目。「条約婚の成立を、この鐘とともに」鐘
朝、王妹来訪の報が入った。皇子は鏡の前で肩を回す。重い礼服の肩紐が、まだ痛点に触れていた。王子が背で布の落ちを整え、襟元を指でそっと引く。「苦しい?」「少し。……いや、少しじゃない。——青鈴」王子の手が即座に止まり、布が緩む。皇子は息を吐いた。合図は声でも触覚でもいい——二人で決めた運用だ。青鈴=完全停止、掌三度=減速。日常の小さな不快から使うのがよい、と王子は言った。異論はない。青鈴を言えた自分へ、皇子は小さく頷く。「水」「はい」蜂蜜水が渡り、甘さが喉から体へ戻る。王子は肩に手を置き、親指で筋をほぐす。「痛みが戻ったら知らせて。——今日は公のお前が前に立つ」「わかっている。……ありがとう」二重統治。その手触りが肩に宿る。私室で支えられるから、公で立てる。扉が二度、軽やかに叩かれた。約した速さ。王妹は時間に正確だ。「入って」王妹は旅装の上に宮廷色の短外套。香は軽く、目はよく笑うが底を見せない。王の妹——議席の束ね役だ。「久しぶり。礼は簡素でいいわ。今日は姉ではなく、議席の束ねとして来た」「歓迎する。……外套、似合う」「ありがとう、皇子。あなたの前置きの短さ、好きよ」王子が卓へ契約文を広げる。条約婚は、国境と流路の管理を定める条約に結びつき、その付属書として互いの合意契約が添えられている。王妹は目を走らせ、欄外の印を確かめた。「可はここ、不可はここ。合図とアフターケアの確認は付属書一。週一のスイッチ・デーは火の四日目に固定。……ええ、宮廷文書に入れても問題ない」「公的に残すのか」「曖昧にして後で攻撃されるくらいなら、明文化が強い。**『私室の契約は公の安定の礎』**と書けば、古い議員も飲む。文句があれば、私が叱る」王子はわずかに笑い、皇子の喉の奥が熱くなる。
香の煙がゆっくり広がり、白い鳩を柔らかく包んだ。羽が光を受けて一瞬だけ霞のように透け、輪郭がふっと溶ける。鐘がひとつ、予定より早く鳴る。乾いた金属音が空を割り、小姓が石段の端で足をひねったのだ。ざわめきと笑いが波紋のように広場を巡り、張り詰めた糸が一本、音を立てて緩む。皇子はその隙に、胸の奥でひとつ呼吸を落とし、一歩、前へ。——公では皇子が前に。それが、二人で選び抜いた二重統治のかたち。大聖堂の階段。白大理石は夕陽を吸って桃色に温み、司祭の掲げる紅の糸が刃のように赤く光を返す。結びの儀に使う古い掟の道具。その絹が皇子の手首に触れた刹那——体が勝手に跳ねた。指が硬直し、喉が冷たい刃で切られたように凍る。幼い日に声を奪う訓練を受けた記憶が、縄の擦れる音と皮膚の焼ける匂いまで連れて甦る。「待て」王子の声が落ちた。短く、低く、地面に重さを置くように。糸ははらりと解かれ、石段へと滑り落ちる。王子は司祭の視線を正面から受け、礼を尽くした笑みと深い一礼で、剣の先を鞘に戻すみたいに空気を収める。「式次第は尊ぶ。だが様式は選ぶ。——指の結紋で代える」朱を指に引き、王子は自分の指と皇子の指先をそっと重ね合わせた。触れたところからじわりと金の灯りが滲み、同じ紋が二人の手に浮かぶ。光は細枝のように広がって脈を打ち、皮膚の下で合意の言葉が脈絡を持ちはじめる。
鐘楼の影はゆるやかに長く伸び、白亜の大聖堂の石床に夕陽の金の欠片が散った。条約婚の公開儀礼は、群衆の喧噪を吸い込みながら、思いのほか静かに、しかし確実に幕を閉じる。祭壇の前、皇子が一歩先に立ち、王子は半歩後ろを守る。片手に指輪、もう片手に契約書。掌の温度差まで、役割の輪郭をなぞっていた。魔紋司が二人の手首に淡い紋を引く。緑と銀の線が重なり、細枝の脈のようにゆっくり鼓動しながら光を刻む。触れ合うたび微かな痺れが走り、皮膚の下で“共同”という語が温度を持つ。「共治の誓い。公では皇子が前に。私室では王子が支える。週に一度のスイッチ・デーを設け、判断の重石を共に担う」司祭の声は高く、石柱に沿って震え、天蓋の暗がりへ吸い上げられる。地下から吹き上がる冷気が裾を撫で、納骨堂の空気を思わせた。——大聖堂は、地上と地下街と骨の層を一本の柱で貫く。権力もまた、階層を上下し、音もなく形を変える。◆◆◆夜。宿の小部屋。灯火は小さく脈打ち、壁に二人の影を薄く二重写しにする。合意契約を読み合わせる声は、紙の擦れと混じって一定のリズムを刻んだ。紙の縁は湿気と汗で柔らかく、触れるたびに乾いた音が鳴る。王子が短く、区切りよく読み上げる。——可:手首まで。——不可:首輪/露出。—