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第15話:囮の祝宴

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-09-18 23:00:45

鐘の音が大聖堂の天蓋を震わせた。香の白い煙は天に細く伸び、光の柱の中でほどけてゆく。皇子は堂々と前に立ち、胸元に縫い込まれた金糸の魔紋が脈を打つ。半歩だけ背に控えるのは王子ユリウス。剣ではなく、巻かれた条約文を抱えている。

「条約婚を成立させる」

まっすぐで、よく通る声。床の魔法陣が静かに浮かび上がり、金箔のルーンが二人の指へと落ちた。指輪は薄く、内側に小さな合意文言が刻まれている。公は公の条項だけを読む。だが、私の契約は互いの掌で交わされる。

ユリウスが囁く。

「可は拘束、指示、口付け。不可は傷跡、露見、酩酊。合図は三度の指先。セーフワードは月桂」

皇子はトン、トン、トンと指先で打ち、短くうなずいた。大司教が契約印に光を落とし、群衆が沸く。公では皇子が前に立ち、視線を受け止める。ユリウスは影の位置を保ち、片手で式次第を進めながら、もう片方の手で皇子の肩甲骨に残る緊張を意識の端で数えた。

祝宴がはじまる。回廊に果実酒の香りが満ち、地下街から呼ばれた楽師が鋭くも甘い弦を鳴らす。囮であることは、ごく少数しか知らない。巡礼門に近い献灯台の投函口は今夜だけ開く。反対派にとって、これ以上ない甘い罠だ。

「帯を少しきつく」とユリウス。

「姿勢が変わる?」

「雄の背になる」

皇子は笑って帯を受け取り、腹で結んだ。彼が先に立って祝辞を述べる。声は柔らかいが、言葉は硬い。

「不安は知っている。ならば、共に稼ぐ道を開く」

拍手が波のように広がる。ユリウスは壁際で杯を傾けるふりをしつつ、納骨堂へ下る階段の影へ視線を滑らせた。白衣の司祭が献灯台を管理し、若い従者が封緘を運ぶ。封蝋の印は海蛇――北の港のしるしだ。今夜、資金の紐が浮かぶ。

「陛下、舞を」

呼びかけに皇子が手を差し出す。公の舞では皇子が導き、ユリウスは半歩遅れて従う。靴先が合わなかった刹那、皇子が三度、指で合図した。ユリウスは左の掌を開き、圧をひと息だけ緩める。セーフワードを出すほどではない。合図は機能している。対位法のように、言葉と身体の了解が会場の熱を静かに統べた。

小さな騒動もあった。料理長が「月桂樹の煮込みはこちら」と声を張り、二人が同時に振り向く。近侍が青ざめる。

「違う、料理の話だ」

「紛らわしい」

二人は小声で苦笑し、近侍の肩から力が抜けた。コメディは毒を薄める。視線がほどけた瞬間、ユリウスは見逃さない。地下街側の扉から、黒外套の献灯人が入った。献金箱ではない。灯心の下の小さな抜け穴に紙片が吸い込まれ、司祭の袖口に消える。灰が赤い。サフラン香の灰だ。この都でその香を大量に扱えるのは一箇所だけ――北湾の穀物倉の祭器庫。そこに寄進の道具が集められている。

「回廊の角、三歩先で待て」

ユリウスは杯を提げたまま、白衣の司祭に並び立つ。語気は柔らかい。

「香りが強いな」

「信徒の求めで」

「供えに北の香りは珍しい」

「信仰は広がります」

「金も、だ」

司祭の肩がかすかに揺れた。その瞬間、若い従者が封筒を落とす。拾い上げる動作は滑らか――訓練の証だ。だが封蝋の端に爪の跡が生々しく残る。ユリウスは首を傾げるだけで通り過ぎた。追い詰めない。今夜は囮だ。糸を引く手が誰か、浮かび上がればいい。

皇子は別の卓で「雄になる」訓練を続ける。反対派寄りと囁かれる商人を上座に据え、杯を重ねさせない。代わりに料理を厚くして、家族の暮らしを語らせる。彼は頷くだけで流れを制し、声ではなく座り方と指の置き方で支配する。学んだ通りに、しかし自分のやり方で。

「公ではお前が前、私室では私が支える。今夜は完璧だ」

ユリウスが囁く。皇子の耳朶が熱い。熱は恐れではない。やり切った火照りだ。

祝宴の終盤、献灯台の抜け穴から拾い上げた灰まじりの袋を、地下街の顔役へ渡す。交換条件は単純――「明日の配達経路の静けさ」。顔役は鼻で笑い、それでも受け取った。地下街と大聖堂と納骨堂。三つの権威が、今夜だけ同じ針に糸を通す。

私室に戻る。絹の衣が床に落ちる鈍い音。ユリウスは水差しを手渡し、皇子の喉が上下するのを確かめる。膝にブランケット、肩に指。指が固い。握りしめていたのだ。

「痛む」

「少し」

ユリウスは香油を温め、指の付け根から掌へ、ゆっくりとほぐす。呼吸を合わせる。一、二、三。皇子は肩を預けた。

「囮に民を使うのは、好きじゃない」

「知っている。だから聖域を増やした。献灯台の左右に避難の路を一本ずつ。次は道標も明確に置く」

「約束に入れて」

「政略の合意契約に追記する。囮を用いるときは、聖域と路標の確保を必須に。政略のセーフワードは祝火。誰かがそれを言ったら、作戦を即時縮小だ」

「いい」

「週に一度のスイッチ・デーも、変えない。明日はお前が私を導く。私は従う」

皇子の呼気が深まる。緊張がほどけると、甘い匂いが立った。抱擁は長く、言葉は短い。

「好きだ」

「同じだ」

互いの首筋に頬を寄せたまま、ユリウスは今夜の糸を結び切る。

「資金主が見えた」

「誰」

「北湾の商会連合の総代。海蛇の印。納骨堂の献香に紛れていた。明日の早朝、港の倉に寄る。公ではお前が前に出る。私室では私が段取りをつける」

「行こう」

「森を抜ける小径を使う。あの森で出会った日の約束を守るためにも」

穏やかな笑いが重なる。祝宴のざわめきは遠く、部屋の灯は柔らかい。契約は熱を持ち、信頼は形を持った。二人の夜は短く、しかし十分だった。次の目的地の潮の匂いが、もうそこまで来ている。

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