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第二話——事故の前の出来事

Author: 桜庭結愛
last update Last Updated: 2025-11-01 15:30:31

あの日から一度も忘れたことのない記憶が、頭の中で次々と蘇った。真剣な目でこちらを見つめる蓮をそっと見返しながら、映像を一つずつ、慎重に言葉にして紡ぎ始めた。

事故が起きる前日、私は学校帰りに商店街に寄っていた。そこで翠のことを偶然目にしたのだ。

私は、翠を驚かせようとして、バレないようにゆっくりと近づく。ふと翠の隣を見ると女性がいることに気が付いた。腕にしがみつき、見上げるように翠を見ている。バレないようにそっと二人から距離を取った。

――あの子、美咲みさき

よく目を凝らすと同級生の美咲がいた。美咲は私と同じ美術部に所属していて、学校でもよく話す仲だった。翠と会話をしているところは見たことがない。

どうして…?と考えるより先にその場から逃げ出していた。

家に着いて力が抜け、玄関に崩れるように座り込んでしまった。冷静になった途端、なんで、という言葉だけが頭の中を反芻している。

――二人はどういう関係なんだろう?

翠と美咲が二人で出掛けるほど仲が良いという情報は、私の記憶にない。おそらく蓮と志織も知らないはずだ。そもそも二人は同じクラスでもなければ、家も近くない。考えれば考えるほど様々な思考が流れ込んでくる。

考えても仕方がない――その日はモヤモヤしたまま眠りについた。

翌朝、インターホンが聞こえると同時に目が覚めた。今日は、翠と駅前のカフェに行く約束をしている。しかし陽菜の頭には、昨日の光景が焼き付いて離れない。思い出しては胸が締め付けられ苦しくなる。

――どんな顔して翠と会えばいいの?

布団に潜ったままでいると、トン、トン、という一定のリズムが聞こえてきた。扉の前に誰かが立ったのだろう。ノックの後にいつも通りの声が聞こえた。

「陽菜、おはよう」

一瞬、時が止まったかのようだった。いつもは聞きたい声でも今は一番聞きたくなかった。一生懸命絞り出して出た声は自分でも驚くくらいに低かった。

「……帰って」

翠も驚いたのだろう。扉の向こうから息を呑む気配が伝わってきた。

「陽菜、?どうしたの?」

「いいから!帰って!」

大きな声を出してすぐに後悔が襲ってきたが、様々な感情が蜘蛛の巣のように絡まっていて言葉を制御することができない。

「早く帰ってよ!」

「大丈夫?体調悪いの?扉開けていい?」

混乱しているのだろう。早口で翠が問いかけてくる。その様子で冷静になったのか、私は声を抑え言葉を返す。

「大丈夫だから。少し頭が痛くて取り乱しちゃっただけ」

「ほんとに?何か買ってこようか?」

「平気。今は一人にして欲しい」

「……分かった。お大事にね。」

「……うん」

「何かあったら電話して。すぐ来るから」

それに言葉を返すことはなく、足音は遠ざかっていった。

それから、一時間ほど経っただろうか。蓮からの電話で「翠が交通事故にあった。」と告げられたのだ。翠は、家を出てすぐ駅とは反対の方向に向かって歩いていた。その道中に信号無視をした車に撥ねられたと説明されたが、すでに私の頭の中は真っ白だった。

すぐに病院に向かうと、手術を終えて病室に横たわっている翠が目に入る。朝交わした言葉が鮮明に蘇ってきた。静かに和らいだ表情を見ていると、これは夢なのではないかと感じさせる。しかし、翠の両親が持っている書類に、「瑞樹みずき翠様」と書かれているのを見て、そっと現実に戻された。

医師が病室に入ってきて説明を受ける。命に別状はないが、頭を強く打っているため、いつ目を覚ますか分からない、と。

「脳に後遺症が残る可能性もあります」

私のせいだ。今朝まであったはずの複雑な感情はすでに忘れられ、自分を責める気持ちだけが湧き出てくる。

――たくさんの暗い色に染められていた心は、まるで無かったかのように、後悔の一色で塗り潰された。

♢♢♢

「あの日、私が自分の感情を抑えて駅前のカフェに行っていたら、翠は交通事故に遭わなかったじゃないか、ってずっと後悔してる。頭が痛いなんて言わないで、今は話したくないって正直に言えば良かったって」

蓮は静かな顔でこちらを見つめている。まるで頭に同じ映像を浮かべているかのように、頷きながら先の言葉を待っていた。

「私のせいなんだ……」

ずっと思っていた言葉が押し出されるようにスッと出てくる。

「私がいつも通り挨拶を返して、予定通りカフェに行けばこんなことにはならなかった」

「そんなことないだろ。翠は自分でどこかに行く選択をし、運悪く事故に遭ったんだ」

久しぶりに発した蓮の声は温かな水のように心に流れ込んだ。その温もりを拒むように私は感情のままに言葉を吐き出す。

「違う、違うの。私が頭痛いなんて嘘を言ったから、翠はコンビニに向かったんだよ。おばさんに聞いた。コンビニの方に向かって歩いてたって。嘘をつかなければ翠は家に帰ってたんだよ」

「そんなこと翠にしか……」

「分かるの!私だって、蓮と同じくらい翠を見てきたんだよ。翠は優しいから、私が嫌だって言っても扉の前でずっと待つような人だもん」

私は懺悔をするかのように、涙を堪えて言葉を続ける。

「ごめんなさい。私がいけないんだよ。翠が事故に遭ったのも、蓮を悲しませてるのも」

まるで世界が終わるかのような、真剣な表情を浮かべているだろう。実際、今までと比べたら私の世界は終わってしまったようなものだった。翠という一つの色が白に塗り潰され、それを埋めるように後悔と悲しみだけが色を付けた。全部私のせいで……

同じ思考の渦に巻かれていると、そっと私の頭に手が置かれた。

「あんまり思い詰めんな。陽菜は悪くない。信号無視をした車が悪いんだ」

「でも……」

「お前ができることは、翠の目が覚めた時、ちゃんと仲直りをすることだ」

「だろ?」と言い、蓮は柔らかい笑みを私に向ける。

その言葉で心が軽くなった気がした。いつの間にか流れていた涙を拭い、必死に笑みを浮かべる。

もっと早く話せばよかった――蓮も私を大切に思ってくれている。私にとっても、蓮は大切な存在だ。

――なぜこんなにも大事なことを今思い出すんだろう。

そうだ。翠は死んだわけじゃない。翠を待つのは、明るい未来の方がいい。そう決心した私は蓮の瞳をまっすぐ見つめて力強く頷く。

「そうだね。今までの私で翠を待つよ。それで、起きたらちゃんと話をする」

私の表情を見て安心したのか、蓮の肩の力がふっ、と抜けたような気がした。

外に出ると透けるような月がまだ明るさを宿す空に静かに佇んでいた。ひんやりとした風が二人の頬を優しく掠め、先ほどの会話の余韻が微かに漂っている。落ち着かない空気が二人のあいだに静かに流れていた。

少しの沈黙の後、風にかき消されそうな声で私は言う。

「今日はありがとう」

一瞬目を丸くした蓮がこちらを見たが、すぐにいつもの柔らかい表情に戻り、少し顔を背ける。

「別に……お礼を言われることじゃねーよ」

「んふっ、蓮照れてる?」

「んだよ。別にそんなんじゃねーから」

「照れてるんだ〜」

「だからちげーって」

二人で笑い合いながら私はそっと視線を逸らす。少し照れくさくて、でも嬉しい気持ちが胸の奥で温かく広がった。

不意に蓮が真面目な表情でこちらを見る。

「翠のところに行く時は俺も呼べ」

「え、なんで?」

「心配だからに決まってるだろうが」

「また子ども扱い!?」

「ちげーよ!一人で泣かれてると俺が嫌なんだよ」

その言葉に目を大きく見開いてしまう。考えている間に次の言葉が蓮から放たれた。

「絶対呼べよ」

「……分かったけど、」

勢いに押されて無意識に肯定してしまった。蓮は満足そうに笑顔を向けて頷く。

「ならよし」

「ほんと、蓮も翠もそういうとこは似てるよね」

「急になんだよ」

「二人とも優しいから」

「まぁな」

「わ!そこで肯定する感じ蓮っぽい」

「んだよ、」

「子どもっぽいところがね、すごい蓮だった」

「お前には言われたくねー……」

二人でくすりと笑ったあと、遠くの空をぼんやりと見つめる。昔、三人で並んで歩いたときの光景がふと心に浮かんだ。

「翠だったら、そんなことないよ、って言うよね」

「だろうな。あいつは褒められても謙遜するタイプだから」

言葉にせずとも同じ景色を思い浮かべているのが分かる。二つ並んだ影の隣に、もう一つの影がそっと浮かんだような気がした。

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