Mag-log inあれから数日間、私は変わらず毎日翠の病室に顔を出している。二人で来ていたお見舞いも、いつの間にか一人になった。きっと二人で話せるように気を遣ってくれているのだろう。蓮の優しさに触れるたび、心に針が刺さったような、痛くて温かい感覚が胸に広がる。
病室の外では黒い雲が広がり、水滴が地面を打ち付ける音がしていた。外の景色を見ていると、私の心と重なり胸が締め付けられる。窓の隙間から、生ぬるい風と湿った土の匂いが入り込んできた。病室にいる翠に視線を移すと、眩しい笑顔で迎え入れられる。翠の笑顔を見ていると、天気も心も同じように晴れていくように思えた。 「陽菜、何かあったの?」 「ん?どうして?」 「ちょっと疲れた顔してる」 「んー……まぁちょっと嫌なことがあったって感じかな」 ベッドのそばに膝を立てて、腕を枕のようにして顎を預ける。そんな体勢で翠の顔を見上げていると、揺れるような視線をこちらに向けられた。翠の曇った顔を見たくなくて、少し微笑んで咄嗟に言葉を濁してしまう。翠は眉を顰め、顎に手を当てて何かを考えていた。 「無理してない?」 「え?」 「雰囲気かな。いつもと違う気がするんだよね」 「……」 確かに今日の私は良い気分ではなかった。隠しているつもりだったが、翠にはバレていたらしい。ちょっとした変化にも気づくほど私のことを見てくれている、という気がして、自然と口角が上がってしまう。翠がベッドの上で体勢を変えた拍子に軋んだ音で、現実に引き戻された。一度悩みを忘れよう、と改めて気を引き締め直し、翠に向き直る。翠との時間は明るい空気を保ちたかった。 「大丈夫だよ。確かに嫌なことはあったかもだけど、翠の顔を見たら全部忘れちゃった」 私の言葉を受け入れられなかったのか、不安そうな表情は変わらなかった。それでも穏やかな笑みを向けてくれる。その表情で私の口角も自然と緩んだ。 しばらく翠の顔を見つめていると、突然腕がこちらに伸びてきた。思わず体が跳ねてしまい、顔をシーツに向ける。すると頭にそっと温もりが伝わった。そのまま私の頭を撫でると、柔らかい声で言葉をこぼす。 「なんか、陽菜って甘やかしたくなるんだよね」 「……え?」 驚いた。翠が事故に遭う前も同じ会話をしたことがある。記憶が戻ったのかも、という期待は、翠の一言で消えていった。 「事故の前も思ってたのかな。なんか、守ってあげたくなる感じ」 「分かんない、けど……」 心臓の激しい音が鳴り止まない。鼓動が直接頭に響いているみたいに鮮明に聞こえてきた。バレないように、ベッドに顔を伏せる。頭から湯気が出ていないか余計な心配をした。 手の温もりに安心したのか、唐突に眠気が襲ってきた。目が閉じそうなのを耐えていると、寝ていいよ、という声が聞こえてくる。その言葉に耐えていた瞼を閉じてしまう。 おやすみ。―― その言葉を最後に、意識が静かに遠のいていった。 徐々に機械音が大きくなった。私はそこで目を覚ます。 「あれ、寝ちゃってた?」 「うん。ぐっすり」 「今何時?」 時計を見るとすでに面会時間終了ギリギリの時間だった。 「もうこんな時間。また来るね」 「うん。またね」 最後に翠と微笑みを交わし、病室を後にする。会話はいつもよりも少なかったのに、私の心は温もりで満たされていた。喜びや楽しさとはまた違う、不思議な幸福感に包まれ、足取りも心も、ふわふわと軽くなったまま自宅へ向かう。 「ただいまー」 普段はすぐ返答があるため、不思議に思いながらリビングへ向かうと、賑やかな声が聞こえてきた。 「ただいま」 もう一度声をかけながら、扉を開けると、思わず驚いてしまうような光景が目の前に広がっていた。 「え!……なんで蓮が?」 「あ、おかえり」 平然と言ってのける蓮を横目に、彼の前にいる私の両親に目を向ける。 「お買い物中に蓮くんを見かけたから、夕食一緒にどうかって誘ったの」 お母さんが告げた言葉に、お父さんと蓮は頷く。 「まぁたまにはいいじゃないか。お父さんも息子ができたみたいで嬉しいぞ」 「別にいいんだけど……。教えてくれたらもっと早く帰ってきたのに」 「俺のことは気にしなくていい」 「私が気にしちゃうの」 「陽菜、とりあえず座りなさい。お父さんお腹空いちゃったよ」 そう促され、渋々蓮の隣に腰を下ろす。隣を見るととても幸せそうな顔をした蓮がいたので、これ以上口を挟むのはやめておこう、と思った。 当たり前のようにお母さんが作ってくれたご飯は美味しかった。それでもいつもと違う環境に落ち着かないでいると、お母さんから声をかけられた。 「そういえば、陽菜。こんなに遅いの珍しいわね。」 「あー……ちょっと寝ちゃってて」 あはは、と少し照れつつも正直に答えると、「あらまぁ」と微笑みをこちらに向けられる。 「大丈夫か?」 「え?なにが?」 「いや、疲れてるのかと思って」 「ぜ〜んぜん大丈夫」 「そうか。何かあったら言えよ」 「ありがと」 バレたのかと思いドキッとしたが、なんとか誤魔化せたようだ。瑞樹家は察しがいいのか、とどこか客観視している。二人といると安心して感情が表に出てしまうのだろう。もう少し平然を装う必要がありそうだ。 食卓を囲む時間は、夢のように過ぎていった。母の手料理の温かさと一時の安らぎを抱えて、その日はすぐ眠りについた。「蓮、ちょっと来て」 翠の言葉に蓮は黙って頷いて後ろを着いていく。翠の部屋の扉を開けたところで蓮は目を見開いた。「これは……」 天井から水滴がぽつりと落ちてくる。布団の上に、深緑のシミがじわっと広がった。「これじゃ、寝れないな」「そうなんだよ……」 翠は肩を落とし、背中を丸めた。蓮は仕方なさそうに笑い、言葉をこぼす。「俺の部屋で寝るか」「じゃあ電気消すぞ」「うん」 来客用の敷布団を蓮の布団の隣に並べて寝ることになった。翠は落ち着かない様子で蓮に背中を向けて布団の中で丸まっている。「なんでソワソワしてるんだよ」「いや、なんか……」 一度翠が言葉を途切れさせて、二人の間に沈黙が流れる。布団の中で考え込んで、やがて小さく言葉をこぼした。「なんか、いつもと違うから旅行みたい」「そういうもんなのか」 翠が布団の中で頷き、布の擦れる音が部屋に響く。そこに蓮の笑い声が混ざり合った。「お前も子どもっぽいところあるのな」「なっ、そんなことない」 そう言って蓮の方に体を向ける。思ったよりも蓮の顔が近くにあり、慌てて距離を取った。「なんでこっち向いて……」「いや、いつもこっち向きで寝てるから癖で」「そ、そっか」 少し気まずい沈黙が生まれる。翠が蓮の方にチラッと視線を向けると、蓮は優しく微笑んだ。「子どもの頃みたいで懐かしいな」 温かな言葉が、翠の胸の奥にまでじんわりと染み渡った。「そうだね」 そのまま二人は言葉を交わさず、子どもの頃と同じ安心感に包まれて、ゆっくりと眠りに落ちていった。
「蓮、お疲れ」 帰ろうとしていた蓮の後ろから翠が声をかける。「おう、お疲れ。翠も今終わったのか?」「うん。これから帰ろうと思ってたところだよ」「じゃあ一緒に帰るか」 そう言って蓮は翠の隣に並ぶ。二人は同じ速度で足を進めた。「もう真っ暗だね」「日が落ちるの速くなってきたな」 蓮の言葉に翠が頷く。二人が空を見上げると、三日月が浮かんでいて、夜の寂しさを感じさせた。「ていうか、翠がリレーやるのは意外だったわ」「そう?」 翠が蓮の方に視線を向けて首を傾げる。蓮は空を見上げたまま言葉をこぼした。「あぁ。だって目立つの苦手なタイプだっただろ」「まぁ確かに」 翠は視線を前に向けてから、少し視線を上げる。そして、ゆっくりと言葉をつぶやいた。「できることはやっておこうと思ったんだよね」 夜の空に溶けそうな翠の声に、蓮は思わず視線を隣にいる翠に移す。横顔を見れば儚い表情をしていて、胸がキュッと締め付けられた。「そうか」 二人の間に言葉を探すような沈黙が流れる。蓮の心には、嬉しいような、不安なような――様々な感情が生まれていた。やがて出てきた一つの言葉は、夜の空気を包み込むように柔らかかった。「まぁ無理すんなよ」「ふふっ、ありがとう」 翠は、蓮の声の温度だけで十分だった。それ以上の言葉はいらないと、自然に思えた。
体育祭当日、いつもよりも早く起きて、身支度を整える。グラウンドと応援席の準備があるため、三十分登校時間が早いのだ。 カバンを手に取り、扉を開ける。「陽菜、おはよう」 階段の下から蓮の声が聞こえて、思わず体が跳ねた。「びっくりした……蓮、待ってたの?」「俺もいるよ」 蓮の後ろからヒョコッと翠が顔を出す。私は階段の途中で止まり、目を丸くした。穏やかな笑みを浮かべた翠を見て頬が緩む。階段を降り、蓮と視線を合わせる。蓮は優しく微笑んで言葉をこぼした。「一緒に行こうぜ」「うん」 私が頷くと蓮は歩き出す。その後ろを翠と並んで歩いた。後ろから光が差して、私たちの輪郭を照らしている。光が背中を押しているようで、私たちの足取りは軽かった。 話していると学校の門が近づいて、浮き足だったざわめきが聞こえてきた。翠とは門で分かれて、クラスごとに分かれた応援席に向かう。すでに準備されていた応援席の椅子の上に荷物を置いた。蓮は、委員の仕事でグラウンドの整備に行くらしく、荷物を置いてから背を向けた。「じゃあ後でな」 視線だけこちらに向けて優しい笑みを浮かべる。手を振ってグラウンドに向かって歩き出した。 椅子に腰をかけると、隣から声が聞こえてくる。「おはよう、陽菜」 私が座った椅子の隣に志織が立っていた。ほころんだ表情を向けられて、心の奥が温かくなる。志織は柔らかい声で言葉をこぼした。「障害物競走頑張ろうね」「うん!」 私は大きく頷いて笑顔を浮かべた。それと同時に開式を告げるピストル音が鳴る。いつもと違うざわめきに心が落ち着かなかった。 アナウンスが鳴り、全校生徒が入場口に集まる。私たちも流れに沿って入場口まで足早に移動した。軽快な音楽が鳴り、整列してグラウンド内を一周する。表彰台に向けて一クラス二列ずつに並び、足を止めた。 校長先生の話、生徒会長の話があり、選手宣誓の時間が訪れる。各色の代表者が前に出て、力強い声が辺り一面に響き渡った。 宣誓が終わり、生徒はそれぞれ散らばっていった。私は志織と一緒に応援席に戻る。 最初の種目のアナウンスが鳴
「翠」 家に帰ってきた蓮は、リビングのソファに座っていた翠に声をかける。「蓮、どうしたの?」 穏やかに口角を上げている翠は、蓮の方に視線を向けて首を傾げる。蓮は挑むような笑みを浮かべて言葉をこぼした。「……ホラー映画見るか?」 先ほど陽菜と見ていた映画のディスクをセットし、テレビの電源を入れる。 翠は少し体を震わせて座り直し、体勢を整えた。蓮がリモコンを持って翠の隣に腰を下ろす。「じゃあ、つけるぞ」 そう言ってチャンネルを変えて、再生をする。パッケージで見た赤黒い背景が、視界いっぱいに映っていた。「待って……」 翠は隣にあったクッションを持ち、それを抱き締める。顔を下に向けて、少しだけ視線を上げ、薄目で画面を見た。「わっ……」「怖いのか?」 音に驚いて体が跳ねると、隣で蓮がクスッと笑った。「こ、怖くない」「強がんなって」 翠の肩を叩き、肩を震わせながら笑う。その間もリビングには不気味なBGMと甲高い笑い声が流れ続けていた。「どうだ?面白かっただろ?」 エンドロールが流れたところで蓮が言葉をこぼす。翠は涙を浮かべて蓮に視線を向ける。「蓮って性格悪いって言われない?」「なんだよ、急に」 翠は唇を尖らせて視線を逸らした。クッションに顔を埋める。「怖いなら言えばいいのに。本当にそういうところお前ら似てるよな」「なんの話……」「いや、こっちの話だから気にすんな」 蓮はいつも通りの優しい笑みを浮かべて翠のことを見ている。その目の奥には明るい光が灯っている気がした。蓮の表情を見て心がざわつく。無意識に口角が落ちて、口調も暗くなった。「お風呂入ってくる」「おう」 翠がこの時の気持ちに気づくのはもう少し先のことだった。
今日は翠と蓮、二人でショッピングモールに行く。見上げれば、黒い雲が空を覆っていて、心なしか気持ちが沈んだ。 「雨降りそうだな」 「じゃあ蓮の勝ちかな」 「どういう意味だよ」 蓮は拗ねたような表情で翠に視線を向ける。翠はクスッと笑ってから言葉をこぼした。 「だって蓮は雨男じゃん。蓮が出かけるとよく雨降る」 そして、翠は視線を空に移した。暗い空に白い肌の横顔が映えて、翠の存在を強調している。 「いや、実は翠が雨男なのかもしれないだろ。俺らよく一緒にいるし」 「それはそうかも」 蓮の言葉に翠は頷く。それを見て蓮は得意げな表情をしていた。 「それで言うと陽菜は晴れ女だね」 「そうか?」 「うん」 蓮は翠を見つめて言葉を待つ。二人の間に柔らかい沈黙が落ちた。 やがて一泊を置いて翠が言葉をこぼす。 「だって陽菜がいるだけで、場が明るくなるもん」 翠の言葉に蓮は目を見開いたが、すぐに優しい笑顔を浮かべる。 「そうだな」 その時、雲の合間から少しの光がさし、二人を照らす。二人は視線を上げて目を細める。そして、お互いに視線を合わせて微笑んだ。ショッピングモールに向かう足が軽くなる。二人の様子を見守るかのように、雲の上で太陽が静かに息をしていた。
今日から体育祭に向けてリレーの練習が始まったようだ。遅くなるから先に帰って良いと言われて、帰ろうと一人で下駄箱に向かう。 靴箱を開けると、久しぶりに丸められた紙が出てきた。大きなため息をついて無造作にそれを開く。目に入った文字に私は思わず声を出してしまった。 「え……」 以前は暴言だけだった紙にはっきりと「男たらし」と書かれている。 ――どういうことだろう? 私が話す男の人といえば、蓮と翠だけだった。全く心当たりがないため、疑問に思いつつも紙をリュックにしまう。笑いかけてくれる人が隣にいないため、沈んだ気持ちで帰路についた。 翌朝、私は窓から外を眺めていた。下駄箱に入っていた紙のことが忘れられない。そう考えていると志織の声が聞こえた。 「陽菜」 「ん?」 「ぼーっとしてたけど大丈夫?」 「あ、ごめん」 そう言って私は志織に視線を向ける。ぎこちなく口角を上げて頷いた。志織は眉を下げて目を細める。わたしはそんな表情に胸が締め付けられた。そこで志織が言葉をこぼす。 「そうだ。今日一緒に帰らない?」 「いいよ。久しぶりだね」 志織が柔らかく微笑む。私の心もその表情に絆されるようだった。 「志織、帰ろー」 「ちょっと待って」 放課後、私は志織に声をかけた。志織は急いでカバンに教科書を詰め込んでいる。思わずクスッと笑ってしまい、口をキュッと結んだ。志織は一瞬目を細めたが、すぐに笑みを向けてくれる。カバンを手に取って立ち上がった。歩き