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第6話 白い花

Author: 暁万里
last update publish date: 2026-05-31 07:55:05

 初対面の人の……しかも、男性の家に泊まるなんて……。と、澪は使用人たちが布団を整えてくれる様子を部屋の隅で眺めながら考えていた。

 けれど、自宅に帰れば美羽と顔を合わせなければいけなくなる。

 美羽のことは今でも大切に思っている。

だからこそ、自分の婚約者である拓真と唇を重ねていたあの光景に、澪の心はぐしゃぐしゃにかき乱されていた。

(家には帰りにくいと思っていたから……ありがたいかも)

 いつもの自分であれば絶対にしない選択だ。結婚を約束した恋人だっている身。

 けれど、今夜だけは――。

 そう、澪は少し目を伏せて、小さく溜息を吐いた。

 布団の中に入っても、澪はしばらく眠れなかった。

 胸元のお守りを握る。

 小さな白い花のお守り。

 幼い頃からずっと持っているもの。

 けれど……。

――まだ持っていたんだな。

 綾人の言葉が頭から離れない。

「どういう意味だったんだろう……」

 思わず呟く。まるで自分のことを昔から知っているみたいだった。

 けれど、どれだけ自分の記憶を辿ってみても、澪に綾人と関わった記憶はない。

ただ、静かな部屋の中、冷静になってきた頭で『神宮寺綾人』という名前に聞き覚えがあることは思い出した。

神宮寺綾人――華道界の若き天才。テレビや雑誌で見たことがある。

花屋の自分にある彼との共通点は『花』だけ……。

同じ花を取り扱っていても、遠い世界の人だと思っていた。

「考えても分からないわ……」

 澪はそう小さく呟くと、ごろんと布団の中で寝返りを打った。

 ふかふかだった。自分の家の布団とは比べものにならない。

 それなのに、なぜだろう。

 少しだけ寂しかった。

     ◇

 一方その頃。

 綾人は自室の書斎にいた。

 机の上には古い木箱が置かれている。

 綾人はその蓋を静かに開いた。

 中には色褪せた写真。

 そして、押し花になった白い花。

「……やっと見つけた」

 綾人はその押し花を手に取ると、そっと自分の唇に寄せた。

 二十年、ずっと探していた。

 何度も諦めそうになった。

 それでも、あの日の少女だけは忘れられなかった。

 綾人は、そっと指先で撫でるように写真へ触れる。

 そこに映る小さな少女の顔は、古ぼけていて鮮明ではない。

 けれど、その笑顔だけは、昨日のことのように覚えている。

「澪……」

 その名を口にした瞬間、扉がノックされた。

「失礼いたします」

 秘書の相良さがらだった。

「どうした」

「七瀬拓真という男が訪ねておりますが」

 綾人の表情が消える。

「帰ってもらえ」

「かしこまりました」

「今後も通さなくていい」

「承知いたしました」

 相良は一礼すると、少しだけ微笑んで顔を上げた。

「綾人さま」

 綾人は相良へと視線を動かした。

「本日は機嫌がよろしいようで」

 数秒の沈黙。

「そう見えるか」

 瞳を伏せるように綾人はふっと静かに笑った。

「ええ」

 相良はゆっくりと頷いてみせる。

「探し物をようやく見つけることができたからな」

「さようでございますか。それは良かった」

 華道界の若き天才と呼ばれる綾人は、『冷徹』としても有名だった。

 決して誰にも媚びない。自分にも他人にも厳しい。

 数多くの女性に言い寄られることはあっても、表情ひとつ崩さずあしらっている。

 そんな綾人が珍しく柔らかな表情を浮かべているからだろう。相良はその様子にくすりと笑うと、今度こそ一礼して綾人の書斎を後にした。

     ◇

 相良によって丁重に帰宅を促された拓真は車の中でスマートフォンを握り締めていた。

『お掛けになった電話番号は現在電波の届かない場所にあるか――』

 何度目かわからない。

 澪は電話に出ない。

 メッセージも既読にならない。

「くそっ……」

 苛立ちが漏れる。

 こんなことは初めてだった。澪はいつも待っていてくれた。

 連絡すれば返事をくれた。謝れば許してくれた。

 けれど、今日は違う。自分のせいだって分かっている。けれど、ああなったそもそもの原因は――……脳裏に美羽の妖艶な笑みが浮かぶ。

 それを振り切るように、拓真は頭を振った。

 それを振り払ったあと、脳裏に浮かぶのは、車にさほど詳しくない自分でも分かる、黒塗りの高級車。

 そして、澪の手を握る男。

 澪が読んでいた花の雑誌で見覚えのある男だった。神宮寺綾人――。

「なんなんだよ……あいつ。なんで、澪に……」

 胸の奥がざわつく。

 気に入らない。澪の隣に知らない男がいることが。

 澪が自分を置いて、その男についていったことが。

 雨はまだ降り続いていて、車のフロントガラスを打った。

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