Mag-log in『「君は俺の花だ」妹に婚約者を奪われた私を、冷徹華道家が溺愛して離してくれません』を最後まで読んでくださりありがとうございます。 このお話はこれにて完結となります。 小説を書くのは初めてで、いたらない点等多々あったかと存じます。 ですが、新しいエピソードを公開するたびに多くの方に読んでいただけたこと、本当にとてもとても嬉しかったです。 現在、『九十九の贈り物は初恋の呪い』という別作品も連載しております。 まだこちらの作品は始まったばかりです。 読者のみなさまを楽しませられる作品を書けるよう、一層精進してまいります。ぜひぜひそちらも楽しんでいただけましたら幸いです。 ではまた、どこかでみなさまにお会いできる日を楽しみにしております。 暁万里
結婚式から数ヶ月後。 初夏の柔らかな陽射しが、神宮寺家の庭を優しく照らしていた。 庭に咲く紫陽花は少しずつ色づき始め、風が吹くたびに木々の葉が心地よい音を奏でている。 離れにある華道室では、綾人と澪が並んで花を生けていた。 誰かへ披露する作品ではなく、ただ、今日も屋敷へ飾る花を二人で生ける。 それが、今では当たり前の日常になっていた。「この高さならどうでしょう?」 澪が一本の花を差し込みながら尋ねる。 綾人は少しだけ角度を変えながら作品全体を見つめ、「ああ、いい」 と、小さく頷いた。 その返事に澪は嬉しそうに笑う。「最近、綾人くんに『いい』って言ってもらえることが増えましたね」「そうか?」「はい。昔も確かに褒めてくださっていましたけど。でも、そのときは『悪くない』ばかりだったから」 以前ひまわりに教えてもらった綾人語録を思い出しながら、澪はくすくすと笑い花を整える。「あのころは、褒めることにあまり慣れてなかった」 綾人は少しだけバツが悪そうに苦笑いを浮かべる。「今は?」「……澪が素直だからな」 綾人は静かに作品を見つめる。それは答えになっていなくて、澪は首を傾げた。「夫婦は似てくるって言うだろ」 澪はその言葉に目を丸くしてから、頬をほんのりと赤く染めた。 素直に褒めるようになった理由を、まさかそんな風に綾人が言うと思っていなかった。 澪は照れたように笑って、隣に座る綾人にそっと寄りかかった。綾人は、ふっとちいさく微笑むと澪の肩をそっと抱き寄せた。 ◇「澪さまー!」 華道室の外から元気な声が響く。 勢いよく障子が開き、ひまわりが顔を覗かせた。「ワークショップへ参加された皆さまから、お手紙が届きました!」「本当ですか?」 澪は嬉しそうに受け取る。 封筒の中には、何枚もの便箋が入っていた。『お花を飾って食卓が明るくなりました』『娘と一緒に花屋さんへ行くのが楽しみです』『主人と花を選ぶ時間ができました』 一枚一枚、丁寧に目を通していく。 どの手紙にも、花のある暮らしが綴られていた。「……嬉しい」 自然と笑みがこぼれる。「花って、本当にすごいですね」 誰かの日常へ寄り添って、笑顔を増やして、家族の時間まで優しく彩ってくれる。 澪は大切そうに手紙を胸へ抱きしめた。 ◇ 昼
やわらかな初夏の風に深緑が揺れる朝。 今日は特別な日。綾人と澪が、新しい人生を歩み始める日だった。 ◇「澪さま、こちらを向いてください」 芹香が襟元を丁寧に整える。 白無垢に身を包んだ澪は、鏡の前で静かに息をついた。 真っ白な打掛に綿帽子。 胸元には、ずっと身に着けてきたあのお守りがそっと忍ばせてある。「……澪さま。本当に、お綺麗です」 芹香が目を細める。隣では桜が感極まったように目元を押さえていた。「す……すごく、お綺麗です……」 その声は少し震えている。「桜さん、泣かないで」 澪が困ったように笑うと、「だ、だって……澪さまが、本当に綾人さまと結ばれるのだと思ったら……」 桜は涙をこぼさないよう必死に瞬きを繰り返した。 その言葉に、澪も胸が熱くなる。 神宮寺家へ来たばかりの頃の右も左も分からず、不安でいっぱいだった自分を思い出す。 そんな自分を、みんなが家族のように迎え入れてくれた。 だからこそ今日、この日を迎えられたと言っても過言ではない。 そっと桜の頭を澪が撫でようとした瞬間。「澪さまーーっ!」 と言う大きな声とともに、勢いよく襖が開く。 ひまわりが仕度部屋へ入ってきた瞬間、その場で口を押さえた。「き、綺麗すぎますぅぅぅ……!」 ボロボロと涙をこぼしながら澪を見つめている。「ちょっと、やだ。ひまわりさんまで……!?」「むりですぅ……っ」 ぶんぶんと首を振る。「今日という日を、私たちがどれほど楽しみにしていたか……! 嬉しすぎます!」「それは、ひまわりに同感ですね」 澪の隣に立っていた芹香が優しく微笑みながら頷いた。「でも。ひまわりも桜も、まだ式も始まっていないんですよ? 泣きすぎです」「そういう芹香だって、昨日は部屋で大号泣だったじゃない」「ちょっと、ひまわり……!」 わたわたと芹香がひまわりの口を塞ぐ。その様子がおかしくて、澪は小さく吹き出した。部屋の空気がほんのりと解けるように和らいでいく。 ◇ 一方その頃。 別室では、綾人が紋付袴へと袖を通していた。 鏡の前に立つその姿は、いつも以上に凛としている。 父親が静かに歩み寄り、羽織の襟元をほんの少し整えた。「少し曲がっていた」「ありがとう」 綾人は短く礼を言う。 父親は一歩下がり、息子の姿を見つめた。
公園をあとにした車は、夜の帳が下り始めた街をゆっくりと走っていた。 車内は静かだった。けれど、その沈黙は気まずいものではない。 助手席に澪は、何度も何度も左手を見つめてしまう。 薬指には、小さく輝く婚約指輪。 夕陽を受けるたび、まるで春の花へ降りた朝露のように優しく光を返していた。「……」 思わず口元が緩む。 そんな自分に気付き、照れくさくなって窓の外へ視線を向ける。 その様子を、綾人は横目で静かに見ていた。「喜んでもらえてよかった」 穏やかな声。 澪は少し恥ずかしそうに笑う。「はい」 素直に頷いた。「まだ夢みたいで……」 左手を胸の前へ寄せる。「現実、なんですよね」 その言葉に、綾人は少しだけ目を細めた。「ああ」 短い返事。 澪は安心したように笑い、もう一度だけ指輪へ目を落とした。 ◇ やがて車は神宮寺家へ到着した。 玄関前に停まると、綾人が先に降り、助手席のドアを開ける。「ありがとう」 澪は嬉しそうに微笑みながら車を降りた。 そして二人並んで玄関へ向かい、扉が開いた、その瞬間だった。「お帰りなさいませ」 佐伯の穏やかな声が響く。 玄関には、いつも澪の身の回りをお世話してくれる使用人たちだけでなく、屋敷に勤めている全ての使用人が揃っている。 そして綾人の父と母まで――。「え……?」 澪は思わず立ち止まる。 どうして皆さんがこんなに綺麗に並んでいるのだろう。 不思議そうに瞬きを繰り返していると、佐伯が柔らかく微笑んだ。「綾人さまより、ご報告を受けておりましたので」「……ご、ご
綾人の車は、夕暮れの市街地を抜け、小さな公園の前で静かに停まった。「ここは……?」 澪は窓の外を見つめ、小さく息を呑む。 見覚えのある遊具。少し古びたベンチ。色とりどりの花が咲く花壇。 胸の奥が、懐かしさで静かに震えた。「降りよう」 綾人が車を降りる。 澪もそのあとへ続いた。 春風が頬を撫でる。 花壇には、季節の花々が穏やかに咲いていた。「……ここ、知っています」 澪はゆっくり辺りを見回す。 そして、一つのベンチを見つめた瞬間、小さく目を見開いた。「思い出したか」 綾人が静かに尋ねる。 澪はゆっくり頷いた。「……はい」 少しだけ涙ぐみながら笑う。「綾人くんと、初めて会った場所」 幼い綾人が、一人で座っていた場所。 分厚い花の本を抱えて、どこか寂しそうだった男の子。 ただ笑って欲しくて、話しかけ続けたあの日。 それだけの時間だった。 けれど、あの日があったから、今の自分たちがいる。「綾人くんも覚えていてくれたんですね」 澪がそう言うと、綾人は静かに笑った。「忘れられるはずがない」 短い言葉。けれど、その声には何年もの想いが込められていた。「お前は、少し忘れてしまっていたようだけれど」「はい」 澪は少しだけ照れたように笑う。「でも、今は全部思い出しましたよ? あの日々のこと」 あの日の風も。花も。笑顔も。 綾人に会うのが楽しみで教室に通っていたことも。 全部。全部。 綾人はゆっくりとベンチへ腰掛ける。 澪もその隣に座った。 しばらく二人は何も話さない。 ただ、春風だけが静かに流れていく。「昔の俺は、毎日がつまらなかった」 綾人がぽつりと口を開く。 神宮寺の跡取りらしくなるために、稽古漬けの日々。 勉強や礼儀も徹底的に叩きこまれた。今ならそれが全部大事なことだったと分かる。 でも。「誰も、俺自身を見てくれた気がしなかった」 澪は静かに耳を傾ける。以前、綾人が両親のことを話してくれた日のことも思い出していた。「でも、あの頃、澪だけが違った」 綾人は花壇を見つめた。「神宮寺家の跡取りじゃなくて、俺を見てくれていた」 だから不思議だった。初めて、一緒にいて苦しくない人だと思えた。「……ありがとう」 綾人のその一言に、澪はゆっくり首を振る。「違います。お礼を言うなら、私のほう
春風が柔らかく吹く休日。 神宮寺家の離れにある教室には、朝からたくさんの人が集まっていた。 子ども連れの家族や、年配の夫婦。友人同士で参加した女性たちもいる。 華道経験のない人ばかりだったが、その表情は期待に満ちている。 教室の中央には、色とりどりの春の花と、フローラルフォームの入った小さな籐の花かごが人数分並べられていた。 澪は教室の前へ立つと、小さく深呼吸をする。「本日は、ご参加いただきありがとうございます」 少しだけ緊張した声。何度登壇しても人前に立つのは緊張する。 それでも、集まった参加者たちは優しく微笑みながら耳を傾けてくれていた。「えっと……今日は、上手に生ける日ではありません」 澪が講師をやる日、決まって最初に紡がれる言葉。 その一言に、教室のあちこちで「え?」という小さな声が上がる。 澪は優しく目を細め微笑み、頷き返す。「今日は、お家へ連れて帰りたくなる花を作る日です」 そう言って、目の前の花かごを優しく持ち上げる。「玄関でも、食卓でも、お部屋でも。皆さんが『ここへ飾りたいな』と思う場所を想像しながら、楽しんで作っていただけたら嬉しいです」 その言葉に、参加者たちは嬉しそうに瞳を輝かせ、そして頷いた。 ◇「じゃあ、このお花はここ!」「いいねぇ」「お母さん、これでどう?」 教室には、すぐに賑やかな声が広がり始めた。 澪は一人ひとりの間をゆっくり歩く。「素敵ですね」 澪がそう声をかけると、年配の女性が少し照れながら笑う。「色を入れすぎちゃったかしら」 澪は優しく首を横に振った。「春らしくて、とても温かい雰囲気です」「本当?」「はい。見ているだけで元気になります」 その言葉に女性は嬉しそうに頬を緩めた。 少し先では、小さな男の子が真剣な顔で花を挿している。「先生!」 元気な声に振り向く。「これ、お母さんにあげるんだ!」 少し曲がったチューリップが花かごの真ん中で揺れていた。 澪はしゃがみ込み、その花かごを見つめる。「うん、とっても可愛い」「ほんと?」「はい」 澪は笑顔で頷いた。「お母さん、きっと喜びます」 男の子は照れくさそうに笑った。「先生」 今度は若い夫婦が澪を呼ぶ。「すごく楽しくて、毎週お花を飾ってみたくなりました」「ぜひおうちでも作ってみてくださ
神宮寺流大展が閉幕して数日後。 神宮寺家の客間には、春の柔らかな陽射しが差し込んでいた。 テーブルには湯気の立つほうじ茶と、佐伯が用意した季節の和菓子。 綾人と澪、そして綾人の両親が向かい合って座っている。「今年の大展は、例年以上に一般のお客様が多かったな」 父親が湯呑みを置きながら静かに口を開く。「ああ、そうだな」 綾人も小さく頷いた。「一般公開の日数を増やした効果もあったのでしょうね」 母親も穏やかに微笑む。 澪は会場の様子を思い出し、頬を緩めながら湯呑みを持ち上げた。「皆さん、とても楽しそうでした」 あの会場で交わした笑顔が自然と思い浮かぶ。「『家でも飾ってみたい』って言ってくださる方がたくさんいて嬉しかったです」 その言葉に、父親は静かに澪へ視線を向けた。「澪さん。そのことについてなんだが……」「はい?」「理事会でも話題になったんだ」 『理事会』という言葉に、澪は思わず姿勢を正した。あまりよく思わない人がいらっしゃったのだろうか、と澪は息を呑み込む。 その澪の緊張に気付き、父親はふっと表情をほころばせた。「君の花カゴは、一般のお客様の滞在時間が最も長かった作品だったそうだ」「え……」 思わず目を丸くする。「作品の前で会話が生まれ、足を止め、質問が続いた」 父親は穏やかな表情のまま続ける。「『飾ってみたい』『作ってみたい』という声も多かったと報告を受けている。だから一つ、提案がある」 父親は湯呑みを静かに置く。「神宮寺流で花カゴのワークショップを開いてみないか」「……花カゴのワークショップ、ですか?」 澪の思考が止まる。「ああ」 父親は静かに頷いた。「神宮寺流の門下生だけではなく、地域の方々にも参加していただき、花をもっと身近に感じてもらう催しとしてな」 澪は何度も瞬きを繰り返した。「で、でも……神宮寺流の雰囲気とは、全然違いますし……」 澪は助けを求めるように、思わず綾人を見る。「澪」 綾人は静かに澪の名前を呼ぶと、そっと澪の手に自分の手を重ねた。「あれも立派な神宮寺流の作品だ」 あまりにも迷いのない声だった。「全く問題ない。だからこそ、大展へもあれでいいと送り出したんだ」 その言葉を聞いて、澪の瞳が大きく揺れる。 そう言ってもらえたことは、とても嬉しい。けれどまだ少しだ
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤
温かかった。 冷え切っていた体が、じんわりと熱を取り戻していく。 雨の音が遠い。 白石澪は、抱き締められていることに気付いてからも、しばらく動けなかった。「……あの」 震える声が漏れる。 すると、男――神宮寺綾人は、ようやく我に返ったように目を伏せた。「……すまない」 けれどその腕は、なかなか離れない。 まるで、離したら消えてしまうものを抱えているみたいに。「あ、あの……」 澪がもう一度そう口を開くと、綾人はようやくゆっくりその腕を離した。 黒い手袋越しの指先が、最後まで名残惜しそうに澪のブラウスの袖に触れていたことに、澪は気付かない。「怪我
白石澪は、二十六年間の人生の中で、自分が『誰かに選ばれる人間』だと思ったことがない。「ごめんね、お姉ちゃん。私、ほんとダメでぇ……」 ソファに座った妹の美羽が、困ったように眉を下げる。 ふわふわに巻いたグレージュの髪。淡いピンクのネイル。思わず守ってあげたくなるような可愛らしい顔。「バイト先でも失敗ばっかりで……」「ううん。気にしないで。それよりも、美羽は早く休んで? 体に障るわ」 澪は笑った。美羽の代わりにノートパソコンの前に座って、大学の課題のレポートに向き合う。 澪が働く花屋は、比較的穏やかな客が多い、しかし今日は珍しくクレーム対応をして、頭