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雨の残り香

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-17 18:07:17

カーテンの隙間から差し込む夜明け前の淡い光が、まだどこか夜の名残を残した部屋に広がっていた。窓際、小阪はひとり立ち尽くしていた。足元には昨日のまま脱ぎ捨てたシャツと黒いパンツ、床には誰も手をつけなかったコンドームの小箱が落ちている。シーツの上には寝乱れた気配が薄く残るだけで、人の温もりはもうどこにもなかった。

外は、雨が止んで間もない。ガラス窓に沿って細い雨粒が流れ、静かな音を立てて滑り落ちていく。水滴の列が切れると、すぐ次の雫がその跡をなぞる。部屋のなかは、雨の匂いと湿った空気に満たされていた。

小阪は左手で自分の髪に指を差し入れた。眠れなかった夜のままの髪はわずかに乱れていて、前髪が額に張り付いている。指先が無意識に左耳をなぞる。そこに触れると、ピアスの冷たい金属がすぐに指腹にぶつかる。ほんの僅かな刺激だったが、その感触は小阪の内側に、鈍く沈む痛みのように広がった。

指が震えていた。誰かに見せたわけでも、声を上げたわけでもないのに、身体の芯のどこかが微かに揺れていた。ピアスの輪郭をなぞるその手が、何かを拒むようにも、何かにすがるようにも見えた。

窓の外に目をやる。向こうに続く並木道の葉が、雨に濡れて鈍く光っている。朝のはじまりなのに、世界はどこか透明で、冷たい。静寂と、湿り気と、夜が終わる気配だけが満ちている。

小阪は、ピアスをつまんだまま立ち止まる。金属のひやりとした感触に、心のどこかがちりちりと焼けるようだった。ふいに力を抜くと、指先がわずかに震えているのが分かった。その震えは、夜を引きずったままの自分の情けなさと、ひとりきりで迎える朝の恐ろしさの両方を抱えているような気がした。

雨粒がまたひとつ、窓ガラスを伝って流れる。静かな音。誰にも気づかれないまま、夜明けがじわじわと近づいてくる。その気配が部屋を包み、心の奥にまで染みこんでくる。

昨夜、河内とかわした言葉のかけらが、耳の奥で反芻される。けれど何も残らなかった。触れられることも、声をかけられることもなく、ただ淡々と時間だけが過ぎていった。その静けさに耐えられず、小阪は窓の外を見つめ続けた。

指先はまだ、震えが止まらないままだった。自分でも理由は分からない。寂しさか、不安か、もしかするとほ

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