111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
1「牧野さん、私、向阪 匠吾《こうさかしょうご》さん狙っていきまぁ~す」 一緒に社食に向かうこの春準社員で入社して来た島本玲子 が 開けっ広げに私に宣言してきた。 『いや、ちょっとそれは…まずいかも。しかし最近入ってきた人には 分かンないよね~』と心の声。 「水を差すようだけど向阪くんに彼女いる可能性は考えないの?」「彼、独身ですよね?」「ええ、まあ、独身だと思うわ」「じゃあ、もし彼女がいても無問題ですよ。 結婚がゴールだとしたらそこに辿り着くまではマラソンみたいなものだから 一番にゴールした者の勝利ってことで。 私の前に1人2人走ってたって平気ですよ。 ゴールのラインはまだ誰も踏んでませんからね」 「島本さんって積極的なのね~」 「私もう29才、いわゆる崖っぷちっていうやつなので、 大人しくしていたら永遠に独身まっしぐらですもん」『島本さん綺麗だから今までチャンスは幾らもあったと思うんだけど、 高望みし過ぎたとか? 20代で綺麗で積極性があって、なのにどうして今だに独身なのかしら、 と訊いてみたいところだけど、きっとここは踏み込んではいけないところよね』 向阪くんが掛居 花 《かけいはな》ちゃんと仲いいことは周知の事実に なっている。 中には知らない者もいるだろうけれど、ほとんどの者が知っている。 ほぼほぼ公認の仲っていうヤツよ。 29才独身はやはりパートナー狙いで入社してきたようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 実は彼女の採用時の最終面接にはうちの課の仕事の補佐をお願いするものだから課長、係長そして私と3人が人事課以外からも面接の場に立ち会っていた。 今回の応募者は20代前半の人が大半で20代後半は島本さんひとりだった。 経理経験者は彼女ともうひとり40代既婚の人がひとりだけ。 課長と係長は仕事ができることと見た目で、島本さん即決だった。 私は正直40代の女性とどちらにするか迷った。 結局私も島本さん推しということで彼女に決まったわけだけど、 私ひとりがあの時40代の女性を
2 いや、ターゲットを狙うのはいいのよ、問題なくそのお相手が シングルならばね。 いくら結婚してないからって恋人がいるのが分かっていて 略奪みたいな真似はねぇ~、普通しないものでしょ。 前々から忙しい業種ではあるんだけれど、近年忙しいため募集をかけて 折角採用したのだから、揉めて辞めてくれるなよ~頼むよ~だ。 今我が社は近年の台風や豪雨そしてあちこちで頻発する地震と自然災害の 乱発がすごくて皆、青息吐息で社員は誰も彼も猫の手を借りたいほど 忙しいのだ。 そんな我が社は旧財閥系列の会社で社名もふたつの財閥の名称から取り 『三居掛友海上火災保険株式会社』と称する。 島本さんが狙ってる向阪くんは彼女より2才も年下で現在の仕事は 『損害サポート業務部の火災損害サポート部』社員として活躍している。 自動車損害サポート部も兼任しており将来を有望視されている若手社員だ。 花ちゃんは向阪くんと同年に同期入社し、総務部でテキパキ頑張ってる。 聞いたところによると向阪くんと花ちゃんは入社前から面識があったみたいだ。 交際がいつ始まったかは知らないけれど入社してすぐに付き合っていることは公認みたいな形になってる。 だからといって、別に社内でイチャイチャすることはないのよね、 今のところ。 ランチも一緒に摂ってるところなんて私は見たことないし。 不思議っちゃあ不思議よね。 そんなふたりが公認の仲? 今まで何も不思議にも思っていなかったのに島本さんの向阪くん狙いの 話から彼と花ちゃんのことを考えていたら辿り着いてしまったって感じよね。 あれだね、きっと向阪くんが花ちゃんに悪い虫が付かないよう、 自分から周りにじわりと小出しにして認識させていったのかも。 ◇ ◇ ◇ ◇ 準社員として配属された島本玲子の上司で正社員の牧野千鶴38才既婚、 大学を卒業してから早16年勤務……は、知らなかった。 従業員はパートまで含めると約3万人近くになる規模の会社で 取締役会長に始まり同じような執行役員という名の付く役員が 4、50人もいる中、そのような重役から下の役職へとふたりのことは 伝達されていたのである。 伝播された設定はこうだ。 向阪
3 10年前学生だった頃、姉の恋人を寝取ったのを皮切りに、人のモノ、 即《すなわ》ち彼女持ちの男を射止めるのが癖になってしまった島本玲子は 元々がそのような拗れたところからの恋愛を繰り返してきたため、 最後はいつも破局してしまいこの年になっても未だ独身だった。 言い寄られて彼女のいないれっきとした独身男性との交際も 時にはあったが飽き症の上にすぐ人のモノが欲しくなる性格も相まって なかなか結婚まで辿りつかない。 向阪に関していえば社内のカフェテリアで何度か見かけたのが切っ掛けだ。 背が高く容姿がずば抜けて整っている。 男性にしてはゴツゴツしてなくて、顔の肌が女子顔負けにきれいで さらには鼻梁の線も美しく、くっきりとした二重瞼と併せて彼の顔を きりりとした表情に作り上げている。 実は彼の顔をなるべくはっきり見たくて自然を装って 彼が座っていた近くを何度か行ったり来たりした。 島本玲子が入社した会社では、バーベキュー施設は地域問わず多く存在し、物品や材料が備えられているケースも多いため実施ハードルは低めで、屋外で自然と触れ合いながら飲食をすれば、非日常感溢れる環境だからこその仲が深まりやすい点もあり職場内よりも開放的な気持ちでコミュニケーションが取れるメリットがある。 そのため、BBQは毎年恒例の行事となっている。 玲子が入社して3ヶ月目に突入した頃のこと。 3日後の日曜日に社内の親睦を兼ねたバーベキューが催されることに なり、玲子は絶対この日に向阪のメルアドをGetしようと決めていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 私は慎重に向阪 匠吾の様子を窺った。 周りに人はいても、実際彼に話し掛けている者がいない隙ができたのを 見計らい私は近づいて行った。
4 「こんにちは。 私バーベキューは今回が初めてで何をしたらいいのか要領が分からなくて……」 「あぁ、最近入られたのですか?」「はい、準社員でこの春から」 「うちは何年か勤めれば採用テストがあって正社員登用の道があるし、 皆親切な人が多くて働きやすい職場ですよ」 「そうなんです、正社員になれる道があると聞いてこちらの会社に 入社することに決めました」「早く正社員になれるといいですね」 「ありがとうございます。 まだまだ知らないことだらけで、経理部の人たちしか知らないですし、 何か困ったことがあればお聞きしてもいいでしょうか?」 「あぁ、もちろんいいですよ」 「じゃあ、もうしわけありませんがメルアド赤外線通信で 送っていただいても構いません? 私、赤外線の送信のしかたが今ひとつ分からなくて……」 「いいですよ……」 「ありがとうございます。うれしいです」 彼の側に知り合いが集ってきたところで、私は早々に引き上げた。 連絡がとれるようになったのだから、もう何も焦る必要なし……と 言いたいところだけど今回は今までとは違うからね~、ちょっと焦るわぁ~。 先日私が牧野さんに話していたように崖っぷちはほんとだから。 向阪くんは旦那さん狙いだもん。 絶対落とさなきゃ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 島本にロックオンされているとも知らず、一方その頃向阪は 呑気なものだった。 「向阪 、さっきの美女誰よ」「えっと、誰だっけ? 忘れた。 さっき初めて会った、はじめましてさんだよ」 「なにぃ~、そんなわけあるかよ」「いや、まじそうなんだって」 「それではじめましてさんと何してたんだ?」 「いやぁ、何も。最近入社してきたって言ってたわ。 分からないことがあったらまた教えてくださいって言われただけ」「へぇ~、お前狙われてるんじゃねぇ」 「それはないだろ。俺には……」 「掛居 さんがいるもんな。気をつけろよ」「考え過ぎだって」 彼女はあんなこと言ってたけど、おいおい社内外のことをいろいろ 知っていくうちに俺と花のことも誰かから耳打ちされるだろうし、 そしたらメールなんてのも来ないだろう。 しかし、男なら誰でもグラっと
5 ◇かわいい嫉妬 向阪は気付いていなかったが島本とのアドレス交換しているところを 少し離れた場所から見ていた人物がいた。 それは向阪 の恋人で10代の頃から付き合っている掛居花だった。 帰りは花と足のない同僚ふたりを乗せそれぞれを最寄駅まで送り届けたあと、匠吾と花は北区のビバリーヒルズと呼ばれる高級住宅街に建ち並ぶそれぞれの豪邸近くへと帰って来た。 彼らは匠吾の父親が兄で花の母親が妹という兄妹の娘、息子、即ち従兄妹同士だった。 祖父の豪邸を真ん中に挟み匠吾と花は左右に住まっている。 今回は匠吾の車でBBQに出掛けていた。 その匠吾の車は近所にある公園の駐車場に止められた。 会社イベントは楽しかったけれどふたりでゆっくり話す時間もなかったため、少し話をしてから帰ろうということになったからだ。イベントの残りの缶コーヒーを飲みながら花は訊いた。 「今日島本さんと何話してたの? 匠吾、鼻の下がビロ~ンって伸びてたけど」 「ビロ~ンってオマエなぁ~、なぁ~に言っちゃってんの。 入社仕立てなんで分からないことがあったら教えてくださいって お願いされてたんだってぇ」 「へぇ~、接点のない他部署の匠吾に教えを乞うなんて不自然だよね」 「そうか?」「そうよ、おかしいよ。メルアド交換したでしょ」 「あっ、あぁそうだったっけ……」「ふ~ん、心配だな」 「大丈夫だって、わたしを信じなさいっ」「信じていいの? ほんとに?」 「大丈夫、ンとに心配性だなぁ~花は。 花が思うほど俺ってモテないから」 「もし、彼女から相談があるから会って話を聞いてほしいって言われたら どうするの?」 「電話で聞くようにする」「外では会わない?」 「会わない……」「よかった。それ聞いて安心した」「俺も良かったぁ」「何が?」 「ちゃんと花が俺に焼きもち焼いてくれることが分かったから」 俺がそういうと怒るかなって思ったけど花の反応はそうじゃなかった。 『じゃあ、約束ね』といって小指を出してきた。 そのしぐさが可愛いなって思った。 車の中じゃなかったら盛大にハグしたのに、残念。
6 花とそんな風にかわいい約束をしていたのに、BBQ明けから 早速島本玲子からのメールが向阪匠吾の元へ一日に二度三度と 届くようになった。 最初は『おはようございます。先日はありがとうございました』とあり放置していると同じ日の夜に『今日もお疲れさまでした。明日もお互い頑張りましょう』とくる。 最初は当たり障りの返事を特に返さなくてもよい内容だったので 放置していた。 3日めからメールの内容が返事を促すものへと変化していった。『正社員登用の試験内容など教えてほしい』というような文面に。 花に対してほんの後ろめたさを感じつつも花はメールについては 何も言ってなかったのだし、との言い訳を盾に、向阪はざっと簡単に 自分が受けた時の試験内容などを書いて送信した。 すると酷く感謝の言葉を羅列している文が送られてきて、これ以上 メールのやりとりはするまいと考えていた向坂だったのだが、 これで最後だしと返信メールをしてしまい、後は言葉巧みな玲子主導の元、『その問題集を見せてはくれないか』と言われOKすると、てっきり職場で渡す気だった向阪に玲子から『じゃあお礼も兼ねてカフェバーで会いましょう』ということにされ、あれよあれよという間にそのように設定されてしまった。 いや、それは一瞬『まずい』と向阪は思った。 花の顔も浮かんだ。 しかし、おそらく今回一度だけのことなのだしカフェバーでお礼に一杯と 言われ断るのも大人げなく思い、断らなかった。 また花との交際が若くして10代からのもので向阪は花以外誰とも 付き合ったことがなく、少し大人の女性との交流に興味を 持ってしまったということもあった。 浮気をするつもりなど毛頭なく、ほんとに興味本位でのOKだった。 しかし、自分の気持ちの確認はしたものの、玲子の思惑を少しも 考えてなかったことが向阪にとっては痛恨の極みであった。
7 島本玲子が指定してきた店は港の近くの『ラウンジ・スルラテ・オーシャン』というきれいな夜景の見える場所だった。 玲子は問題集を貸すと大仰に喜び隣でひとりで飲んでた男性とも仲良くなり、はしゃいで楽しい酒を飲んだ。 3人で話が盛り上がった頃「折角だから記念に海をバックに画像を撮りません?」と玲子が言い出した。 最初に玲子とその男性を俺が彼女のスマホで撮った。 「はい~次は向阪くんと私の番ね~」 と彼女が別の男にスマホを渡した。 「いや、俺はいいよ」 と言ってるうちにその男が勝手に撮ってしまった。 やばいとは思ったがこんなことで怒るのも大人げないし あとで彼女に削除するよう頼もうと思い、苦笑いでその場をやり過ごした。 「もういい時間だからぼちぼちお開きにしますか」 と声を掛けて俺はトイレへ向かった。 この時もう一人の男性は帰ったあとだった。 そして俺たちは途中で解散をし別々に帰った。 ◇ ◇ ◇ ◇ カフェバーを出て少し歩き、途中で 『飲みなおさない?』って誘ったのにあっさりと蹴って帰って行った向阪 匠吾。 『チキンめ! そんなに彼女が怖いのか!』 ◇ ◇ ◇ ◇ 自宅で寝る前に気付いた。 やばい、画像の削除頼むのを忘れてた。 急いで彼女に画像を消してくれるようお願いメールを出し、その夜 俺は眠りについた。
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。