37 玲子より3才上の姉の蘭子が大学生だった頃、漠然とだが結婚も心のどこかで視野に入れていたことのある、恋人の金城信也を自宅に2度ほど招いたことがあった。 そしてそのあとのデートの帰りに「お茶でも飲んで少しゆっくりしてから帰ったら?」と誘うも、この時は「今日は止めておくよ。また今度寄せてもらうから」と彼は立ち寄らずに帰って行くというようなことがあった。『どうしたんだろう?』って少し気にはなったものの、今日はなんとなく早く帰りたい気分だったのかな、とこの時はそれがどういうことなのかよく分かっていなかった。このデート以降、彼が余所余所しくなったように感じることが多くなった。 次のデートをいつにするか決めるために今までのように「次はいつ時間空いてる?」と訊いても返事を濁すようになり『もしかして避けられてたりして』と不安に思っていたところ、ある日のこと。 * 大学の授業を終えて家に帰るとリビングダイニングに両親がいた。「あれっ? お父さん、会社は? 有給取るなんて珍しいね。お母さんとデートでもしてきた?」 両親に声を掛けたあと私が自分の部屋へ行こうとすると、父親から声を掛けられた。「蘭子、話がある……」「今すぐがいいの? ちょっと着替えてきてからでもいーい?」 2階に上がろうと部屋から出ると、玲子が私と入れ替わりにリビングダイニングに入ろうとするところで、私たちはすれ違った。『お帰りなさい』の一言もなく、どうしちゃったんだろう変な子。 そう思いながら父親から話があると言われていたので急いで着替え、リビングダイニングへと向かった。 4人掛けのテーブルセットに3人が座り、私を待っていた。 この時何か空気がおかしいって思い、私から両親に「何か改まった話なの?」と口火を切り尋ねた。 それなのに私の問い掛けに反応したのは妹の玲子だった。-「私、妊娠したかもしんない」「え~、お父さん、話って玲子の妊娠の話のことだったの?」 訊いても父親はうんともすんとも言わず、言葉を選んでいるようでなかなか言い出さない。「玲子、付き合ってた人いたんだ。 その子の父親って誰なの? 結婚するの?」
38「お姉ちゃんの知ってる人だよ」「そんな人いる?」 私は誰よぉ~と頭の中で年頃の男子を思い浮かべたけれど 自分の恋人しか出てこなかった。 従兄たちを思い浮かべてもそもそも皆遠方だし、ご近所さんを探しても 付き合うような人は見当たらない。「高校か大学の友だち?」とは口にしたものの、私は妹の女友だちの 2人くらいなら見知ってるけど、男友だちがいるのかどうかも 知らないのだから……違うでしょ。 いろいろ考えて一周して私は恐ろしいことに気が付いてしまった。 両親が纏うドヨンとした空気、結婚もしていないのにあっけらかんとして 妊娠しているかもしれないと話す妹の空気感。 「お姉ちゃん、信也さんは私のだからね。 このお腹の中の子の父親は彼だから。 お姉ちゃんがどんなに頑張っても信也さんはお姉ちゃんのものには ならないの。分かった?」 自分の言いたいことだけを話すと、妹は部屋を出て行った。 あまりのことに私は頭の中が真っ白でしばらく思考停止してしまった。 何がなにやら訳が分からない。 だって信也を自宅に招いたのは2回しかなくて、どこでどうやったらあの子が妊娠するっていうの! 「まだ蘭子も若いし、それからいくらでも出会いあるわよ。 ねぇ、あなた」「そうだな、子供ができちゃったならどうにもならんしな」 ねぇ、私の親たちは何を言ってるの? 玲子を叱ることもせず私の恋人を妹に譲るのが当たり前のように 言ったりしておかしくない? しようがない? しようがないで済ますつもりなんだ。 最近あまりデートに誘われなくなって距離が……距離感が遠くなったように感じてたんだけども、こういうことだったのね。腑に落ちた瞬間だった。「お父さん、お母さん、今の私の気持ちが分かる? って訊いても無駄だよね。 分かってるなら絶対私にそんな発言できないよね。 一言では語りつくせない言いたいことはたくさんあるけどひと言だけ……。 玲子は勿論だけど、あなたたちには失望した。 同じ血を分けた娘なのに妹には寛容で私には随分と無慈悲なことを 言うんだね。 もしかして私って橋の下で拾われた子だったりして」
39「なにバカなこと言ってるの。 ちゃんと私がお腹を痛めて産んだ子よ」 『お腹を痛めて産んだ割に私に対して母性のカケラもないような仕打ち。 一生許さないから。 いつか二人とも捨ててやる』 私は埒もないことしか話さない両親に背を向け、自室に向かった。 こんな大事なことを信也に直接問い詰めることもせず、はいそうですかと 言えるはずもない。 勿論妹からも事情聴取しないわけにはいかない。 私は2階の踊り場に佇み一呼吸置いてから玲子に声を掛け部屋に入った。 「いつそういう関係になったの? この家で2回会っただけなのにどこをどうすれば そんな展開になるっていうの。 分かるように説明して」 「2度目に信也さんが来た日にさ、お姉ちゃんがトイレに行った時に お母さんから頼まれて2人分のコーヒーを淹れて出したことがあったの 覚えてる? その時に信也さんに『姉のことでお話したいことがあるので』って メルアドと電話番号書いたメモを渡したのよ。 それが切っ掛けだよ」 「あなたから誘惑したんだ?」「う~ん、どうだろうねー。 否定はしないけど信也さんの感触見てたら、私とお姉ちゃんと どちらでも好きな方を選べるなら断然私っていう感じはあったよ。 メールで会う約束してすぐに日を置かず会ったんたけど 信也さん私にメロメロだったもん。 やだぁ~私ね、お姉ちゃんとのこと真剣なんですか? って確認したかっただけなのにね。 なんでこうなっちゃったんだろうー。 お姉ちゃん、ごめんね。 魅力的な私のせいだよね。 平凡なお姉ちゃんにやっとできた彼氏だったのにぃ~。 彼ね、私のこと好き過ぎて会うたびにエッチしてたから そりゃあ~妊娠するよね。 信也さんったらすごいんだぁ~。 精力旺盛でぇ~」
40 私は妹の言い訳という名の説明を聞きながら思った。 今まで特に仲の良い姉妹でもなかったけれど、妹の口から 罪悪感など微塵もなさげに吐き出される言葉に衝撃が走り、 薄気味悪さを感じた。 メンタルが普通じゃない。 両親も妹も、皆頭おかしい。 3人とはとてもじゃないけれど建設的な話し合いなんて望めそうもないし、したとしても徒労に終わるのが目に見えてる。 この時私の胸の中に沸き上がった感情、それは『許さない』という 強い思い。 だが『許さない』という負の感情に気持ちを持っていかれるのも癪に障る ほど取るに足らないつまらないもののように思えてきて 最後に行きついた感情は『あきれた』の4文字だった。 枯れ果てるほどの涙を流したわけでもないのに心情としては すでにその境地に入っていた。 涙も枯れ果てるほど泣いたあとの呆然自失というヤツだ。「精力旺盛ってよくも平気で人の恋人寝取っておいて下品なことが 言えるものね。 お父さんたちもあんたも考えてることがちゃんちゃらおかしいわよ」 「なんとでも……負け犬の遠吠えじゃん。ご愁傷様ぁ~」 妹の吐き出した言葉のなんと酷いこと。 私はこの今回の妹の妊娠騒動まで自分の家族は普通の家族だと思って 暮らしてきたわけだけど、異常性に気付いたのが今で良かったと思った。 あと4か月と少しで、来春には大学を卒業し、内定をもらってる企業に 就職も決まっている。 自宅から通うのか独り暮らしをするのか決めかねていたけれど、今や選択肢は1つしかない。 この時蘭子は家も家族も捨てるつもりでこの家を出て行こうと腹を括った。 そしてまた信也に最後の裏付け、すなわち玲子と本当にそんなことがあったのか確認せねばならないと思うのだった。
41◇信也と玲子 蘭子とは学生同士とはいえ真剣に交際していたつもりの信也だった。 だから蘭子の自宅に招かれ母親と妹に蘭子の恋人として紹介された時も、 きちんと臆することなく挨拶をした。 そんな信也だったから父親も加わっての次の挨拶は就職後になるだろうと 考えていた。 最初の訪問時に驚いたのは妹の玲子の美しさにだった。 毒気を纏った美しさでドキマギしてしまった。 花で例えるなら姉の蘭子は知的で物静かなスズランやカンパニュラと いったところだろうか。 反して妹の玲子は色鮮やかな赤いバラかシャクヤクか毒々しさを重ねて みると真っ赤な曼殊沙華。 玲子とのメイキングラブは期待を裏切らず随分楽しめた。 かなりの人数と行為をこなしてるみたいで体位もそうだが なかなかのテクニシャンだった。 あんなの経験したら楽しむのはいいだろうけど、まず妻にはできないな。 はっきり言って何人が出入りして使ったか分からない肉便器じゃん。 今日はどんな男をひっかけてヤッてんだろうなんて、一日中心配で 仕事なんて落ち着いてできねーよ。 玲子とは5回ほどホテルへ行った。 蘭子にバレずに済むだろうか。 運よくバレずに蘭子と結婚できたら、できるだけ早めの転勤異動願いを 出して玲子のいるところからう~んと遠くに離れないと……だ。 信也が6回めに玲子と会うことはなかった。 玲子とのアバンチュールは2か月間の5回の逢瀬で打ち切りにした。 いくらなんでもずるずる続けていたら蘭子にバレてしまうだろう。 所詮割り切った遊びなのだから。*◇信也と蘭子 島本家で玲子妊娠報告のあった翌日は金曜日でその日は蘭子も信也も 何コマか授業を取っており、いつものように食堂でふたりして 落ち合うことになっていた。 昨日まで将来を誓い合っていた信也がたった一日を隔てて 赤の他人よりも質《たち》の悪い人間と化してしまった。 玲子の話が真実ならば。
42 食堂へは蘭子のほうが先に着き、席を確保して待っていた。「よっ、今日は何にするかなぁ~」「私はカレーライスにしようかな」「あっ、じゃあ俺もそれにしよっ」 信也が2人分のカレーをテーブルまで持ってきてくれた。「午後から授業あったっけ?」「1コマあったけど今日は休講になったわ」「じゃあ、食事が終わったらちょっとその辺ブラブラしない?」「何かあった?」「うんっ、ちょっと話があるんだ」「ここで今話せないこと?」「うん、ここでは止めたほうがいいかな」「ヒントだけでも」「妹のことだよ」「ブッ……」 信也が口に運んでたカレーを吹いた。「どうしたの?」「ちょっと吃驚して吹いた。予想してなかったから」「そっか」 分かりやすい人。 1%信也を信じてみてもいいかなと考えていた残りのゲージ1%が吹き飛んだ。 信也の口の中にあったご飯粒のように。 話す前に浮気? 乗り替え? が100%だと分かり、冷静に話を持ちだせそうに思えた。 大学の校内にある樹木の周りはぐるりと一周お尻を乗せられるくらいの石積みで囲ってあって、学生のいない場所を見つけて私たちふたりはそこに座った。「ね、玲子のこと、もう知ってるんだよね?」「えー、何かな? その振りっておかしくない?」「うん、じゃあ直截的に訊くね。 玲子とヤッたってほんと?」 私の質問に信也の目が泳ぎ出した。「ヤッたって……何を?」「フーン、そうきたか。玲子のヤツ私をおちょくったのかぁー」 私の呟きを聞いて信也は更にキョドリ出した。「玲子ちゃんに遊ばれたんだ。 姉妹でも蘭子たちって性格ぜんぜん似てないよな」「容姿もね。 やっぱり派手できれいな玲子みたいなのが男心くすぐられるのかしら? だから信也も私から玲子に乗り替えたいって思ったりする?」「そんなこと考えたこともないしぃ~、玲子ちゃんは個性的だからさぁ~俺じゃぁ無理だな。 俺にはさ、やっぱり控えめでやさしい蘭子が似合ってるよ。 あぁこれって別に玲子ちゃんがどうこうっていう悪口じゃないぜ。 ほら、人には破れ鍋に綴じ蓋《われなべにとじぶた》っていうように相性ってあると思うからさ」「金城くん、玲子ね、妊娠したらしいよ。 何か話聞いてなぁ~い?」「えー、俺が? 普通そんなの聞かないでしょ……」「うん、そだ
43「妹のお腹の子は金城くんが父親で玲子はあなたのこと、自分が貰ったって吹いてるわ。 これって昨日の話。 玲子とあなた、もう何度かそういう行為をしてるんだってね。 片方だけの話を聞いただけじゃあ100%本当かどうか判断できないしそれであなたに確認したの。 これって私を困らせるための玲子の妄想? それとも玲子に乗り替えたいと思ってる? 昨日妹から妊娠とあなたとの関係を聞いて、ずっと一睡もできなくて……ほんとしんどい。 でもこんなことメールや電話で訊けるようなことでもないから金城くんと顔見ながら話をしなきゃと思って。 ほんとのことをちゃんと話してね。 嘘は止めてほしい。 玲子の言ってることが本当なのか嘘なのか」 私が話している間の金城くんを見てると悲しくなった。 金城くんの行動は早かった。 腰かけてた石積みから足元の地べたに素早く移動し「蘭子、ごめん。とぼけてごめん。裏切ってごめん。 玲子ちゃんの誘惑に負けて何度か付き合ってしまったけど、俺の好きなのは蘭子だけなんだ。 妊娠のことは今知った。 今月に入ってから玲子ちゃんからの連絡は全部スルーしてたからそんなことになってるなんて知らなかった」「玲子は産む気らしいよ。 両親も玲子とあなたを応援したいんだって。 私に身、引けって言ってるわ」「えっ……そんな。ご両親がそんなことを。 俺、玲子ちゃんとは結婚できないよ」「私にはどうにもできないわ。 ただ玲子がそれで引き下がるような子ならいいけど。 内定のこともあるし、玲子とよく話し合ったほうがいいと思う。じゃ、これで。 明日から大学でも一緒にいるのはもう止めたほうがいいと思う。 あなたはもう私の恋人じゃなくて玲子のお腹の中の子の父親だからね。 じゃあ、先に帰るね」 信也の口からちゃんと玲子とのことを聞けてかなりスッキリした。 スッキリったって暗く悲しい状況ありきの範疇でのスッキリに過ぎないけど。
44 あのペテン師め! 俺はZoomで事の次第を話し合おうと玲子に連絡を入れた。「お前、どういうつもり? これは私たちだけの秘密、お姉ちゃんには内緒ねって言ってただろ? しかも俺に一言も話さないで妊娠したとか言って俺たちのことバラすなんてサイテーだな、おまえ」「なぁに真剣になっちゃってんの、テンパリ過ぎよ。 ね、お姉ちゃん、泣いてた? 縋られた? 私を捨てないでぇ~って」 なんなんだ、コイツほんと。 ふざけた野郎だ。「泣いてもないし、縋られてもない」「え~なんだつまんないの」「妊娠って嘘だろ?」「……」「姉の恋人寝取ったことがそんなに楽しいのか? 蘭子を苦しめて楽しんでるのか?」「私の誘惑にホイホイ乗ってきたあんたにそんなこと言う資格ないっしょ」「お前のエロイ身体に負けてしまったのは一生の不覚だったわ。 言っとくが今後一切お前とは会わないし勿論付き合ったりもしない」「お姉ちゃんと結婚するつもり? そんなことさせないから」「ンとにお前、クソだな。 こんなことしておいて知られていないならともかくも、白日の下に晒されて蘭子に今まで通り付き合ってほしいなんて、そんな最低なこと言えないわ。 俺はそこまで腐ってない」「フーン、じゃあ私が結婚してあげる。自棄にならなくていいよ」「ごめんだね。 それと妊娠を盾に俺との結婚強要するならこちらにも考えがあるから。 お前の妊娠したっていう話が嘘なのは証明できるから。 俺は子供の頃の病気が原因で不妊だ。 妊娠が本当なら父親は別にいるってことになる」実は信也は幼少期におたふく風邪を引き、母親の思い込みから、以後ずっと『あんたはもう子供できないかも』と言われ続けてきたのだった。それは病院で検査しての決定事項でもなかったのだが……。「信也くん、不妊だなんてそれこそ詐欺じゃん。 私、信也くんの他にも付き合ってるヤツいるからそっちなのかもね」 玲子は吹いてるだけで本当のところ妊娠などしていないと思われた。 蘭子から俺という恋人を奪うのが目的だったのだろう。 ほんとに悪い女《ヤツ》だ。 蘭子もこんな破廉恥で節操なしの妹と良識のない両親を持って大変だな。 人の家庭の事情だから介入できないけど、今度のことは心から蘭子に申し訳ないことをしたと思う。 蘭子、本当にすまない。
113 相原さんとの初デートは音楽と美味しい食事、そして語らえる相手もいて思っていた以上に楽しい時間を過ごすことができた。 こんなに近距離で長時間、洒落た時間を共有したことがなかったので、朗らかに活き活きと話をする相原さんを見ていて不思議な感覚にとらわれた。 私はこれまで交際していない男性と一緒に食事をするという経験がなく、世の中には恋人ではない異性の同僚と一緒に食事をするという経験のある人ってどのくらいいるのだろう? なんて考えたりした。 もちろん相手のことが好きでデートするっていうのは分かるんだけどね。 まだまだ相原さんのことは知らないことだらけだけど、彼と話すのは楽しい。 彼を恋愛対象として見た場合、凛ちゃんのことはさして気にならない……かな。 だけど凛ちゃんママの関係はかなり気にしちゃうかなぁ~などと、少し後からオーダーしたワインをチビチビ飲みながらほろ酔い気分でそんなことを考えたりして、一生懸命話しかけてくれている相原さんの話を途中からスルーしていた。笑って相槌打ってごまかした。『ごめんなさぁ~い』「明日も仕事だから名残惜しいけどお開きとしますか!」「そうですね。今日は心地よい音楽に触れながら美味しいものをいただいて、ふふっ……相原さんのお話も聞けて楽しかったです」「そりゃあ良かった」 支払いを終え、私たちは店の外へ出た。「今日はご馳走さまでした。 でも休日のサポートは仕事なので次があるかは分かりませんけど、もう今日みたいな気遣いはなしでお願いします」「分かった。 休日サポートのお礼は今回だけにするよ。 さてと、家まで送って行くよ」「えっ、でもすぐなので」「一応、夜道で心配だから送らせてよ」「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」「俺たちってさ、お互いの家が近いみたいだし、月に1~2回、週末に食事しようよ。 俺、子持ちで普段飲みに行ったりできないからさ、可愛そうな奴だと思って誘われてやってくれない?」
112 お礼に、たぶんだが……何かご馳走してくれるらしいけどそれを彼は 『デート』と表現した。 シングルなのか既婚なのかは知らないけれど今でこそ子持ちパパだから デートする特定の相手がいるのかもどうかも分からないけど、独身だった頃 はあの見た目と積極的な性格を見るからになかなかな浮名を流していたので はなかろうか。 初めて社外でプライベートに会うのに『デート』という言葉をサラッと 使ったところを見ての私の感想だ。 私たちの初デート? は相原さんお勧めの駅前のカフェだった。 そこはジャズの生演奏が流れていてむちゃくちゃムーディーで恋人たちに もってこいの雰囲気があり、私には腰を下ろすのが躊躇われるほどだ。 お相手が素敵な男性《ひと》ではあるものの、残念ながら 恋人ではないから。 匠吾と付き合ってた時に巡り合いたかった……こんな素敵な夜を過ごせる お店。 昼間はどんな顔《店の様子》をしているのだろう。 駅前に立地していて自宅からも近いので次は平日の昼に来てみようかしら。 「俺たちラッキーだな」「えっ?」「何度か来たことあるけどジャズがスピーカーから流れていることはあって も生演奏は今日が初めてだからさ。うひょぉ~、やっぱ生はいいねー」「へぇ~、そうなんだ」 そっか、じゃあ平日来てもきっと生演奏はないだろうなー。 私たちはオーナー特製のピザと各々チーズのシンプルパスタと ツナときのこのパスタでボスカイオーラーというのを頼み、ジャズの演奏 を楽しんだ。 「掛居さんって家《うち》どの辺だっけ?」「言うタイミング逃してましたけど実は最寄り駅が相原さんと同じで ここから4~5分のところなの」 「まさか駅近のあの35階建てとか?」 ずばりそうなんだけど、相原さんの言い方を聞いていると『まさかね』 と思いながら訊いているのが分かる。 だって分譲で結構なお値段《価格》なのだ。 とてもその辺のサラリーマンやOLが買えるような物件じゃない。 本当のことを言うか適当な話でお茶を濁すか……どうしよう。「お金持ちの親戚が持っていて借りてるんです」「いいな、お金もちの親戚がいるなんて」 「まぁ……そうですね」
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」