Masuk家への帰り道、絵理奈は決して翔を抱きしめる腕を緩めようとしなかった。彼女は声を出さずに涙を流していた。息子との再会を喜ぶ一方で、今の花子の心がどれほど打ち砕かれているかを痛いほど感じ取っていたのだ。翔は黙って母親の腕の中に寄りかかっていた。「翔くんはママに会いたかった?」絵理奈は翔の髪を撫でながら尋ねた。「うん、ママ。僕、ママに会いたかった」翔は答えた。絵理奈は甘い笑顔を見せ、翔の頭のてっぺんにキスをした。翔の視界の隅で、パパが自分を見つめ、微笑みながら小さな背中を撫でてくれているのが見えた。「パパには抱っこしてほしくないのか?」瑛司がからかった。「後でいいよ、僕はママにすごく会いたかったんだもん」翔は唇を尖らせて答えた。瑛司は思わず笑い声を漏らし、厚手のコートを脱いで翔と絵理奈に掛けた。「梨沙ママは、翔くんのお世話をちゃんとしてくれたのよね?」絵理奈が再び尋ねた。「うん。僕がいい子じゃなくて、家に帰りたいってワガママ言ったんだ。梨沙ママが昔みたいに僕に意地悪すると思ったから。でも違った……僕が欲しいものは何でも買ってくれたし、おもちゃも食べ物も、すごくいっぱい!それに毎晩、梨沙ママは抱っこして寝てくれた。でも僕はママとパパに会いたかったし、あそこにはいたくなかったんだ」翔は詳しく説明した。絵理奈は翔の体をきつく抱きしめ、彼の肩を軽く叩いた。「大丈夫よ。今はもう、翔くんはママとパパと一緒なんだから。ママも、パパも、おじいちゃんもおばあちゃんも、翔くんに会いたくてたまらなかったのよ。翔くんに何か悪いことが起きるんじゃないかって、すごく怖かったわ」絵理奈はむせび泣きながら言った。「僕は大丈夫だよ、ママ……」「ああ、翔が無事に帰ってきてくれて本当に良かった」瑛司が言葉を添えた。翔は嬉しそうに笑った。彼は再び絵理奈の胸に寄りかかり、静かに目を閉じた。花子と一緒にいた数日間、翔はよく眠れなかったのだ。今、絵理奈の温かい腕の中で、彼はすぐに眠りに落ちた。翔を温かく抱きしめ、再びあの子の寝顔を見ることができるのは、絵理奈にとってこの上ない幸せだった。翔を再び抱きしめることができて、彼女は本当に安堵していた。「あなた、梨沙の言葉は本心だと思う?」絵理奈は瑛司を見て
そこに瑛司と絵理奈がいること、そして翔がすでに絵理奈の腕の中にいるのを見て、花子は激しいショックを受けた。彼女は容赦のない怒りのこもった目で淳を睨みつけた。一方、瑛司は妻と子供を油断なく守っており、城田はいつの間にか姿を消し、今はもう一人の助手が瑛司の前に立っているだけだった。「やはり、翔を拉致したのはお前だったか」瑛司の冷たい声に、花子は彼を振り返り、憎悪の目を向けた。「そうよ!私が連れ去ったのよ、自分の子供が恋しくてたまらなかったからね、瑛司!」花子は叫んだ。女は再び淳の方を向いた。「それにしてもあんた……一体何の真似よ?!どうして私の子供をあいつらに返したのよ、淳!」花子は怒鳴りつけた。「そもそもお前が言い出した計画だろう?翔を拉致して、神崎瑛司から身代金をふんだくるっていうのは」主導権を握った淳は、せせら笑った。花子は激しく首を横に振った。「違う、違うわ……そんなんじゃない!」彼女は怒り狂い、淳の手からアタッシュケースを奪い取ると、瑛司の方へ力任せに投げつけた。「この馬鹿女が!」淳は罵声を浴びせた。「黙りなさい!」花子は怒鳴り返した。涙で顔を濡らした女は、ふらふらと瑛司に近づいた。先ほど投げ返したアタッシュケースには、瑛司が淳に渡した金が入っていた。花子の顔は深い悲しみに満ちていた。絵理奈は怒りのこもった目で彼女を睨みつけ、翔を腕の中でしっかりと守っていた。溢れ出る涙が花子の頬を伝い落ちた。彼女はすがるような目で瑛司を見上げた。「お金は返すわ、瑛司……だからお願い、翔を連れて行かないで……」花子はうなだれ、悲痛な声を上げた。「あの金を失う方が、息子を失うよりもずっとマシだということを、お前はよく分かっているはずだ!」瑛司は手を強く握り締め、歯を食いしばって言った。「瑛司、私が悪かったわ!後悔しているの……私は翔をとても愛している、翔が私のそばからいなくなるなんて絶対に耐えられない……」花子は膝を突き、瑛司の前にひざまずいて彼の手を掴んだ。「毎日毎日抱きしめても足りないくらいなの。私はあの子を傷つけていないし、叱ったりもしていない。私……私は本当に、残りの人生を翔と一緒に過ごしたいの、瑛司」その時、花子はついに泣き崩れた。しかし瑛司は依然として動揺を見せ
花子は翔と淳を残した場所に戻ってきた。翔が欲しがっていた温かいチョコミルクのカップを手にしていたが、息子の姿が見当たらず、彼女はひどく狼狽した。「翔……淳?どこに行ったの?」花子は左右を見回した。彼女は周囲を見渡したが、そこは人でごった返しており、淳や翔の姿はどこにもなかった。「私の子供はどこへ行ったの?!」花子は苛立たしげに顔をこすった。彼女は買ってきたばかりの温かいチョコミルクのカップを落とし、翔を探して走り回った。「翔……!どこにいるの?!」花子は必死に叫びながら探し回った。人々は、パニックに陥っている花子を奇異の目で見た。彼女の心は不安と恐怖でいっぱいで、子供に何かあったのではないかと心配でたまらなかった。突然、花子の足が止まった。彼女は淳のこと、そして彼が以前から主張していたことを思い出した。淳は当初の計画通り、翔を瑛司から金を引き出すための道具にすることに固執していたのだ。まさか淳が、翔を瑛司のところに連れて行ったの?そんなはずない……やめて!私の子供を返さないで!花子は突然すすり泣き、大声で泣き出した。淳……絶対に殺してやる!花子はその場から走り出し、遊園地の警備員に近づいた。「あの、すみません……」「はい、奥様?何かお困りですか?」中年の警備員は、困惑している花子を見て尋ねた。「紺色の厚手のジャケットを着た男が、小さな男の子を連れているのを見ませんでしたか?赤いセーターに茶色のジャケットを着て、赤いニット帽をかぶって、赤い手袋をして……私の子なんです……誰かが私の子を連れ去ったんです!」花子は震えながら泣き叫んだ。「ああ、その人ならついさっきここを走って通り過ぎていきましたよ、奥様。あちらのメインストリートをまっすぐ行って、二つ目の角を曲がりました。少し様子がおかしかったので、よく覚えています」警備員は言った。それを聞いた花子は愕然とした。「分かりました、ありがとうございます……」「どういたしまして」花子はすぐにその場を離れ、淳と翔を追いかけて走り出した。彼女は走りながら涙を流し、翔を失った深い悲しみに苛まれていた。翔、ママはまだあなたを抱きしめ足りないのよ……まだあなたと離れる心の準備なんてできていないのに、翔……花子は声を殺して泣い
絵理奈と瑛司がM市に到着してから、すでに数時間が経過していた。拉致実行犯は今朝、瑛司に要求額を記したメッセージを送ってきた後、再び姿をくらまし、追跡できなくなっていた。寒さが厳しく、拉致実行犯がいつ会うつもりなのかも不透明だったため、二人は一時的な滞在先を探すことにした。「奴からまた連絡はあったか?」瑛司はソファに座る城田に近づいて尋ねた。「まだありません、社長。ですが、奴は嘘をついてはいないようです。あの番号を追跡した結果、奴がM市にいることが確認できました」城田は瑛司を見上げて報告した。「あいつがまた連絡してくるまで、辛抱するしかないのかもしれないわね」絵理奈は自分自身を落ち着かせようと努めながら言った。瑛司は妻を見て薄く微笑んだ。「俺たちは必ず翔に会える、信じてくれ……」絵理奈は小さく頷いた。彼女はガラス張りの壁から外を眺めた。街は活気に満ち、華やいでいた。翔は賑やかな場所や美しい景色が大好きだ。それなのに、今のあの子はきっとひどく混乱し、怯えているのだろう。「私たちはもう同じ街にいるのよ、翔。早くあなたをもう一度抱きしめたいわ」絵理奈は小さく呟き、微笑んだ。「お願い、無事でいて……」絵理奈と瑛司は何時間も待たされた。夕方になっても、依然として何の知らせもなかった。しかし瑛司は軽率な行動には出ず、辛抱強く待ち続けた。絵理奈も宿のテラスに出ては、また中に戻って瑛司の隣に座った。待つ時間が、ひどく長く感じられた。やがて、ついに瑛司の携帯電話が再び鳴り響いた。ソファに寄りかかっていた瑛司は素早く身を起こした。「社長……」「奴からだ」瑛司は目を大きく見開いた。彼はすぐにその電話に応答した。「もしもし?」「やあ社長、金の準備はできているか?」電話の向こうの男が尋ねてきた。「今どこにいるのか、早く言え!」瑛司は顎を強張らせて怒鳴った。「いいだろう。金を持ってこい、そして忘れるな……警察は連れてくるなよ、さもないと後悔することになるぞ!」男はそう言い放つと高笑いした。瑛司が答える間もなく、電話は一方的に切られた。これには瑛司も低く悪態をついた。「すぐに出るぞ!部下全員に連絡しろ、城田!必ず計画を成功させろ!」瑛司は命じた。「はっ、社長」瑛司は、自分の手を強
朝目覚めて、隣に翔の姿がないのは花子にとって珍しいことだった。彼女は急いで一階へ駆け下りた。そこに広がっていたのは見慣れない光景で、翔が淳と一緒にリビングに座っていた。「翔」花子は挨拶しながら二人に歩み寄った。振り返った翔は、黙ってソファのクッションを抱え込み、淳に背中をもたせかけた。「僕、淳おじさんとここにいる!」翔は不機嫌そうに口を尖らせた。花子は疑わしげな表情で淳をじっと見つめた。「私の子供に変なこと吹き込んでないでしょうね、淳?」「俺が何を話したか、自分の子供に聞いてみろよ。お前がこんな時間まで起きないから、翔は退屈で死にそうだったんだぞ!」淳は花子の方には見向きもせず、テレビを見つめたまま答えた。花子はそれ以上言い返すことなく、翔に近づいて手を伸ばし、彼の頭のてっぺんを優しく撫でた。「さあ、シャワーを浴びましょう。その後でママが朝ごはんを作ってあげるわ」「外で朝ごはん食べたいな、いい?」翔がねだる。「もちろんいいわよ。翔が行きたいところへ、朝ごはんを買いに行きましょう」花子は甘い笑顔を向けて答え、翔はそれに従って花子と共に二階へ上がった。一方の淳は、二階から自分を鋭く睨みつける花子を黙って見上げた。その様子に淳は思わず笑いそうになり、あの女が何を考えているのか全く理解できなかった。花子の奴、本当にあのガキに情が湧いてきやがったな。今じゃ俺を敵みたいに見やがる。だが、瑛司からあのガキをさらってきたってのに、俺だけ損するつもりはねえ!あの金は俺がいただく!淳は狡猾な笑みを浮かべ、再びスマホを手に取った。彼は瑛司に要求額を記したメッセージを送り終えると、瑛司やその部下たちに自分の現在地を追跡されないよう、電源を切ることにした。淳は、ここはできる限り狡猾に立ち回らなければならないと自覚していた。花子を裏切り、瑛司から大金をせしめてたっぷり儲けてやるのだ!一方、二階に上がった花子は、翔が今日のように活発な姿を見せるのが珍しく、不思議に思っていた。この子はもう昨日までのように変なことを言ったり、癇癪を起こしたりもしなくなっていた。花子は疑念を抱いた。自分が寝ている間に、淳は翔に何を話したのだろうか?「朝ごはんに何が食べたい?」花子は翔の髪を梳かしながら尋ねた。「サンドイッチ。そ
今年のクリスマスの朝は例年とは全く異なり、瑛司と絵理奈にとってすべてが虚無感に包まれていた。特に絵理奈は行方不明の翔を思い、悲しみに暮れながらただじっと座っているだけで、家中の誰もが喜びの表情を一切見せなかった。「もう二週目に入る。どこへ行ったんだ?翔、私の孫……」窓の前に立って外を眺めながら呟く泰造の傍らで、ソファに座る瑛司は翔のお気に入りのコアラのぬいぐるみを持った絵理奈の肩を抱き寄せていた。絵理奈は翔のことで精神的に追い詰められ、毎日泣きながらぼんやりと過ごしていたが、琴音の世話だけは気丈にこなしていた。そんな彼女を気遣いつつ、瑛司は雅に尋ねられて疲労困憊した顔で答えた。「他県からは何の知らせもないの?」「ないんだ、母さん。クリスマスが終わったら、M市でもう一度捜索してみるつもりだ。田村花子のブティックの元従業員から、彼女がM市に住む人物と頻繁に連絡を取っていたと聞いた」「あの子がそこにいる可能性は高いわね、瑛司」瑛司が今日まで全力で翔を探し続けていることは分かっていた。それでも二人の会話を聞いて目眩を覚えた絵理奈は、ふらりと席から立ち上がった。虚ろな目で生気のない顔をした母の手を握り、琴音が訴えた。「ママ、どこへ行くの?琴音も行く」「ママは少し休みたいの」絵理奈が力なく答え、瑛司が彼女に近づこうとしたその時、テーブルの上のスマートフォンが鳴り響き、全員の注意を引いた。足を止めた絵理奈が見つめる中、スマートフォンを手に取った瑛司は、画面に見知らぬ番号が表示されているのを見て眉をひそめた。近づいてきた絵理奈がすがるようにその腕を掴む。「誰?」「待ってくれ、絵理」瑛司は急いで通話ボタンを押し、耳に当てた。「もしもし、誰だ?」「パパ……!パパ、僕だよ、翔だよ、パパ……会いたいよ、家に帰りたい!」「翔!」受話器から響いた小さな声に、二人は同時に目を見開いた。瑛司が叫ぶと、絵理奈はすがるように夫に身を寄せた。瑛司は咄嗟に彼女を抱きとめた。雅と泰造もすぐに近づき、電話の向こうの声をよりはっきりと聞こうとした。「ああ、あなた……」受話器から微かに漏れる息子の声に、瑛司と絵理奈は涙ぐみながらじっと耳を澄ませた。「ママ……僕、ママに会いたい。家に帰れないの。うっ……」「どこにいる
翌朝――「翔に新しい服を着せておけ。俺と梨沙であいつを連れ出す」今朝、翔の身支度を整えていた絵理の背中に、瑛司の低く威圧的な声が響いた。外泊して朝帰りしたかと思えば、一階には梨沙を待たせている。「……分かった。夕方には帰ってくるの?」絵理は夫に尋ねた。黒のジャケットに袖を通しながら、瑛司は答えた。「ああ。梨沙が一日中、翔と遊べるようにな」絵理は押し黙った。ここ最近、息が詰まるような日々が続いている。ただでさえ夫と過ごす時間は少ないというのに、これからは翔まで梨沙に取られ、孤独な時間が増えるのだろう。「ママ……翔、どこ行くの?なんで新しいお洋服なの?」その
「たとえ泣いてすがりつこうと、俺たちが離婚するなどあり得ないぞ、絵里!」結婚して三年、結城絵里(ゆうき えり)は夫から微塵の気遣いもされず、常に冷たくあしらわれてきた。若き敏腕CEOであり、一人息子を抱える神崎瑛司(かんざき えいじ)との結婚生活は、束縛と苦痛に満ちたものだった。特に、彼の元妻が姿を現し、義実家から「瑛司は元妻と復縁する」と告げられてからは、その苦しみはさらに深まった。夫が元妻と親密に過ごす様子を目の当たりにする日々は、絵里の心を容赦なくえぐっていく。病魔に蝕まれ弱っていく中で、絵里は自分がこの家で完全に居場所を失っていると悟った。不幸なことに、彼女はその頃、医師か
「奥様、本当にこれでよろしいのですね?」絵理は静かに、しかし迷いのない瞳で頷いた。「ええ。この決断を後悔することはないわ」屋敷の裏庭に面したテラス。絵理は、向かいに座る白髪の老紳士がテーブルに差し出した書類をじっと見つめていた。栗原健三(くりはら けんぞう)弁護士。絵理が二日前に連絡を取り、秘密裏に重要書類の作成を依頼した、彼女が唯一信頼できる人物だ。「……承知いたしました。奥様のこれからの人生が、穏やかなものであることを祈っております」絵理は微かに微笑みを浮かべた。「ありがとう、栗原先生。私も、そう願っているわ」「それでは、私はこれで失礼いたします」グレースーツに
日が経っているが、絵理の体調が回復することはなかった。悪夢から弾かれたように、彼女はハッと目を覚ました。薬の強い副作用のせいで、泥のような眠りに二時間も落ちてしまっていたのだ。——翔を幼稚園へ迎えに行くことすら忘れて。「嘘……今、何時!?」壁掛け時計を見上げた瞬間、絵理の血の気がサッと引いた。「どうしよう、私……っ!翔くん、きっと一人で泣いてる……!」絵理は弾かれたようにベッドから跳ね起きた。鉛のように重く、力の入らない身体に無理やり鞭を打つ。もつれる足で階段を駆け下りる。しかし、一階へ辿り着くよりも早く、玄関の重厚なドアが乱暴に開け放たれた。「ママぁ……っ、うわあああんっ