翌日、大智は髪をクシャッと後ろに撫で付け、ピシッと背広を羽織ると、弁護士バッジをキラリと光らせながら革靴をカツカツ鳴らして出掛けた。その背中はたくましく、5年前のやんちゃな大智とは別人のよう。明穂は胸の奥で何か温かいものが広がるのを感じた。
「行ってらっしゃい」
「おう、行ってくるわ!」
「なによ」
「いや、良いな、これ」
「何がよ」
「新婚夫婦みたいじゃん」
大智がニヤリ。
「しーっ!お母さんたちに聞かれたらどうすんの!」
「どうもしねぇよ」
「もうっ!」
明穂の頬がポッと赤くなる。微笑ましいひととき。まるで時間が少しだけ優しくなったみたいだった。
大智を笑顔で見送った明穂は、デジタルカメラを首から下げ、白杖《はくじょう》を手に持つと、玄関の扉をカチャリと閉めた。白杖で足元の点字ブロックをトントンと辿り、横断歩道を渡る。信号のピピピという音に合わせ、いつもの散歩道をゆっくり歩いた。自宅からほど近い児童公園に着くと、子どものキャッキャッという笑い声や滑り台を滑るズザーッという音が響いてきた。
(あ、ウグイス)
明穂はそっと耳を澄ませ、木々の間から聞こえる鳥のさえずりにカメラを向けた。カシャッとシャッターを切ると、ブランコのキーキーという揺れる音にもレンズを傾ける。風が頬を撫で、朝の清々しい空気が鼻をくすぐった。
(今日は鳩がいないのね)
いつもなら、樹の下の木製ベンチの周りで鳩がゴロゴロと喉を鳴らしてるのに、今朝はその気配がない。少し寂しい気がしたけど、明穂はベンチに腰を下ろし、風の音や遠くの子供たちの声を聞きながら、そっと目を閉じた。心に浮かぶのは、大智の力強い背中と、さっきの「新婚夫婦」って言葉。唇に小さな笑みが広がった。
明穂は鳩のいない静けさに不思議を感じ、デジタルカメラのシャッターをカシャカシャと切っていた。すると、背後からジャリッと砂利を踏む音が近づき、反射的に振り返った瞬間、誰かの手が肩にガツンとぶつかった。
カシャ
デジタルカメラのシャッターの切れる音。
一瞬、視界がぐ
明穂が病院のベッドで目を覚ました頃、吉高は紗央里の両膝裏をグイッと抱え上げ、汗と欲にまみれて激しく腰を動かしていた。薄暗い寝室は、閉め切ったカーテン越しに漏れる薄光と、むせ返るような熱気で満たされていた。喘ぎ声が響き合い、汗と吐息が絡み合う。「うっ、うっ」吉高は妻・明穂が寝ていたベッドで愛人を抱く背徳感に酔いしれていた。そのシーツには、明穂の匂いがまだほのかに残り、吉高の胸に罪悪感と快楽が同時に突き刺さる。紗央里は、明穂の不在を埋めるようにそのシーツの上で身をよじらせ、貪られる情事にゾクゾクする快感に溺れていた。彼女の爪が吉高の背中に食い込み、鋭い痛みが彼をさらに煽る。「ああ、あ!せんせ!先生!」紗央里の声は、甘く切なげに響き、吉高の理性を溶かした。「紗央里!」彼は彼女の名を呼び、まるで自分を縛る全てから逃れるように腰を打ちつけた。「もっと、もっと、ちょうだい!」最初は隣近所を気にして声を抑えていた二人だが、熱に浮かされるとタガが外れ、喘ぎ声は開け放った窓の外まで響き渡った。「ああ!すごい!」「うっ、紗央里、うっ!」「ああっ!」カーテンが揺れ、ベッドの軋む音が部屋にこだまする。古い木製のベッドフレームは、まるで二人の情熱に耐えかねるように悲鳴を上げた。窓の外では、夏の夜の虫の声がかすかに聞こえるが、それすらかき消すほどの激しい音。近隣住民は、若い女が吉高の家に出入りする姿を何度も目撃していた。紗央里の派手な赤いワンピースや、夜遅くに響く彼女の笑い声は、近所の主婦たちの噂の種だった。隣家の佐藤さんは、その淫靡な騒音に眉をひそめ、子供に聞こえないよう窓を閉める日々が続いていた。ある晩など、子供が「ママ、隣で誰か叫んでる」と無垢に尋ね、佐藤さんは顔を赤らめながら「テレビの音よ」と誤魔化した。だが、愛欲に溺れた吉高はそんな噂にも気づかず、平然と回覧板を隣人に渡し、世間話までしていた。「最近、暑いですね」と笑顔で話す彼の背後で、紗央里の香水の匂いが漂うこともあった。吉高の心は、明穂の病室と紗央里の柔肌の間で引き裂かれていたが、
翌日、大智は髪をクシャッと後ろに撫で付け、ピシッと背広を羽織ると、弁護士バッジをキラリと光らせながら革靴をカツカツ鳴らして出掛けた。その背中はたくましく、5年前のやんちゃな大智とは別人のよう。明穂は胸の奥で何か温かいものが広がるのを感じた。「行ってらっしゃい」「おう、行ってくるわ!」「なによ」「いや、良いな、これ」「何がよ」「新婚夫婦みたいじゃん」大智がニヤリ。「しーっ!お母さんたちに聞かれたらどうすんの!」「どうもしねぇよ」「もうっ!」明穂の頬がポッと赤くなる。微笑ましいひととき。まるで時間が少しだけ優しくなったみたいだった。大智を笑顔で見送った明穂は、デジタルカメラを首から下げ、白杖《はくじょう》を手に持つと、玄関の扉をカチャリと閉めた。白杖で足元の点字ブロックをトントンと辿り、横断歩道を渡る。信号のピピピという音に合わせ、いつもの散歩道をゆっくり歩いた。自宅からほど近い児童公園に着くと、子どものキャッキャッという笑い声や滑り台を滑るズザーッという音が響いてきた。(あ、ウグイス)明穂はそっと耳を澄ませ、木々の間から聞こえる鳥のさえずりにカメラを向けた。カシャッとシャッターを切ると、ブランコのキーキーという揺れる音にもレンズを傾ける。風が頬を撫で、朝の清々しい空気が鼻をくすぐった。(今日は鳩がいないのね)いつもなら、樹の下の木製ベンチの周りで鳩がゴロゴロと喉を鳴らしてるのに、今朝はその気配がない。少し寂しい気がしたけど、明穂はベンチに腰を下ろし、風の音や遠くの子供たちの声を聞きながら、そっと目を閉じた。心に浮かぶのは、大智の力強い背中と、さっきの「新婚夫婦」って言葉。唇に小さな笑みが広がった。明穂は鳩のいない静けさに不思議を感じ、デジタルカメラのシャッターをカシャカシャと切っていた。すると、背後からジャリッと砂利を踏む音が近づき、反射的に振り返った瞬間、誰かの手が肩にガツンとぶつかった。カシャデジタルカメラのシャッターの切れる音。一瞬、視界がぐ
(泣いたら負け)明穂は目尻をグッと拭うと、リビングのチェストから障害者手帳、保険証書、実印、銀行通帳をガサガサと鞄に詰め込んだ。部屋を見回すと、結婚式で微笑む二人のフォトフレームが目に飛び込む。胸がズキンと痛んだ。明穂は無言で立ち上がり、震える手でそれを掴むと、大きく振りかぶって床に叩きつけた。(・・・・・・!)バキッとガラスが割れる音が響き明穂の頬に血の筋がついた。大智が2階からドタドタと駆け下りてきた。ガラスの破片の中で無表情に佇む明穂を見て、目を見開く。「おいっ!おまえ何してんだよ!」「幸せになれると思ったの・・・・・・」「動くな!」「幸せだと思ってたのに・・・・・」「動くなって!」パリパリとガラスを踏んだ明穂の足裏から血が滲む。大智は慌てて靴を履き、明穂に駆け寄るとその華奢な身体をグイッと抱き上げた。「幸せだと思ってたの・・・・・」大智は明穂を抱えたままソファにドサッと腰を下ろした。明穂は大智の胸にしがみつき、抑えきれず嗚咽を漏らした。大智の指先は一瞬戸惑ったが、すぐに明穂の背中に回り、力強く抱き締めた。「これから俺が幸せにしてやるから」「・・・・・」「泣くな、あんな奴のために泣くな」「うん」「泣いたら負けだ、泣くな」静かな部屋に、明穂の慟哭が響いた。「・・・・よし、これで全部積み終えたな」「ありがとう」「冬物の服、いいのか?」「また買い直す」「お、俺が買ってやるよ」「え、悪いよ」「何だよ、そんときゃ俺ら夫婦だろ!」大智の声に力がこもる。目を腫らした明穂は、力無く微笑んだ。心が少し軽くなった気がした。「ところで、これどうすんだ? いきなり全部持ってったら、おまえのとーちゃんマジで寝込んじまうぞ」「大丈夫、夕方お母さんと買い物行くみたいだから」「じゃ、その間に部屋に運ぶか」「うん」そ
翌日、大智は昼飯に素麺をズルズルと思い切り啜《すす》ると、明穂の部屋でドカッと胡座をかいた。長い前髪が目にかかる黒いTシャツにジーンズ姿の大智は、昔付き合ってた頃のやんちゃな笑顔そのままで、明穂の胸が思わずドキッと高鳴った。懐かしい空気が部屋に漂う。「なに、ギャップ萌えだろ」大智がニヤリと笑う。「あー」明穂は目を逸らした。「萌えたな」「否定はしないわ」「あー、おまえのことギュッと抱き締めてぇ」明穂はサッと一歩後ずさった。心臓がバクバクしてるのに、平静を装うのが精一杯だ。「昨夜のあれ、なんなのよ」「親父たちのショックを和らげるためにブチかましたんだよ」「寝込んだらしいじゃない!」「吉高の事知ったら、マジで脳卒中起こすな」「縁起でもないこと言わないで!」大智は新しいSDカードをデジタルカメラにカチッと差し込み、長い前髪をクシャッと掻き上げた。ちょっと真剣な目つきに変わる。「明穂」「なに」「その女に見覚えはないのか」「分からない」「だよなぁ」明穂はハッと気づいた。大事なことを言い忘れてた。「あっ!」「なんだよ、変な声出すなよ!」「紗央里さんに会ったことある!」「はぁ?見覚えねぇって言ったじゃねぇか!」「紗央里さんかどうかは分からないけど、ウチに来た女の人がいたの!」「なんだよそれ」「荷物持ってきたのよ」「荷物ぅ?」「お腹が切られたぬいぐるみが入ってた」「バ、バカじゃねぇのか!そんな大事なこと早く言えよ!」大智の目が一気に鋭くなった。明穂の言葉に動揺しながら、寝込んでいる父親の部屋に突進し、車の鍵をガサッと奪い取った。「行くぞ!」と叫び、明穂を後部座席に押し込むように乗せた。車が急発進する瞬間、明穂は窓の外を見つめながら、胸騒ぎが止まらないのを感じた。「大智、免許証持ってたんだ?」
大智は不倫の証拠となるSDカードをスーツの胸ポケットにしまい、「明日、新しいカードを持って来るから待ってろよ!」と軽快に言い残し、階段を下りて行った。向日葵の弁護士バッジが、階段の明かりにきらりと光った。「ご馳走さんでした!」「また来てね」 母親の声が温かい。「明日も来るわ」「あ、そう。お素麺で良い?」
「はぁ〜、食った食った! おばさんの飯は美味い!」大智の声が実家のリビングに響き、母親が笑顔で応じた。「そんな褒めてもなにも出ないわよ」「て、メロン持ってんじゃん」