明穂の家にタクシーで乗り付けた大智は、隣家のインターフォンを押した。
「ごめん下さい」と低く呼びかける。
「はーい」と、甲高い声が返ってくる。「弁護士の仙石です」と名乗ると、「はいはい、ちょっと待って!」と慌てた口調で年配女性が玄関に現れた。手に持っていたのは、明穂のデジタルカメラだ。
「もう、使い方難しくてさ」
女性が笑いながら言う。
「ありがとうございます!」
大智は深く頭を下げ、カメラを受け取った。数日前、大智は近隣を回り、吉高の家に若い女が出入りするのを確認していた。新興住宅地ゆえ、昼間は若い世代が留守で手がかりが掴めず、ゴミステーションで頭を抱えていると、隣に年配女性が住むと聞きつけた。
「すみません」
「どちら様?」警戒する女性に、大智は金の弁護士バッジをキラリと光らせ、佐倉法律事務所の名刺と菓子折りを渡した。
「どうぞ、お茶でも」
女性はニコニコ家に招き入れた。
「もう、あの家の声がうるさくて・・・・・」
「心中お察しします」大智は相槌を打ち、明穂のカメラを手渡して吉高の家の出入りを撮って欲しいと依頼した。すると、紗央里が鍵を開け、吉高が笑顔で迎える場面がバッチリSDカードに収まっていた。
「ここ回したら赤いランプ点いて、写真撮れなかったの」
女性が申し訳なさそうに言う。
「いや、最高です!」
「え、良かったの?」「はい!」大智は笑顔で応じた。画像に加え、紗央里と吉高がBMWでキスする動画まで入手することが出来た。切り札が揃う喜びにニヤリとしたが、実兄の愚かさに腹が立ち、情けなさがこみ上げた。
(父ちゃんと母ちゃんに何て言うんだ・・・・・)
大智は明穂の家の鍵をガチャリと開けた。玄関ポーチは陰鬱な空気に淀む。洗濯機脇のカゴには生乾きのバスタオルが山積みで、シンクにはインスタント麺がこびりついた鍋が放置されていた。リビングに足を踏み入れると、飲みかけのビールや缶チューハイが散乱し、小蝿がブンブン飛び回る。
(最悪だな)
明穂はMRIとCTスキャンの検査が続き疲弊していた。病室のベッドで白い天井をぼんやり見つめる。点滴のチューブが腕に食い込み、消毒液の匂いが鼻をつく。視界はぼやけ、目の奥に鈍い痛みが残る。(大智、どうしてるかな)寝返りを打とうとすると、踵を引き摺る聞き慣れた足音が、廊下を歩いて来た。心臓が締め付けられ、こめかみがドクドク脈打つ。病室の扉がガラリと開き、スリッパの音が近付く。カーテンがゆっくり捲られ、人の気配が明穂を覗き込んだ。「明穂、大丈夫か」吉高の声だ。2日間の学会で不在だったから、明穂の救急搬送も入院も知らなかったと言う。いつもの嘘くさい言い訳に、明穂の胸は悲しみでズキズキした。窓に顔を向け、吉高を見ず、唇を噛む。「明穂、実家はどうだった? お義父さんもお義母さんも元気だったか」(そんなこと思ってないくせに)「いつ帰ってくるんだ」(紗央里がいる家に帰れるわけない)「傷、痛むか?」明穂は肩肘を突き、半身を起こして吉高を睨む。薄ら笑いの知らない顔に、胸が冷えた。「何しに来たの」「見舞いだよ」「妻が救急車で運ばれたのに連絡ないの!」吉高の顔はしらけ、罪の意識が微塵も感じられなかった。「携帯の電源切ってた」「医者なのに!」「仕事とプライベートは別だ」「今までそんなことなかった!」吉高が手を伸ばし、肩に触れる。「やめて!」「どうしたんだ」「触らないで!」明穂は枕を握り、投げつけるが、それは吉高を掠めて床に落ちた。「何怒ってんだよ」「何って・・・・・!」大智の「不倫の話はするな、絶対だ」という言葉が頭をよぎり、罵詈雑言をグッと飲み込んだ。そこで母親が病室の扉を開け、白衣の吉高の姿に声を詰まらせた。「あ、あき・・ほ」「お母さん、駄目!」狼狽える母親に、明穂は声を大にする。「あ、そうね、そうだったわね」「お義母さん、お久しぶりです」
大智は胸が締め付けられる思いで、椅子に座った。パソコンを開き、証拠を一つずつチェックする。「BMWの動画、隣家の写真、おまえの寝室での録音、そしてこの家のメモ。吉高と紗央里の関係は、否定しようがない」明穂は黙って頷き、目を伏せる。「大智、ありがとう。でも、こんなことまでさせて、ごめんね」彼女は囁いた。大智は首を振る。「明穂が笑えるようになるなら、俺は何でもするよ」その言葉に、明穂の目が潤んだ。母親が咳払いし、話を進める。「次は紗央里の動き。彼女の妊娠は嘘の可能性が高い。病院のカルテを調べるのは難しいけど、彼女のSNSや行動パターンから、別の男とも関係を持ってる可能性がある」「そんな・・・・吉高さんの他にも?」「SNSに匂わせ画像がアップされていた」そこには、明らかに吉高とは異なる時計を着けた男性の腕が写っていた。大智は紗央里の動向を追うためナースステーションに向かった。吉高に瓜二つの大智は最も簡単に彼女のシフトを調べ、カフェテリアで待機した。紗央里は昼休みに現れ、別の医師と親しげに話していた。彼女の笑顔は計算高く、彼の肩に軽く触れる仕草は、吉高に対するものと同じだった。大智はスマホでその様子を撮影し、データに保存した。(こいつ、誰とでも同じ手口か)紗央里のSNSをチェックすると、「新しい未来、始まるかも」との投稿に、その医師のアカウントからの「いいね」が付いていた。(くそっ)大智は眉を寄せ、病院を後にした。その夜、紗央里のマンション近くで張り込みを開始。黒いキャップを被り、車内で待機。22時過ぎ、紗央里がタクシーから降りてきた。隣には昼休みに一緒にいた医師の横顔。エントランスで二人は親密に話し、紗央里がその腕に絡みつく。大智はカメラを構え、シャッターを切った。(汚ねえ女だな)紗央里の裏の顔が、また一つ明らかになった。翌日、明穂に報告すると、彼女は冷静に答えた。「そう、なの」「紗央里の妊娠は嘘。産婦人科の受診歴なし。その医者とも関係を持ってる。これは、吉高を嵌めた可能性が高い」
明穂の家にタクシーで乗り付けた大智は、隣家のインターフォンを押した。「ごめん下さい」と低く呼びかける。「はーい」と、甲高い声が返ってくる。「弁護士の仙石です」と名乗ると、「はいはい、ちょっと待って!」と慌てた口調で年配女性が玄関に現れた。手に持っていたのは、明穂のデジタルカメラだ。「もう、使い方難しくてさ」女性が笑いながら言う。「ありがとうございます!」大智は深く頭を下げ、カメラを受け取った。数日前、大智は近隣を回り、吉高の家に若い女が出入りするのを確認していた。新興住宅地ゆえ、昼間は若い世代が留守で手がかりが掴めず、ゴミステーションで頭を抱えていると、隣に年配女性が住むと聞きつけた。「すみません」「どちら様?」警戒する女性に、大智は金の弁護士バッジをキラリと光らせ、佐倉法律事務所の名刺と菓子折りを渡した。「どうぞ、お茶でも」女性はニコニコ家に招き入れた。「もう、あの家の声がうるさくて・・・・・」「心中お察しします」大智は相槌を打ち、明穂のカメラを手渡して吉高の家の出入りを撮って欲しいと依頼した。すると、紗央里が鍵を開け、吉高が笑顔で迎える場面がバッチリSDカードに収まっていた。「ここ回したら赤いランプ点いて、写真撮れなかったの」女性が申し訳なさそうに言う。「いや、最高です!」「え、良かったの?」「はい!」大智は笑顔で応じた。画像に加え、紗央里と吉高がBMWでキスする動画まで入手することが出来た。切り札が揃う喜びにニヤリとしたが、実兄の愚かさに腹が立ち、情けなさがこみ上げた。(父ちゃんと母ちゃんに何て言うんだ・・・・・)大智は明穂の家の鍵をガチャリと開けた。玄関ポーチは陰鬱な空気に淀む。洗濯機脇のカゴには生乾きのバスタオルが山積みで、シンクにはインスタント麺がこびりついた鍋が放置されていた。リビングに足を踏み入れると、飲みかけのビールや缶チューハイが散乱し、小蝿がブンブン飛び回る。(最悪だな)
明穂が病院のベッドで目を覚ました頃、吉高は紗央里の両膝裏をグイッと抱え上げ、汗と欲にまみれて激しく腰を動かしていた。薄暗い寝室は、閉め切ったカーテン越しに漏れる薄光と、むせ返るような熱気で満たされていた。喘ぎ声が響き合い、汗と吐息が絡み合う。「うっ、うっ」吉高は妻・明穂が寝ていたベッドで愛人を抱く背徳感に酔いしれていた。そのシーツには、明穂の匂いがまだほのかに残り、吉高の胸に罪悪感と快楽が同時に突き刺さる。紗央里は、明穂の不在を埋めるようにそのシーツの上で身をよじらせ、貪られる情事にゾクゾクする快感に溺れていた。彼女の爪が吉高の背中に食い込み、鋭い痛みが彼をさらに煽る。「ああ、あ!せんせ!先生!」紗央里の声は、甘く切なげに響き、吉高の理性を溶かした。「紗央里!」彼は彼女の名を呼び、まるで自分を縛る全てから逃れるように腰を打ちつけた。「もっと、もっと、ちょうだい!」最初は隣近所を気にして声を抑えていた二人だが、熱に浮かされるとタガが外れ、喘ぎ声は開け放った窓の外まで響き渡った。「ああ!すごい!」「うっ、紗央里、うっ!」「ああっ!」カーテンが揺れ、ベッドの軋む音が部屋にこだまする。古い木製のベッドフレームは、まるで二人の情熱に耐えかねるように悲鳴を上げた。窓の外では、夏の夜の虫の声がかすかに聞こえるが、それすらかき消すほどの激しい音。近隣住民は、若い女が吉高の家に出入りする姿を何度も目撃していた。紗央里の派手な赤いワンピースや、夜遅くに響く彼女の笑い声は、近所の主婦たちの噂の種だった。隣家の佐藤さんは、その淫靡な騒音に眉をひそめ、子供に聞こえないよう窓を閉める日々が続いていた。ある晩など、子供が「ママ、隣で誰か叫んでる」と無垢に尋ね、佐藤さんは顔を赤らめながら「テレビの音よ」と誤魔化した。だが、愛欲に溺れた吉高はそんな噂にも気づかず、平然と回覧板を隣人に渡し、世間話までしていた。「最近、暑いですね」と笑顔で話す彼の背後で、紗央里の香水の匂いが漂うこともあった。吉高の心は、明穂の病室と紗央里の柔肌の間で引き裂かれていたが、
翌日、大智は髪をクシャッと後ろに撫で付け、ピシッと背広を羽織ると、弁護士バッジをキラリと光らせながら革靴をカツカツ鳴らして出掛けた。その背中はたくましく、5年前のやんちゃな大智とは別人のよう。明穂は胸の奥で何か温かいものが広がるのを感じた。「行ってらっしゃい」「おう、行ってくるわ!」「なによ」「いや、良いな、これ」「何がよ」「新婚夫婦みたいじゃん」大智がニヤリ。「しーっ!お母さんたちに聞かれたらどうすんの!」「どうもしねぇよ」「もうっ!」明穂の頬がポッと赤くなる。微笑ましいひととき。まるで時間が少しだけ優しくなったみたいだった。大智を笑顔で見送った明穂は、デジタルカメラを首から下げ、白杖《はくじょう》を手に持つと、玄関の扉をカチャリと閉めた。白杖で足元の点字ブロックをトントンと辿り、横断歩道を渡る。信号のピピピという音に合わせ、いつもの散歩道をゆっくり歩いた。自宅からほど近い児童公園に着くと、子どものキャッキャッという笑い声や滑り台を滑るズザーッという音が響いてきた。(あ、ウグイス)明穂はそっと耳を澄ませ、木々の間から聞こえる鳥のさえずりにカメラを向けた。カシャッとシャッターを切ると、ブランコのキーキーという揺れる音にもレンズを傾ける。風が頬を撫で、朝の清々しい空気が鼻をくすぐった。(今日は鳩がいないのね)いつもなら、樹の下の木製ベンチの周りで鳩がゴロゴロと喉を鳴らしてるのに、今朝はその気配がない。少し寂しい気がしたけど、明穂はベンチに腰を下ろし、風の音や遠くの子供たちの声を聞きながら、そっと目を閉じた。心に浮かぶのは、大智の力強い背中と、さっきの「新婚夫婦」って言葉。唇に小さな笑みが広がった。明穂は鳩のいない静けさに不思議を感じ、デジタルカメラのシャッターをカシャカシャと切っていた。すると、背後からジャリッと砂利を踏む音が近づき、反射的に振り返った瞬間、誰かの手が肩にガツンとぶつかった。カシャデジタルカメラのシャッターの切れる音。一瞬、視界がぐ
(泣いたら負け)明穂は目尻をグッと拭うと、リビングのチェストから障害者手帳、保険証書、実印、銀行通帳をガサガサと鞄に詰め込んだ。部屋を見回すと、結婚式で微笑む二人のフォトフレームが目に飛び込む。胸がズキンと痛んだ。明穂は無言で立ち上がり、震える手でそれを掴むと、大きく振りかぶって床に叩きつけた。(・・・・・・!)バキッとガラスが割れる音が響き明穂の頬に血の筋がついた。大智が2階からドタドタと駆け下りてきた。ガラスの破片の中で無表情に佇む明穂を見て、目を見開く。「おいっ!おまえ何してんだよ!」「幸せになれると思ったの・・・・・・」「動くな!」「幸せだと思ってたのに・・・・・」「動くなって!」パリパリとガラスを踏んだ明穂の足裏から血が滲む。大智は慌てて靴を履き、明穂に駆け寄るとその華奢な身体をグイッと抱き上げた。「幸せだと思ってたの・・・・・」大智は明穂を抱えたままソファにドサッと腰を下ろした。明穂は大智の胸にしがみつき、抑えきれず嗚咽を漏らした。大智の指先は一瞬戸惑ったが、すぐに明穂の背中に回り、力強く抱き締めた。「これから俺が幸せにしてやるから」「・・・・・」「泣くな、あんな奴のために泣くな」「うん」「泣いたら負けだ、泣くな」静かな部屋に、明穂の慟哭が響いた。「・・・・よし、これで全部積み終えたな」「ありがとう」「冬物の服、いいのか?」「また買い直す」「お、俺が買ってやるよ」「え、悪いよ」「何だよ、そんときゃ俺ら夫婦だろ!」大智の声に力がこもる。目を腫らした明穂は、力無く微笑んだ。心が少し軽くなった気がした。「ところで、これどうすんだ? いきなり全部持ってったら、おまえのとーちゃんマジで寝込んじまうぞ」「大丈夫、夕方お母さんと買い物行くみたいだから」「じゃ、その間に部屋に運ぶか」「うん」そ