LOGIN結婚──。 苓さんの口から、その言葉が出た瞬間、私は驚いてしまったけど、じわじわと嬉しさが胸にこみあがってきた。 嬉しい。 素直に、そう思った。 だけど──。 「苓さんの気持ちは、凄く嬉しいです。だけど……だけど、婚約破棄をした私で、本当にいいんですか……?」 もう一度、人を愛して。 もし、万が一再び駄目になったら──。 私はきっと、もう二度と立ち上がれない。 「私は、婚約者の御影さんを……長年想っていた女です。それなのに、今、苓さんの言葉を聞いて嬉しい、と思ったんです。……できるなら、苓さんと一緒にいたい。けど、婚約を破棄してまだ間もないのに、苓さんに惹かれて……。軽薄な人だ、って思いませんか……幻滅したり、しませんか……」 「茉莉花さん……」 「苓さんに、嫌われたら……。そう考えたら、どうしても、不安でっ」 「茉莉花さん。もしかしたら、その事を悩んでいたんですか?」 無意識の内に俯いてしまっていた私。 私の言葉を聞いた苓さんが、そっと私の頬を両手で包み、顔をそっと上げた。 私の目の前にいる苓さんは、とても優しい目をしていて。 「茉莉花さんを嫌う、なんて有り得ません。それに、茉莉花さんが御影さんと婚約をしていた事だって……、茉莉花さんが彼を好きだった事も含めて、俺は茉莉花さんが好きなんです。過去、誰を好きであっても関係ない。今、俺に惹かれてくれているだけで、俺は嬉しいです」 嘘偽りない、と分かる苓さんの言葉。 彼は、悪戯っぽく笑みを浮かべると、言葉を続けた。 「過去、茉莉花さんに想われていた御影さんに、嫉妬しないと言ったら嘘になりますけど……茉莉花さんの今の気持ちが、俺に向いてくれてるだけで、俺は幸せです」 「苓、さん」 「ね?茉莉花さんは、もう御影さんに気持ちはないでしょう?」 「それはっ!勿論……!御影さんを好きだった気持ちはもうありません!」 「なら、十分です」 本当に嬉しそうに笑う苓さんに、ようやく私も安心を得る。 過去、御影さんを想っていた私は、もうどこにもいない。 今、私が好きなのは、間違いなく苓さんだ。 私は、頬を包む苓さんの手のひらに自分の手を重ねると、しっかり目を合わせて答えた。 「私も、苓さんが好きです。よろしくお願いします」
「こ、高校生の時ですか……!?」 苓さんの言葉に、私は驚いて声を上げてしまう。 そんな前に苓さんと会っていたの、と思い出そうとしたけれど、どうしても思い出せなくて。 私の顔を見て、何を考えているのか分かったのだろう。 苓さんが苦笑いを浮かべながら話してくれた。 「茉莉花さんは、多分俺の事を認識していないと思います。当時、俺は高校三年で、茉莉花さんは大学一年でした。現役大学生として、茉莉花さんが俺の高校にやってきたんです。……当時、大学で茉莉花さんが専攻していた経営学の授業をしに」 「──っ!?」 「思い出しました?」 首を傾げ、苓さんがひょいと私の顔を覗き込んでくる。 確かに──。 今から6年前。 当時大学一年だった私は、大学での授業を高校三年の子達に教えに行った事がある。 大学では、どんな風に授業が行われるのか。 どんな内容を教えているのか。 受験生である、高校三年の子達にそれを体験してもらうために、いくつかの高校にお邪魔した事があった。 「俺の高校にも、茉莉花さんが来てくれたんです。……1歳しか年齢が変わらない筈なのに、茉莉花さんはとても大人で。凛としてて…。でも、俺たちの質問に答えてくれる時の笑顔が可愛くて…」 すらすら、と苓さんから語られる当時の私への思い。 直球な気持ちに、私の顔に熱が集まる。 「とても大人びて見えて…。当時、俺は家の仕事に携わって行くかどうか、悩んでいた時期だったんです。兄が家業を継ぐのはもう決まっていたので、俺はこれから先どうすれば…と。次男の兄は、長男の補佐をするから、俺は小鳥遊の会社には必要ないんじゃないか、って思う事もあって」 「苓さん……」 「でも、茉莉花さんの話を聞いて、自分の好きな事って
「ま、茉莉花さん……?」 「その……。婚約者がいた、事は事実で……。でも、過去の事でもあって……っ!」 どう、説明すればいいのだろう。 どうしたら苓さんに気持ちが伝わる? どうしたら、苓さんに幻滅されないで、私が彼に惹かれている、と分かってもらえる? 頭の中がぐちゃぐちゃで。 でも、私は掴んだ苓さんの手をぎゅっと縋るように握りしめた。 「今はもう、御影さんの事なんて何とも思ってないんです……っ、そのっ、私たちの出会いは、あんな感じでしたけどっ、私は苓さんの優しさに救われていてっ!」 「ま、待って……待って茉莉花さ……」 「だからっ、だから私は……っ」 半ば、パニックになりながら必死に言葉を紡ぐ。 そうしていると、苓さんがそっとその場にしゃがみこみ、私と視線を合わせた。 「待って、茉莉花さん。……その、茉莉花さんの言葉は、俺に都合が良すぎる……。勘違い、しそうです……」 苓さんは、私に握られていない方の手で自分の顔を覆っている。 苓さんの指の隙間から覗く頬と、耳が真っ赤に染まっているのが見えて。 苓さんの言葉に、私は一旦言葉を止めた。 私たちの間には少しの間、無言の時間が流れるけど、その時間は苦じゃなくて。 私も、真っ赤になっているであろう顔をそのままに、苓さんの目を真っ直ぐ見つめ返す。 「勘違い、じゃないです……」 「──え」 「私は、苓さんの気持ちを……大切にしたいです。苓さんの私を好きだ、って言ってくれた言葉を、受け取ってもいいですか……?」 「──っ!?」 私の言葉に、苓さんの目が見開かれる。 そして、見る見るうちに歓喜の色が濃く滲み、苓さんの腕が私に向かって伸びてきた。 ぐっ、と強く引き寄せられ、私はそのまま苓さんに抱き込まれる。 「ひゃあっ!」 「っ、嘘みたいだ……っ、本当に?茉莉花さん、本当に俺の気持ちを受け取ってくれるんですか!?」 ぎゅうぎゅう、と抱きしめられたまま、私の耳元で苓さんの嬉しそうな声が響く。 苓さんに抱きしめられ、私は彼の胸元にそっと額を寄せる。 「はい……。ずっと、拒んでいて、ごめんなさい……待たせてしまって、ごめんなさい」 「謝らないでください、茉莉花さん。俺は、茉莉花さんが気持ちに応えてくれただけで幸せです」
◇ 私は、苓さんの運転する車で家まで送ってもらった。 車内では、私を気遣ってくれて、苓さんは時折信号待ちで停車すると私を心配そうに見るだけで、普段のように話しかける事はしなかった。 家の駐車場に車を止めると、苓さんが急いで運転席から降りて助手席側のドアを開けてくれた。 「茉莉花さん。俺に掴まってください。もしご迷惑じゃなければ、部屋まで送らせてください」 「迷惑なんかじゃないです、ありがとうございます苓さん」 苓さんは、私を部屋まで送ってくれるつもりだけど、私は部屋ではなくて、お母様が元気な頃に良く行っていた別邸に行ってくれるように苓さんに頼んだ。 「別邸に……?すぐに休まなくて大丈夫ですか、茉莉花さん」 「はい。大丈夫です。……苓さんに、お話しておきたい事があって」 「……分かりました」 話したい事がある。 私がそう言うと、苓さんの顔が一瞬強ばったけど、すぐにいつも通りの微笑みを浮かべて頷いてくれた。 苓さんの表情が一瞬だけ曇った事が気になるけど、私は苓さんに伝えておきたかった。 病院のテラスで話していたけど、私が色々考え込んでしまったせいでその話は途中で終わってしまった。 御影さんと、婚約をしていた事は苓さんに話した。 その事実を知って、苓さんがどう思っているのか。それを聞くのはどうしてか、怖い。 だけど、苓さんは出会ってからずっと、優しい。 それに、ずっと私に対して気持ちを伝えてくれている。 ずっと、苓さんに救われていた。 御影さんと婚約破棄したのに、落ち込む暇がないくらい、苓さんは私を好きだと言ってくれた。 苓さんと夜を共にしてしまった事も、一夜の過ちで、最初は忘れて欲しかった。
涼子は、じいっと見つめる御影の視線に気づき、きょとりと目を瞬かせた。 そして、すぐに愛らしい笑みを浮かべて御影に話しかける。 「直寛、どうしたの?さっきから難しい顔をして…?」 「いや……何でもない。そうだ、涼子。少し仕事の電話をしてくるから少し椅子で待っててくれ。帰りに会計をしてくる」 「本当?忙しいのに、病院まで来てくれてありがとう、直寛。待ってるね」 「ああ。ごめんな」 御影は、可愛らしく微笑む涼子につられて薄っすらと笑みを浮かべ、涼子の頭を撫でてから足早にその場を後にした。 涼子は、去っていく御影の背を見送り、御影の姿が完全に姿を消すと、すっと笑顔が消えて無表情になる。 そして、院内の電波が繋がる場所にまで移動すると、電話をかけた。 数コールで電話が繋がり、涼子は口を開く。 「藤堂茉莉花が中央病院に来てたわ。理由を調べて。本当に本人が体調不良でやって来たのか、それとも他に別の理由があるか。すぐに報告するのよ」 御影と一緒にいる時のような愛らしい表情も、高い声でもなく、表情は冷たいまま。 声も低く、冷たい。 涼子は電話を終えると、スマホを乱雑にバッグの中に放り込んだ。 そして、チッと舌打ちをする。 「藤堂茉莉花……こんな所で遭遇するなんて。さっさと消え失せろよ、あんな目障りな女」 涼子は吐き捨てるようにそれだけを呟き、くるりと踵を返す。 御影が待っていろ、と言っていた椅子の方へ足を進めた。 涼子がそんな電話をしているとは露知らず、御影は病院の駐車場に足早に向かっていた。 (涼子へ、お大事にと言った理由を茉莉花に問いたださなければ。……涼子の怪我の事を知ってて、わざと言ったのか?それとも、何も知らずに言ったのか……) 純粋に涼子を気遣うような気持ちで言ったのであれば。 (だが、茉莉花が涼子を純粋な気持ちで気遣っていたとして、それがどうした……。茉莉花は、涼子に対して数々の嫌がらせをした……それも、幼い頃から執拗に。性根の腐った、どうしようもない女なんだ…それが今、ちょっと涼子を気遣ったとしても……) そこまで考えていた御影は、ふと足を止める。 「……俺は、馬鹿か。茉莉花の性悪さは変わらないだろ……何を聞こうとしてたんだ」 御影は馬鹿馬鹿しくなってしまい、駐車場から
ととと、と軽やかな駆ける足音が聞こえてきて、御影さんの腕に抱き着く涼子の姿が現れた。 「もう、直寛ったら。私が今日通院の日だからって、わざわざ心配して来てくれたの?傷も残らないし、心配しすぎよ──」 そこまで話していた涼子は、ふと顔を前に向けそこで初めて私と苓さんの存在に気付いたようだった。 はっと驚いたように目を見開き、それから酷く怯えたように御影さんの背に隠れる。 「と、藤堂さん……藤堂さんも、いらしていたんですね…」 「──ええ。涼子も、通院?先日はご挨拶もできず、ごめんなさい。私は帰るところだから……」 私が足を一歩踏み出した所で、涼子が「ひゃっ」と声を震わせ、更に御影さんに体を隠す。 まるで、私に怯えるようなその態度に、私は訝しげに眉を顰めた。 私を支えてくれて一緒に歩いている苓さんも、不可解そうに涼子を見やる。 呆気に取られていた御影さんは、はっとして私から隠すように、守るように涼子を自分の背に庇った。 「──?」 その行動が良く分からない。 私が彼女に危害を加える、とでも思っているのだろうか。 失礼な態度を取る御影さんに、それを問いただそうという気持ちも特にない。 私は一刻も早くこの場から離れたくて、私は御影さんと涼子に軽く会釈をしてそのまま通り過ぎる。 「涼子も、お大事に。ここで失礼します」 苓さんも私に倣い、軽く目礼だけをして2人の横を通り過ぎた。 私はもう背後の御影さんと涼子の事は気にせず、そのまま苓さんと一緒に病院を後にした。 ◇ 茉莉花と苓がテラスから去って行って、暫し。 御影はその場に呆然と立ち尽くしていた。 まさか、涼子の