ログイン「志木チーム長」 「すみません、本部長」 志木チーム長はぺこり、と頭を下げると矢田主任の腕を掴んで自分のチームにずるずると引っ張って行ってしまう。 その姿を見送っていると、背後から近付いて来る気配を感じた。 姿を見なくても、分かる。 苓さんだ。 何か、話したい事でもあるのだろうか。 だけど。 お酒も入っていて、いつものように感情を制御出来ないかもしれない。 彼の前で、みっともなく縋る姿を見せたくない──。 そう思っていたら、私の前方でお母様が眠そうに欠伸を噛み殺しているのが見えた。 「羽累?眠くなったのか?」 「ええ……ごめんなさい、まだ体力が追いついていなくて。他の方達はまだ楽しんでください。私は一足先に……」 「部屋まで送って行こう」 「あなたはお客様をもてなす大事な役割があるでしょう?使用人に送ってもらいますから大丈夫。じゃあ、また……」 軽く頭を下げて大食堂を出て行くお母様。 心配そうにお母様の背中を見つめているお父様に、私は近付いて行った。 これで、苓さんも私に話しかける事はしないだろう。 心の中でこっそりと「ごめんなさい」と苓さんに謝罪した後、私はお父様の背中に向かって声をかけた。 「お父様、そんなにお母様を見つめていたらお母様の背中に穴が空いちゃいますよ」 「──茉莉花」 じとっと恨めしそうな目をしたお父様が振り返る。 私は苦笑いを浮かべつつ、水が入ったグラスをお父様に手渡した。 「そろそろお水を入れてください。そうしないと……虎おじ様のようになってしまいますよ?」 「虎──琥虎は何をしているんだ……?」 「ふふっ、眠くなってしまったようです。ゲストルームに案内しますね?」 「ああ。そうだ、その後でいい。茉莉花、私の書斎に来てもらってもいいか?」 「──?分かりました」 私が返事をしたのを見届けたお父様は、他のメンバーの元に向かって声をかけ始めた。 そろそろ、この慰労会もお開きだろう。 各々、最初に案内されたゲストルームに移動し始めるのが見えた。 これできっと苓さんも自分の部屋に戻るだろう。 私は虎おじ様の所に行き、声をかけた。 「虎おじ様、虎おじ様。起きてください。お部屋に行きましょう?」 「ううう〜、茉莉花ちゃん……もう飲めないよ……」 「ふっ、ふふっ。もう飲まなくて大丈夫で
慰労会が始まって、暫く。 お父様は常にお母様の隣に居て、そこに時々虎おじ様が行って話をしたり。 苓さんも虎おじ様に連れられて話の輪に加わったり。 私のチームのメンバーも、恐る恐るといった様子でお父様に話しかけに行く。 そんな、慰労会メンバーが和気あいあいと話している中でも。 私と苓さんは2人だけで話す事はなかった。 何度か苓さんから視線を向けられているような気がしたけど、苓さんが私を見つめるなんて事は有り得ない。 私の事を思い出していない苓さんが、女性に興味を持つ事はないんだから。 だから、私はその気配を気の所為だと思い、苓さんを交えた人達と話をする程度。 だけど、私のチームのメンバー。 特に、矢田主任と志木チーム長は私と苓さんの違和感にしっかり気がついていた。 慰労会が始まってから大分時間が経ち、程よくお酒も入ってきた頃。 ほろ酔いの状態で、矢田主任が私に近付いてきた。 「藤堂本部長〜、飲んでいますか?」 「──あら、矢田主任。ふふ、飲んでいますよ。矢田主任は──既に結構飲んでいるようですね」 「ええ、こんなに美味しいワインを飲んだのは初めてです……!こんな素敵な慰労会に誘ってくださり、本当にありがとうございます!」 「いいえ、お礼を言うのはこちらです。矢田主任や志木チーム長を初め、戦略チームの皆さんには沢山助けていただいたから……」 「ううっ、そんな風に言っていただけて嬉しいです……これからも本部長と一緒に働きたいです〜!」 頬を赤く染めてほわほわと笑う矢田主任。 矢田主任に好かれているんだ、と思うと嬉しくて。 私も自然と笑みが零れた。 私が笑っていると、矢田主任がすっと目を細め、私に視線を向ける。 その目は、どこか据わっているように見えて。 「や、矢田主任……?」 「それなのに……どうして最近小鳥遊部長と本部長は一緒に居る事が少ないんですか……?何だか、お2人の様子がよそよそしいって言うか……」 「……これには、理由があるんですよ」 そうだ、そうだった。 矢田主任達は苓さんが記憶を失った事を知らないから。 仕事上、殆ど支障がないから苓さんの記憶喪失は伏せている。 ただ、私の事を忘れてしまっているだけで、苓さんの仕事に関する能力は何ら問題は無い。 だけど、矢田主任や志木チーム長は、チャリティー登山で
「茉莉花ちゃん!」 「虎おじさま!」 慰労会最後の参加者、虎おじさまが家にやって来て、私は虎おじさまを出迎えていた。 私の姿を見るなり虎おじ様はぱあっと表情を明るくして私の肩を叩いてくれる。 「元気にしていたかい、茉莉花ちゃん」 「はい、虎おじ様もお怪我は大丈夫ですか?」 以前、虎おじ様も危ない目に遭っている。 その事を聞くと、虎おじ様は豪快に笑って「大丈夫だよ」と答えてくれた。 「ほんのちょっと足を捻っただけだからね。あっという間に完治したよ」 「それは良かったです……。本当に……藤堂に関わったせいでごめんなさい」 「それを言ったら駄目だよ、茉莉花ちゃん。悪いのはそんな事を平気でする人達が悪いのであって、茉莉花ちゃんや馨熾先輩には何の責任もないんだから」 私の言葉に、虎おじ様は困ったように眉を下げて笑う。 怪我をしている虎おじ様に気を使われてしまって、私は自分が情けなく感じた。 「そう、ですよね……ごめんなさい虎おじ様。最近、弱気になってしまう事が多くて……」 「それは駄目だね、茉莉花ちゃん。今日は憂鬱な気持ちなんて吹き飛ばすように楽しもう!とっておきのお酒も持ってきたから、一緒に飲もうか」 「ふふっ、ありがとうございます虎おじ様」 虎おじ様は、敢えて明るく振舞って下さっているのかもしれない。 私と苓さんの事だって、耳に入っているだろう。 藤堂の家に纏わる一連の事件や事故だって知っているはず。 虎おじ様は忙しい身なのに、こうして慰労会に参加してくれているだけで本当に嬉しい事だ。 私は、今日この日だけは楽しく過ごそうと決めて虎おじ様に笑みを返した。 ◇ 藤堂家の大食堂。 そこに、今日の慰労会のメンバー10人が集まっていた。 大食堂は普段は使用されていないけど、昔は度々この大食堂を解放して仕事の取引先や懇意にしている家を招いて大宴会を行っていたらしい。 だけど、それも数代も前の事。 まだお祖母様も、お祖父様も健在の頃は何度か使用した事があるけどそれもお父様が子供の頃の遠い昔の記憶。 今は殆ど使われる事なく、ただひっそりと大食堂が家の中に存在していた。 だけど、今日は久しぶりにお客様を招くから、とお父様がこの大食堂を使用する事にした。 「今日はずっと料理をしっぱなしで疲れたんじゃないか?病み上がりなんだし、も
慰労会の件を経営戦略チームのメンバーに伝えると、皆笑顔で参加したいと頷いてくれた。 場所は藤堂の家で行う事を伝えると、矢田主任は興奮に目を輝かせ、楽しみだとはしゃぎ。 志木チーム長も言葉少なではあるが頷いてくれた。 そうして、あっという間に迎えた慰労会当日。 仕事を定時で終わらせ、私はチームの皆と一緒に自分の家に帰って来た。 今日の戦略チームの慰労会参加者は、私を含めて6人だ。 他のメンバーはご家庭の事情だったり、既に外せない用事が入っていたりでとても残念そうにしていた。 また、次の機会を作ると伝えると今日参加出来なかった人達も嬉しそうに笑ってくれて、私は自分のチームの雰囲気がとても良い事がとても嬉しかった。 「せっかく仕事が終わったのに、上司や社長の家で慰労会、なんてあまり寛げないかもしれないですが……今日は上司とか部下とか、あまり気にしないでくださいね」 私はチームの皆を案内しつつ、苦笑いを浮かべてそう告げる。 すると、矢田主任が笑顔で答えてくれる。 「お気遣い、ありがとうございます!社長がご一緒なのは少し緊張しますが……本部長と色々お話出来るのを楽しみにしていたんです!だからこのような場を設けて頂いて、嬉しいです!」 「ふふっ、私も矢田主任とお話出来るのが嬉しいです」 私たちが談笑しつつ家に入ると、使用人が出迎えてくれた。 「いらっしゃいませ。ゲストルームをご用意しております。ご案内させていただきますね」 頭を下げ、そう告げる使用人にチームの皆を任せて私は自分の部屋に向かう。 今日は人数が多いから、離れにあるゲストルームに案内するのだろう。 チームの皆が荷物を置いたりしている間に、私も着替えを済ませてしまおうと廊下を歩いていると、既に家に到着していたのだろう。 廊下の先から苓さんが歩いて来るのが見えた。 「藤堂さん」 「小鳥遊さん。急なお誘いにも関わらず、今日はご参加ありがとうございます」 「いえ……、声をかけていただけて嬉しいです。それに、お母様も退院されたのですね。おめでとうございます」 「ありがとうございます」 苓さんとの接触をなるべく避けるため、私は色々な仕事を詰め込んでいた。 だから、今日こうして苓さんに会うのはとても久しぶりだった。 当たり障りのない、仕事相手としての適切な距離──。 これが、
◇ それから、数日後。 会社に出勤する前にお父様から一緒に出社しないか、と誘われた。 「こうしてお父様と一緒に出社するのは久しぶりですね」 「ああ。たまにはいいだろう?」 車に乗りこみ、走り出して少し。 お互い、朝の経済ニュースのチェックが終わり、少しだけ空いた時間。 お父様に話しかけると、タブレットから目を上げたお父様が笑って答えてくれる。 そして、タブレットの電源を完全に切ったお父様は、私にある提案を口にした。 「昨夜、琥虎と話していたんだがな」 「虎おじ様と!?おじ様はお元気でしたか?」 「ああ。茉莉花の事も心配していた。仕事に没頭して、体調を崩したりはしていないか、と」 「まぁ。虎おじ様は私の事をまだまだ幼い子供だと思っていらっしゃるから」 私がくすくすと声を漏らして笑っていると、お父様も私の言葉に同意する。 「ああ。あいつの中では茉莉花はまだまだ子供なんだろうな」 「ふふ、もうしっかり成人して数年経っているのに……早く頼れる大人にならないとですね」 「琥虎も茉莉花を頼りにはしているさ。だが、可愛い姪っ子のような存在だからな……いつまででも心配なんだよ」 「ふふふっ、早く虎おじ様にお会いしたいです」 私がそう告げると、お父様が私をちらり、と見て口を開いた。 「──ああ。私も久しぶりに会いたくなってな。パーティーまではまだ1ヶ月以上あるだろう?だから、1度私の家で慰労会をしようかと思っている」 「慰労会!?いいですね、お会いしたいです!」 「そうかそうか。それなら良かった。今回、カフェオープンの記念パーティーに先駆けて、茉莉花のチームと……取引先──苓くんや琥虎も呼んで、慰労会をしようと思っているんだ。……日にちは、今月末に連休があるだろう?連休前の夜だったらゆっくりできるし、酒に酔ったらそのまま家に泊まればいいし、茉莉花のチームにも話しておいてもらえないか?」 お父様の言葉に、私は一瞬だけ言葉に詰まってしまった。 だけど、慰労会には私のチームの皆も呼ぶし、虎おじ様も招待する。 その流れで、苓さんを呼ばないのは確かにおかしい、し……。 私は無理やり笑みを作るとお父様に頷いて返事をした。 「とっても良いと思います。チームの皆に伝えておきますね」 「──ああ、そうしてもらえると助かる。もちろん、ご家庭がある
◇ 「茉莉花、これが今茉莉花に届いているお見合いの釣書だ」 「──ありがとうございます、お父様」 ある日の夜。 私はお父様の書斎に呼び出され、お見合い予定の方達の釣書を受け取った。 私が釣書を受け取るのを、何とも言えない表情で見つめていたお父様が迷うように口をもにょり、と動かしたのが見えた。 「茉莉花、本当に──本当にお見合いを進めてもいいのか?」 「ええ。もう決めましたから」 「……茉莉花が見合いをした後、万が一苓くんの記憶が戻ったら……?そうしたら、どうするつもりだ?もしかしたら今日──、明日にでも苓くんの記憶が戻るかもしれない。記憶を取り戻した苓くんが、茉莉花がお見合いをしたと知ったら……ショックを受けるかもしれない」 お父様はそこで1度言葉を切ると、真っ直ぐ私を見返して続けた。 「だから、もう少し待ってみてはどうだ……?せめて、琥虎が企画してくれているオープン記念のパーティーが無事に終わるまで……」 「……確かに、今はまだカフェオープン前で仕事がバタついていますね。パーティーが終わり、少し仕事が落ち着いてからお見合いを進めます」 「──!ああ、その方が良いだろう。今お見合いをしても、茉莉花は忙しいだろう?体調だって崩してしまう可能性だってある。全部落ち着いてからにした方がいい」 「分かりました、お父様。それでは、先方にはそのようにお伝えいただいてもよろしいですか?」 「ああ。そこは私が責任を持って伝えておこう」 お父様がほっと、安堵したように表情を緩める。 何だか、苓さんとの事でお父様にも心配をかけてしまって申し訳ない。 私はお父様に頭を下げてから書斎を後にした。 ◇ 茉莉花が去った書斎の中。 馨熾は慌てたようにスマホを取り出し、急いで文章を打ち込む。 「不味い……、このままだと本当に茉莉花が他の男と結婚してしまう……!」 馨熾のメールの送り先は、谷島だ。 谷島は苓と友人だけあって仲は良い。 記憶を失っている苓は、今回の事件についてもうろ覚えだった。 だが、担当刑事が谷島と聞いて、それ以降は密に連絡を取り合っているらしい。 馨熾が谷島に連絡を入れると、すぐに谷島から返信が返ってきた。 苓にそれとなく話をしてみると返信が来て、馨熾はほっとした。 「記憶を取り戻さなくてもいい……。どうにか苓くんが茉莉花
苓さんは、私に危機感を持って欲しかったのかもしれない。 こんな風に言われてしまうから、気をつけて、と言う意味で窘めるつもりだったのだろう。 だけど、私は本気にして、本当に苓さんにキスをして──。 恥ずかしい!穴があったら入ってしまいたいくらいだわ! 私が自分の顔を両手で覆って羞恥に悶えていると、隣に座っている苓さんが身動ぎした気配が伝わる。 そして、苓さんが近付いてきたような気がして、私は指の隙間からちらりと苓さんを盗み見た。 「もっかい、茉莉花さん──」 「へ…っ?あ、ちょ……っ」 とろり、と蕩けたような苓さんの瞳。 ちらりと浮かぶ
私と苓さんは、2人並んで病院入口へ向かい、歩いていた。 背後から御影さんが追いかけてくるような気配がなく、私は安心してほっと息を吐き出した。 その間、無言で歩き続けている苓さんに気付いた私は、慌てて苓さんに話しかけた。 「嫌な思いをさせてしまってごめんなさい、苓さん」 私の謝罪に、苓さんはびっくりしたように目を開いた。 「──えっ?何で茉莉花さんが謝るんですか?失礼な態度を取っていたのは、彼でしょう?」
◇ 車に乗り込んだ私と苓さん。 苓さんは、真剣な表情でアクセルを踏み込み、車を走らせた。 「近くの薬局で薬とガーゼを買いましょう。少しだけ我慢してくださいね」 「何だかすみません、苓さん。ありがとうございます」 「いえ。茉莉花さんの肌に傷が残ったら大変ですから」 真剣な表情で前を見据えていた苓さんが、薬局を見つけて駐車場に入る。 「すぐ買ってきますから、ちょっと待っててくださ
ビッ、とストッキングが破れる音が耳に届き、次いで消毒液が染みるピリピリとした痛みに、私は僅かに眉を寄せた。 「痛い、ですよね?すみません、もうちょっとだけ我慢して下さい」 「大丈夫です、ありがとうございます、苓さん」 苓さんは消毒を終えると、ガーゼを当て、手際よくテープで固定していく。 「できた。出先なので、応急処置しか出来てませんから帰宅したらしっかり手当を受けてくださいね」 「分かりました」 苓さんの言葉に頷く。 そして、私は自分の不注意でこんな事になってしまい、苓さんの手を煩わせてしまった事に自己嫌悪に陥った。 「すみません、せっかくカフェで楽しい時間