Mag-log inにっこり、と一般的には「可愛らしい」と称される笑みを浮かべた速水と軽く握手をした俺は、すぐにぱっと手を離した。 茉莉花さんにあんな失礼な態度を取った女性だ。 あまり、個人的に関わりたくない。 俺がそう考えている間に、御影は「こちらへどうぞ」と冷たい笑みを浮かべ、第二会議室に案内した。 第二会議室。 御影が扉を開け、姿を見せると既に入室して俺の到着を待っていたこの会社の社員が慌てたように立ち上がった。 「み、御影専務……!?それに、速水さんも!?」 「ど、どうして本日はこちらに!?」 速水と言う女性は、社内の社員にも周知されているのか。 確か、今回この見積もりの打ち合わせに参加しているのは、営業部の主任と課長だ。 その2人が速水の顔を知っている事に、ふと疑問を覚える。 確か、茉莉花さんは田村さんのパーティーの際に御影を婚約者だと紹介していた。 それからそんなに日が経っていないのに、御影は速水を婚約者だと俺に紹介し、更には社内の社員にも速水が御影の婚約者だと顔を知られている。 茉莉花さんと御影が婚約をしていた時期からそう空いていないと言うのに──。 まさか、御影は茉莉花さんと婚約をしていながら、この速水と言う女性と?と嫌悪感を覚える。 茉莉花さんと言う、素晴らしい女性と出会えた事すら奇跡とも言えるのに。 彼女と、婚約していたのに。 それなのにこの男はまさか、茉莉花さんを裏切って、この女と浮気していたのか──。 ふつふつ、と怒りが胸に込み上げる。 本当は公私混同なんてしたくないし、俺の仕事理念に反する。 けど、元々御影ホールディングスの要望には答えられない。 それを、今回俺はキッパリと断るために会社にやって来たんだ。 「た、小鳥遊さん、どうぞこちらへ。本日はお時間を頂戴し、まことに申し訳ございません。御足労いただきありがとうございます」 課長にソファを促される。 だが、俺は薄っすらと笑みを浮かべて緩く首を横に振った。 「いえ。本日は話し合いではなく、はっきりとお断りに参りました」 「──えっ」 「我が社の小鳥遊圭吾(たかなしけいご)から、残念ながら今回はご縁が無かった、と言う事で言付けを預かっております」 「そっ、そんなお待ちください……っ!お、御社のご希望
御影ホールディングス。 以前、兄の会社に協力依頼があった。 俺の兄──一番上の、長男が代表取締役の小鳥遊建設で、部長として働いている俺は、以前も御影ホールディングスに見積もりのために訪れていた。 御影ホールディングスの求める額ではうちの小鳥遊建設は、到底仕事を請け負う事が出来ない。 だから仕事を断ったのだが、再度見積もり提出を頼まれ、見積もりを修正して再び来社した。 御影ホールディングスは、大きな企業で、御影家は昔から続く古い家柄。 粗相があってはならない、と言う事から俺がこの仕事を受け持ったのだが──。 御影直寛が、茉莉花さんの元婚約者だったと知っていれば、絶対にこの依頼を断ったのに。 だが、御影直寛は専務だ。 役職に就いている彼が、わざわざ顔を出すはずはない。 ただ。茉莉花さんと御影の関係を考えると、何だか足が重くなる。 ビルに入り、受付に向かう。 「お世話になっております、小鳥遊建設の小鳥遊です。本日、お約束をさせて頂いておりまして──」 「小鳥遊様ですね、伺っております。あちらのエレベーターで8階の第二会議室にお進みください」 「ありがとうございます」 受付に向かって軽く頭を下げ、エレベーターに乗って8階に向かう。 秘書の影島は、今日必要な見積もり書類の入った封筒を俺に渡し、午後の予定を告げた。 「本日は、午後に商談が2件入っております」 「分かってる。御影ホールディングスの話はすぐに終わるだろう。あちらの要望は無茶な内容だ。断って、すぐに社に戻る」 「明日からの出張のご準備もありますもんね」 「ああ。今日は帰宅が遅くなりそうだ。後で家の使用人に連絡してもらっていいか?出張の準備をしておいて
翌朝。 私はお父様と一緒に出社する。 お父様の車に同乗し、お父様は運転手の後ろの後部座席に。私は助手席の真後ろの後部座席に座っていた。 久しぶりの出社で、ドキドキと緊張しながら、窓の外を眺める。 お父様は日課の経済新聞に視線を落としていて、その間は会話はない。 そわそわと窓の外を見ている私のバッグにしまってあるスマホの通知が鳴った。 そうだ。 会社に着く前にバイブにしておかないと。 バッグからスマホを取り出し、バイブに設定したあと、何の通知だろうか、とスマホを確認した私の目に映ったのは、苓さんの名前。 「──っ」 明日、出張に行くから忙しい筈なのに。 どうしたのだろう、と思って苓さんのアイコンをタップする。 すると、そこには苓さんからのメッセージが表示された。 《おはようございます、茉莉花さん。 初日で緊張していると思いますが、気負いすぎず、リラックスしてくださいね。お仕事頑張ってください》 そさて、そのメッセージの下にはユルカワな鳥…文鳥?だろうか。 何とも言えないゆるさのスタンプが送られていて、私はついつい頬が緩んでしまった。 苓さんの気持ちが嬉しくて、私は急いで返信を打つ。 《おはようございます苓さん。とても緊張していますが、頑張りますね!苓さんも明日からの出張、大変だとは思いますが気をつけて行って来てくださいね》 私の頬は緩みきっていて。 スマホをタップしている私を、隣に座っていたお父様が面白いものを見た、と言うように楽しげに見ていた事には全然気が付かなかった。 ◇ 「苓様?苓様。到着しましたよ。お顔の緩みを抑えてください」 「──え、あ?ああ、すまない。教えてくれてありがとう」 秘書の影島の声が聞こえ、俺はハッとしてスマホに落としていた視線を上げる。 茉莉花さんからこんなにすぐに返信が来るとは思わなくて、スマホに表示された茉莉花さんの名前を見て。そして、届いた文章を見た瞬間。俺の表情は緩みきっていたらしい。 影島が車から降り、俺が乗っている横のドアを開ける。 車から降りる前に、茉莉花さんからのメッセージにもう一度目を通し、そっと文字をなぞる。 そしてスマホの電源を落として、スーツのポケットにしまった。 影島が開けたドアから降り立ち、目の
◇ 可愛らしいリップ音が何度も何度も耳に届く。 私の頬を包む苓さんの手のひらが優しくて、温かくて。 ゆっくりと苓さんの指先で頬をなぞられ、ぞくぞくとした何とも言えない感覚が、背筋に走る。 「──んっ、苓さ……」 「もうちょっと、茉莉花さん……」 頬を包んでいた苓さんの手が、ゆっくり後頭部に回る。 ぐ、と優しく引き寄せられて苓さんの腕に強く抱かれた。 何度も何度も唇をついばまれ、唇がじんじんと熱を持ってきているような、そんな気がする。 もうそろそろ、本当にキスをやめなくちゃ。 すっかり忘れていたけど、ここは別邸の縁側。 本邸からはそうそう見えないけど、お手伝いさんに見られてしまう可能性だってある。 それに、お祖父様が本邸のお庭の散歩に来ていたら。 角度によっては、お祖父様に見られてしまうかもしれない。 家族にこんな場面を見られてしまうのは、とても恥ずかしい。 私は、名残惜しいけど苓さんの胸に手を置いて、少しだけ力を込めた。 「も、もうおしまいです……っ、唇が腫れちゃいます……っ」 「茉莉花さん……」 「そ、そんな顔をしても駄目です……。お祖父様に見られちゃったら……大変ですから」 悲しそうに眉を下げる苓さんから、視線を逸らし、きっぱりと言い放つ。 まるで捨てられた子犬のように悲しそうにしている苓さんを直視できず、私は本邸に戻るために腰を上げた。 「そろそろ、戻らないと。明日、会社に出社するんです。準備をしなくちゃいけないので……」 「そうだったんですね……。残念ですが、分かりました。また、ゆっくり話しましょう?」 「ええ。ぜひ」
結婚──。 苓さんの口から、その言葉が出た瞬間、私は驚いてしまったけど、じわじわと嬉しさが胸にこみあがってきた。 嬉しい。 素直に、そう思った。 だけど──。 「苓さんの気持ちは、凄く嬉しいです。だけど……だけど、婚約破棄をした私で、本当にいいんですか……?」 もう一度、人を愛して。 もし、万が一再び駄目になったら──。 私はきっと、もう二度と立ち上がれない。 「私は、婚約者の御影さんを……長年想っていた女です。それなのに、今、苓さんの言葉を聞いて嬉しい、と思ったんです。……できるなら、苓さんと一緒にいたい。けど、婚約を破棄してまだ間もないのに、苓さんに惹かれて……。軽薄な人だ、って思いませんか……幻滅したり、しませんか……」 「茉莉花さん……」 「苓さんに、嫌われたら……。そう考えたら、どうしても、不安でっ」 「茉莉花さん。もしかしたら、その事を悩んでいたんですか?」 無意識の内に俯いてしまっていた私。 私の言葉を聞いた苓さんが、そっと私の頬を両手で包み、顔をそっと上げた。 私の目の前にいる苓さんは、とても優しい目をしていて。 「茉莉花さんを嫌う、なんて有り得ません。それに、茉莉花さんが御影さんと婚約をしていた事だって……、茉莉花さんが彼を好きだった事も含めて、俺は茉莉花さんが好きなんです。過去、誰を好きであっても関係ない。今、俺に惹かれてくれているだけで、俺は嬉しいです」 嘘偽りない、と分かる苓さんの言葉。 彼は、悪戯っぽく笑みを浮かべると、言葉を続けた。 「過去、茉莉花さんに想われていた御影さんに、嫉妬しないと言ったら嘘になりますけど……茉莉花さんの今の気持ちが、俺に向いてくれてるだけで、俺は幸せです」 「苓、さん」 「ね?茉莉花さんは、もう御影さんに気持ちはないでしょう?」 「それはっ!勿論……!御影さんを好きだった気持ちはもうありません!」 「なら、十分です」 本当に嬉しそうに笑う苓さんに、ようやく私も安心を得る。 過去、御影さんを想っていた私は、もうどこにもいない。 今、私が好きなのは、間違いなく苓さんだ。 私は、頬を包む苓さんの手のひらに自分の手を重ねると、しっかり目を合わせて答えた。 「私も、苓さんが好きです。よろしくお願いします」
「こ、高校生の時ですか……!?」 苓さんの言葉に、私は驚いて声を上げてしまう。 そんな前に苓さんと会っていたの、と思い出そうとしたけれど、どうしても思い出せなくて。 私の顔を見て、何を考えているのか分かったのだろう。 苓さんが苦笑いを浮かべながら話してくれた。 「茉莉花さんは、多分俺の事を認識していないと思います。当時、俺は高校三年で、茉莉花さんは大学一年でした。現役大学生として、茉莉花さんが俺の高校にやってきたんです。……当時、大学で茉莉花さんが専攻していた経営学の授業をしに」 「──っ!?」 「思い出しました?」 首を傾げ、苓さんがひょいと私の顔を覗き込んでくる。 確かに──。 今から6年前。 当時大学一年だった私は、大学での授業を高校三年の子達に教えに行った事がある。 大学では、どんな風に授業が行われるのか。 どんな内容を教えているのか。 受験生である、高校三年の子達にそれを体験してもらうために、いくつかの高校にお邪魔した事があった。 「俺の高校にも、茉莉花さんが来てくれたんです。……1歳しか年齢が変わらない筈なのに、茉莉花さんはとても大人で。凛としてて…。でも、俺たちの質問に答えてくれる時の笑顔が可愛くて…」 すらすら、と苓さんから語られる当時の私への思い。 直球な気持ちに、私の顔に熱が集まる。 「とても大人びて見えて…。当時、俺は家の仕事に携わって行くかどうか、悩んでいた時期だったんです。兄が家業を継ぐのはもう決まっていたので、俺はこれから先どうすれば…と。次男の兄は、長男の補佐をするから、俺は小鳥遊の会社には必要ないんじゃないか、って思う事もあって」 「苓さん……」 「でも、茉莉花さんの話を聞いて、自分の好きな事って