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第4話

作者: 浅野しずく
開幕当日。

夕方から街には細かな雨が降り出した。けれど、サポーターたちの熱気が冷める気配はなかった。

直哉は午後三時には家を出た。

出かけるとき、彼は真新しいポルトガル代表のユニフォームを着て、髪もきっちり整えていた。

「先方に急かされてるから、先に行くな」

玄関で靴を履き替えながらそう言う声には、隠しきれない高揚がにじんでいた。

「夜は待たなくていい。早く寝ろよ」

私はソファに座ったまま、彼がドアを閉めるのを見ていた。

部屋は一瞬で、息が詰まるほど静まり返った。

私は立ち上がり、署名済みの離婚協議書をリビングテーブルの真ん中にきちんと置いた。

その隣には、彼が私にくれたネックレスを添えた。

私は左手の薬指から、ゆっくりとダイヤの指輪を外した。

四年間はめ続けていた指輪は、外したあとも指に深い跡を残していた。

私はクローゼットの前へ行き、一番下の引き出しを開けた。

そこには、洗いざらしで色褪せた、彼がみっともないと嫌がったアルゼンチン代表の青と白のユニフォームがしまってあった。

私は一生を誓ったはずのその指輪を、ユニフォームのポケットに押し込んだ。

それから、スーツケースのファスナーを閉めた。

夜八時、私は空港ロビーの搭乗待合スペースに座っていた。

周囲の大型スクリーンでは、まもなく始まる試合の特集映像が流れている。あたりにはユニフォーム姿の人々があふれ、どこもかしこも騒がしかった。

スマホが一度震えた。

美玲から動画が送られてきた。

動画の中のバーの個室は、薄暗く、妙になまめかしい照明に包まれていた。

美玲は丈を短く仕立て直したタイトなユニフォームを着て、人目もはばからず直哉の膝の上にまたがっていた。

直哉は笑いながらグラスを持ち上げ、彼女の口元へ酒を運んでいる。

周りでは仲間たちが囃し立てていた。

「直哉さん、キス!キス!」

直哉は拒まなかった。

彼は顔を寄せ、美玲の横顔にキスをした。

美玲はカメラに向かって、勝ち誇ったようにピースサインをしてみせた。

添えられた文には、こうあった。

【ごめんなさいね。これから彼の最高の瞬間を見届けるのは私だから。佐倉さん、早く寝てね】

私は画面の中で、思うがままに楽しそうに笑う男を見つめた。

けれど胸の中には、驚くほど何の波も立たなかった。

怒りもなければ、痛みもない。

ただ、すべてが収まるべきところに収まったような、軽さだけがあった。

私は美玲とのトーク画面を開き、一言だけ返した。

【お似合い】

それから電源ボタンを長押しして、スマホの電源を完全に切った。

何年も使っていたSIMカードを抜き取り、ゴミ箱に捨てた。

館内放送で、搭乗開始を告げるアナウンスが流れた。

私は立ち上がり、スーツケースを引いて、保安検査場へ向かった。

外では熱狂的な歓声が渦巻いている。

けれど私のいる場所には、ひとりで去っていく静けさだけがあった。

それでも構わない。

これから先、私の世界は、私だけのものになる。

夜十一時。

試合がキックオフした。

バーの盛り上がりは最高潮に達していた。

直哉は大型スクリーンを見つめながら、美玲の腰をしっかりと抱き寄せていた。

そのとき、彼のポケットの中でスマホが激しく震え始めた。

彼はいら立ったようにスマホを取り出し、着信表示に目をやった。

見知らぬ固定電話の番号だった。

切ろうとした。けれどなぜか、その瞬間、胸の奥を不安がよぎった。

彼は美玲をそっと離し、片耳を手でふさぎながら、個室の外へ出て電話に出た。

「どちら様ですか?」

背景では、ゴールが決まったかのような歓声が響いていた。

電話の向こうから聞こえてきたのは、冷静で事務的な男の声だった。

「久世様でいらっしゃいますか。私、佐倉知紗様より依頼を受けております弁護士です。

佐倉様はすでに離婚協議書にご署名されています。書類は現在、お二人のご自宅のリビングテーブルに置かれているとのことです。

佐倉様からのご伝言です。私はもう出ていきました。お時間のあるときに、速やかに離婚の手続きをお進めください、とのことです」

直哉の笑みが、一瞬で顔に張りついたまま固まった。

バーの中を揺らすほどの大歓声が、その瞬間、彼の世界から完全に消え失せた。

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