共有

あの人は、遠い時の中に
あの人は、遠い時の中に
作者: いわいよ

第1話

作者: いわいよ
結婚式まであと五日。林詩織(はやし しおり)はパソコンで「結婚式のサプライズゲーム」を調べていた。そのとき、画面の右下に、LINEの新着通知が表示される。

【私、もうすぐ結婚するんだ。後悔してる?】

【綾香、今の俺はお金も地位も手に入れた。もう一度俺を見てくれ。

君さえ望めば、新婦なんて今からでも替えられる】

……

どのメッセージも、全部彼女の婚約者――瀬川湊(せがわ みなと)が送ったものだ。

しかも、その送り相手は他でもない。

彼女の義姉――林綾香(はやし あやか)。

たぶん湊は、まだ自分のLINEがノートパソコンでログインしっぱなしになっているのを知らなかったのだろう。

詩織は、そのやり取りを呆然と見つめている。

自分より七つ年上で、いつも自信に満ちて落ち着いた湊が、別の女性の前では、まるで子どもみたいに執着と未練をぶつけている。

画面いっぱいに並ぶ長文のメッセージは、婚約者が義姉に抱いてきた、報われない愛と苦しみのすべてを語っていた。

詩織はそっとチャット画面を閉じ、今度は自分を傷つけるように、二人の過去の痕跡を探し始める。

クラウドの隠しアルバム。中には2376枚もの写真が入っていた――全部、湊と綾香だけの思い出。

そこには、彼女が知らない時間が詰まっていた。

たとえば、高校時代。グラウンドでふざける綾香を、湊がカメラ越しに優しく見つめているスナップ。

大学の雪の夜。二人で同じ黒いダウンコートにくるまり、綾香は湊のマフラーに顔をうずめて、目だけがくしゃっと笑っている。

……

最後の一枚は、去年の大晦日だった。綾香が花火の下で立っている後ろ姿。写真の片隅には、湊の手がそっと、けれど距離を隔てて、彼女の頭の上にかざされている。

写真のタイトルには、ただ一言。【さよなら】とだけ。

その日、詩織は湊と一緒に婚約パーティーを終えたばかりだった。

湊は「これで本当に過去に区切りをつける」と言っていたけれど、結局その写真も全部、秘密のアルバムにロックをかけて隠していた。まるで、誰にも見つからないように。でも肝心な痕跡は、片付けきれずに残したままだった。

付き合い始めの頃、詩織は何度も「一緒に写真を撮ろう」と頼んでいた。でも湊はいつも「写真は苦手だから」と断っていた。

だから彼女たちのちゃんとしたツーショットは、一枚もなかった。

結婚写真だけは絶対に、と何度もスタジオを回ったけれど、「最近プロジェクトが忙しいから」と、どんどん先送りにされていった。

詩織の胸は、痛みと苦さでいっぱいだった。それでも自分に言い聞かせてしまう。「湊は写真が苦手なだけ、私が嫌いなわけじゃない」――そうやって何度も心の中でごまかしてきた。

でも、いまアルバムを見てしまった。

雪の夜、綾香と並んで笑う湊。写真一枚のために鼻先を真っ赤にしながらも、嬉しそうに彼女に寄り添っている。

その瞬間、詩織ははっきり分かった――

湊は、写真が嫌いなんじゃない。私と一緒に写真を撮りたくなかっただけなんだ。忙しいんじゃない。私との未来なんて、最初から考えてもいなかった、と。

綾香とは七年間、燃えるように愛し合ってきた。

一番熱いあの時期には、「恋人の100のやりたいことリスト」も全部一緒に叶えた。満天の星空の下でキスしたり、彼女のために高所恐怖症を乗り越えてバンジージャンプに挑戦したり――本当に、誰よりも激しくて純粋な恋だったんだ。

詩織はそっとパソコンを閉じる。指先が目元に触れて、気付けばもう、涙が流れている。目頭をぬぐうと、知らないうちに涙が流れていた。

カーペットに座り込んで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。

そのとき、玄関の鍵が開く音がした。

詩織は慌てて涙を拭い、無理やり平静を装った。でも、すぐに湊の冷たい目と視線がぶつかる。

湊は酒と夜風の匂いを纏いながら、彼女をリビングのテーブルの上にそっと抱き上げる。指先で彼女の目尻に触れて、「どうして泣いてる?」と囁く。

問われた途端、胸の奥で我慢していたものが決壊する。

涙が止まらなくなる。ぽろぽろと湊の手の甲に落ちていく。

湊は詩織の腰をそっと抱きながら、黙って見つめてくる。

喉を鳴らして、かすかに笑い声を漏らした。その声は酒の匂いと一緒に彼女の耳元にかかる。

詩織は思わず顔を上げて、しゃがれた声で責める。「何が可笑しいの?」

彼を突き放そうとしたけど、手首を掴まれる。

熱い掌で彼女の手を自分の腰に回し、指先が手の甲を優しく撫でる。まるで「大丈夫」と言うみたいに。

「君のことを笑ったわけじゃない」湊は詩織の額をそっと額に寄せ、温かな息が唇にかかる。「ただ……可愛いなって思っただけ」

そう言って、湊はそっと詩織の唇に触れた。まるで探るように、ためらいがちに。

詩織は全身がこわばる。熱い唇がもうすぐ自分の口元に落ちそうになった瞬間、思わず顔をそらす。「やめて……」

それでも湊は動きを止めない。鼻先が彼女の頬をなぞる。呼吸はどんどん熱を帯びていく。「こうしたいんだ」

その時、詩織のスマホが鳴る。

スマホの画面に【母さん】と表示される。彼女は反射的に通話ボタンを押した。

「詩織、あと五日で結婚式でしょ。明日は二人で実家に帰ってきなさい。親戚や友達にもちゃんと挨拶して、ご飯でも食べましょう」

詩織は思わずスマホを強く握りしめる。断ろうとした瞬間、湊が彼女のスマホを横取りする。

「お義母さん、明日は詩織と一緒に伺います」

詩織はその横顔を見つめながら、この人が自分と一緒にいる理由が、全然わからなくなる。

私と一緒にいるのは、本当に私のことが好きだから?それとも、綾香さんがいるから?

今まで言われてきた優しい言葉も、愛されてきた記憶も、どれだけ本当だったんだろう。

思い切って訊ねようと唇を開きかけた瞬間、今度は湊のスマホが鳴る。

彼は電話に出て、険しい顔で何も言わず、そのまま玄関に向かって出て行く。

昔は、こんな態度を取る人じゃなかった。

あの頃の湊は、どんなに忙しくても、どんなに急な用事でも、必ず詩織のことを気遣ってから出かけていった。

それがいつからか、心ここにあらずな態度が増えた。彼女の前ではどこか上の空で、遠い人になっていく。

どうして湊が、自分の義姉とこんなにも関わりを持つようになったのか――詩織にはまったくわからなかった。この数年、湊が綾香に特別冷たかったわけじゃない。でも、妙に他人行儀だった。

その空気が変わったのは、たぶん半年前。兄が事故で突然亡くなった、あの日。

葬儀の最中、綾香が泣き崩れて倒れたとき、今までずっと距離を置いていた湊が、一番に駆け寄って彼女を抱き上げた。

そのときの湊の目には、今まで見たことのないほどの優しさと心配が滲んでいた。あとで「母親がひとりで子どもを育てるのは大変だと思っただけ」と説明してくれたけど、湊が母子家庭で育ったことも知っていたから、詩織は特に疑わなかった。

二人に過去があるのは気にしていなかった。

でも、その過去がまだ終わっていないのが、どうしても受け入れられなかった。

詩織はスマホを握りしめた。このまま誤魔化して結婚なんてできない。ちゃんと話さなきゃ、逃げずに向き合わなきゃ。

コール音が四回鳴ったあと、電話に出たのは幼い女の子。「もしもし?しおりちゃん、みなとくんならね、今ママの看病してるよ」画面には、ウサギのパジャマを着た詩織の姪の林杏奈(はやし あんな)が映っている。

カメラがぐらりと揺れ、次の瞬間、寝室の映像に切り替わった。湊がいた。

カーペットに片膝をつき、片手で綾香の首筋を優しく支え、もう片方の手で体温計を握っている。熱で真っ赤になった綾香の顔を、食い入るように見つめていた。

「まだ熱が下がらない……」聞いたことのないほどかすれた声だった。焦りが滲んでいる。「病院、行こう」

綾香は弱々しく手を振って拒み、そのまま意識を落とした。

湊は氷枕を替え、汗を拭き、濡れた髪を耳の後ろへそっとかき上げる。触れる指先は、まるで壊れ物を扱うみたいにやさしい。指が耳たぶをなぞった瞬間、綾香は無意識に湊の胸元へ寄り添った。

湊の意識は、完全に綾香だけに向いていた。迷いと葛藤と、それでも消えない気持ちが全部あらわになっている。

そして――彼はそっと身をかがめ、綾香の唇の端に触れるようなキスを落とした。

その瞬間、通話はぷつんと切れた。

詩織は、タップする指先が震えているのに気づいた。

四年も付き合ってきたのに、どうして気づかなかったのだろう。婚約者が本当に愛していたのは――自分ではなく、義姉だったなんて。

可笑しくなって、思わず笑みが漏れた。でも、その笑いはすぐに涙に変わった。

泣いて、泣いて、もう何も出なくなった頃、詩織は結婚式場の番号を押した。

「……結婚式、キャンセルでお願いします」
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • あの人は、遠い時の中に   第22話

    どうして――?詩織がまだ混乱から立ち直れずにいると、取り調べ室のドアが開いた。湊が弁護士と一緒に出てくる。目が合った瞬間、詩織は思わず眉をひそめる。「……湊、本当は何もしてないんでしょ。どうして嘘をついたの?」湊は自嘲するように笑う。「説明したって、君は信じたか?」昨日、詩織が一人で帰るのを心配した湊は、こっそり後をつけて駐車場まで来ていた。そこで彼女が男たちに襲われ、無理やりワゴン車に押し込まれるのを目撃した。すぐに警察へ通報し、そのまま車を追いかけて廃工場までたどり着いた。警察が到着するのを待っている余裕はなかった。詩織を守るため、湊は一人で倉庫に飛び込んだ。必死に犯人たちと格闘する中、腹をナイフで刺されてしまった。それでも警察が間一髪で駆けつけてくれたおかげで、なんとか最悪の事態は免れた。人目を避けるため、病院ではなく自宅の部屋で一晩中見守った。一切手は触れず、清潔なシャツを着せて眠らせた――ただ、それだけだった。けれど、その守るつもりだった行動が、詩織の目には「加担者」、「加害者」としか映らなかった。――そうか。結局、詩織にとって自分は、利益のためなら何でもする、彼女を傷つけることさえ厭わない、最低な男にしか映っていなかったのだ。「湊、私はバカじゃない。ちゃんと説明してくれていれば、こんなことにはならなかった。それに、わざと悠生を怒らせて、あなたに何の得があったの?」――得?きっと、自分でも分かっていた。彼女がもう自分を愛していないこと。でも、それを心のどこかで否定したくて、もし本当に最低なことをしたら、彼女がどう反応するのか、最後の最後まで試してみたかった。思えば、付き合い始めてからずっと、詩織は彼の言うことを素直に聞いてくれる子だった。そのことを、湊はいつの間にか当然のように思っていた。でも、詩織は本来、率直で自由な人間だ。決めたことは迷わず実行し、手放すときは潔く去っていく。もう、自分のことなど要らないのだ。本当に、何の未練もなく。湊は黙って詩織を見つめた。やがてゆっくりと歩み寄り、スーツのポケットから黒いUSBを差し出す。「綾香が君を拉致した証拠だ。どうするかは、君に任せる」それだけを言い残して、湊は一度も振り返ることなく部屋を後にした。呆然と立ち尽くす詩織。

  • あの人は、遠い時の中に   第21話

    二人の体格差で、詩織はどうしても身動きが取れなかった。彼女は睨みつけながら、息も荒く警告する。「悠生がすぐ外にいるから!」「待たせておけばいい」湊は耳元で囁き、熱い息がかかる。「それとも……彼をここに呼ぶか?自分の花嫁が今どんな姿か、見せてやれよ」その言葉に、詩織の心はついに音を立てて崩れた。もう抵抗する力すら湧いてこない。彼女は目を閉じ、睫毛が細かく震える。屈辱の涙がぽろりと頬を伝った。「湊……あなたは綾香さんを選んだんでしょ。もう誰も邪魔しない。それなのに、どうして私に執着するの?」その涙の冷たさが、一瞬だけ湊の心を突き刺す。彼は握っていた詩織の手首を少しだけ緩め、そっと額を寄せた。「俺も、ずっと綾香を愛してると思ってた。でも……君がいなくなって、やっと気づいたんだ。あれはただの執着だった。君じゃなきゃダメなんだ。……もう一度やり直せないか。あいつへの気持ちはきっと一時の気の迷いだ。俺から離れすぎて、自分の心を見失ってるだけだ。俺のもとに戻れば、きっとまた……」「無理!」詩織はしっかりと彼の目を見返した。「あなたが一番よく分かってるはず。私は今まで一度だってあなたを裏切らなかった。でも、裏切ったのはあなたと綾香さん。あの動画だって、あなたたちが仕組んだことでしょ?そこまでして私を追い詰めたいの?私を壊さなきゃ気が済まないの?」その言葉を聞いた湊は、ふっと力なく笑った。「……詩織、君の目には、俺はそんなに不様なのか?」その瞬間、ドアが勢いよく蹴り開けられた。悠生がほとんど飛び込むように部屋へ駆け寄り、左手で湊の襟元をがっちり掴み、そのまま拳を何度も思いきり叩き込んだ。肉にぶつかる鈍い音が響き、湊の口元から血がにじむ。悠生は湊のシャツを乱暴に掴み上げ、その目は氷の刃のように鋭く光っていた。「……もう一度でも彼女に手を出したら、今度こそ許さないからな」湊は唇についた血をぬぐい、口元に皮肉な笑みを浮かべた。「それがどうした?お前の前に、彼女は俺の女……」湊の言葉が終わるより早く、悠生の目に鋭い怒りが宿る。次の瞬間、思いきり湊の腹めがけて蹴りを叩き込んだ。湊は床に倒れ込み、痛みに体を丸めながら、額から冷や汗をにじませる。シャツの裾からは赤い血が滲んでいた。なおも悠生がさらに殴ろうとしたその時、

  • あの人は、遠い時の中に   第20話

    詩織は何が起きたのか分からないまま、強引に車へ引きずり込まれた。必死に抵抗するが、首筋に鈍い衝撃が走り、意識が遠のく直前、どこかで聞き覚えのある女の声が耳元に響く。「動画が撮れたら林家と篠崎家に送って。条件を飲まなかったら、そのままネットに流して。あの女にも、人生がめちゃくちゃになる味を教えてやりなさい……」その言葉が終わる前に、詩織の意識は完全に暗闇へ沈んでいった。再び目を覚ますと、全身がバラバラにされたみたいな痛みと重さが、四肢の隅々まで広がっていた。しばらくして、ようやくホテルの天井にぶら下がるシャンデリアがぼんやり見えてくる。がばっと起き上がろうとしたが、体が痛みに悲鳴を上げ、腰のあたりには何か重たいものが圧し掛かっている。硬直したまま横を見ると――そこには、眠っている湊の横顔が、こんなにも近くにあった。断片的な記憶が蘇る。暗闇の中で聞いた歪んだ男の声、無理やり引き裂かれるような恐怖、そして、綾香の冷たい声――「この女の一番みっともない姿を録画してやる」と、あざけるような響き。なのに、なぜ自分は湊のベッドの上にいるの?まさか、あの女に協力して動画を撮った男って――湊、あなたなの?――バカみたい。大企業の社長が、女のためにここまで身を持ち崩すなんて、滑稽としか言いようがない。胸の奥の、何か大切なものがパキッと音を立てて砕ける感覚。心の奥が凍りついたように、何も感じなかった。詩織は静かにベッドを降り、裸足のまま冷たい床に立ち、一枚ずつ、無造作に散らばった服を拾い集める。それは、まるで魂を抜かれた人形のような動作だった。ふと気づくと、湊が起きてベッドのヘッドボードに寄りかかり、じっとこちらを見つめている。詩織が最後の一枚を羽織るのを見届けてから、湊がゆっくりと口を開いた。「目が覚めたのか。昨夜は……」「湊」詩織は静かに、でもどこか冷たく言葉を遮った。かつては星のようにきらめいていたその瞳は光を失い、今はただの深い湖のような静けさしか残っていない。「私は、別に何も気にしない。でも……あなたたちを絶対に許さない。必ず、刑務所にぶち込んでやる」湊はその言葉にも動じる様子はなく、むしろうっすらと口元に皮肉な笑みさえ浮かべた。「おかしいな。昨夜はあんなに俺に夢中で服まで脱がせてた

  • あの人は、遠い時の中に   第19話

    詩織と湊が目を合わせた瞬間、彼女の口元の笑みが一瞬だけ凍りついた。真帆が驚いた顔で駆け寄ってくる。「湊さん。どうして……出張で戻れないんじゃなかったの?」「仕事が早く片付いたから、どうしても顔を見たくてさ。俺の親友の娘に会わないわけにいかないでしょ?」湊はごく自然に詩織が抱いていた赤ちゃんをあやす。その場の空気が、どこか重くねっとりとまとわりつく。詩織と湊の周囲には、さりげないけれど確かに多くの視線が集まっていた。二人の過去を知らなければ、今のこの光景は、まるで小説の男女主人公が現実に現れたみたいに、どこか絵になる組み合わせに見えただろう。けれど、湊が一歩近づいた瞬間、あのほのかなシダーウッドの香りがふわりと広がり、詩織の体は無意識にこわばる。そんな空気を察して、真帆が気を利かせて赤ちゃんを詩織の腕からそっと受け取り、「みんな、席につこう」と自然に声をかけてくれた。席に着いた詩織はほとんど何も食べられずにいた。それに気づいた大輔が「詩織ちゃん、ここの蟹、おいしいよ。食べてみて」と勧めてくる。返事をする前に、対面から湊の冷たい声が響いた。「彼女、海鮮アレルギーなんだ」詩織は反射的に顔を上げ、湊の静かな瞳と真っ直ぐに目が合った。分かったような顔で気を遣われるのが、今はどうしようもなく嫌だった。その優しさが、今はただただ気持ち悪かった。そんな重たい空気を変えようと、大輔が「あっ、そうだ!」と大げさに頭を叩いた。詩織はにこりと笑って「大丈夫、ちょっとくらいなら平気だよ」と言い、あえて蟹の身を自分の皿に取り分けた。湊が何か言いかけたその時、入口から聞き覚えのある女性の声が響く。「大輔、どうして赤ちゃんのお祝いの席に、呼んでくれなかったの?勝手に来ちゃったけど、よかったしら?」詩織は声のする方を振り向き、綾香と視線がぶつかった。久しぶりに会う綾香は、前よりずっとやつれていて、きっちりしたメイクでも隠しきれない疲れが滲んでいた。大輔は湊と詩織をちらりと気にしながら、ぎこちなくも「どうぞ、どうぞ」と綾香を席に招いた。綾香はためらいなく詩織の隣に座り、ごく自然な声で「詩織ちゃん……」と話しかけてくる。詩織はさっとグラスを持ち上げて立ち上がり、メイン席にいる真帆と赤ちゃんに向かって笑顔で言った。「真帆、赤ちゃん

  • あの人は、遠い時の中に   第18話

    悠生は個室のドアにもたれていた。どうやら、全部聞いていたらしい。詩織は思わず苦笑する。「やっぱり女性トイレのマークって『男は入るな』って意味ないのね。悠生みたいな人には」悠生は眉を上げて、低く笑った。その目には、どこかふざけた色気と、言葉にしきれない優しさが混ざっている。熱い視線に、詩織の耳がほんのり赤くなる。彼女は軽く咳払いして目をそらし、そのまま外へ歩き出す。悠生はすぐに追いかけてきて、後ろから詩織の手を取り、指をしっかり絡めて握った。トイレを出ると、「使用中止」の札がかかっている。詩織は悠生を見上げて、挑戦的に眉を上げる。――入ってこれるもんなら、やってみなさいよ?悠生はニヤリと笑い、耳元でささやく。「じゃあ今度は、個室の中で試してみる?」その瞬間、詩織の肘が悠生のみぞおちに命中。悠生はお腹を押さえ、わざとらしく苦しんだふりをする。「夫殺しはやめてよ。お前の幸せがここで終わっちゃうじゃん」詩織は呆れたように彼を横目で見て、黙ってレストランを出た。二人はそのままハネムーンを終えて帰国することに。悠生は絶対にまず両親へ挨拶をとこだわり、林家では佳乃と晴人も喜んで歓迎してくれた。誠一は、もともと湊のことを気に入っていた。湊は落ち着いていて仕事も真面目、それに比べて悠生は、せっかくのグループ経営を放り出して、なんだかレーシングクラブなんて道楽に夢中になっている。最初は、そんなふうに見えていたからだ。でも、二人が結婚したあと、誠一はこっそり悠生のクラブのことを調べさせていた。そしたら、なんと国の代表として何度も世界大会で優勝していて、国の名誉まで背負っていたと知り、「自分の見込み違いだった」と考え直すようになった。やがて誠一の心配も消え、最後に出した条件はただ一つだけ。「必ず、地元の北湖市で盛大に結婚式を挙げてほしい。林家の娘なんだから、きちんと皆に祝ってもらい、堂々と送り出したい」この申し出に、両家ともすぐに賛成した。詩織ももう止めきれず、成り行きに身を任せた。そんな折、大学時代の親友・真帆(まほ)から、ふっくらした赤ちゃんの写真とパーティーへ招待される。自分と湊がまだ交際しはじめた頃、気まずさを和らげようといつも真帆を食事に連れていっていたら、湊の友人が何度か混ざり、そこで大輔(

  • あの人は、遠い時の中に   第17話

    湊は一言も発せず、詩織にじりじりと近づいていく。その目には、もう隠しきれない激しい炎が宿っていた。思わず詩織は後ずさりし、背中がトイレの個室のドアにぶつかる。「出てって!」声を張り上げたものの、わずかに震えが混じっていた。湊は無言のまま、詩織の肩ごしに手を伸ばし、ドアのロックを下ろす。個室のドアが勢いよく開き、詩織はバランスを崩して後ろへ。その隙に湊が中に入り込み、背後からドアを「カチッ」とロックした。狭い空間の空気が、一気に熱を帯びる。湊の吐息に混じるタバコの香りが、詩織を包み込む。「もう観客はいない」低くしわがれた声が、耳元に熱く触れる。詩織は逃げようとするが、手首を湊に掴まれ、冷たいドアに押さえつけられる。力は強くないのに、不思議なほど逃げられなかった。「私たちのこと、そんなに見張ってて楽しいの?」詩織は顔をそむけて、湊の熱い視線を避ける。胸は怒りで大きく波打っていた。「楽しいさ」湊は鼻先を詩織の首筋に寄せ、そこに走る鼓動の速さを確かめる。「君たちが俺の前で芝居してるのを見るのが、最高に面白い」「演技なんかしてない!」詩織は冷たいドアに背中を押しつけたまま、湊を睨みつける。「ちゃんと籍も入れて、式も挙げて、今はハネムーン中よ。何か問題ある?まさか結婚まで、あなたに許可もらわなきゃいけないの?」「でも、君は彼を愛してない。こっちを見ろ、詩織」湊は命令口調で、もう一方の手を伸ばし、指先で詩織の唇を乱暴になぞった。そこはさっき悠生にキスされたばかりの場所だ。「教えてくれ。ここは……本当に、あいつにしか反応しないのか?」そのまま指先を胸元まで滑らせ、まるで彼女を独占するように触れる。詩織の体がびくっと震え、怒りに声を荒げる。「やめてよ!ストーカー、最低!」詩織は反射的に膝を上げようとしたが、湊がすぐに脚で押さえ込み、二人の体がさらに密着する。もう、逃げ場なんてなかった。「そうさ、俺は最低だ」湊はあっさりと認め、その目で詩織を逃さないようにじっと見つめる。まるで心まで射抜かれるような視線だった。「君たちのそばに張りついてるのは、あいつを困らせたいからじゃない。君の心が、まだ誰のものか……忘れさせないためだ」湊は額を詩織の額に寄せ、互いの呼吸がまじわるほど距離を詰める。「この一週間、ずっと

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status