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第2話

作者: いわいよ
彼女は向こうの声を待つことなく、電話を切った。

すぐに湊から着信が入る。

詩織はスマホに手を伸ばさず、呼び出し音だけが部屋に響く。やがて自動で切れ、もう一度鳴ることはなかった。

ベッドに横になると、スマホが震えているような気がして、何度も画面を確認する。けれど、そこには何も表示されていない。

苦笑いしながら、スマホの電源を落とした。寝返りばかり打ち、夜が明けるまでほとんど眠れなかった。

ようやく浅い眠りに落ちたとき、詩織はとても長い夢を見る。

――湊と初めて会った日の夢。

あの日、詩織は大学一年生で、湊は「業界で注目されている若手」として母校に講演に来ていた。

白いシャツに気取らない雰囲気。けれど、目だけはまっすぐで、どこか冷たい鋭さがある。

教室の最前列で湊と目が合った瞬間、心臓が跳ねた。

講演が終わると、女子学生たちが一斉にサインをもらいに押し寄せる。詩織も人混みに紛れて、汗ばんだ手でノートを差し出した。

自分の番になり、湊がノートに書かれた名前を見たとき、不意に動きが止まる。

顔を上げた湊の目から、さっきまでの笑顔がわずかに消えていた。眉がほんの少し動き、何かを確かめるような仕草。

だが、それもほんの一瞬だけ。

ノートを返すとき、指先がかすかに触れ合う。

湊は微笑み、「いい名前だね」と呟いた。

その後、湊のアプローチは本当に勢いがあった。少女漫画みたいな展開に、詩織は夢を見ている気持ちになっていた。

けれど夢の最後には、執着と未練のまなざしで、湊が綾香にキスしようとする場面が浮かぶ。

目が覚めると、枕はびっしょりと濡れていた。

ぼんやりした頭で、湊が部屋に入ってきたことにも気づかなかった。

「どんな夢を見てたの?そんなに泣いて……」

ベッドの脇で湊が詩織を覗き込む。

詩織は無言でその視線を受け止める。

まだ現実に意識が戻りきらない彼女の様子を見て、湊は静かに笑い、そっと顔を近づけてキスしようとする。詩織は反射的に顔を背けた。

湊は気にした様子もなく、軽く笑う。「結婚式キャンセルしたって、担当者から聞いたよ。そんなにやきもち焼く?」

「昨夜、杏奈ちゃんから電話があったんだ。『ママが熱を出して寝込んでる』って聞いて、手伝いに行っただけさ。シングルマザーで大変そうだったから、君の顔を立てて動いただけだよ。そんなことで怒る?」

詩織は話題をそらすように、「今日は実家に行く約束だったよね?」と言う。

湊を押しのけて、ベッドから抜け出す。もう、これ以上くだらない茶番に付き合うつもりはなかった。

夕方六時、二人は林家の邸宅に着く。

親戚たちと形式的な挨拶を交わし、席に着いた。

湊は相変わらず気が利いていて、料理を取り分けてくる。だが、綾香の好きな海鮮ばかり、さりげなく彼女の前に並べる。その一方で、詩織の皿には苦手なエビがいくつもよそわれていく。

本当は海鮮アレルギーなのに。

――すべて、もっと早く気づいていればよかったのかもしれない。

詩織は何も言わずに、エビをそっと皿の隅に寄せる。

「詩織、オーダーしていたドレスが届いたわよ。明日、お義姉さんと一緒に試着しに行かない?」母・林佳乃(はやし かの)が声をかける。

「……もう、結婚はしない。私と湊は――」

最後まで言い切る前に、父・林誠一(はやし せいいち)の大きな声が響く。「ふざけるな!結婚は子どものワガママで決めていいものじゃない。湊君、詩織は小さい頃からわがままだから、気にしなくていい」

湊は椅子にもたれて、どこか他人事みたいに笑っていた。「お義父さん、大丈夫ですよ。俺のせいです。詩織が怒ってるだけですから、すぐに機嫌は直ります」

詩織が何か言い返そうとすると、親戚たちが間に割り込んできて、彼女の言葉は全部飲み込まれてしまう。

宴会が進むほど、詩織の居場所はどんどんなくなっていく。

――もう、これは詩織と湊だけの問題じゃない。

家同士の結びつき。湊じゃなくても、誰かとこうして「家族のため」に結婚する運命だったのかもしれない。

それでも、昔は「その相手が湊でよかった」と思っていた。

でも、その幸せを感じた分だけ、今はただ惨めだ。

最初から好きじゃなかったなら、まだ救われた。最初から嘘を抱えていたなんて、そのほうがずっと辛い。

湊は、詩織がさっき言ったことなんて気にも留めていない様子で、テーブルの下で詩織の手をそっと握る。

まるで、わがままを言う子どもをあやすみたいに、指先をやさしくなぞる。

詩織はその手を思いきり振り払って、席を立つ。そのまま何も言わずに、階段を上って寝室へ向かった。

すぐに父の怒鳴り声が響くけれど、詩織は足を止めずに二階の寝室に向かい、ドアに鍵をかけた。

バルコニーの椅子に座る。窓の外はもう暗くなっているけれど、灯りもつけずに、ただ闇に身を沈めている。

風が肌寒くて、そろそろ部屋に戻ろうと立ち上がる。

その時、下の庭で誰かが駆け足でやってくる足音がした。息を切らした声が混じる。

次の瞬間、はっきりとした平手打ちの音が響いた。

「湊、どうかしてるの!?」

「おかしいさ……」湊の声は低くて、どこか自嘲的だった。

「君が金のために俺と別れたあの日から、俺はずっとおかしい。何もかも手に入れようと頑張ったけど、最後には君を恨むことすらできなかった。もう諦めるよ、綾香。君が望むものなら、今の俺ならなんでもあげられる。やり直さないか?」

その必死な声に、綾香は呆然としていた。

しばらくして、かすれた声が返ってくる。「湊……私は確かに会社のために林家と結婚した。でも、結婚してから夫の大輝(だいき)はすごく優しくしてくれたし、詩織ちゃんもいい子よ。もう私のことは忘れて。あなたには詩織ちゃんがいるじゃない。今日のことはなかったことにして、詩織ちゃんと幸せになって」

「やってみたさ」

湊はウッドデッキの柱にもたれてタバコをくわえる。しばらく無言のまま、静かに煙を吐き出した。

やがて、ぼそりと呟く。「でも毎晩、気が狂いそうなほど君を思い出す」

その言葉には、剥き出しの執着がにじんでいた。

綾香は驚いたように湊を見つめる。「そんなこと言って、詩織ちゃんのことはどうするの?もうすぐ結婚するんだよ。彼女のこと、本当に何とも思ってないの?」

湊は静かに笑う。「綾香、俺は詩織のことを妹みたいにしか思ってない。彼女と一緒にいるのも、君に当てつけるためだし、堂々と君に会いたかったからなんだ。君がいない日々には、もう耐えられなかった」

手にしていたタバコを指先で消し、本能的に身を乗り出す。「昨日言ったことは全部本気だよ。君さえうなずいてくれれば、新婦は今からでも替えられる。他の誰のことも気にしなくていい。君がどうしたいかだけ考えてくれればいい。あとのことは全部、俺がなんとかするから」

綾香は湊を突き放す。「ダメ!そんなの詩織ちゃんがかわいそう。もう二度と、こういうこと言わないで!」

「綾香、これが最後のチャンスだ。詩織と結婚したら、もう君のもとには戻らない。よく考えて」
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