LOGIN夜のあぜ道を、私服姿のアデーレがとぼとぼと歩く。
空には三日月。
見慣れた故郷の夜空は、日本では見ることも難しくなった満天の星空だ。
ぼんやりと空を眺めていると、ポケットの中から何かが飛び出す。
「お疲れ様だね、アデーレ」
目の前に現れたのは錠前……ヴェスタだ。
結局仕事中に喋ることはなく、アデーレも忙しさからその存在を忘れつつあった。
「うん……ヴェスタ様はずっとポケットの中で
「はは。別にこれが僕の本体って訳じゃないから」
それもそうだとうなずくアデーレ。
だが、錠前越しにこちらを眺めているヴェスタの姿を思うと、のん気な神様だと呆れてしまう。
「あ、今僕が神の世でのんびり観客決め込んでるって考えたね」
「カンガエテマセン。ヴェスタサマ」
「神に嘘吐きとは感心できないね。まぁいいけど」
人の考えることなどお見通しとは、さすが神様といったところか。
しかし、これではうかつなことは考えられない。
仕事と錠前によってプライベートが奪われていくことに、ため息を漏らす。
それもお見通しなのだろう。
錠前は笑っているかのようにカチャカチャと音を立て揺れる。
「ああそうだ、君が仕事をしている間に少し考えたんだけどね」
錠前がアデーレの顔の横に浮かぶ。
「君が僕をヴェスタって呼ぶの、何か堅苦しくてよくないと思うんだ」
「はぁ……でもあなたはヴェスタ様な訳でして」
「そりゃあそうだけど。でも君らにとってヴェスタは火竜で、今の僕はただの錠前さ。何より今の僕と君は相棒だろう?」
ただの錠前が喋ったり変身させたりするわけがないだろと、アデーレが心の中でツッコミを入れる。
更に神を相手に相棒呼ばわりするのも畏れ多く、アデーレの表情は複雑そのものだ。
「という訳で、君に新しい名前を付けてもらって、今後はお互いフランクに行こうと思うんだ」
「名前? 私が?」
名前を変えたところでフランクな関係になるとは思えない。
だがヴェスタ自身は大真面目にそう思っているようだ。
それに、堅苦しさが緩和されるというのは分からないでもない。
元来神の名前とは、それだけで深い意味を持つものだ。
「どうせなら、君の元いた世界にちなんだ名前がいいな」
「また変なリクエストを。じゃあ……」
目の前に浮かぶ錠前を眺めながら、過去の記憶に思いを巡らせる。
(錠前……鍵……ロック…………)
我ながらイメージが貧困だと思うアデーレ。
とはいえ、わざわざ凝った名前を付けるのも面倒だ。
仰々しい名前では、フランクな関係とは程遠いだろう。
「今、面倒だと考えたね」
「仕方ないじゃないですか。実際にそうなんだし」
「あ、今度は結構はっきり言うね。いいよいいよそういうの」
相も変わらずカチャカチャ揺れる錠前。
更には不敬な態度に機嫌を良くするとなれば、ヴェスタが神としての自覚を持っているのか疑問すら抱いてしまう。
そんなことを思い、アデーレは必死に考えている自分が少しだけ馬鹿らしく思えてしまった。
「はぁ……それじゃあ」
少しだけ苛立ちを覚えつつ、少し乱暴に錠前をつかむ。
そして自分の顔から離し、月明りに照らしながら錠前を眺める。
「ロックン……いや、アンロックンで。どう?」
鍵、イコールロックからの、アンロック。
割れながら安直だと、乾いた笑いを浮かべるアデーレ。
ロックンとしたのはアデーレなりの愛嬌だ。
「アンロックンか。なるほど、いいじゃないか。響きが気に入った」
どうやら
アデーレの手の中で、カチャカチャと音を立てている。
「それじゃあ、今日から僕はアンロックンだ。改めてよろしく、アデーレ」
「うん、よろしく。お互いあんまり出番がないことを祈りたいところだけど」
「それもそうだっ」
そう言って笑う、喋る錠前アンロックン。
変わらぬその言動には、それなりの癒しがあるようにも感じられる。
慣れぬ仕事で疲労困憊のアデーレ。
明日もあのお嬢様の傍で仕事かと思うと、それだけで気苦労が尽きない。
だから今は、新たに出来た相棒とひと時の談笑を楽しむ事にしようではないか。
◇
アデーレがエスティラの傍に控えるようになって数日。肉体的にも精神的にも過酷な仕事を続けたアデーレは、いつもに増してクールというか、不愛想になっていた。
「ちょっとあなた、いつまでそんな顔してるのよ。シャキッとなさい」
ソファに座るエスティラが、向かいの壁際に立つアデーレをジト目で睨む。
隣に立つロベルトが背筋を伸ばして立っていると、アデーレの不甲斐ない姿がより際立っている。
自身の腑抜けた姿に気づいたアデーレは慌てて背筋を伸ばすも、その姿を眺めていたエスティラは呆れ調子で嘆息を漏らす。
だが家主の傍にいるとはいえ、アデーレはこの仕事を始めて日の浅い新人だ。
主人の前では隙を見せないというお付きの鉄則。
新人がこれを貫くというのは、なかなかに酷な話である。
もちろん、アデーレも主人の傍に仕える使用人として、自分相応の心構えでいるつもりだ。
だが慣れない仕事によって溜まった蓄積は、彼女の集中力を確実にむしばんでいた。
「そういえばロベルト、この間の怪物騒ぎで話があるって言ってたわよね?」
「はい、こちらの被害報告に目を通して頂きたく」
ソファの隣へと移動し、テーブルにそっと数枚の書類を置くロベルト。
目の前に置かれたそれをエスティラは片手で取り、目を細めながら内容に目を通していく。
「数軒の店舗と家屋が半壊。それと避難の際に怪我人が数名確認されています」
それは、紅蓮の剣士となったアデーレが怪鳥と戦っている裏で発生していた被害内容だ。
使者がいなかったことに内心安堵しつつも、無傷というわけにはいかなかったことには若干の口惜しさをを覚える。
そんな思いを得意の仏頂面の裏に隠しつつ、ロベルトの報告を聞くエスティラの姿を見つめる。
失礼な考え方だろうが、エスティラが書類に目を通す姿というのは華やかな見た目からは想像しにくいものがある。
果たしてこの状況を、ロントゥーサ島の外の人間であるエスティラはどう見ているのか。
若干の興味を抱きつつエスティラの様子を観察していると……。
「被害者の支援はあなたの裁量に任せるわ」
「かしこまりました。では早急に手配を進めてまいります」
「ええ。ところでロベルト、鳥の化け物を倒した剣士がいるって噂を聞いたんだけど」
アデーレの肩がかすかに震える。
曲がりかけていた背筋が再び真っ直ぐに伸び、気の抜けた表情が一瞬でこわばる。
「はい、存じております。赤い装束を身に纏い、巨大な剣を携えた者が現場に現れたとのことで」
「何それ、妙な格好ね。誰か名乗り出たりはしたの?」
「残念ながら」と、首を横に振るロベルト。
「妙な輩じゃなければいいんだけど……そういえば、あなたも怪物に出くわしたんじゃなかったかしら?」
「えっ? あ、ああはい。すぐにその場から逃げ出しましたけど」
自身の話題を唐突に振られ、アデーレは慌ててそ知らぬふりを通す。
「ふぅん。ま、それが普通よね」
アデーレを
書類を読む彼女の表情は真剣そのもので、自身と年の近い少女とは思えない貫禄のようなものをアデーレに思い抱かせる。
ふと、メリナがアデーレに語っていたことを思い出す。
(旦那様の指導、か)
家庭の事情でこの場所に送られてきたエスティラが、島の内情に対し真剣に向き合う姿勢を見せる。
自身の知るワガママお嬢様というイメージがことごとく破られるその姿に困惑を覚えつつも、その様子にアデーレはどことなく安心感を覚えてしまう。
今のエスティラは、かつての使用人に暴力を振るような人物ではない。
自分が住む島の現状に意識を向け、島民への配慮も行える一人の貴族なのだろう。
もはや過去の事について怯える必要はない。そんな確信すらアデーレに抱かせる。
感慨深げにアデーレが様子を
「ああ、私この後港に用があるから」
「えっ?」
唐突な指示にアデーレは目を丸くする。
そんな彼女を、やや上目遣いにエスティラが見つめる。
「あなたも準備しておきなさいよね。軍の船を出迎えに行くんだから」
軍の船という物騒な言葉に、内心困惑を抱くアデーレ。
戦争とは縁のないこの島に、共和国の軍隊が関わることなどめったにない。
だが、魔女の召喚した魔獣が現れたという事実があれば、それもある程度は納得できることだ。
故郷の島が、平和から遠ざかっていく。
エスティラへの不安が和らいだ今、アデーレが抱くのはこの島が受ける未来の被害だ。
果たしてこの先も、怪我人だけで事なきを得ることが出来るのか。
改めて、力を得たことによる責任を自身の双肩に感じるアデーレだった。
上空で、二匹の怪物が爆散する。 アデーレは爆炎の中から飛び出し、そのまま埠頭近くの倉庫の屋根に着地した。 埠頭の方を見ると、怪物達に囲まれた兵隊たちが苦戦を強いられているようだ。「数が、増えてる?」 最初は二十匹ほどだったはずの怪物は、四十近くまでに増加している。 一体どこから現れたのか。アデーレが港の周囲を見渡す。「アデーレ、海だ!」 アンロックンの言葉に促され、アデーレが埠頭から沖の方へと視線を向ける。 港から百メートルほど離れた位置にある深場だろうか。 青黒い海面を更に黒く染める、長く巨大な影が海中を潜行しているようだ。 茂る海藻を見間違えたかとアデーレが目を凝らすが、それは間違いなく港に向けて少しずつ移動している。「あれは……」 影の正体を見極めようとアデーレが目を細める。 その瞬間、影の上部から水柱が立ち、空中に巻貝らしきものが射出される。 数は五つ。殻は放物線を描きながら、港の方へと飛んでくる。「まずいっ」 屋根を蹴り、飛来する殻めがけて再び跳躍するアデーレ。 構えた大剣の刃が、赤く燃え盛る炎を纏う。 炎の光は軌跡となり、アデーレと貝殻の距離が一気に縮まっていく。 その瞬
主人の外出に際し、初めての付き添いを務めることとなったアデーレ。 エスティラの指示に従い辿り着いたのは、ロントゥーサ島にある最も大きな港の埠頭だ。 漁船以外にも客船や輸送船が停泊することを目的としたこの島唯一の港で、国外からの貨物船も寄港する貿易の中継地点として機能している。 しかし、今日はそんな港に、島民には馴染みのない大型軍艦が停泊していた。 船体は鉄製の装甲艦となっており、帆柱はなく煙突を有することから蒸気船だろう。 エスティラ曰く、島に常駐するわずかな衛兵では怪物に対する備えが不十分であることが判明した。 そのため、シシリューア島から共和国軍の一部が派兵されることとなり、この艦はその第一陣である。 そんな兵士たちを、現在島で最も位の高いエスティラが直々に出迎えることとなったのだ。 ちなみに、その提案をしたのは当のエスティラである。 『私の身の安全を任せるのだから、挨拶くらいはしておかないと』 というのが、エスティラの弁だ。 島全体の守備増強が目的だろうという疑問もあったが、アデーレはあえてそれを口にしなかった。 「これはこれは、バルダート家のご令嬢が直々に出迎えてくださるとはっ」 部下達を連れて颯爽と埠頭に降り立ったのは、三角帽がトレードマークの青い軍服姿の男。 彼は埠頭で待っていたエスティラに対し、帽子を脱いで仰々しくお辞儀をする。 その態度から、アデーレの目にも彼がこの船の艦長か、部隊の指揮官だろうと察することが出来た
夜のあぜ道を、私服姿のアデーレがとぼとぼと歩く。 空には三日月。 見慣れた故郷の夜空は、日本では見ることも難しくなった満天の星空だ。 ぼんやりと空を眺めていると、ポケットの中から何かが飛び出す。「お疲れ様だね、アデーレ」 目の前に現れたのは錠前……ヴェスタだ。 結局仕事中に喋ることはなく、アデーレも忙しさからその存在を忘れつつあった。「うん……ヴェスタ様はずっとポケットの中で窮屈じゃなかったの?」「はは。別にこれが僕の本体って訳じゃないから」 それもそうだとうなずくアデーレ。 だが、錠前越しにこちらを眺めているヴェスタの姿を思うと、のん気な神様だと呆れてしまう。「あ、今僕が神の世でのんびり観客決め込んでるって考えたね」「カンガエテマセン。ヴェスタサマ」「神に嘘吐きとは感心できないね。まぁいいけど」 人の考えることなどお見通しとは、さすが神様といったところか。 しかし、これではうかつなことは考えられない。 仕事と錠前によってプライベートが奪われていくことに、ため息を漏らす。 それもお見通しなのだろう。 錠前は笑っているかのようにカチャカチャと音を立て揺れる。「
食堂の隣には、客人との談話のために用意された応接室がある。 食堂に比べると狭い部屋だが、それでも一般的な家屋の一室に比べれば広い。 内装は食堂よりも豪華で、壁には蔓を模したかのような金の模様が張り巡らされ、室内に置かれたあらゆるものが、高級品で揃えられている。(どうしてこうなった……) そんな落ち着かない部屋の端で、アデーレは口を閉ざし自問していた。 中央のテーブルにはティーセットや軽食で彩られたケーキスタンドが置かれている。 傍に設けられた豪華なソファには、綺麗な姿勢で座るエスティラの姿が。 そんな彼女の隣には、黒のモーニングコートにアスコットタイという、誰が見ても執事と分かる壮年の男性が立っていた。 白髪交じりの黒髪に、しわが深く刻まれた穏やかさを感じる顔が印象深い。 女性の下級使用人が男性執事と関わることは少なく、当然新人のアデーレは初対面だ。 故にどうすればいいのか分からない彼女は、閉めた扉の前から動けずにいた。「何突っ立ってるのよ。これ以上待たせないで」 変わらず不機嫌そうなエスティラが、鋭い横目でアデーレを見る。 そこに割って入るように、執事がそっと口を開く。「お嬢様、彼女も初対面の者ばかりの場所で緊張しているのでしょう」 年齢を重ねた男性らしい、低く重みを感じさせる落ち着いた声で語り掛ける執事。 その後彼はアデーレの方に向き直り
午後の仕事は、主人たちの生活スペースで行われる雑務が多い。 これは主人の目につく場所での仕事になるし、来客と対面することも頻繁にある。 そのため、午後は身だしなみも整えるため、午前の服とは別に主人が用意した制服を着用することが義務付けられている。 黒い長袖ドレスに、フリル付きの白いキャップとエプロン。 これが、バルダート家の使用人に用意された基本的な制服である。 前日は主に階下の仕事が中心だったため、アデーレはここで初めて制服に袖を通すこととなった。 「なるほど……」 いわゆるメイド服というものに初めて袖を通したアデーレ。 その完成度の高さに、思わず感嘆の声を上げた。 デザインだけ見れば、煌びやかさは微塵も存在しない地味な衣装だ。 しかし自前で用意した仕事着よりも、生地の材質や縫製の精度が優れたドレス。 ロングスカートながらも動きやすく、なおかつ形が崩れない工夫が随所に施されている。 何より、控えめだからこそ醸し出される気品を受け、アデーレの背筋は自然と伸びる。 国の執政にも関わる貴族の家ならば、使用人の制服にも相応の金と手間が掛けられているということだろう。 今さらながら、アデーレは自分が高位の家に務めているということを実感していた。 「それでは、本日はこちらで調度品の手入れをして頂きます」 先導するアメリアによって、数名のメイドと共に案内されてきたのは二階にある広い食堂だ。 中央には
アデーレがバルダート別邸に到着した時、使用人たちの間では既に怪鳥の話題で持ちきりだった。 使用人たちが集まる、屋敷一階の使用人控室。 主人らが使う部屋とは違い、シックな家具でまとめられた絢爛から程遠い部屋である。 しかしそこは名だたる名家、天下のバルダート家だ。 たとえ使用人が使う家具だろうとも、庶民が一年休まず働いても買うことのできないものばかりである。「アデーレ、本当に何ともないの?」「はい、大丈夫です」 エプロン姿にすまし顔のアデーレを前に、メリナは困惑の表情を浮かべる。 騒動を受けてもなお屋敷にやってきたアデーレには、彼女だけではなく他の使用人たちも驚いていた。 「さすがにあんなことがあったら休んでも大丈夫なのに。真面目だねぇ」 話を聞いていた先輩の使用人も、真面目なアデーレを前に苦笑を浮かべている。 「でもねアデーレ、私はあなたの身に何かあったら嫌だから。こういう時は真っ先に自分の身を守らないとダメだよ」 使用人になるのを提案したこともあってか、特にメリナはアデーレの身を案じているようだ。 こうなると、自分が騒動の渦中で、しかもそれを解決したなどとは口が裂けても言えないだろう。 少年にも秘密にするよう言った手前、このことは隠し続けなければならない。







