Masuk食堂の隣には、客人との談話のために用意された応接室がある。
食堂に比べると狭い部屋だが、それでも一般的な家屋の一室に比べれば広い。
内装は食堂よりも豪華で、壁には蔓を模したかのような金の模様が張り巡らされ、室内に置かれたあらゆるものが、高級品で揃えられている。
(どうしてこうなった……)
そんな落ち着かない部屋の端で、アデーレは口を閉ざし自問していた。
中央のテーブルにはティーセットや軽食で彩られたケーキスタンドが置かれている。
傍に設けられた豪華なソファには、綺麗な姿勢で座るエスティラの姿が。
そんな彼女の隣には、黒のモーニングコートにアスコットタイという、誰が見ても執事と分かる壮年の男性が立っていた。
白髪交じりの黒髪に、しわが深く刻まれた穏やかさを感じる顔が印象深い。
女性の下級使用人が男性執事と関わることは少なく、当然新人のアデーレは初対面だ。
故にどうすればいいのか分からない彼女は、閉めた扉の前から動けずにいた。
「何突っ立ってるのよ。これ以上待たせないで」
変わらず不機嫌そうなエスティラが、鋭い横目でアデーレを見る。
そこに割って入るように、執事がそっと口を開く。
「お嬢様、彼女も初対面の者ばかりの場所で緊張しているのでしょう」
年齢を重ねた男性らしい、低く重みを感じさせる落ち着いた声で語り掛ける執事。
その後彼はアデーレの方に向き直り、まるで使用人の見本ともいえる完璧な会釈を行う。
「初めまして。この屋敷の執事を務める、ロベルト・リオーニと申します。以後お見知りおきを」
執事ロベルトの丁寧な様子に圧倒され、無言で会釈をするアデーレ。
そんな様子を、エスティラは小さく息を吐きながら変わらず横目で睨んでくる。
これ以上待たせたら何が起きるか分からないだろう。
結局アデーレは、エスティラの圧に促されるようにテーブルの横に立つ。
「それじゃあ、あなたの腕を私が直々に評価してあげるわ。やってみなさい」
「は、はい。失礼いたします」
圧を感じさせるエスティラの声に押さえつけられるように、ぎこちなく頭を下げるアデーレ。
期待はしていなかったが、一礼をしながらも手本がないことに更なる不安を抱く。
テーブルに置かれた、花柄の模様が施された四角いブリキ製の茶葉ケースを見つめる。
パステル調に彩られた花々は、素直に美しいと感じさせるものだ。
とはいえ、こちらの世界に転生してからこのようなものを扱った記憶がない。
だが良太として生活していた頃ならば、祖父母のために紅茶を用意していた経験がある。
幸いなことに、彼らは日本茶だけでなく紅茶やコーヒーもよく
その頃の記憶を必死にたぐり寄せ、何とか形になる紅茶の淹れ方を思い出す。
用意された茶葉やお湯を使い、白磁のポットに紅茶を作り、カップに注ぐ。
置かれたばかりのカップからは静かに湯気が立ち上り、琥珀色の液体がわずかに揺れる。
「ふぅん」
エスティラの前にカップを置き、改めて会釈をした後に一歩後ずさるアデーレ。
注がれた液体は、どうにかそれらしい物になってくれていた。
完全な素人の手によって淹れられた紅茶。
対するエスティラは嫌がる素振りも見せずにカップを手に取り、躊躇することなく口に運ぶ。
そして一口飲んだ後、再びカップをソーサーに戻した。
「……あなた」
変わらず不機嫌さを隠さないエスティラ。
幼少の頃にはなかった威圧的な雰囲気に、アデーレはわずかに怖気づいてしまう。
しかし、そんなエスティラの固い表情がほんの少しだけ緩んだ気がした。
「まあ、できる方じゃないかしら」
「え? あ……ありがとうございます」
それは、予想外の反応だ。予想外故に頭を下げる動作もあからさまに遅れてしまった。
出されたものをけなす訳でもなく、エスティラはそれなりの評価をアデーレの紅茶に下したのだ。
どんな厳しい反応が来るかと覚悟していたアデーレからすれば、これには思わず気の抜けた返事も出てしまう。
そして心の中で、経験を積ませてくれた祖父母に深く感謝していた。
「ま、この程度で満足されても困るけど。今後も私が指導してあげるから、感謝なさい」
「はい……はい? 指導?」
下げていた頭を慌ててあげつつ、エスティラの方を見つめるアデーレ。
「何を呆けてるのよ。どうせ私の傍に付くなら、相応のメイドになるよう努力なさいな」
一切悪びれたり、嘲笑するわけでもなく。
エスティラはさも当然のようにアデーレを見つめ、どこか呆れた様子で短いため息をつく。
しばらく傍にいろという先の言葉を思い出し、アデーレは目の前が暗くなるような感覚に襲われる。
使用人を始めて二日目。
屋敷の主であるお嬢様の傍で仕事をさせられるなど、誰が考えたか。
出来る限り距離を置きたい相手と、更に距離を詰めていくという正反対の状況。
今はせめて、エスティラが過去の出来事を思い出さないことを祈るばかりだ。
◇
エスティラがアフタヌーンティーを終えた後のこと。アデーレは一人、ティーワゴンを押しながら廊下を歩いていた。
がっくりとうなだれたその顔には疲労の色が浮かんでいる。
「お疲れ、アデーレ。大変だったでしょ」
そんな彼女に声をかけたのは、取っ手のついた籠を持ったメリナだった。
ラヴィニア辺りから事情は聞いているのだろう、彼女は心配そうにアデーレの顔を覗き込んだ。
「メリナさん……まぁ、はい」
作り笑いを浮かべるアデーレ。
それが本心からの笑顔でないことは、誰の目からしても明らかだろう。
しかし彼女は嘆息を漏らした後、気を取り直した様子で顔を上げる。
「ただ、お嬢様が思ってた人と違うというか」
「ん、何かあったの?」
「何か、という訳ではないんですけど。むしろ思っていたことにはならなかったというか」
先ほどまでお世話をしたエスティラのことを思い出しながら、アデーレは事の次第をメリナに説明する。
再会した彼女は、ずっと不機嫌な顔を浮かべていた。
紅茶を嗜んでいた時はリラックスもしていたが、それ以外は変わらずだ。
だが、周囲に対し理不尽に当たり散らしたりなどといった行動は起こさない。
紅茶に対する評価をする様子などは、特に冷静なものだ。
過去の様子しか知らないアデーレにとって、そんなエスティラの姿には違和感を覚えた。
「落ち着いた人だなぁって、お嬢様」
それが、アデーレの率直な感想だった。
一通りの話を聞いたメリナは、なるほどと言わんばかりに首を縦に振る。
「ああ、そういうこと。それは旦那様に色々教育を受けてきたからじゃないかな」
「教育?」
「うん、お嬢様は長女だから。バルダート家の後継者として色々、ね」
記憶の中にあるエスティラの父、ドゥランの姿を思い出す。
これだけの家の主人だ。きっとその指導は厳しいものだったに違いない。
エスティラのあの落ち着いた雰囲気も、そういった環境で成長してきた証なのだろう。
そこで、メリナの表情が変わったことに気付く。
「ただ、今のお嬢様はちょっと事情が……ね」
それが困惑なのか、それとも同情なのか。
アデーレには、メリナが何を思っているのかを察することは出来なかった。
「何かあったんですか?」
「ん、まぁー……」
わずかの間、メリナがアデーレから目を逸らす。
「私も詳しい事情までは分からないんだけど」
少しの間を空けて、ため息をつくメリナ。
果たしてその様子は、本当に何も知らない者の反応なのだろうか。
「ここに来ることが決まってからのお嬢様、どうも元気がないのよね」
少なくとも、今のメリナがエスティラの変化を心配していることは間違いない。
彼女は使用人としてそれなりのベテランであり、自然とエスティラと関わることも多い立場にあった。
色々と苦労をかけられてきただろうが、メリナなりにエスティラを思う気持ちはあるということだろう。
ふと、アデーレは紅茶を口にしたエスティラの様子を思い出す。
あの時の落ち着いた物腰のエスティラこそが、アデーレが知らない本来の姿だったのかもしれない。
もちろん、エスティラが過去を思い出したらどうなるか、それは分からない。
だが今の彼女なら、傍に仕えたとしても理不尽な目に遭わないのではないか。
アデーレは、そんな淡い希望を抱いてしまう。
「ロベルトさんなら何かご存じかも知れないけれど……とりあえず、アデーレも気を付けてね」
「それじゃ」と言い、廊下の先へ走っていくメリナ。
その背中を、アデーレは立ち止まって見送っていた。
「気を付けて、か」
メリナの後ろ姿を見送りつつ、思案に暮れるアデーレ。
何を気を付ければいいのかは分からないが、今は怒らせないことが得策だろう。
このまま穏便に仕事が続けられるなら、それはアデーレの望むところだ。
(……紅茶の淹れ方、ちょっと練習してみようか)
今ある日常を守るため。
少しだけ前向きに、使用人の仕事に向き合うことにしたアデーレだった。
上空で、二匹の怪物が爆散する。 アデーレは爆炎の中から飛び出し、そのまま埠頭近くの倉庫の屋根に着地した。 埠頭の方を見ると、怪物達に囲まれた兵隊たちが苦戦を強いられているようだ。「数が、増えてる?」 最初は二十匹ほどだったはずの怪物は、四十近くまでに増加している。 一体どこから現れたのか。アデーレが港の周囲を見渡す。「アデーレ、海だ!」 アンロックンの言葉に促され、アデーレが埠頭から沖の方へと視線を向ける。 港から百メートルほど離れた位置にある深場だろうか。 青黒い海面を更に黒く染める、長く巨大な影が海中を潜行しているようだ。 茂る海藻を見間違えたかとアデーレが目を凝らすが、それは間違いなく港に向けて少しずつ移動している。「あれは……」 影の正体を見極めようとアデーレが目を細める。 その瞬間、影の上部から水柱が立ち、空中に巻貝らしきものが射出される。 数は五つ。殻は放物線を描きながら、港の方へと飛んでくる。「まずいっ」 屋根を蹴り、飛来する殻めがけて再び跳躍するアデーレ。 構えた大剣の刃が、赤く燃え盛る炎を纏う。 炎の光は軌跡となり、アデーレと貝殻の距離が一気に縮まっていく。 その瞬
主人の外出に際し、初めての付き添いを務めることとなったアデーレ。 エスティラの指示に従い辿り着いたのは、ロントゥーサ島にある最も大きな港の埠頭だ。 漁船以外にも客船や輸送船が停泊することを目的としたこの島唯一の港で、国外からの貨物船も寄港する貿易の中継地点として機能している。 しかし、今日はそんな港に、島民には馴染みのない大型軍艦が停泊していた。 船体は鉄製の装甲艦となっており、帆柱はなく煙突を有することから蒸気船だろう。 エスティラ曰く、島に常駐するわずかな衛兵では怪物に対する備えが不十分であることが判明した。 そのため、シシリューア島から共和国軍の一部が派兵されることとなり、この艦はその第一陣である。 そんな兵士たちを、現在島で最も位の高いエスティラが直々に出迎えることとなったのだ。 ちなみに、その提案をしたのは当のエスティラである。 『私の身の安全を任せるのだから、挨拶くらいはしておかないと』 というのが、エスティラの弁だ。 島全体の守備増強が目的だろうという疑問もあったが、アデーレはあえてそれを口にしなかった。 「これはこれは、バルダート家のご令嬢が直々に出迎えてくださるとはっ」 部下達を連れて颯爽と埠頭に降り立ったのは、三角帽がトレードマークの青い軍服姿の男。 彼は埠頭で待っていたエスティラに対し、帽子を脱いで仰々しくお辞儀をする。 その態度から、アデーレの目にも彼がこの船の艦長か、部隊の指揮官だろうと察することが出来た
夜のあぜ道を、私服姿のアデーレがとぼとぼと歩く。 空には三日月。 見慣れた故郷の夜空は、日本では見ることも難しくなった満天の星空だ。 ぼんやりと空を眺めていると、ポケットの中から何かが飛び出す。「お疲れ様だね、アデーレ」 目の前に現れたのは錠前……ヴェスタだ。 結局仕事中に喋ることはなく、アデーレも忙しさからその存在を忘れつつあった。「うん……ヴェスタ様はずっとポケットの中で窮屈じゃなかったの?」「はは。別にこれが僕の本体って訳じゃないから」 それもそうだとうなずくアデーレ。 だが、錠前越しにこちらを眺めているヴェスタの姿を思うと、のん気な神様だと呆れてしまう。「あ、今僕が神の世でのんびり観客決め込んでるって考えたね」「カンガエテマセン。ヴェスタサマ」「神に嘘吐きとは感心できないね。まぁいいけど」 人の考えることなどお見通しとは、さすが神様といったところか。 しかし、これではうかつなことは考えられない。 仕事と錠前によってプライベートが奪われていくことに、ため息を漏らす。 それもお見通しなのだろう。 錠前は笑っているかのようにカチャカチャと音を立て揺れる。「
食堂の隣には、客人との談話のために用意された応接室がある。 食堂に比べると狭い部屋だが、それでも一般的な家屋の一室に比べれば広い。 内装は食堂よりも豪華で、壁には蔓を模したかのような金の模様が張り巡らされ、室内に置かれたあらゆるものが、高級品で揃えられている。(どうしてこうなった……) そんな落ち着かない部屋の端で、アデーレは口を閉ざし自問していた。 中央のテーブルにはティーセットや軽食で彩られたケーキスタンドが置かれている。 傍に設けられた豪華なソファには、綺麗な姿勢で座るエスティラの姿が。 そんな彼女の隣には、黒のモーニングコートにアスコットタイという、誰が見ても執事と分かる壮年の男性が立っていた。 白髪交じりの黒髪に、しわが深く刻まれた穏やかさを感じる顔が印象深い。 女性の下級使用人が男性執事と関わることは少なく、当然新人のアデーレは初対面だ。 故にどうすればいいのか分からない彼女は、閉めた扉の前から動けずにいた。「何突っ立ってるのよ。これ以上待たせないで」 変わらず不機嫌そうなエスティラが、鋭い横目でアデーレを見る。 そこに割って入るように、執事がそっと口を開く。「お嬢様、彼女も初対面の者ばかりの場所で緊張しているのでしょう」 年齢を重ねた男性らしい、低く重みを感じさせる落ち着いた声で語り掛ける執事。 その後彼はアデーレの方に向き直り
午後の仕事は、主人たちの生活スペースで行われる雑務が多い。 これは主人の目につく場所での仕事になるし、来客と対面することも頻繁にある。 そのため、午後は身だしなみも整えるため、午前の服とは別に主人が用意した制服を着用することが義務付けられている。 黒い長袖ドレスに、フリル付きの白いキャップとエプロン。 これが、バルダート家の使用人に用意された基本的な制服である。 前日は主に階下の仕事が中心だったため、アデーレはここで初めて制服に袖を通すこととなった。 「なるほど……」 いわゆるメイド服というものに初めて袖を通したアデーレ。 その完成度の高さに、思わず感嘆の声を上げた。 デザインだけ見れば、煌びやかさは微塵も存在しない地味な衣装だ。 しかし自前で用意した仕事着よりも、生地の材質や縫製の精度が優れたドレス。 ロングスカートながらも動きやすく、なおかつ形が崩れない工夫が随所に施されている。 何より、控えめだからこそ醸し出される気品を受け、アデーレの背筋は自然と伸びる。 国の執政にも関わる貴族の家ならば、使用人の制服にも相応の金と手間が掛けられているということだろう。 今さらながら、アデーレは自分が高位の家に務めているということを実感していた。 「それでは、本日はこちらで調度品の手入れをして頂きます」 先導するアメリアによって、数名のメイドと共に案内されてきたのは二階にある広い食堂だ。 中央には
アデーレがバルダート別邸に到着した時、使用人たちの間では既に怪鳥の話題で持ちきりだった。 使用人たちが集まる、屋敷一階の使用人控室。 主人らが使う部屋とは違い、シックな家具でまとめられた絢爛から程遠い部屋である。 しかしそこは名だたる名家、天下のバルダート家だ。 たとえ使用人が使う家具だろうとも、庶民が一年休まず働いても買うことのできないものばかりである。「アデーレ、本当に何ともないの?」「はい、大丈夫です」 エプロン姿にすまし顔のアデーレを前に、メリナは困惑の表情を浮かべる。 騒動を受けてもなお屋敷にやってきたアデーレには、彼女だけではなく他の使用人たちも驚いていた。 「さすがにあんなことがあったら休んでも大丈夫なのに。真面目だねぇ」 話を聞いていた先輩の使用人も、真面目なアデーレを前に苦笑を浮かべている。 「でもねアデーレ、私はあなたの身に何かあったら嫌だから。こういう時は真っ先に自分の身を守らないとダメだよ」 使用人になるのを提案したこともあってか、特にメリナはアデーレの身を案じているようだ。 こうなると、自分が騒動の渦中で、しかもそれを解決したなどとは口が裂けても言えないだろう。 少年にも秘密にするよう言った手前、このことは隠し続けなければならない。