تسجيل الدخول「実は最近大輪田くん、イメチェンしたんだよ?」
「そうなの?」
「うん。黒縁眼鏡をオシャレ眼鏡に変えちゃって、髪型もイケメン風にしてね?」
「そうそう、けっこう噂になってるよ。うちの後輩も、わざとパソコン壊れたふりして大輪田君呼んでたし。」
「そうなんだぁ。」
そっかぁ。大輪田君が元気そうで安心したよ。
今来たばかりの水餃子を、醤油酢につけて一口で頬張る。皮がもちもちで、肉汁がほどよく口の中に広がる。
唇がテカテカになってそうだから、おしぼりで唇を拭いた。ふと今日のトップニュースを思い出す。
「……あのさあ。付き合ってない男の人が女性にキスするのって、どういう時なの?」
私が何気なく聞けば、まゆゆとぱるるんが二人して顔を見合わせる。
「刈谷から恋バナって珍しくない?」
「あれでしょ。酔ってるかヤりたいと思った時じゃない?」
「ひどい二択で言葉もないよ、まゆゆ。」
あっはっはと大口を開けて笑うまゆゆ。
まゆゆは酔った勢いで同期の
まゆゆよりもまともなぱるるんが、水餃子を二個食いしながらもごもごと口いっぱいに頬張る。
「それっへちゅまひぃ、かりはにが誰かにキフはれはってことほぉ?」
「食い意地の張った4歳児ぱるる。」
「それって刈谷が誰かにキスされたってこと?」
ごめんごめん、と桂花陳酒で流し込んでから言ったぱるるん。その言葉に、目の前に座る二人の顔が見れなくなる。
「う、うん……」
「待って!わかった!アイツか!人事の
「へ? だれ?」
「人事のクズ男だよ! 女上司に媚び売るために不倫してたとかなんとか!」
「もう。まゆゆの頭の中身って週刊誌なの?」
眉根をひそめる私が、中華人参しりしりに手をつけるも。二人は目を輝かせ、回答を求めてくる。
だから勇気を出して、冷淡な彼の名前を出してみた。
「実はね。総務の、す、憂先輩……。」
「ないな。」
「うん、ないないキスとかあり得ない。」
二人が、はあ、と大きくため息を吐き、ゴマダレ油淋鶏をさくさくと食べ始める。
どうやら私の妄想だと思っているらしい。
「憂さんってあのドライで俗世に興味のない憂さんでしょ?」
「自分の異動歓迎会にすら出席しない人だよ? 小動物の刈谷なんて絶対興味ないって。」
異動歓迎会>刈谷ってこと? そりゃそうだよ。仕事と小動物比べないでよまゆゆ。
「って、憂先輩、自分の歓迎会にも出席したことないの??」
そこが一番ビックリなんだけど。飲み会に参加しない話は有名だけど、自分の歓迎会だよ?だって、この間の私の歓迎会は来てたよね?
キスされた時と同じくらいドキドキするのは桂花陳酒のせい?
「うん、営業から経理、経理から総務に異動する時の話ね!」
「なんでまゆゆそんな詳しいの?」
「朋政先輩がゆってた。」
ぱるるんとまゆゆは二人共新卒以来、同じ部署で育ち、当時まだ横浜支部にいた朋政課長が教育係だったんだって。
鬼の先輩の元、相当しごかれたらしいよ。
「そうだ、ぱるるん!私朋政課長から手紙預かってきたんだった!」
「先輩から? 嫌な予感しかないな。」
私が鞄から、ハートシールのついた手紙を取り出し、ぱるるんに渡そうとする。
でもぱるるんは心の準備が整わないらしい。
桂花陳酒のグラスを手に取り、アルコールで喉を潤そうと二口飲み込む。
「と、整った!」
「よしいけ、呪いの手紙は封を切った時点で発動するんだ!」と恐怖を植え付けようとするまゆゆ。
ラブレターだなんて、恥ずかしくて震えちゃう……なんて淡い想いは見当たらない。
むしろ痙攣している手で、そっとぱるるんが開封する。一方的な想いが、その一報に託されている。
「……え……っあ!」
ぱるるんの手には折り畳まれた手紙と、一万円札が。
私もまゆゆも、そのお札は本物なのかと目を丸くする。
「ウッソ……。まさかの、支援金?」
そのハートのイラストがついた手紙には、ただ端的にこう書かれていたのだ。
『女子会楽しんでる? 気前のいい先輩からの支援金だよ。P.S. 春風、愛してる』
わあー。東のスパダリが現金で好印象を仕掛けてきたー。
お金に目がないぱるるんが、目をキラキラと輝かせている。
「……東の朋政、ゲンナマでぱるるを釣る作戦か。」
「人聞きの悪い! 先輩は心から私たち3人の親睦を願ってだねえ、」
「いやいや、どこの世界に下心ない渋沢がいると思ってんの!」
まゆゆがぐいっと桂花陳酒を飲み干し、反論するぱるるんに睨みを利かせる。
「このお礼に、ぱるる、ひと晩身体提供するべきだよ!」
「は、はあ!? な、なな何言ってんの!」
「それぐらいのお礼はすべきだね! 出来ないならその一万円寄越しな! 推しに投資するから。」
「先輩は純粋に私たちに女子会を楽しんでもらおうと一万円をくれただけでだねえ!」
「クソ、私も男に執着されたい!」
「そこは
まゆゆは韓国アイドルの推し活に励んでいるらしい。
それにしても
ため息も出ない朋政課長の戦略。唇を尖らせてみようにも、本人いないから反抗も出来ず。
ふてくされたまま、ふと鞄からメール受信の音源を感じ取った。
ぱるるんとまゆゆが一万円を使うか使わないか討論をしている中、スマホ画面のメッセージをさりげなく読み取る。
《今日は爽ちゃんの初めてをかっさらってごめん。本当にごめん。蚊に刺されたと思って忘れて。》
サラリと読み流して、一旦テーブルの上の鶏皮と焼きトマトの串をパクリと食べる。脂身と酸味のハーモニーだとか、食レポできるほど脳が働かない。
もう一度ちゃんと読み直そうと、スマホ画面に視線を戻せば。今日一番のドキドキが激的に刈谷を襲う。
『忘れて。』!? 忘れて欲しいってこと?? 私、蚊に刺されたら、けっこう気にする方ですよ?
先輩にとっては大したことじゃなかったってこと……?
なんて返すべきなのか、『わかりました。忘れます。』が正しいのか、それとも『初キスですよ? 忘れる方が難しいです(・ัω・ั)モンモン』が正解なのか。
頭の中で色んな計算式が思い浮かぶのに。答えまでの距離が長すぎて辿り着きそうにない。
刈谷爽は何を言いたいの? 思いついた事とりあえず挙げてこ。
『……初めてなのに、』
初めてが先輩でよかったのに。嬉しかったのに。
答えまでの距離が、あとちょっと。
でもメッセージには〈……初めてなのに、〉から先が震えて打てなくて。〈……初めてなのに、〉だけを間違えて送信してしまった私。
あ……
慌てて続きを入れようと、ゆれる人差し指でキーを打つ。
でも私の緊張が波打ちすぎたのか、私が続きを送信するよりも先に、憂先輩からのメッセージを受信した。
《俺じゃ、あかんかった?》
あかんくないですよ?
だって、男の人が苦手なはずなのに、憂先輩に触れられると心臓が笑うんですもん。
「ねえ刈谷ぃ! 一万円のお礼に、キスの一つや二つしてやれって思わない?!」
「えっ、」
目の前に座るまゆゆが、酔った赤い顔で私に同意を求めてくる。
その言葉を言われて、自分の顔が一気に熱くなった。
私、いい年して何いってるんだろう。初めてのキスだから、憂先輩にももっと大事に思って欲しいだなんて。
まゆゆの言う通り、きっとキスの一つや二つ、当たり前に交わされるのがアラサーなんじゃん?
男女間の基準値が赤ちゃんの刈谷脳。
基準値をまゆゆ辺りにして考えて、先輩にもう一度リベンジのメッセージを送る。
〈すみません!冗談です!全然大丈夫です!なんともないです!〉
むしろ初めてだとか! 恥ずかしい女ですみません! と心の中で付け足しておいた。赤ちゃん、必死。
それからは、ぱるるんとまゆゆとの女子会をちゃんと楽しもうと一旦スマホを閉じた。あー恥ずかし恥ずかし。
「で? 刈谷は結局誰にキスされたの?」
ぱるるんが、改めて食い入るように聞いてくる。
ねえ、なんでこのタイミングでぶり返すの?!
「……んと。蚊。」
「蚊?!」
「うん、最近夏よりも秋のが蚊が多くない?」
「ああ、多い多い! 蚊も熱中症を心配して秋に持ち越してるんだよきっと!」
まゆゆは騒ぎすぎたのか、テーブルに突っ伏しながら私達の会話をなんとなく聞いている感じ。まぶたが重そう。
「でも刈谷、あんま相談とかしてこないし、悩みがあればなんでも言ってよね!」
明るい笑顔で、そう伝えてくれるぱるるん。
きっと
ぱるるんがトイレに立って、まゆゆがふて寝に走り出した頃。ソワソワとした気持ちで、再びスマホ画面を点灯させた。
すでに30分前には到着していたメッセージ。
憂先輩のくだけた文章を、じっくり読み取る。
《ほんまどないしよ。あ、そや。お詫びに酒蔵デートせえへん? 旅費代おごるってことで許してくれへんかな?🥺》
関西弁に付け加えられた涙目の絵文字。これは私に想像以上の効果をもたらします。
朋政課長よりも、断然愛おしさが募る。
“あ、そや。”って、文章でもそうなっちゃうのね先輩。他の人にもこんな可愛いメッセージ送っちゃってるの?
初キスを適当にあしらわれた、さっきまでの自分勝手な心臓のズキズキすら愛おしく思えてしまう。憂先輩って、実は相当なたらし?
〈ぜひぜひ☺️ちゃんと旅費は自分で出しますよ。〉(未送信)
もっと喜びが伝わる絵文字の方がいいのかな。
どんな絵文字がいいかと画面を見ていれば、トレイから帰ってきたぱるるんが嬉しそうな声で言った。
「あれー? 刈谷、なんか嬉しそうじゃん。」
慌てて画面から顔を離し、「そ、そうかなあ」と嬉しさを悟られまいとするも、すでにもう遅い。
「ねえ、ぱるるん。」
「なに?」
「恋愛で人を好きになる時って、どんな気持ちなの?」
酔っていないけど、酔っているふりをして“好き”の気持ちが知りたくなった。
まだこれが、恋と呼べるかどうかは分からないけれど。
「うーん。頭の上で鐘が鳴る感じ?」
茶化されるのかと思えば、ちゃんとした答えが返ってきて自分の目が丸くなる。
「鐘?」
「ほら、リーンゴーンって。白い鳩が飛んでいく感じ? いっとくけど除夜の鐘じゃないよ?」
「……ちょっと除夜の方かと思っちゃった。」
「それボーンって、暗い感じになっちゃうじゃん!」
大晦日にひたすら鳴り続けている除夜の鐘。ゆく年くる年と共に恋が始まるのかと思ったら違ったらしい。
「ほら、結婚式のさ、教会のてっぺんについてるじゃん!ああいう鐘のことだよ!」
「てっぺん……」
「恋に落ちる瞬間にね? 小さな天使がやってきて鐘を鳴らすんだよ!」
「鳩は? 白い鳩はどこいったの?」
「もう刈谷〜! 恋愛話になるとほんと赤ちゃんなんだから!」
自分から振った話でツッコまれてしまった。でも私は興味津々で、本気で鐘が鳴る瞬間が気になっていたのだ。
お店から出て、もうほぼ寝ているまゆゆを勝手にタクシーに乗せたぱるるん。運転手さんに、朋政課長から貰った1万円を渡し、これで送り届けてくださいって。
一万円は結局まゆゆのタクシー代に消えたのだ。
ぱるるんと駅の構内で分かれて、駅のホームでさっきのメッセージの続きを送る。
〈ぜひぜひ🥳ちゃんと旅費は自分で出しますよ。〉
ちょっとハジケ気味の絵文字で送っちゃった。
やっぱり本当は私、ちょっと酔っているのかもしれない。
《ほんま? いつにしよか。明日は? 来週にする?》
早すぎるメッセージと予定に、思わず笑みがこぼれる。
〈明日でも大丈夫ですよ。〉
《早い? 来週でもええよ。》
〈じゃあ来週にしますか?〉
《明日にしよ》
〈ふふ。楽しみにしています!〉
早すぎる予定はすぐに決定したのだ。
でも憂先輩の計算式は、やっぱり私には解けそうもない。
《泊まりで行く?》
と、泊まり?!
いきなり? 今日の明日で? キスをされたばかりの今日を起算日として、2日目で??
でも前にも先輩の家にはお泊りしているし、今さら怖気づくのもなんだか……。
先輩のうちに泊まった時、ぎゅって抱きしめられていた事実を思い出し、酔い冷ましの風にも負けない熱さが身体に走る。
〈い、いいですよ〉
メッセージをポンッと送ってから気付いてしまった。メッセージなのに、動揺している感満載。
うわぁ〜〜と心が恥ずかしくて泣きそうになるも、憂先輩がすかさずフォローを入れてくれた。
《あかん、動揺誘った》
〈だいじょうぶですだいじょうぶです! 泊まり大丈夫です!〉
《無理せんで。でもちょっと遠方の酒蔵やで泊まりやと嬉しい☺️》
〈はい! 泊まりでいきましょう!〉
《わーい🥳》
2割だけハジケた先輩の返信。刈谷のきゅんを不意にかっさらう。
一万円よりも下心あるの? ないの? ねえ、どっちなの先輩。
人生で初めての男性との初デート。まさかのお泊りで、初めての事だらけが一気に押し寄せてきた。
初めてを大事にしよう。だから、先輩も大事に想ってくれるといいなあ。
「そ、それとですね! 家煎さんの件は、元は水樹さんが言い出したことでして!」「うん。家煎が爽ちゃんを飲み会に無理やり引き込んだこと、よう分かっとるよ。でも、あれはあかんわ。」「ぅえ……?」「家煎の噂。昔、女上司と不倫しとったって話。知っとる?」 ―――思い出した。 そういえば中華ダイニングの女子会でまゆゆが言ってたっけ。人事の家煎さんが、女上司に媚び売るために不倫してたとかなんとか。「あれ、半分ほんま。不倫まではいってへんけど、上司にしつこいくらいちょっかいかけとったってのは本当。」「えぇっ」「家煎は軽い男やから。歓迎会でも家煎が爽ちゃんに近づかんようにするの、大変やった。」 「……もしかして先輩。家煎さんと、仲いいんですか?」「まさか。」「…………」 「同期。仲は良くも悪くもないな。昔一度だけ、一緒にグランピングしたってくらいやし。」 はい? グランピング? あの、有害無益そうなパリピ星の家煎さんと? それってドライな先輩にとっては、とっても仲がいいってことなんじゃないんですか? 次月の週末。 先輩には、家煎さん主催の飲み会には不参加を表明していたはずなのに。 朋政課長に、同期の小窪さんも来るからと言われて、結果的に無理やり参加させられることとなった。もちろん、憂先輩も一緒に。「朋政課長の好きなタイプってどんな子なの〜?」「どこにでも突っ走っていくような子供じみた子ですかねえ。あ、でも特に年齢にも性別にも制限は設けてないですよ?」「ええーじゃあアラフォーの私でもいけるってこと〜?!」「もちろん水樹さんのような世話好きな女性でも、表面上はドライ、中身はウェットな西の憂君でも僕は全然いけます!」「あっはは〜! 残念ながら憂君の表情は今ひとつ変わってない〜!!」 朋政課長を目の前にして、ビールのピッチャーからそのまま飲み干そうとする水樹さん。右隣の私が慌ててジョッキを手渡した。 左隣には小窪さんがいて、私にこっそりと耳打ちをしてくる。 「あれ、今日古馬都さんは来てないんですか?」「ああ。なんか用事があるらしくって。」「そうなんですね。」 やっぱり今日はお子さんとご飯を食べに行くと言っていた古馬都さん。大君と巡ちゃんが
「俺ら同期6人さ、研修から一緒に愚痴言い合って頑張ってきたメンバーじゃん。大した思い出もないけど、定年まで一緒に飲めたらいいよなあとは思う。」「6人とも飲めるしね。」「刈谷が一番ザルだけどな。」 いつも感情のぶれることのない、冷静なむがみん。6人で飲んでいても、むがみんが潰れることはほぼない。 今の台詞は彼が言うからこそ意味を持つのだ。同期と飲めなくなるのが、本当に寂しいんだろうなあって。「じゃあな。星へ気をつけて帰れ。」「うん、ブラックホールに吸い込まれないよう頑張る。」 違う路線のホームへと降りていくむがみん。別れ際になって、ようやく私に笑顔を見せてくれた。 そのレアな笑顔に励まされて、少しだけ勇気が湧く。スマホを鞄から取り出して、ホーム画面を点灯させる。 映るのは、先輩と二人で一緒に撮った晴雲酒造の煙突の中での写真。煙突内は暗いはずなのに、てっぺんから差す太陽光がいい具合に私たち二人を照らしている。 頭の中にぽわりと灯る光。白い鳩が飛び去って、大きくゆっくりと鐘が鳴る。好きになれる男の人なんて、一生できないと思っていた。 先輩と私、もしかしたら何かが食い違っているだけかもしれないのに。このままもう、りっくんとは一生話すこともできないの? 涙がこぼれない内に。情緒不安定になる前に。震える指で、先輩の番号をタップしようとした。「すみません。ちょっと、道を尋ねたいんですけど。」「え、」 私に話しかけてきた声の主を見れば、私が見下ろせるほどの男の子が一人と、女の子が一人。 どっちもはっきりとした顔立ちの、そっくりな子供だ。今先輩に連絡しようとしていたのに。すでに頭の中身は双子のホラー映画でいっぱい。「あの、おうみ倉庫っていう会社は、どの出口から出ればいいですか?」 物怖じせず、しっかりと私の目を見て話す男の子。そして男の子の影に隠れて、恥ずかしそうにしている女の子。 目測だと、私より20センチ以上は低いはず。「ええと、央海倉庫は私が働いている会社ですけど、東京本部でいいんですよね?」「はい。」「良かったら、道案内しますよ?」「え……いいんですか?」「はい。いいですよ。」 少し目を泳がせた男の子。偶然話しかけた相手が、まさか探している会社の人間だったなんて、当然戸惑うのも無理はない。 証拠になるかと、
祖父の1周忌で実家に帰れば、私に結婚を促す親戚は誰もおらず。それどころか、お決まりの『彼氏はいるんか?』なんていうおじさん等もいない。 みいんな、刈谷爽が昔から不思議ちゃんだということを知っているから。 祖父母の家の庭先でトカゲを捕まえて、首にリボンを巻こうとしていた裸足の女の子。誰も私を捕獲しには来なかった。 一人でグロッキーでトリッキーな物語をつぶやきながら登校した小学生時代。気味が悪い不思議ちゃんに近づいてくる友達はほぼいない。 一人だけ私という人間に線引をしなかったのは、あどけない笑顔の男の子だった。 不思議ちゃんが中学に上がれば、数学の威力を発揮する。 数学検定に数学オリンピック。でも他の教科は平均以下。 鞄につけているキーホルダーは、口から血を流したウサギや首のないゴーストライダー。 いつの間にか宇宙人に変貌を遂げた私は、周りからは精神的な部分を怪しまれた。 それでも信じてくれていた父と母。そして、唯一小学生の頃から仲の良かった男の子。 彼の家は教育一家で、小学校低学年から塾は当たり前。常に母親からは成績1位でいろと言われ続けていたこともあり、中学では学年首位を獲得していた。 でもその首位を、数学だけ私が奪ってしまったのだ。 椅子を蹴られて、睨まれて。それ以来彼は私を無視するようになった。 男の子という存在が怖くなり、女子校、女子大に通った私。 社会人になれば、生きていくために背に腹は変えられず。男嫌いだなんて人種差別をしてはならないと自分に言い聞かせ、心の中でジェンダーの壁をとっぱらった。 女性も男性も、みいんな可愛いピンクのゾウさんとして扱った。 でもね、一人だけ、ピンクのゾウさんになれなかった男の人がいたんだよ――――……。 週明けのど真ん中。 財務に呼ばれて経理部予算案の説明をしにいった際、非常階段で朋政課長と、パンツスーツ姿の女性が話し込む場面に遭遇する。 踊り場で課長は、何かの図表を指差しながら、女性に注意を促している模様。 邪魔をしてはいけないと、気配を消して階段を降りていく。「統計の項目をもっと広い視野で考えてみて。顧客ニーズを意識した、具体的な統計表を作れって僕は言っているんだよ。」 「は、はい。すみません!」 強めな課長の口調に、声を震わせ
「ごめんね憂君! ちょっと遅れた! 課長につかまっちゃって!」 ゆるふわなミルクティー色の髪を靡かせて、バレッタで綺麗に髪を留め直す古馬都さん。 肩の後ろへと髪をやる仕草が、とっても色香を放っていて。まばらにいる社員さんたちの視線を感じる。「いえ。大丈夫です。」 少しだけ気まずそうに視線を落とす憂先輩。私はどう見ていいのか分からず、“私なら大丈夫ですよ”と無理に平常心の笑顔を作る。 「あ、こんにちは刈谷さん!」「こんにちは。」 私に、まばゆい美しい笑顔を向ける古馬都さん。この人が未だ独身だというのが信じられない。 背は高く、身体のしなやかな作りが古馬都さんの美顔に大変見合っている。それに比べて身長147センチで胸だけ大きめの私は、あまりにも滑稽だ。 いつ見ても、どこにも勝てる要素がないことに胸の痛覚が反応する。人と比べて劣等感を感じるのは、今に始まったことじゃないのに。 なんでかな。先輩に近しい女性だと思うと、今まで感じたことないほどの絶対的敗北感を感じてしまう…。 「で、憂君、私に用事ってなんだった?仕事の話?」「いえ。」「暫くインフルで休んでたから、きっと憂君に沢山迷惑かけたよね。」「いえ、全然。」 はう。 憂先輩から誘ったという、真実はいつも一つの事実。 関節がカクカクと、角度をつけるようにしか動かない。 せっかくの貴重な二人のお昼休み。私が邪魔をしてはいけないと、素早く頭を下げてその場を後にしようとする。 でも、すぐに古馬都さんに呼び止められた。「そういえば刈谷さん! 今度|家煎《いえいり》君主催の飲み会行くんだって?」 「うぇっ!? い、いえ、私は、」「こないだの合同会じゃ全然喋れなかったし、私も行こうかなって思ってるの!よろしくね!」「い、いや。あの私は、」「家煎君、刈谷さん来るのすっごい楽しみにしてたよ? 早速狙われてるけど、あれはオススメしないなあ〜。」 このタイミングで、その話。 家煎さんって仕事が早すぎる。まだ午前中に出た話しじゃなかった? まずいよなと先輩に向けられない自分の顔がオートマチックにこわばれば。前からカタリと器がぶつかる音が鳴った。 「その飲み会って、いつ?」「え?」「その飲み会って、いつですか?」 憂先輩が、私を一瞥して
『爽ちゃん、仕事忙しいよな。次いつ夕飯一緒いける?』「ええと。そうですねえ、来月初めの金曜日はどうでしょうか?」 『そこまで二人きりになるの、待てん。今週の金曜は?』「すみません。。今週は祖父の1周忌で実家に変える予定でして。来週はりっくん、研修ですもんねえ。」『いややわ。どうにかなる。』 電話ですれ違いを確認したところで、先輩とお付き合いをして1ヶ月が経ちました。 年末調整業務がようやく終わったと思えば、すでに決算に向けた業務が波のように押し寄せる日々。 羅列する数字とにらめっこするのは嫌いじゃないけれど、やっぱり横浜支部とは比べ物にならない量。エクセルの枠だって小さくなるし、用紙もA3以上のポスター並。 目に良いブルーベリー効果を狙って、できる限り朝はパンにブルーベリージャムを塗って食べている。心ばかりの効果すら期待はできないのだけれど。 そもそも部署の数が倍になるから、取りまとめるにも相当な精神力を要する。 ということですから、私は仕事の業務でいっぱいいっぱい。平日ご飯に行こうにも、どちらかが残業で都合がつかず。 もっとうつつを抜かしたい私に、疲労ばかりがのしかかり、おうちに帰っておよそ30分で夢の中。 つまり、先輩とは酒蔵巡り以来デートは出来ていない状態です。 「来期の予算申請、もう財務に回したんだって?さっすが数字の鬼だね刈谷さん!」 経理部課長代理の水樹さんが、すれ違いざまに私の肩を叩いて言った。「早かったですかね? 消耗品の予算、去年よりも1割増で出しておいたんですけれど、」 「助かる助かる! だあれがペーパーレスするかってのよ。裏紙なんて、ペンで大きく『あ』って書いて裏紙にしてやるってのよ! ねえ?」 節約しないにしても、わざわざ無駄に『あ』って書くのは面倒な気もします。 お子さんが一人いらっしゃるという水樹さんは、いつも気さくに話しかけてくれる良き上司だ。 このまま出世街道を突き進みたい気持ちはあれど、お子さんのためにせいぜい課長止まりの心構えで定年まで頑張っていきたいと、歓迎会で話してくれた。「ねえ! それよりさ。刈谷さんこの間、朋政課長に呼び出されてたじゃん?」「あ。ああー……。そうでしたね。」「刈谷さんって朋政課長と仲いいの?」 爛々と輝かせた目で、食い入るように見つめられる。 水樹さ
松岡醸造には、酒蔵には珍しく、大吟醸のソフトクリームなんてもんもある。 爽ちゃんと半分こしようと、一つだけ買うた。 一つだけ買うて半分こて。これってどう考えても誰かさんへの当てつけやんな? 俺の性格の悪さがこんな場面でも発揮するとは。 爽ちゃんだけを一点に見つめて、彼女の目の前にソフトクリームを差し出す。 すぐにキラキラと目が輝きだして、なんや、ご飯を待ちわびたワンコのようにもみえるのは内緒にしとこ。「半分こしよか。」「え? わ、私と半分こ、ですか?」 「いややった?」「い、いえいえ! ええと、ではりっくんからお先にどうぞ!」 爽ちゃんの小さな顔が赤くなっとる。キラキラさせたり、赤くなったり忙しないなあ。 言われた通り、先に一口ぱくりとソフトクリームを頬張る。唇に冷たい感触が残って、舌で舐め取れば、爽ちゃんに穴が開くほど見られた。 「どないした?」「……りっくんの色気にやられそうです。」「なんやそれ。」 “色気”なんて俺にある? 妙に照れくさくなって、今度はソフトクリームを爽ちゃんの口元に差し出した。 小さく口を開けて、舌を出す姿に脳内が悶えかける。自分の口がニヤけているんやないかと、慌てて手の甲で隠した。「ん! ちゃんとお酒の風味がありますね。でもさっぱりしてる!」「うん。アルコール分はないらしいけど、さっぱりしてて美味いな。」 大吟醸ソフトは美味いし、爽ちゃんはそれ以上にかわいい。そんなことはずっと前から知っとる。 でも、俺が持つソフトクリームを、そのまま俺の手首を両手でつかんで食べる爽ちゃん、かわいくてたまらん。 リスとか、ハムスターとか、今までは小動物にも似たかわいさを感じていたけれど。自分の彼女となってからは、もっとそのかわいさが際立ってかわいい。 語彙力が瀕死になるな。「爽ちゃん、口、ついとる。」「あ、ハンカチ、」 爽ちゃんが鞄からハンカチを取り出そうとしたところで、その唇についた大吟醸ソフトを指で拭う。「爽ちゃんの唇の温度で、いい具合に温まっとる。」 自分の指についたソフトクリームを一舐めすれば、爽ちゃんがピクリと反応するのが分かった。 顔を赤くして、不意にうつむく。今俺から見えるのは、爽ちゃんの頭。艶のある髪が天使の輪っかを作っとる。 爽ちゃんの行動一つ一つがたまらなく愛お







