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第5話

Author: ふたよし
彼が私を「嘘つき」だと叫ぶ声だけが、耳に残った。

確かに、私は彼に嘘をついた。けれど、彼こそが正真正銘の大嘘つきだ。

九年間、彼は私を九年間も騙し続けた。

九年の献身をもってしても、彼の妻になれなかった。

いいわ。だったら、別の人の妻になってやる。

ギリギリで飛行機に乗り込むと、飛行機は定刻通りに離陸した。

席に着くと、私はアイマスクをつけて休むことにする。

この二日間、家を引き払うための荷造りで、まともに眠っていなかったからだ。

ゆっくりと目を閉じると、今までに見たこともないような、素敵な夢を見た。

夢の中で、私はとても素敵な人と結婚していた。

彼は私の夢を無条件で応援してくれる。

私と一緒にいるために時間を作り、世界中を旅して、オーロラを見に連れて行ってくれた。

喜びも悲しみも分かち合い、共に困難を乗り越え、命が尽きるまで、互いに寄り添い続ける。

三時間後、飛行機は東都国際空港に着陸した。

久しぶりに踏む故郷の地に、私はかえって気後れするような、落ち着かない気持ちになった。

辺りを見回してみるが、お母さんが言っていた、迎えに来てくれるはずの婚約者の姿は見当たらない。

嫌な予感が胸をよぎる。之野にあまりにも深く傷つけられてしまったせいだろうか。

少しでも不穏な気配を感じると、すぐに逃げ出したくなってしまう。

でも、単なる誤解かもしれないし、すれ違ってしまうかもしれない。

私はお母さんに電話して訊いてみることにした。

電話をかけようとしたその時に、誰かに肩を軽く叩かれた。

驚いて、振り返る。

目の前に立つ男性は、私よりずっと背が高く、見上げなければ顔が見えないほどだ。

之野も整った顔立ちをしていると思っていた。

けれど、目の前の人と比べてしまえば、之野など足元にも及ばない。

その顔立ちは彫りが深く、鼻筋はすっと通り、唇は熟した果実のように赤い。

鼻の先にある小さなほくろが、さらに人の心を惹きつける。

「高坂詩織さん、ですね?初めまして、婚約者の五十嵐彰(いがらし あきら)です」

「あ、はい。どうも」

私がどもりながら挨拶をすると、電話の向こうからお母さんの声が聞こえてきた。

「もしもし、詩織?どうしたの?」

お母さんが尋ねる。すると、彰は私の前から身を乗り出し、スマホのスピーカーボタンを押した。

「もし
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