LOGIN「おはようございます」
更衣室で挨拶をした私に、同僚たちは目を見開いた。いつもポニーテールで幼く見せ、目立たぬ薄化粧に徹していた私が、ウェーブがかった髪を肩に垂らし、唇を深紅に彩っている。視線を逸らすことなく、余裕の笑みを浮かべる私の姿に、彼女たちは驚きを隠せなかった。クスクスという嘲笑が一瞬止み、休憩室の空気が張り詰める。
「おはようございます」と穏やかに声をかけると、誰もすぐに返事をせず、ただ私を値踏みするように見つめるだけ。昨日まで後ろ指を指していた相手が、急に別人のように振る舞う姿に、彼女たちは戸惑っている。
私はロッカーに貼られた幼稚な悪戯書きの紙を、彼女たちの目の前でそっと剥がし、嫌がらせの中心人物と思しき先輩に差し出した。
「コピー用紙の無駄遣いです、もうやめて下さい」
彼女は眉を顰め、悪戯書きをひったくると勢いよくクシャクシャに丸め、ゴミ箱に投げ入れた。いつものクスクス笑いは起きず、更衣室が一瞬静まり返る。私の中に悔しさや涙はもうない。代わりに冷たい決意だけが胸に満ちていた。
私は「お先に失礼します」と静かに言い、更衣室のドアを閉めた。背後でゴミ箱を蹴り上げる音が響いたが、振り返る気は起きない。
廊下を歩きながら、ポケットのホテルのカードキーに触れる。今日から、私を嘲る者も、裏切る者も、誰も怖くない。
私は相変わらず一人で弁当箱の蓋を開けたが、背後のヒソヒソと囁く声は全く気にならなかった。背筋を伸ばし、窓の向こうの椎木を眺めゆったりとランチを楽しんだ。すると目の前に食堂の湯呑み茶碗が置かれ、湯気が立ち上った。
顔を上げると、向かいの支店から出向中の女性社員・佐藤さんが微笑んでいた。
普段は広報課でほとんど顔を合わせない彼女が、なぜか私のテーブルに座り「お昼、一緒にいいですか?」と小声で言った。驚きながらも頷くと、彼女は自分の弁当を広げ「髪、下ろすと雰囲気変わりますね。素敵です」と囁いた。その優しい視線に、胸の奥が少し温かくなる。今日の私を変えたのは、ただの髪型じゃない。もう誰も私を小さくさせることはできない。
銀行のシャッターが降り、私はいつものようにインカムを外す。凝り固まった首をゆっくりと回していると、隣の同僚が帰り支度をして椅子から立ち上がった。いつもは受け身だった私は、思い切って彼女に声をかけた。
「お疲れ様でした」
彼女は一瞬、驚いた表情をして見せたが、戸惑いながらも小さな声で「……お先に」と会釈をした。視線が絡んだその瞬間、クスクス笑いが起きなかったことに気づく。清々しい風が吹いたような気がする。
更衣室のロッカーに悪戯書きの貼り紙はなかった。社員出入り口に向かう廊下で、佐藤さんが追いかけてきて「一緒に帰りませんか?」と微笑んだ。拒む理由などない。私は頷き、初めて誰かと並んで銀行を出た。外の冷たい空気が頰を撫で、ポケットのカードキーが軽く感じられた。明日への一歩が、確実に踏み出せた気がした。
「葛城さんは社長さんの奥様なんですよね?」
「……ええ、まぁ……そんな感じです」 「どうして銀行でお勤めを?」佐藤さんは興味津々で目を輝かせた。正直に話すかどうか悩んだが、やはり日頃の鬱憤を誰かに吐き出したくて、言葉が自然と零れた。
「結婚前から続けているんです。葛城家に入ってからも、義母に『暇を持て余すよりは』と言われて……。でも本当は、家にいると息が詰まるから。ここなら、少しだけ自分の時間が持てるんです」
佐藤さんは黙って聞き、「大変なんですね」と小さく呟き、私の目を見て優しく微笑んだ。その視線に、初めて誰かに理解された気がして、胸の奥が熱くなった。すると信号待ちで佐藤さんが踵を返した。
「あ、私こっちですから……」
「今日はありがとうございました」 「また明日」 「おやすみなさい」佐藤さんは手を小さく振りながら横断歩道を渡って行った。私はその後ろ姿が小さく消えて見えなくなるまで見送った。街灯の柔らかな光に照らされた背中が、なんだか頼もしく見えた。ポケットのカードキーが指先に触れ、忠則の秘密がまだ重くのしかかるのに、今日は少しだけ肩の荷が軽くなった気がする。家に帰っても菊乃さんの視線が待っているだろう。それでも、明日また佐藤さんに会える。それだけで、夜道の冷たさが少し和らいだ。
私は再び菊乃さんに、「帰りが遅くなる」とメッセージを送った。いつもならば嫌味の1つも返って来るのに、今夜は「気をつけて帰りなさい」といくらか優しい返信があった。画面を見つめ、一瞬戸惑ったが、すぐにスマホをポケットにしまった。
「……よし!」
耳に心臓の鼓動がうるさい。緊張で指先が震える。私はガラス張りの建物が街灯に輝く高級ホテルの街並みを目指し、バスのステップを踏んだ。
車窓に映る私の顔は、昨日までの私ではない。髪を下ろし、口紅を濃く塗ったその表情は、どこか決意に満ち、目が鋭く光っている。
ポケットのカードキーが布越しに冷たく、忠則の秘密を握っている実感が全身を駆け巡る。バスが揺れるたび、薔薇の香りの記憶と、あの女性の長い黒髪が頭をよぎる。今夜、私はただ帰るだけの妻ではなくなる。
私の素性が知れた以上、六本木のマンションに住み続けることは出来なかった。 今となっては霧島の面影が残るこの部屋にも未練はなく、オフィスも引き払い、結城の屋敷に戻ることにした。 最後に一度だけ部屋を見回した。 薔薇の花束を飾っていた花瓶は空のまま、キッチンには二人が使ったコーヒーカップがまだ並んでいる。私はそれを冷たい指で触れ、静かに息を吐いた。「もう、いいわ」 荷物はほとんどなく、必要なものはすでに卯月が運び出していた。 私は鍵をテーブルに置き、ドアを閉めた。カチャリという小さな音が、まるで過去を断ち切る合図のように響いた。 黒いセダンがマンションの車寄せで待っていた。後部座席に乗り込むと、卯月がルームミラー越しに静かに尋ねた。「お嬢様、よろしいですか?」 私は窓の外に広がる夜の街並みを眺め、短く答えた。「ええ。もうここには用はないわ」 車が動き出す。六本木のネオンが後ろに流れていく。霧島との甘い記憶も、裏切りの痛みも、すべてこの街に置いていく。 結城の屋敷に着くと、白檀の香りが私を迎えた。お祖父様は書斎で葉巻をくゆらせながら、静かに頷いた。「よく帰ってきたな、美穂子」 私は深く頭を下げ、はっきりと言った。「はい。これからはよろしくお願いいたします」「屋敷も賑やかになる......のぉ、卯月」 卯月が私の後ろに控え、静かに頭を下げる。◇◇◇ 私は”例の件”でお祖父様に呼ばれた。「美穂子、黒崎組の裏金ルートをマスコミに流したのはお前じゃな?」 その表情は険しく、私は叱責される幼子のように正座で縮こまった。畳の冷たさが膝に染みる。「……申し訳ありません」 お祖父様は大きなため息をひとつ吐くと、葉巻を灰皿に押しつけた。「報復はまだじゃと言う取ったのに……とんだじゃじゃ馬じゃな」 苦笑いがその口元に浮かぶ。厳しい目はそのままに、どこか楽しげな響きが混じっていた。私は畳に視線を落としたまま、静かに答えた。「お祖父様のお言葉は重々承知しております。でも……卯月が撃たれた傷を見た瞬間、私の中で何かが切れてしまいました。あの連中に、何もさせたくなかった」 お祖父様はゆっくりと頷き、ウイスキーのグラスを手に取った。氷がカチリと乾いた音を立てる。「気持ちはわかる。だが、結城の跡目として動くなら、もっと冷たく、もっと深く考えろ。
私は壊れた窓ガラスを背に立ち、散らばった資料を静かに見下ろした。黒崎組の荒らし方は乱暴で、焦りが見えていた。「慌てた顔が目に浮かぶわ」 黒いUSBが朝日に反射する。 中身は湾岸プロジェクトの裏帳簿だけではない。黒崎組が結城組のシマに流し込んだ裏金、霧島を通じて私に近づいた経緯、そして黒崎開発の入札妨害工作の全記録が詰まっている。 私はゆっくりと微笑んだ。笑顔は冷たく、しかし確かに燃えていた。「卯月」「はい、お嬢様」「このUSBのコピーを、今日中に黒崎組の幹部全員と、湾岸プロジェクトの関係企業に匿名で送って。送信元は『黒崎内部の良心派』に見せかけて」 卯月は一瞬、目を細めたが、すぐに深く頭を下げた。「かしこまりました。……お嬢様は、報復をされないと決めたお祖父様の言葉を、こうして破るのですね」 私は窓の外に広がる街並みを見つめ、静かに答えた。「お祖父様は『報復はしない』と言った。でも、私は結城美穂子よ。誰かに傷つけられたら、ただ耐えるだけでは終わらない」 私は床に落ちていた自分の名刺を拾い上げ、指で軽く弾いた。「黒崎組は、私の血を狙い、卯月を傷つけ、霧島を使って私を騙した。なら、私は彼らの『表の顔』を、静かに、しかし完全に潰す」 卯月が低く言った。「湾岸プロジェクトの入札……黒崎開発はもう、信用を失いますね」私はUSBを握りしめ、冷たい笑みを浮かべた。「信用だけじゃないわ。資金の流れも、裏取引も、すべて明るみに出す。黒崎組は表の事業を失い、警察の目が一気に厳しくなる。そして——」 私は振り返り、卯月の目を見た。「霧島が生きているなら、彼にも同じものを届けて。『お前が私を裏切った代償よ』と」 霧島の失敗が露見すれば、彼は黒崎組からも制裁を受けるだろう。 卯月は静かに頷き、初めてわずかに微笑んだ。「お嬢様の逆襲は、静かで、冷たく、残酷ですね」 黒崎組の内部告発として、湾岸プロジェクト入札妨害や裏金の流れが一気に露呈した。警察の家宅捜索が入り、その様子を私は黒いセダンの窓から冷ややかに見つめた。 黒崎開発の本社ビル前に何台ものパトカーが並び、制服警官と鑑識が忙しく出入りしている。テレビ局のカメラが回り、記者たちがマイクを向けている。玄関では黒崎の幹部たちが青ざめた顔で連行されていく姿がはっきり見えた。 私は後部座席に深く体を
黒崎組の襲撃に対して、湾岸プロジェクトの妨げになると判断したお祖父様は「報復はしない」と決断した。幹部の中にはその決定に不満を持つ者もいたが、結城勝次郎の言葉は絶対だ。 私は書斎の隅でその話を聞き、胸の奥がざわついた。 卯月の傷がまだ癒えていない今、報復を控えるという判断は理に適っているのかもしれない。 だが、私の血は静かに煮えたぎっていた。 お祖父様は葉巻の煙をゆっくりと吐き出し、私を見て言った。「美穂子、今は耐えろ。湾岸の権利を黒崎に渡すわけにはいかんが、表立って抗争を起こせば警察の目が厳しくなる。時期を待て」 私は畳に視線を落とし、静かに答えた。「……わかりました。お祖父様の判断に従います」 しかし、心の中では別の炎が灯っていた。報復をしないということは、黒崎組に「結城は弱くなった」と見せつけることでもある。 霧島の裏切り、卯月の血、すべてを無駄にはしたくない。 その夜、卯月が私の部屋を訪れた。左腕はまだ包帯のままだったが、顔色は少し良くなっていた。「お嬢様、ご決断を」 私は彼の目を見て、静かに言った。「報復はしない。でも……黒崎の牙を折る方法は、他にもあるわ」 卯月はわずかに目を細め、深く頭を下げた。「私はお嬢様の影です。お望みのままに」 白檀の香りが漂う部屋で、私は静かに微笑んだ。結城美穂子として、私はもう誰かの決断にただ従うだけの女ではない。湾岸プロジェクトの裏側で、黒崎組の息の根を止める方法を、私は自分の手で探し始める。「......ひどい」 オフィスに入ると悲惨な惨状が目の前に広がった。窓ガラスは大きく破られ、冷たい風が吹き込んでくる。戸棚や机は倒され、観葉植物の土がカーペットに飛び散り、足の踏み場もないほど荒らされていた。 何かを必死に探したように、資料が床一面にばら撒かれ、数台のパソコンはハードディスクごと持ち去られていた。私はゆっくりと部屋の中央に立ち、荒らされた光景を静かに見渡した。「これを探していたのね」 私はスーツのポケットからUSBを取り出し、ほくそ笑んだ。 小さな黒いUSBは、湾岸プロジェクトの決定的な裏帳簿と、黒崎組との資金の流れを記録したものだ。本物のデータはすでに卯月が安全な場所に移してあり、ここに残していたのは囮だった。 私は壊れた窓枠に寄りかかり、冷たい風に髪をなびかせながら
温かい手に、ヌルリと熱いものを感じた。それは卯月のワイシャツの袖から染み出していた。鮮やかな赤だった。「……卯月!」 私は彼の手を握ったまま、階段の途中で足を止めた。卯月の顔は相変わらず冷静だったが、額にうっすらと汗が浮かび、唇の色が少し薄くなっている。「大丈夫です。お嬢様……早く地下へ」「大丈夫じゃないわ! 血が……」 彼の左腕から、銃創らしい傷が開き、血が絶え間なく流れ落ちていた。先ほどの追撃で被弾したのだ。防弾ガラスが防いだはずのドア側面を、至近距離で撃ち抜かれたらしい。 卯月は私の手を引き、地下の鉄扉の前まで来ると、舎弟の一人に短く指示を出した。「医務室を開けろ。お嬢様を先に中へ」 私は彼の腕を放さず、声を震わせた。「卯月、座って! 今すぐ手当てを……」 彼は弱く微笑み、私の肩を優しく押した。「お嬢様が無事なら、私は……」 言葉の途中で、卯月の体がふらりと傾いだ。私は慌てて彼の体を支え、血で滑る手で必死に抱き留めた。地下室の鉄扉が重く開き、舎弟たちが駆け寄ってくる。温かい血が、私の指の間を伝い落ちる感触が、胸を締めつけた。 暴力団の跡目として生きるということの本当の意味を知った。これまでは結城組の表の仕事に携わり、これでいいのだと思っていた。けれどその裏で、こうして卯月が支えてくれていたのだと改めて気付き、その現実の恐ろしさと、卯月の覚悟の重さに胸が締めつけられた。 地下室の薄暗い医務室で、私は卯月の左腕に巻かれた包帯をじっと見つめていた。血は止まったものの、彼の顔色はまだ優れない。舎弟たちが去った後、部屋には私と卯月だけが残された。「……ごめんなさい、卯月」 私は彼の右手をそっと握った。 自分の指がまだ震えているのがわかる。「私がもっと早く気付いていれば、あなたをこんな目に遭わせずに済んだのに」 卯月は弱く微笑み、逆に私の手を包み込んだ。熱はまだ残っているが、その手は確かで優しい。「お嬢様が無事なら、それで十分です。私は元々、お嬢様の影として生きる覚悟で結城に入った身。今日の傷など、たいしたことはありません」 私は唇を噛み、目を伏せた。「影……そうね。私はずっと、あなたを影だと思っていた。でも本当は、あなたがいなければ、私はとっくに潰れていたわ。葛城家でも、霧島の時も……いつもそばにいてくれた」 卯月は静か
ビルの車寄せに黒いセダンが停まる。いつものように後部座席を開けようとした卯月の手がピクリと止まった。防弾ガラス越しに彼の口元が「隠れて」と動いた。 私は咄嗟に座席に伏せ、周囲の様子を窺った。 空が青く、朝の光が眩しい。 次の瞬間、激しい衝撃が立て続けに車のドアにめり込み、防弾ガラスがビリビリと音を立てて震えた。卯月は運転席に滑り込み、アクセルを思い切り踏んだ。タイヤが地面を強く擦り、車体が急発進する。後部座席に体を押しつけられたまま、私は息を殺した。「伏せていてください、お嬢様!」 卯月の声は低く、しかし鋭い。バックミラーに映る彼の目は、いつもの冷静さを失わず、冷徹に周囲を睨んでいる。後ろから連続する乾いた銃声が響き、車体に何発も命中する音がした。 私は座席の隙間から外を見た。ビルの陰から黒いスーツの男たちが飛び出し、こちらに向かって走ってくる。黒崎組の人間だ。卯月はハンドルを切って車を急旋回させ、路地へと滑り込ませた。タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく揺れる。「霧島の息がかかった黒崎の残党ですね。霧島の報復が早かった」 私は歯を食いしばり、首筋の古い傷が疼くのを感じながら、低く言った。「卯月……このまま屋敷に戻る?」「いえ、まずは安全な場所へ。黒崎の連中はまだ諦めていません」 車は朝の街を猛スピードで駆け抜ける。後続の黒いワゴンが二台、執拗に追ってくる。この攻撃が、黒崎組との本当の戦いの始まりだった。 卯月はスピーカーフォンで結城組の事務所に連絡を入れた。「こちら卯月。お嬢様を連れて移動中だ。黒崎の連中が尾けてきている。最寄りのシマで退避する。第五事務所、すぐに受け入れ準備を」 この街には二十数ヶ所、大小の事務所がある。 それらは自分たちの”シマ”のトラブルを回避したり、経営しているバーやクラブからみかじめ料を徴収する拠点だ。表向きは建設会社の営業所や物流会社の倉庫を装っているが、実際は結城組の血が流れる縄張りそのものだった。 卯月はハンドルを切りながら、低く続けた。「第五事務所なら、地下に鉄扉の隠し部屋がある。お嬢様をそこへ匿います」 私は後部座席に体を低くしたまま、窓の外を睨んだ。後続の黒いワゴンがまだ執拗に追ってくる。銃声はもう聞こえないが、いつ再び始まるかわからない。「卯月……大丈夫なの?」「はい。お嬢様をお守りす
「ありがとう、あなたの気持ちは分かったわ」 私はゆっくりと立ち上がった。畳の感触が足の裏に冷たく残る。「……お嬢様」 卯月の声が低く、わずかに震えた。私は振り返らず、襖に向かって歩き始めた。廊下の古い板が軋む音が、まるでこれからの自分の進むべき道を表しているかのようだった。「すぐに答えは出せないけれど、考えてみます……あなたが私の夫として相応しいか……愛することができるのか」 足を止めたまま、後ろの気配を感じる。卯月はまだ畳に正座したまま、動かない。「はい。お嬢様のお心が決まるまで、私はここで待っています」 その声はいつも通り静かで、忠実だった。でも、そこに今まで聞いたことのない、切実な響きが混じっていた。私は廊下を歩きながら、胸の奥で複雑な感情が渦を巻くのを感じた。これまでの男たちの裏切りでできた傷が、まだ疼いている。卯月の想いは温かく、確かに心に染みるのに、それを受け入れる勇気がまだ湧かない。 振り子時計の音が遠くから聞こえる中、私は自分の部屋の襖を開けた。白檀の香りが薄れ、夜の冷たい空気が頰を撫でる。私はまだ、誰かを心から信じきれない。それでも、卯月の言葉は、静かに、しかし確実に私の胸に残っていた。 翌朝、私は結城の屋敷の自室で目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、枕元を淡く照らしている。首筋の傷はまだ少し疼くが、昨夜の卯月の告白が頭の中で繰り返され、胸がざわついた。 着替えを済ませ、鏡の前に立つ。髪を下ろしたまま、薄く紅を差す。葛城家にいた頃の控えめな自分とは、もう違う。結城美穂子としての顔が、少しずつそこに現れ始めていた。 食堂へ向かうと、お祖父様はすでに座っていた。湯飲み茶碗を手に、静かに私を見上げる。「おはよう、美穂子。昨夜はよく眠れたか?」「ええ……まあ」 私は席に着き、味噌汁の湯気をぼんやりと眺めた。お祖父様は葉巻をくわえながら、穏やかだが鋭い声で言った。「卯月の件、どう考える?」 私は箸を止め、ゆっくりと答えた。「……まだ、答えは出せません。でも、卯月は私を裏切らない人だと、信じたいと思っています」 お祖父様は小さく頷き、茶を一口飲んだ。「時間がかかっても構わん。ただし、結城の跡目を考えるなら、いつまでも待てぬぞ」 その言葉に、私は静かに頷いた。胸の奥で、卯月の低く真っ直ぐな声が蘇る。食堂の外







