Share

第6話

Author: 霜晨月
last update publish date: 2025-11-22 16:55:51

周歓は冷や汗をにじませながら、咄嗟に口から出まかせを放った。

「り、李様……」

陳皇后は小さく眉根を寄せた。

「李様? ああ……御膳房ごぜんぼうの李善福りーぜんふくかい?」

周歓は即座に頷いた。

「は、はい、左様です!」

李善福が誰なのか、実のところ周歓はまったく知らない。ただ、機転と度胸だけはあった。ありふれた姓を思いつくまま口にしたら、まさかの的中──まぐれ以外の何物でもない。

「せっかくの男前だというのに、御膳房に配属だなんて惜しいことだわ」

陳皇后は手にした団扇をふわりと揺らし、口元を隠しながら、品定めするように周歓を眺めた。

「こうしましょう。今日から、わたくしの側に仕えなさい」

周歓は一瞬呆然とし、顔を上げて、戸惑いのまま陳皇后を見つめた。

早く皇宮から逃げ出したいだけなのに、誰がお前の付き人なんかになるもんか──!

あまりの事態に言葉を失っていると、陳皇后のそばに控えていた侍女が、ぴしゃりと鋭い声を投げつけた。

「まだぼさっとしているのですか? 皇后様が異例の抜擢をくださったのですよ。これ以上ない恩寵でしょう。早くひれ伏して感謝を申し上げなさい!」

「……は、はっ!ご厚恩に感謝いたします」

陳皇后がすでに言葉を発した以上、周歓に拒むすべはなく、彼女の前に跪いて何度か頭を下げ、ありがたく感謝の意を示すほかなかった。

「行きましょう」

素直で可愛らしい宦官をそばに置くことになったのが嬉しいのか、陳皇后は機嫌よく団扇を揺らしながら言った。

周歓はしょんぼりと、その一行の後ろについていくしかなかった。

彼には陳皇后が次にどこへ向かうのかまったく見当がつかず、周囲を見回せば、宦官や宮女たちは皆、厳しい面持ちで黙り込んでいる。これ以上質問を投げるなど、さすがに気が引けた。

災いは口より出る。余計なひと言で再び面倒事を招くわけにはいかない。

輿に従っていくつもの高くそびえる宮門を抜け、やがて一行は永楽殿と呼ばれる宮殿の入口へとたどり着いた。輿は石段の前で下ろされる。

「……周歓」

陳皇后は細く美しい手を差し出し、促すように言った。

周歓は慌てて近づき、その手を取った。

途端、陳皇后は驚いたようにわずかに頬を染めた。すぐそばにいた宮女が慌てて顔をこわばらせ、怒りを込めて叱責した。

「無礼者! 誰がその汚い手で皇后様に触れてよいと言ったのです!?」

周歓は心底不思議そうな顔で答えた。

「わたくし、さっき手を洗ったばかりで、汚くありません」

ぷっと、陳皇后は思わず吹き出した。手を軽く振りながら言う。

「もうよいわ、緑珠りっしゅう。この子は宮殿に来たばかりで何も知らないのだから、大目に見なさい」

緑珠と呼ばれた宮女は、皇后の言葉に従って口をつぐんだものの、その瞳には露骨な軽蔑が宿り、周歓を鋭く睨みつけた。

陳皇后は周歓の手の甲にそっと自らの手を重ね、しなやかに輿から降り立つと、微笑んで言った。

「あなた、作法は知らなくても、素直で可愛らしくて、人を不快にさせるようなところがまるでないわ。さあ、行きましょう」

そう言って、衣の裾をひるがえしながら永楽殿の中へ歩みを進めた。

周歓は陳皇后と緑珠を交互に見やり、緑珠は手にした食籠をその胸元へ突き出すように押し付けた。

「突っ立って何してるの。皇后様がついてこいとおっしゃったでしょう!」

「行けばいいんだろ、行けば。何そんなに怒ってるんだよ」

周歓は食籠を受け取りながら思った。たかが一介の宮女のくせに、誰の許しでそんな態度なんだ? とんでもない癇癪持ちだ。

「あんた……」

緑珠は言葉を詰まらせたが、周歓が白目をむいてぷいと背を向けて歩き出すのを見ると、怒りのやり場を失い、地団駄を踏んで隅で一人むくれてしまった。

周歓は陳皇后の後に続いて、皇帝の寝宮である永楽殿に入ったが、奥へ進むほどに胸のざわつきは増すばかりで、不吉な予感がじわりと広がっていった。

そして陳皇后と共に大殿へ踏み込んだその瞬間、ついにその予感の正体に気づいた。

この場所……どこかで見たことがある……?

待てよ……この調度品、この内装、そしてこの寝台――これは彼と蕭晗が一夜を共にした場所ではないか!?

周歓はたちまち冷や汗が雨のように噴き出し、心の中で「しまった」と呻いた。ようやく皇帝のもとから逃げおおせたと思ったのに、まさか巡り巡って、再び元の場所へ戻ってくる羽目になろうとは。

神様、この悪戯は少しも笑えないぞ。

もちろん陳皇后は周歓の内心など知る由もなく、迷いなく奥の間へ進んでいく。その先には、寝台に横たわり入り口に背を向けている男が一人。

言うまでもなく、それは──悪事を働こうとして逆に返り討ちに遭い、事が済んだ途端に手のひらを返す、あの大楚の皇帝、蕭晗である。

「陛下、今宵はずいぶんお早いお休みで」

陳皇后は静かに声をかけた。

その瞬間、気のせいか──周歓には、蕭晗の身体がかすかに震えたように見えた。

「今日、少し体の具合が悪くて……」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • この男、毒花の如く   第265話

    夕暮れ時、周歓が家へ足を踏み入れると、食欲をそそる濃厚な香りが漂ってきた。鶏を煮込む匂いだ。その匂いは、厨房に繋がる裏庭から流れてきていた。裏庭へ向かって歩いていくと、遠くから楽しげな笑い声が聞こえてきた。庭でせわしなく立ち働いているほっそりとした人影は、他でもない孟小桃であった。孟小桃は作業のしやすい粗末な麻の着物姿で、薪を割ったり水を運んだりと、まるで独楽のように、周歓の両親の周りをくるくると動き回っている。厨房で腕を振るっているのは、周歓の父である周勁松だ。寡黙で厳格な性格だが、見事な料理の腕前を持ち、味にもうるさい彼は、三十を過ぎた今でも毎日欠かさず自ら包丁を握っていた。父とは対照的に、母の孫氏は元々豪商の令嬢であり、気さくで親しみやすい性格をしていた。ただ一つの欠点は、何をするにも手先が不器用なことである。おまけに彼女はじっとしていられない性分で、夫が厨房で忙しくしているのを見ると、いつもそばをうろうろと歩き回り、何か手伝おうとするのだ。だが結局は裏目に出て、良かれと思ってやったことで余計な手間を増やしてしまうのが常であった。こうした些細な諍いで、夫婦は日常的によく口論になっていた。周歓にとって、それはとうに見慣れた日常の光景である。しかし、孟小桃が来るようになってから、周家は急に和やかになった。孟小桃は手際が良く、機転も利き、何かあればいつも率先して手伝ってくれる。夫婦が今にも喧嘩になりそうなのを見ると、彼はいつも自然な様子で間に入り、それとなく話題をそらしてしまうのだ。時が経つにつれ、孟小桃は周家を円滑に回す潤滑油となり、一家に笑顔をもたらす存在となっていった。特に孫氏は、孟小桃を見るだけで目尻を下げて喜び、まるで十歳も若返った

  • この男、毒花の如く   第264話

    案の定、沈驚月は微かにまぶたを引きつらせた。「どうしてだ」周歓はさも訳知り顔で分析し始めた。「そんなの聞くまでもないだろう?こいつはすごく綺麗じゃないか。他の扇子を見てみろよ。白か黒ばかりで、つまらないったらありゃしない!これだけが、こんなにも他と違って際立っている。この色を見てみろよ、隣の親父の被り物より、よほど青々とした見事な緑色だぜ。何て言ったっけな……そうそう、『青は藍より出でて藍より青し』ってやつだ!俺に言わせりゃ、この極彩色こそあんたにお似合いだ」沈驚月は鼻を鳴らし、見下すような顔つきで言った。「俗悪極まりないな」周歓は蛙の面に水といった調子で言い返した。「今頃気づいたのか」口では嫌がりながらも、沈驚月はすぐさま店主に振り返って言った。「主人、この三本とも、私がもらおう」周歓は呆気に取られた。「三本とも買うのか?だったら何で俺に選ばせたんだよ。まったく、無駄口を叩かせやがって」沈驚月は彼を横目で流し見た。「つべこべ言わずに、さあ、金を払え」その言葉に、周歓は途端にぽかんと口を開けた。「金を払う?何の金だよ」「もちろん、この三本の扇子の代金だ」沈驚月は腕を組み、笑っているような、いないような表情で彼を見つめた。「でなければ、私がここへお前を連れてきたのは、本気

  • この男、毒花の如く   第263話

    「悪いが、今は手が離せないのでな。大将軍殿の相手はしていられないよ」周歓は気だるげにひらひらと手を振ると、顔を背けて薛炎と酒を飲み続けた。沈驚月は下唇を噛み、すぐさま一歩前に出ると、周歓の手からひったくるように酒を奪い取った。「何をする……」周歓が文句を言う間も与えず、沈驚月はぐいと顔を仰向け、ごくごくと喉を鳴らして壺に残っていた酒を一気に飲み干した。周歓は目を丸くして勢いよく立ち上がると、大声を張り上げた。「おい!なんで全部飲んじまったんだよ!?それは皇太子殿下が薛炎殿に振る舞った酒だぞ!」沈驚月は横目で睨みつけた。「なんだ?太子殿下の酒は、この私が飲んではいけないとでも?」「お前……!」周歓が言い返そうとしたところを、薛炎がぐいと引き止めた。薛炎は愛想笑いを浮かべて言った。「飲んでいただけますとも。大将軍殿、お好きなだけお飲みください!」沈驚月は口元を拭い、空っぽになった酒壺を周歓の胸元へ放り投げた。「酒は飲み終わった。これで私と一緒に来てもらえるな?」周歓は美味しい酒を堪能する間もなく、沈驚月に引っ張られて驍騎営を出ると、有無を言わさず馬車に押し込まれた。沈驚月もすぐさまその後から周歓の隣に腰を下ろし、御者に向かって声をかけた。「西市へ向かえ!」ここ洛陽では、高官や貴族の多くは東市の周辺に居を構えており、東市で売られている品物も、そのほとんどが高価な珍品であった。一方、異国の豪商たちは西側に集まっているため、西市で出回る品物は比較的日常的で、庶民向けのものが多い。日はすでに高く昇り、一日の中で最も賑わう昼時の市が立っている時間帯であった。二人は人通りの多い賑やかな大通りを歩いていた。沈驚月は大股でぐんぐん進み、周歓は訳が分からないままその後を追いかけて尋ねた。「俺を昼の市なんかに連れてきて、一体何をするつもりだ?」「ここに来て、買い物以外に何をするというのだ」沈驚月は振り返ることもなく、両目を真っ直ぐ前へ向けたまま、いかにも悠然とした様子だった。周歓はますます訝しんだ。「いや、天下に名だたる沈大将軍のそばに、従者の一人もいないわけがないだろう?どうして俺を供の者として引っ張り回すんだよ」言い終わるか終わらないかのうちに、沈驚月がふいに足を止めた。周歓は避けきれずに、ゴツンと沈驚月の後頭部に鼻をぶつけ、痛み

  • この男、毒花の如く   第262話

    詳しく尋ねようとした矢先、ふいに遠からぬ場所から馬の蹄の音が立て続けに響いてきた。周歓が顔を上げて見やると、見覚えのある人影が高頭の大馬に跨り、深紅の披風を羽織って、兵士たちに囲まれながらゆっくりと陣営の中へ歩み入ってくるのが見えた。その見慣れた姿を目にした途端、周歓の心にあった疑念はすっかり吹き飛んだ。「沈驚月!?あいつ、どうしてここへ来たんだ」薛炎が言った。「なんだ、お前知らなかったのか。沈驚月殿は今や大将軍となり、都の禁軍三十万を総べるお立場だ。我ら驍騎衛も当然その例外ではない」「大将軍だって!?」周歓は思わず舌を巻いた。今回の政変において、沈驚月は統帥の一人として、確かに少なからぬ功績を上げていた。しかし、蕭晗が沈驚月にこれほどの厚い信任と優遇を与えようとは、周歓は思いもよらなかった。薛炎は周歓の肩を叩いて言った。「お前も斉王殿下も、恩賞を固辞するからだろうが。斉王殿下が兵を率いて兗州へお戻りになられたのはまだいい。あの方は藩王という身分ゆえ、陛下の御傍に残ればいらぬ疑いを招きかねないからな。だが、お前はどうだ。あれほどの大功を立てておきながら、いかなる官職も望まないとは。沈驚月のほかに、陛下は誰に恩賞を賜ればよいというのだ。それに、沈驚月はなんといってもあの沈琮の末裔だからな」周歓は言った。「確かに。沈琮もかつて大将軍を務めていたからな。そう考えると、彼ら沈家代々の伝統とも言えるだろう」「だが、あの頃と今とでは事情が違う。かつて沈琮が大将軍に任じられた時はそれこそ順風満帆だったが、今の沈驚月は危急の際に命を受け、どうしようもない厄介事を引き継いだようなものだからな」周歓は好奇心をそそられ、それ

  • この男、毒花の如く   第261話

    帝と皇太子を守った功績により、薛炎と薛氷も昇進を果たしていた。今の二人はもはや蕭昱の近侍ではなく、左右の驍衛を領し、禁軍である驍騎衛を統率する立場にある。懐竹は蕭昱のあまりにも痛々しい表情を見て、たちまち心を打たれて言った。「皇太子殿下……懐竹はもちろん、皇太子殿下のお側を離れたりいたしません」蕭昱は目を輝かせ、大喜びで言った。「本当!?絶対に離れないね」懐竹は泣き笑いのような顔になり、ただ頷くほかなかった。情に訴えかけるとは見事な手だ。傍らで見ていた周歓は、思わず心の中でニヤリとした。懐竹は身分が低く、その上かつては陳皇后の男寵であったのだから、宮中ではさぞかし冷たい目で見られてきたことだろう。蕭昱は皇太子という尊い身分でありながら、懐竹の出自など少しも気に留めず、心の底から彼に優しく接しているのだ。懐竹が深く恩義を感じないわけがなかった。それに、一人きりになった蕭昱がひどく孤独であることも確かであった。本来なら蕭昱の側には薛炎と薛氷がいた。この兄弟は長年蕭昱に寄り添い、とっくに家族も同然の絆で結ばれていたのだ。ところが今や、兄弟はたった一枚の辞令で驍騎営の配下に組み込まれてしまったのである。そして蕭昱は皇太子という立場ゆえ、容易に皇宮を離れることはできず、当然ながら昔のように頻繁に顔を合わせることもできなくなった。あの日、別れ際に蕭昱は周歓に対し、自分の代わりに薛炎と薛氷の様子を見に行ってほしいと頼んでいた。翌日、周歓は蕭昱からの重大な頼みを引き受け、一壺の酒を手に、皇城の外に駐屯する驍騎衛の陣営へと足を運

  • この男、毒花の如く   第260話

    「今夜は……ここに残ってくれ。行かないでほしい」激しい情事の後、蕭晗は全身の力をすっかり抜け落とし、周歓の胸に抱かれながらそう懇願した。周歓は彼の背中を優しく撫でるだけで、何も答えなかった。蕭晗は恨みがましい瞳で彼を見つめた。「どうして……そなたはかたくなに朝廷に残って官に就こうとしないのだ。そなたが一言頷きさえすれば、朕はそなたを一人に次ぎ万人の上に立つ地位に就かせてやれるというのに。これでもまだ……何か不満があるというのか」「不満などありませんよ」周歓は蕭晗の汗に濡れた鬢髪を指で掬い上げ、うつむいて彼を見つめた。蕭晗は潤んだ瞳で見上げ、眉をひそめて言った。「ならば、なぜだ」周歓は涙の痕が滲む蕭晗の目元の泣きぼくろを指先で優しくなぞり、低い声で言った。「私はもとより、官吏の器ではありませんから。私がしたいのは、たった一つだけです」蕭晗は胸を早鐘のように鳴らしながら尋ねた。「何だ」周歓は意味ありげな笑みを浮かべ、蕭晗の耳元に顔を寄せた。「天下を納めるよりも、陛下をこの腕に抱くほうが、よほど面白そうに見えますのでな」言葉が終わるか終わらないかのうちに、周歓は身を翻し、再び蕭晗を下に組み敷いた。蕭晗が抗議の声を上げようと口を開いた途端、その唇は塞がれ、喉の奥からただ微かな甘い喘ぎ声だけが途切れ途切れに漏れ出すばかりであった。程惟湘の言った通りだ。周歓という男は、紛れもなく傲慢

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status