振り返ると、心晴が木の下に立っていた。「まだ帰ってなかったの?」「あなたを待っていたの」心晴はそう答える。玲奈は彼女のもとへ歩み寄り、淡々とした口調で問いかける。「言いたいことがあるなら、はっきり言って」心晴は玲奈の冷たい態度を感じながらも、言葉を続ける。「さっき和真に聞いたの。あなた、彼が女の子と連絡先を交換しているところを見たんでしょう?でも玲奈、ただ交換しただけよ。それで何かが起こるってわけじゃない。なのに、あんな場面で彼に手を上げようとしたら......彼も男だもの、面子があるし、あなたは――」玲奈はその含みを悟り、素早く反論する。「つまり、私が間違ってたって言いたいの?」心晴は慌てて首を振る。「違うの、玲奈、そんなつもりじゃない。ただ......あなたが私のことを思ってくれてるのはわかってる。でも、彼は私の未来の夫で、あなたは私の一番の友達。だから、二人が誤解し合ったままでいてほしくないの」「誤解?」その言葉に、玲奈は苛立ちを募らる。容赦なく言い放つ。「もし本当に彼があなたを娶る気があるなら、こんなに待たせるはずがないわ。何年待たされたと思ってるの?誰よりも自分が一番わかってるでしょう」心晴はうつむき、小さな声で言う。「玲奈、彼は必ず私をお嫁さんにしてくれる」玲奈はもうそれ以上聞きたくなくなり、話を切り上げた。「じゃあ、どうやって帰るの?」「タクシーで帰るわ」「和真は?一緒じゃないの?」心晴は一瞬考え込んでから答えた。「先に帰らせたの。あなたと衝突しそうで怖かったから......」玲奈は理由を深追いせず、ただ言った。「じゃあ、送っていくわ」車に乗り込むと、心晴は昔の思い出話を語り続ける。玲奈は聞きながら、次第に目頭が熱くなった。それでも――和真への見方を改める気にはなれなかった。ほどなくして心晴を送り届け、彼女がマンションに入るのを見届けてから、玲奈は車を出そうとしていた。その時、窓を叩く音がした。振り向けば、そこに立っていたのは昂輝だ。窓を下ろし、驚きを隠せず問いかける。「昂輝さん、どうしてここに?」ラフな服装の彼は、少し身を屈めて車内を覗き込んだ。薄暗い街灯に照らされ、顔の端正さを際立たせている。「それは俺の台
玲奈の正面には和真が立っている。一方、智也と薫は、彼女の背後にある個室の扉から現れたため、玲奈はすぐには二人の姿に気づかなかった。和真もまた、智也と薫には気づかず、堂々と玲奈を腕の中に引き寄せる。彼は憚ることなく視線を落とし、その瞳には下卑た色気が露骨に浮かんでいた。嫌悪感を抱きながらも、和真は玲奈のスタイルの良さを感じている。とくに今夜の彼女は身体の線を際立たせるタイトなロングドレスをまとい、しなやかな曲線があらわになっている。その姿に、一瞬心を揺さぶられるほどだった。玲奈の手はがっちりと掴まれ、必死に振りほどこうとしたが、彼はさらに力を強めて放そうとしない。それでも彼女は全力で腕を振りほどこうと、痛みを顧みず抗った。和真は力を入れていたものの、全力ではない。だが、玲奈が全身の力で振り払ったため、彼の腕を振りほどくことができた。しかし、勢いで後ろによろめき今にも倒れそうになった。その瞬間、強靭な腕が彼女をしっかりと受け止め、後方へと傾いた衝撃を吸収してくれる。玲奈は体勢を立て直し、少し頭を下げた。「......ありがとうございます」顔を上げた瞬間、視界に広がっていたのは智也の顔だった。シャープな輪郭に、深く澄んだ眼差し。瞳には言葉にできぬ光が宿る。そんな目が彼女を見下ろしていた。智也は眉間に少ししわを寄せ、なぜここにいるのか、と問いかけるようだった。ひょっとすると、私が彼を尾行してきたと思っているんじゃないか。かつて似たことをした経験があるだけに、玲奈の胸にそんな疑念がよぎった。その横で、薫は怒りを露わにする。何か言おうとしたところに、心晴が姿を現す。「和真、玲奈、こんなところにいたのね」心晴は自然に和真の隣へ歩み寄り、彼の腕に手を絡める。同時に彼の様子に異変を感じ取り玲奈の顔を見やったとき、智也の存在にも気づく。詳しい経緯は知らなくとも、心晴は瞬時に悟った。――玲奈と和真の間に、また何かあったのだと。だが、ここには智也もいる。複雑な状況を察し、心晴は問いただすことはせず穏やかに促す。「和真、私たち先に行きましょう」和真は内心後ろめたさを覚えていた。玲奈が心晴に何か言うのではと恐れ、素直に従った。「......ああ」二人が去っ
心晴はグラスを掲げ、玲奈に視線を向けた。「玲奈、さっき電話で呼んだ時に言いそびれてしまったけれど、今日こうして一緒に食事をしたいと思ったのは、謝りたかったからなの。前回、あなたと和真の件で警察沙汰になって......本当に心苦しくて。でも、あなたと和真にそのせいで溝ができてしまうのも嫌だったの。だって、あなたは私にとって一番の友達で、和真は私の最愛の人だから」玲奈は返事をせず、隣の和真に目をやった。彼はグラスを持っているが、心ここにあらずといった様子で、心晴の言葉などろくに耳に入っていない。それでも心晴は玲奈が何も言わないのを見て、顔を上げ、一気に赤ワインを飲み干した。そして、苦笑いを浮かべながら言う。「ほら、私が先に飲んだから、許してくれる?」玲奈は彼女を見つめ、胸が痛むような思いと諦めが混じった声で答えた。「......うん」その返事に心晴は嬉しそうに微笑み、急いで隣の和真を肘でつついた。玲奈に乾杯だよ、と合図する。和真は明らかに気が進まない様子で、しぶしぶグラスを持ち上げた。「ほら、俺からも一杯」玲奈は軽くグラスを持ち上げただけで彼と乾杯を合わせることはせず、ほんの少し唇を湿らす程度に飲んだ。和真も同じで、形ばかりに口をつけた。この場は心晴の顔をたてるため。彼女が仲裁役だから玲奈もここにいるが、和真に笑顔を向けることは、この先一生ない。食事は決して和やかなものではなく、終始、心晴が二人に会話をふっていた。和真が一言投げれば、玲奈は「ええ」と返すだけ。互いに嫌悪の色を隠そうともしない。それでも心晴は必死に、なんとか二人の間をとりもとうとしていた。けれど、ひとたび壊れたものは二度と元には戻らない。それは玲奈にとって和真との関係もそうだし、智也との婚姻関係もまた同じだ。どうにか食事を終えると、和真は席を立ち会計へと向かった。心晴は玲奈の腕を取って尋ねる。「気分が悪いの?」「ううん。あなたが楽しければ、それでいいの」その瞬間、玲奈はふと悟った。――あの時、家族が自分に「智也とは結婚すべきではない」と言ってくれた理由がようやく理解できたのだ。心晴は目を伏せ、小さい声でつぶやいた。「......あなたが不機嫌なのはわかってる。でも――」「もういいわ、
美由紀は、玲奈の言葉が冗談ではないと気づき、わずかな動揺を覚えた。だがすぐに考え直す。――あの頃、玲奈はどうしても智也と結婚したくて、すべてを投げ打つ覚悟までしたはずだ。そんな彼女が、本気で離婚など望むだろうか。そう考えた美由紀は、勝ち誇ったように言い返す。「私が本気を出さないとでも思ってるの?」玲奈はむしろ待ちかねたように微笑み、淡々と返す。「だったら早くやってください。その時は私が奢ります」言い終えると彼女は迷わず車に乗り込み、そのまま走り去ってしまった。普段は大人しく従順だった玲奈が、今や全身に鎧をまとったかのようだ。いつからだろう。美由紀は、玲奈がもはや自分の手の中に収まらなくなったのをはっきり感じていた。しかも、言葉の端々からして、本当に離婚を考えているようにも聞こえる。けれど離婚を口にできるのは智也だけであり、玲奈にその資格はない——そう美由紀は自分に言い聞かせた。それでも気持ちが収まらず、彼女は智也に電話をかける。すぐに繋がり、受話器の向こうからキーボードを叩く音が聞こえてきた。「どうした?」智也の声は少しかすれていて、眠そうな声をしている。実際、昨夜は沙羅や愛莉と星を眺めたあと、焼き肉を食べに行き、ほとんど眠れなかった。さらに朝から会社の用件で早く出勤していたのだ。美由紀は余計なことは問わず、単刀直入に切り出す。「智也、玲奈、最近変わった様子はない?」その言葉に、智也の指が止まった。しばし沈黙ののち、低い声で答える。「どういう意味だ?」ただならぬ雰囲気を感じた美由紀は慌てて言葉を続ける。「まさか離婚を切り出されたわけじゃないでしょうね?」「いや、ないよ」その返事にようやく息をつき、続けて強がるように言う。「そうよね。あれほど苦労してやっとあなたの妻になったのに、簡単に離婚なんて言えるわけないわよね」「......ああ」智也は淡々と応じた。それでも美由紀は安心できず、さらに念を押す。「いい?もしもう彼女とやっていけないと思うなら、必ずあなたから先に言うのよ。絶対に彼女に先を越されないように」すると智也は再び手を止め、真剣な声で告げる。「母さん、俺は玲奈と離婚するつもりはない。俺たちには愛莉がいる。離婚なんて、あの子にと
真相に、玲奈は少しも驚かなかった。昨夜、愛莉から電話があったときから、智也は本当はすぐにでも行きたかったのだ。ただ、おじいさまから「泊まれ」と言われた手前、多少はためらったのだろう。けれど結局、彼が第一に選ぶのは沙羅だった。トレンドのスレッドには、すでにコメントが溢れていた。「子どもまでいるのに、まだ恋愛だなんて。有名人って、そんなに責任を負いたくないの?」「上のスレのやつ、結婚式ってそんなに大事?」「式なんかなくてもいい。毎日洗濯と炊事をやらされたって、ああいう男なら喜んで尽くすわよ」「こんなことでニュースになるなんて大げさ。誰が下級の苦労を気にするの?」「興味なし!」羨望もあれば冷ややかに笑う声もあり、智也を無責任と責める声もあれば、「大したことじゃない」と軽視する声もある。だが、玲奈にはどれも遠い世界のざわめきにすぎなかった。誰もが知っているのは、智也には「元恋人」がいる、という事実だけ。けれど、誰ひとりとして想像もしないだろう。彼の妻が、世間の思うその女ではないことを。スマホを閉じたとき、ちょうどおじいさまが裏庭から戻ってきた。孫の嫁の姿を見つけた瞬間、その顔がぱっと明るくなる。「玲奈さん、今日は忙しくないのか?」普段、新垣家での食事は彼ひとりきり。誰かにそばにいてほしいと願っても、子や孫たちはそれぞれ用事があって、めったに顔を出さない。玲奈は立ち上がり、にこやかに頭を下げる。「おはようございます、おじいさん。まだ時間がありますので、朝食をご一緒してから病院へ向かいます」彼は大喜びし、彼女の気遣いに何度も嬉しそうにしていた。ふと振り返ったとき、智也の姿がないことに気づき、眉をひそめる。「智也は?」玲奈は一瞬ためらい、それから静かに答えた。「会社に行きました。大事な会議があるそうです」おじいさまはネットに疎く、世間で何が騒がれているのか知る由もない。からこそ、玲奈は真実を隠した。どうせ離婚するのだ。こんな些細なことで誤解を招く必要はない。朝食を終えると、彼は玲奈を離したがらず、手を取って繰り返し言う。「暇があれば、また帰ってきてくれ。私ももう歳だ。どれほど時間が残っているか分からんのだから」玲奈は胸が締めつけられ、ただ何度もうなず
電話口で愛莉が弾んだ声を響かせた。「まだだよ。これからララちゃんと海に行って、星を見るの!」智也は居間のソファに腰を下ろし、タバコに火をつけた。「......ああ。見終わったら早めに帰って休め」「うん」愛莉は素直に頷き、期待を込めて尋ねる。「ねえパパも来てよ。パパがいないと、なんだか物足りないし、ララちゃんもつまらなそうなの」智也は横目で浴室に立つ玲奈の姿を見やり、おじいさんに「泊まるように」と言われたことを思い出す。結局、娘の誘いを断った。「今日は行けない。また今度、三人で一緒に行こう」愛莉はしょんぼりとした声を出した。「......わかった」「それじゃあ、ララちゃんを大事にしてやれ。パパは切るぞ」沙羅の名が出た途端、愛莉の声は弾けた。「やった!じゃあ行ってくるね。もしパパが来るなら早く来てね!」「ああ」電話が終わると、智也は携帯をしまった。浴室に残っていた玲奈は、父娘のやり取りを聞き、失望と馬鹿らしい思いが入り混じる。最初から最後まで、自分のことなど一言も出なかった。心が痛む。けれど涙は一滴も落ちない。弱さを見せたくなくて、玲奈は浴室のドアを閉め、トイレを使っているふりをした。智也はその様子を見ても、何も言わなかった。やがて気持ちを落ち着けた玲奈がトイレを出ると、智也はすでにシャワーを終え、ベッドに横たわっていた。どうやらゲストルームで浴びてきたらしい。大きなベッドに横になり、動画を流しながらスマホを眺めている。一人で寝られるのに、彼は半分だけを使い、もう半分を空けていた。まるで玲奈のために残しているかのように。玲奈はそれを見ても、彼の意図が分からなかった。だがいずれにせよ、同じベッドで眠るつもりはなかった。彼女はソファに毛布を広げ、横になった。室内の照明を落とし、スタンドの明かりだけを残した。智也は眉をひそめていたが、彼の性格上、彼女を呼び戻す言葉を口にできない。ただ黙っていることを選んだ。しばらくして、玲奈の静かな寝息が聞こえてくる。気のせいかと思い耳を澄ますが、やはり一定のリズムの呼吸の音だった。翌朝。玲奈が目を開けると、大きなベッドに智也の姿はなかった。彼女は「朝のランニングにでも出たのだろう」と思い、深