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第139話

Author: ルーシー
春日部宅の玄関先に差しかかったとき、秋良が玲奈の姿を見つけた。

「どうして髪がそんなに乱れてる?」

その声には険しさが混じっていた。

玲奈は胸がざわつき、思わず目を伏せて答える。

「......風に吹かれただけよ」

だが、そんな稚拙なごまかしは兄には通じない。

「玲奈、俺はお前の恋愛を否定しない。だが、節度を忘れるな。前みたいなことを繰り返すなら、次は絶対に許さない。それに――子どもを軽々しく作るような真似はするな。女は男よりずっと損をする。簡単に股を開くな」

言い捨てると、秋良は先に言えの中へ入っていった。

玲奈はしばらくその場に立ち尽くし、数秒後、慌てて後を追いかけた。

「兄さん、違うの。兄さんの思ってるようなことじゃない」

声は切実で、必死に弁解する。

だが考え直して言う。

「どうであれ、私はあなたたちの言うことを聞くわ」

秋良は立ち止まり、振り返って彼女の潤んだ瞳を見やる。

そして、わずかに声のトーンを和らげた。

「......そうか」

玲奈はようやく微笑み、静かに礼を言った。

「ありがとう、兄さん」

秋良はそういう言葉に弱く、わざと話題を変える。

「陽葵が今夜、お前に会いたいって言ってたぞ。いつも忙しくて顔を合わせられないんだ。次は時間を作って、早く帰ってやれ」

「わかったわ、兄さん」

玲奈は素直に頷いた。

翌朝、玲奈が目を覚ましたとき、陽葵はすでに登校していた。

だがスマホには、姪からの可愛らしい音声メッセージが届いていた。

【おばさん、冬休みになったら一緒に海外へスキーに行こうね】

柔らかい声に、玲奈の胸は一瞬で溶かされる。

ベッドの縁に腰を下ろし、スマホを握りしめながら何度も再生した。

しかし聞いているうちに、不意に頭をよぎるは愛莉のことだった。

長く育ててきたのに、娘と一度も旅行をしたことがない。

いや、チャンスがなかったわけではない。

ただ、彼女が望んでいたのは「夫婦と子ども、三人での旅」だった。

けれど智也の心はすでに沙羅に奪われ、そんな夢が叶うはずもなかった。

今や夫も娘も、揃って沙羅の方へと心を寄せている。

玲奈は陽葵の誘いに快諾し、身支度を整えて仕事へ向かった。

その日の午後。

カルテを書いていると、インターンの後輩が山のような荷物を抱えて入ってきた。

最後の一つを手
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