Masuk拓海の表情には、どこか寂しさが滲んでいた。それを見た沙羅は、なぜか胸の奥がすっと軽くなる。だが同時に、焦りにも似た感情が湧いた。「須賀さんのような方、私......実は結構タイプなのよ。スマートで、才能もあって......素敵だもの」沙羅はそう言って、ゆるやかに微笑んだ。まるで無邪気な告白のように。拓海は一瞬、眉を上げた。まさかここまであからさまに誘ってくるとは思わなかった。彼は唇の端をわずかに上げ、わざと淡々とした口調で答える。「男が情を寄せ、女がその気――惜しいな。相手が智也の女じゃなきゃ、俺はきっと、遠慮なく楽しませてもらってたと思うよ」わざと下品に、あえて軽薄に。彼女が怯んで引くのを期待していた。だが、沙羅は頬を染め、視線を伏せながら小声で言った。「......でも実は私、まだ......誰とも経験したことがないの」その一言に、拓海の表情が一瞬だけ止まった。――処女、だと?頭のどこかで、冷静に否定が浮かぶ。「そんなはずない。嘘だ」けれど、ほんの一瞬、迷いが生まれる。もしそれが本当だったら?もし沙羅と智也の間に、本当に何もなかったとしたら?玲奈がそのことを知ったら、離婚を思いとどまってしまうのではないか――その想像が脳裏を掠めるたび、拓海の胸の奥に、抑えようのない焦燥が広がっていった。彼はすでに、玲奈の最初の八年を失った。次の八年までも失う気はなかった。たとえ奪うことになっても、騙すことになっても、懇願することになっても――彼はもう、彼女を離さないと決めていた。傷つけられた彼女を、もう二度と誰にも傷つけさせないために。拓海は、そう信じていた。玲奈を幸せにできるのは、自分だけだと。一方、沙羅は、彼の沈黙を動揺と受け取っていた。やっぱり、私に惹かれている――そんな確信が胸の中でふくらんでいく。「須賀さん......よかったら、連絡先を交換しない?」さらに一歩、踏み込む。挑発にも似た甘い声。拓海は遠い思考の中からゆっくり戻り、彼女の言葉にようやく気づいた。数秒の沈黙のあと、軽く笑って言う。「こんな美人からそう言われて、断るわけにはいかないな」そう言ってスマホを取り出し、彼女の連絡先を登録する。
拓海は人波の中に立っていた。背が高く、顔立ちも整っている彼は、ただそこにいるだけで目を引いた。通りすぎるたびに、誰もが一度は振り返る。そして、今――その注目の視線を浴びながら、拓海の目はただ一人の女性に向けられていた。それは沙羅だった。彼はその姿をじっと見つめ、口もとに薄く笑みを浮かべていた。周囲の女性たちは、彼が沙羅を見ていることに気づき、次々と羨望の眼差しを彼女に向ける。――まるで、選ばれたヒロインのように。沙羅はその反応に、得意げに胸を張った。羨ましがられる心地よさに、優越感がじわりと湧き上がる。確かに、拓海は自分を拒んだ。けれど、そんなの信じられない。この私が、彼の目を惹けないはずがない――そう思っていた。彼女は花のような笑みを浮かべながら、わざと甘い声で尋ねた。「それで......須賀さんの大切な人って、誰なの?」その瞬間、拓海の脳裏に、彼女が灯籠に書いた願いがよぎった。――世界中の男たちがみんな私を好きになって、私のために命を懸けてくれて、そして惜しみなくお金を使ってくれますように。思い出しただけで、吐き気がした。どこからそんな自信が湧いてくるのか。どうして、そんな願いを平気で書けるのか。拓海はかつて、星羅にこう言ったことがある。「お前は、俺がこの世で三番目に嫌いな女だ」それは本音だった。彼が心底嫌った女は、これまでたった三人しかいない。一人目は美由紀――玲奈をいじめた女。二人目は、いま目の前にいる沙羅。彼女は玲奈から智也を奪った。奪っただけならまだいい。それでも智也を本気で手に入れるわけでもなく、中途半端に揺さぶり続けている。そういう女が、拓海は一番嫌いだった。だが――彼の脳裏に、ふと悪戯な考えが浮かぶ。高く飛ぶ女ほど、落ちたときは痛い。拓海はゆっくりと目を細め、淡々と答えた。「俺の大切な人は、玲奈だ。俺は、あいつの言うことしか聞かない」その言葉を聞いた沙羅の笑みが、一瞬だけ固まる。けれど、数秒後にはすぐに表情を整え、作り笑いを浮かべた。「......須賀さん、知らないみたいね。玲奈のこと......」その先に続くのは、玲奈を貶める言葉だと悟り、拓海は彼女の言葉を途中で遮った。「深津さん、あなた
「......智也を探しに行くわ」玲奈はそう言って、踵を返し、灯籠を売っている屋台のほうへと歩き出した。だが、二歩ほど進んだところで足を止め、振り返る。「......須賀君、あなたは先に帰って。今度また一緒に来ましょう」その言葉を聞いた拓海の胸に、ふっと温かいものが広がった。次がある――そう言われたのが、なぜか嬉しかった。けれど同時に、過去のことが頭をよぎる。かつて、彼女も結婚すると約束してくれたのに、その約束は結局、果たされなかった。思い出すだけで、胸の奥がざらつく。だが玲奈は、そんな拓海の表情に気づく余裕もなく、すぐに駆け出した。拓海はため息をつきながらも、結局その背中を追う。玲奈が通りを抜けたとき、すぐに智也と沙羅の姿を見つけた。二人は仲良く並んで、小物を選んでいる。玲奈は迷うことなく近づき、智也の手をつかんだ。「愛莉が熱を出したの。すぐ戻って。病院へ連れて行くわ」声が震えていた。四十度――放っておけば、子どもの身体には後遺症が残るかもしれない。どんなに反抗的でも、母親として賭けには出られなかった。玲奈の必死な顔を見て、智也は一瞬、言葉を失った。信じられないというように眉をひそめ、それから慌ててスマホを取り出す。宮下に電話をかけ、愛莉の状態を確認する。受話器の向こうから焦った声が聞こえた瞬間、智也の顔色が変わった。今夜、彼は愛莉を連れて病院へ行き、沙羅の提案で、娘を一晩そばに置いてもらうはずだった。だが宮下から「明日は幼稚園だから帰したほうがいい」と言われ、渋々、愛莉を小燕邸に送り届けていたのだ。沙羅は「愛莉がいないと眠れない」と寂しがり、智也も気晴らしのつもりで外に出た――それが、いまこの旧市街の夜市だった。まさかそのわずか数時間後に、愛莉が高熱を出すなんて。玲奈の言葉を信じないわけにはいかなかった。宮下の声を聞いた今、疑いの余地はない。智也は電話を切ると、沙羅の方に向き直った。「......沙羅、少し一人で見ていてくれ。迎えを呼んで、病院に戻るんだ」沙羅は眉を寄せつつも、柔らかく微笑んだ。「うん、わかったわ」智也はそれでも気がかりそうに、もう一度彼女を見た。沙羅はそんな彼の視線を察し、少し困ったように笑った
拓海は、玲奈が黙ったまま一言も発しないのを見て、次第に落ち着かなくなってきた。「......なあ、玲奈。あの占いじいさんが、変なことでも言ったのか?気分悪くしたのか?」彼は確かにあの老人に、玲奈の運命の人は自分だ――そう伝えるように頼んでいた。だが実際に自分がその場にいたわけではない。どんな言葉で話したのか、どこまで言ったのか、見当もつかない。もし言葉を誤って、玲奈を怒らせてしまったのなら――そう考えると、不安でたまらなかった。玲奈は険しい顔のまま何も言わない。その沈黙が、余計に拓海を焦らせた。「ちょっと待ってろ。あの占いもどき、何を吹き込んだのか聞いてくる!」そう言いながらくるりと振り返る。その勢いに驚き、玲奈は思わず拓海の腕をつかんだ。「ちょっと、やめて。私は何ともないわ」「本当か?じゃあ、あいつ何て言ったんだ?」拓海は納得せず、なおも詰め寄る。徹底的に突き止めないと気が済まない――そんな勢いだった。玲奈は、老人の言葉を正直に話す気にはなれなかった。それで、とっさに作り話をする。「......短命で、夫を不幸にする相だって。離婚したら、二度と結婚しないほうがいいって。そうしないと、自分も相手も不幸になるって言われたの」言い終えるか終えないかのうちに、拓海は彼女をぐいと抱き寄せた。「こら、縁起でもねぇこと言うな!」そう言って、彼女の唇に指先を当て、軽く叩くようにして言った。「ほら、縁起の悪いことを吐き出せ!」玲奈は呆気に取られた。自分では冗談半分のつもりだったが、拓海の真剣な様子に、胸が詰まった。「ほら、早く!」拓海は眉間に皺を寄せ、焦ったように叫ぶ。「そんな不吉なこと、言わせない!」玲奈は小さく息をつき、首を振った。「......たとえ吐き出したって、事実は変わらないわ」拓海は一瞬、息を止めた。――まさか、本気でそう信じてるのか?彼はもう何も考えず、再び彼女を強く抱きしめた。顎を彼女の肩口に埋めるようにして、低く震える声で囁く。「いいか、玲奈。お前が夫を不幸にするなら、俺がその役を引き受ける。お前が短命なら、俺の命を分けてやる。どうなろうと、俺はお前を嫁にしたい。この先、誰もいらな
占い師の老人は、にこにこと笑いながら言った。「そうそう、気軽に聞いてみなさいな。悩みを誰かに話すだけでも、少しは楽になるもんだ」玲奈は、拓海と老人の二人に言われるまま、結局、渋々腰を下ろした。老人は生年月日を尋ね、それを聞くと指を折って何やら数え始めた。数分後、目を開けて、低く言った。「お嬢さんは......医者だな?だが、今のところはまだ大成しておらん。けれども、命の星に成功の光がある。いずれ必ず、大物になる。ただ――今の結婚が、その道を阻む。心も精神も縛られておる。このままでは疲弊してしまう。だから、思い切って断ち切ったほうがいい。早いほうが、運は開けるぞ」老人はさらに続けた。「お嬢さんの命には、三人の子がある。一人目は娘。だが、二人目、三人目は今の夫とは別の人との子になる。しかも一人目の子が、お嬢さんの精気を少しずつ削っておる。そのまま抱え込めば、心も身体も消耗してしまう。だから、思い切って手放すのもよい。それから、生まれの家族はみな善い人たち。義姉とも仲良くやれば吉。もし不和があれば、それが心身の不調となって返ってくる」玲奈は老人の言葉を黙って聞いていた。どうして、こんなに詳しく言い当てられるのだろう――一瞬、本当に見えているのかと錯覚してしまうほどだった。拓海は横で腕を組み、満足げにうなずいていた。彼の目が玲奈の方を向く。――さて、どんな反応をするか。玲奈は戸惑いながらも、つい興味を覚えた。自分の未来のこと、特に「恋愛」の行方について。老人はそれを見抜いたように、笑みを深めた。「どうだい、お嬢さん。わしの言うこと、間違っておるかね?」玲奈は答えずに、逆に質問した。「......じゃあ、私の将来の子どもが二人増えるって言ってましたけど、それは本当なんですか?」「うむ、そう出ておる」玲奈はちらりと拓海の方を見た。彼に聞かれたくない話だった。「......悪いけど、少し席を外してくれない?」拓海が眉を寄せる。「俺に聞かれたらまずい話か?」「ちょっと......個人的なことだから」拓海は短く息を吐き、肩をすくめた。「わかったよ」彼は少し離れた場所まで歩いていった。――だが、彼
拓海はもう一度玲奈の方を振り返った。玲奈は人垣の中に立ち、すっかり大道芸の演目に見入っていた。その様子を確認すると、拓海はそっと占いの老人のもとへ歩み寄る。短い交渉のあと、彼は財布を取り出し、四万円を渡した。一方そのころ、大道芸の演目はちょうど幕を閉じていた。玲奈は振り返り、あたりを見回す。――だが、拓海の姿がどこにも見えない。不安が胸をかすめたそのとき、肩を軽く叩かれた。「......探してたか?」振り返ると、拓海が片手を広げて立っていた。その掌から、きらりと光るネックレスが滑り落ちる。彼は少し首を傾け、柔らかく微笑んだ。その笑みはどこまでも無邪気で、どこか危ういほど優しかった。玲奈の胸が一瞬、きゅっと鳴った。だが次の瞬間、彼女は顔をそらして言う。「もう遅いわ。帰りましょう」拓海は慌てて彼女の手首をつかむ。「もう少しだけ、見ていこうぜ」玲奈は掴まれた手を見下ろし、静かに言った。「......まず、手を離して」「じゃあ、もう少し付き合ってくれるなら」玲奈は淡々と頷いた。「わかったわ」その言葉を聞くと、拓海は素直に手を放した。だがすぐに、彼女の手の中へネックレスを押し込む。「さっき、屋台で見つけたんだ。安物だけど......似合うと思って」玲奈は手のひらの上のネックレスを見つめる。値札こそ付いていないが、金属の質感や細工の精巧さからして、安物ではないことがすぐにわかった。「......こんなの、受け取れないわ」玲奈は申し訳なさそうに微笑み、差し出した。「アクセサリーくらい、自分で買えるもの。気持ちだけ受け取っておくわ」拓海はそれを受け取り、しばし無言で見つめる。次の瞬間、目の奥の光がすっと暗くなった。「......いらないって言うなら、捨てる」そう言うや否や、彼は腕を振り上げ、思い切り放り投げた。玲奈は思わず声を上げた。「拓海、何してるの!」彼は表情一つ変えずに言う。「お前がいらないって言ったんだろ」「たとえそう言っても、買ったものを捨てるなんて......お金の無駄じゃない!」玲奈が眉を吊り上げて怒ると、拓海はようやく口元を緩めた。「じゃあ――欲しいのか?」玲奈は反射的に「いらない」と言い







