この問いの答えなど、実のところそれほど重要ではなかった。玲奈はすぐに話題を変え、静かに尋ねる。「昂輝のこと......もう耳に入っているのでしょう?」智也は冷えきった顔で応じた。「そんな些末なことを気にしている暇が、俺にあると思うか」玲奈はあっさり信じるような性格ではなかった。「そうかしら?」そう言い残し、彼女は一歩、また一歩と後ずさった。その視線は智也と薫の顔を行き来し、やがて自嘲めいた笑みを浮かべる。「結局は、似た者同士ね」智也と薫は友人同士。彼女は一時でも、智也が薫の勢いを抑えてくれるかもしれないと夢想した。けれども忘れていたのだ――自分がこの場で最も軽い存在であることを。智也が味方しないのは当然として、愛莉ですら彼女の側には立たない。ならば、口を開く意味などどこにある?そう思った瞬間、玲奈はためらいなく背を向け、ホテルを去ろうとする。だが出口で、再び誰かにぶつかった。洋の身体だった。「玲奈さん!」と彼は慌てて声をかけた。だが玲奈は聞く耳を持たない。仮にその声が届いていたとしても、振り返ることはなかっただろう。彼女が完全にホテルを離れた後、洋は憤りを押し隠せず、薫に向き直った。「薫、昂輝の件は......さすがにやりすぎじゃないか」智也は目を細め、顔を彼に向ける。「......昂輝に、何をした?」ほんのさっき、玲奈が見せた怒りの表情を思い返す。胸の奥に、不意にざらつくような不快感が広がった。昂輝は、彼女にとってそこまで大事な存在なのか。――愛莉にきつい言葉を投げつけてまで、庇うほどに?翌日。玲奈は再び久我山の街へ戻っていた。だが昂輝の消息はいまだ掴めない。不安に駆られた彼女は、車を走らせて彼の住むマンションの外まで来てしまった。以前よりも張り込む記者の数は減ったとはいえ、まだ数人周囲をうろついている。マンションの窓ガラスは前回来た時以上に砕け散り、部屋の中にはありとあらゆるゴミが投げ込まれ、悪臭が漂っていた。中に入ることはできず、昂輝が本当に家にいるのかさえわからない。車内でしばらく待っていると、不意にドアが開かれる音がした。視線を向けると、そこにいたのは拓海だった。無頼をまとった顔立ち――粗野さと紙一重の痞気
玲奈は、洋の表情から彼の考えが分かったが、わざわざ説明する気にはならなかった。ただ一言、問いかける。「みんなは、どこにいるの?」洋は、玲奈の纏う雰囲気がこれまでと違うことに気づいた。かつて彼女が智也にすがりついていた頃は、周囲の人間に対しても媚びるような態度ばかりだった。だが、今は彼女の瞳に冷たさがあり、不思議と見ていて不快ではなく、むしろあっさりしている。それでも、玲奈の問いには答えあぐねていた。彼女はそれを見抜き、真剣な声で言う。「本当に急いでいるの。命に関わるかもしれない大事なのよ」何が起きているのか洋には分からなかった。だが彼女の目から嘘ではないと感じ取れた。結局、彼は観念したように手を上げ、ホテルの方向を指差した。「あいつらは、ホテルの裏の浜辺にいる」玲奈はもう洋を振り返りもせず、ただ礼だけを残す。「ありがとう」そう言って、ホテルへと足を向けた。宿泊の理由など告げず、玲奈は「海辺で遊べる部屋を」とだけ告げて部屋を取った。そしてすぐさま、ホテル裏の海岸へと向かう。出た途端、焚火のそばでグラスを片手に不機嫌そうに酒をあおる薫の姿が目に入った。少し離れた場所では、智也、沙羅、愛莉の三人が、本当の家族のように仲睦まじくはしゃいでいる。玲奈の姿を、最初に見つけたのは沙羅だった。彼女が声をかけ、智也と愛莉も玲奈の存在に気づく。だが玲奈は彼らに一切目をくれず、真っすぐに薫へと歩み寄った。「薫。ここで話す?それとも外で話す?」智也の友人に対して、玲奈がこんな強い口調なのは初めてだった。薫はそんなことは気にもせず、嘲るように手のひらを広げてみせる。「話す?俺とおまえの間に、話すことなんてあるか?」玲奈の声から苛立っているのが分かる。「自分が何をしたのか、分かってるでしょう?」薫はのけぞるように顔を上げ、得意げに言う。「さあな」その目には傲慢さが滲みでている。玲奈は我慢できず、洋が飲み残していた赤ワインのグラスを掴むと、そのまま薫の顔にぶちまけた。その光景を、智也も愛莉も沙羅も目の当たりにする。呆然とした愛莉は数秒の沈黙の後、怒った様子で母のもとへ駆け寄った。「ママ、どうしてそんなことするの!高井おじさんに謝って!」娘の顔には嫌悪が滲
パパラッチ数人と連絡を取り、海辺や建物の写真を参考に調べた結果、彼らの滞在先が「東城」という名の場所であると突き止めた。玲奈は一番早い便を予約したが、それでも午後のフライトしか取れなかった。東城に着いたときには、すでに夜の七時を回っていた。晩秋の七時ともなれば、辺りはすっかり暗い。タクシーに乗り込み、運転手に道を尋ねながら、智也たちが滞在しているであろう場所へと急ぐ。その頃、東城でも最高級の「東城ホテル」のビーチでは、盛大な焚き火パーティーが始まっていた。スタッフたちは肉を焼き、ココナッツの実を割り、鍋料理を用意し......活気に満ちている。海辺では、智也と沙羅が子どもと戯れていた。愛莉は海が大好きだ。昼はダイビング、夕方は浜辺で磯遊び、夜はパーティー。あまりに心地よく、離れたくない。焚き火を囲む机の上には、焼きたての肉やワイン、ビールが並ぶ。そのそばで、薫と洋が酒を酌み交わしながら、時折遠くの「一組の親子」を眺めていた。やがて薫がスマホを見て、大声で笑い出す。「洋、見ろよ。俺が昂輝のでっちあげを書いただけで、山ほど人が便乗して叩き始めた。やつは家に閉じ込められて、何日も身動きが取れないらしい。おまけに、一昨日は変装して外に出た途端に捕まって、袋叩きに遭ったみたいだ。しかも手まで怪我したんだって」そう言って、楽しげに続ける。「外科医のくせに手をやられたら、もう役立たずも同然だろ?」薫は声をあげて笑った。この結末こそが、自らの最高傑作であると誇るかのように。洋は顔をしかめ、黙って聞いていた。だが一言も同調はしない。薫はそれに気づくこともなく、再びスマホをいじりながら言う。「俺はちょっと火をつけただけだ。だがネット民のほうが怒ってる。賄賂だの、違法集資だの......勝手に話を盛り上げてくれる。俺はほんの少し煽るだけでいい」その言葉を遮るように、洋が口を開いた。「薫、それで本当に良いと思ってるのか?」この言葉に気分を害した薫は、苛立ち混じりに睨み返す。「何が悪い?奴が智也の女に色目を使ったんだ。そうなれば、こうなるのは当然だろ。自業自得ってやつだ」洋は深呼吸をし、静かに言った。「智也は彼女を好きじゃない。彼女がいつまでも新垣夫人という肩書きに縛られるわけがな
玲奈は思った。――このことを智也に話せば、きっと薫の昂輝への圧力を止める術を持っているはずだ。そう口を開こうとした瞬間、胸に緊張が走る。だが、電話から最初に聞こえてきたのは沙羅の弾んだ声だった。「智也、見て!流れ星よ。早く、お願いごとをして」一瞬、電話の向こうは静まり返った。けれど、すぐに沙羅の声が続く。「ねえ、さっきどんなお願いをしたの?」智也の答えは、ただひと言。「ヒミツ」たった三文字。けれどその声には、深い愛情が滲んでいた。電話越しにさえ、玲奈には二人の甘い空気が伝わってくる。沙羅が楽しげに笑い、また声を弾ませる。「愛莉がカニを見つけたの。一緒に捕まえに行こう?」智也はためらうことなく応じた。「ああ」しかし直後、ようやく通話中であることを思い出し、電話口に向かって言った。「そうだ、さっき何か言ってなかったか?」彼は玲奈の言葉をひとつも聞いていなかった。玲奈はしばらく黙り、やがてかすれた声で尋ねた。「今、どこにいるの?」いつもと同じ問いかけ。だが違うのは――今回は夫婦関係を繋ぎ止めるためではなく、ただ彼に助けを求めるためだった。智也は少し間を置いて、不思議そうに聞き返す。「俺を監視でもしているつもりか?」「どうしても、直接伝えたいことがあるの」玲奈の言葉に、彼は冷ややかに答える。「今は無理だ。今度にしてくれ」――その言葉を、彼女はもう何度聞いたことだろう。次など永遠に訪れないことも知っている。必死に切り出そうとした目的を言い出す前に、電話は一方的に切られた。無機質なツー、ツーという音を聞きながら、玲奈は携帯を持った手を下す。その瞬間、全身の力が抜け落ちる。それから二日間、彼女は智也に連絡を取らなかった。だが今度は昂輝との連絡が途絶えてしまう。その一方で、拓海からの贈り物は一度も途切れることなく、毎日のように届けられた。いくつもの宝石箱を、玲奈は一度も開けていない。拓海のことだから、安物であるはずがない。無駄だと分かっていても、彼は送り続けた。けれど今の玲奈には、それを気にかける余裕などなかった。頭は昂輝の身の安全の事でいっぱいだった。一日待っても、彼からの返信はない。不安に押しつぶされそうにな
食事のあと、玲奈はいつものように愛莉を学校へ送った。車を走らせながら、玲奈はついに重い口を開いた。「愛莉、お願いを聞いてくれる?」スマホゲームに夢中だった愛莉は、母の言葉に顔を上げ、首を傾げる。「ママ、どんなお願い?」ちょうど赤信号で車を止めたとき、玲奈は横の娘を見た。「愛莉、高井おじさんのことは知ってるわよね?」「知ってるよ。高井おじさん、わたしにすごく優しいもん」玲奈は口角をあげていたが、目には少しの光もなかった。「高井おじさんがね、ママの友達のことで誤解してるの。愛莉から、ちょっとその人のことを良く言ってもらえないかしら?」愛莉は小さな顔をしかめ、しばらく考え込んでから首を振った。「高井おじさんに嫌われる人なら、きっとろくな人じゃないよ。ママ、どうしてそんな人と友達になるの?」今度は玲奈の眉間にしわが寄った。だが、娘はさらに言葉を重ねる。「だから、そのお願いは聞けない」玲奈は声を落とし、すがるように言った。「......もし、それがママのお願いだったら?」しかし、愛莉は母の思いを理解するどころか、諭すように続ける。「ママ、高井おじさんに嫌われるような人とは、距離を置いたほうがいいよ」玲奈は背筋を伸ばし、返事をする。「わかった」青信号に変わり、アクセルを踏み込むと車は一気に加速した。それから先、二人のあいだに言葉はなかった。幼稚園が近づいてくると、愛莉がふいに口を開いた。「ママ、わたしからもお願いがあるんだけど......聞いてくれる?」玲奈の表情は冷ややかで、声も淡々としていた。「うん。できることならね」「これからは、あんまり早く来て朝ごはんを作らないでほしいの。じゃないと、ララちゃんの邪魔になっちゃうから。眠れないと、勉強も演奏もできなくなるでしょ?」その言葉に、玲奈の胸は一瞬で何万本もの針に刺されたかのように痛む。可笑しさすら込み上げたが、拒む言葉は出てこなかった。彼女は返事をする。「......わかったわ」――それから数日間、玲奈は小燕邸へは娘を迎えに行くだけで、朝食を作ることはしなかった。智也に会えるときもあれば、会えないときもある。そして、彼の隣には必ず沙羅の姿があった。それはもうどうでもよかった。昂輝が医学
薫の仕業だとわかっていても、玲奈にはどうすることもできなかった。久我山で智也と拓海を除けば、最も大きな力を持つのは薫と洋だ。しかも、拓海以外の人たちの関係は複雑で、もし薫に手を出せば、それは智也や洋を敵に回すことになる。そうなれば、誰にも太刀打ちできるはずがない。玲奈が家へ戻ると、姪の陽葵と少しゲームをしてから階段を上がった。依然として昂輝からはいまだ返事がなく、いっそう彼女を不安にさせる。再び電話をかけても、すでに電源は切られていた。玲奈自身はネット上で攻撃を受けたことはなかったが、それが耐え難いものだと見当はつく。匿名の言葉は、刃物よりも鋭く、薬より人を傷つける。その夜、彼女はほとんど眠れなかった。ようやく明け方近くになって、昂輝から【大丈夫だ。心配しなくていい】とだけ返信が届いていた。玲奈はそれを見て、少し胸を撫で下ろすと同時に【ごめんなさい】と返信した。【君のせいじゃない。責任を背負うな】昂輝はそう返したきり、また黙ってしまった。翌朝。ほとんど眠れなかったはずなのに、玲奈の頭は意外にも冴えていた。彼女は早めに小燕邸へ行き、お粥とおかずを用意して愛莉の食事を準備した。食卓につき、玲奈は何度も階上や玄関先に視線を向ける。智也の帰りを待っていたのだ。自分にはどうにもならないことでも、智也なら解決できる。まもなく、智也が玄関から入ってきた。外は霧が立ちこめ、小雨が降っていたのか、彼の肩や髪には水滴がついていた。それを見て、玲奈は気持ちをぐっと飲み込んだ。だが、彼が階段を上がろうとしたとき思わず声をかけていた。「智也?」彼は足を止め、階段の途中で振り返った。「どうした、何か用か?」冷えきった声には、微塵の情もない。その時、階上から沙羅が姿を現した。「智也、帰ってたのね?」彼女はシルクのパジャマ姿で、髪をおろし、物憂げな表情で甘い眼差しを向けている。智也は玲奈が黙ったままなのを見て、沙羅に目をやる。「ん、どうしてもう少し眠らなかった?」沙羅はわざと声を落とし、柔らかに言う。「ちょっと騒がしくて......二度寝できなかったの」二度寝?――朝から事を終えての、二度寝ということか。智也は階段を上がり、沙羅の隣に立った。その視