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第175話

作者: ルーシー
買ってきたおかゆを手に病院へ戻ると、愛莉は宮下のスマホで動画を見ていた。

何か面白いものを見たのか、顔いっぱいに笑みを浮かべている。

「愛莉様、奥様がお戻りです」

宮下の声に、愛莉は慌てて画面を消し、ベッドから身を起こして呼んだ。

「ママ!」

玲奈の寝間着は、もうどこを見ても濡れていた。

それでもおかゆを大事そうに抱え込み、冷めやしないか、こぼれはしないかと気を配っていた。

差し出しながら言う。

「宮下さん、これを愛莉に食べさせてあげて」

全身びしょ濡れの玲奈を見て、宮下の胸にじんと痛みが走る。

声を出すと、かすれた。

「奥様......まずお着替えをなさってください」

玲奈は「ええ」とだけ応じ、それ以上の言葉はなかった。

愛莉も母の濡れた姿に気づいていた。

本当は心配でたまらなかった。

けれど昼間、幼稚園で自分を迎えに来てくれなかったことを思い出すと、素直に声をかける気持ちは失せてしまった。

着替えを取りに車へ戻った玲奈は、シートに腰を下ろした途端、全身の力が抜け、動けなくなった。

目を閉じ、勝の言葉を思い返す。

――そして、娘を病院へ連れて来なかった智也のことも。

そのとき悟った。

彼はきっと、久我山にはいない。

では、どこに?

答えは簡単だった。

沙羅のいる場所――そこに彼はいるのだろう。

だが憶測だけでは足りない。

証拠が必要だ。

玲奈はスマホを取り出し、「ララ」の動画アカウントを検索する。

案の定、新しい投稿があった。

そこに映っていたのは――花束と果物を抱え、病室の扉を押して入ってくる智也の後ろ姿。

顔こそ映っていなかったが、服を見ただけで彼だとわかった。

キャプションにはこうあった。

【いつでも必要なとき、どこにいても駆けつけてくれるあなた。

本当に幸せ。

ありがとう】

スマホを伏せた玲奈は、思わず両手で顔を覆った。

胸を締めつけるのは、智也が沙羅を訪ねたことそのものではない。

愛莉が病に伏しているこのときでさえ、彼が沙羅のそばにいるという事実だった。

その思いに押し潰されそうになり、息が詰まりそうになる。

だが、嘆いても意味はない。

玲奈は服を着替え、気持ちを整えた。

そのとき、スマホに着信。

ラインではなく、ビデオ通話。

発信者は智也だった。

一瞬迷ったが、玲奈は
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