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第321話

Penulis: ルーシー
すでに夜は更け、時計の針は午前二時を回っていた。

この時間に愛莉が自分から電話をかけてくる理由など、玲奈にはすぐに察しがついた。

――ひとつは、体調を崩したとき。

――もうひとつは、智也と沙羅が家にいないとき。

そして、まさに今夜がその「もうひとつ」の場合だった。

沙羅は怪我をし、智也は彼女を連れて病院へ行った。

つまり、家には誰も残っていなかったのだ。

玲奈はそう淡々と状況を言葉にしただけで、宮下や愛莉がどう思うかなど、気にも留めなかった。

そのまま通話を切った。

ぷつりと音が途切れ、受話器の向こうに残ったのは、虚しい「ツー、ツー」という信号音だけ。

宮下は数秒間、携帯を耳に当てたまま動けなかった。

彼女の記憶の中で、玲奈という人は、いつも智也や愛莉に献身的で、細やかに気を配る女性だった。

けれど、今はもう違う。

――それでも、宮下は玲奈を責める気にはなれなかった。

こんな夫と娘では、彼女が心を閉ざしても無理はない。

下働きの自分にできるのは、ただ黙って見守ることだけだった。

携帯をしまったその瞬間、愛莉が再び泣き出した。

ベッドの上で足をばたつかせ
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    玲奈はわかっていた。智也は潔癖気味で、汚れることを嫌う男だ。それなのに今、沙羅が涙でシャツを濡らしても、彼は少しも嫌な顔をしない。その様子を見て、玲奈はふと考えてしまう。智也が沙羅をそこまで愛していないとしても――少なくとも彼の中で、沙羅はやはり特別なのだろう、と。沙羅を抱えたまま玲奈の横を通り過ぎるとき、智也は足を止めた。そして声を落として言う。「愛莉と手を繋いでやれ」玲奈が答えるより先に、愛莉が首を振った。「いい。パパの服の裾つかんで歩くから」そう言って、愛莉は智也のコートの裾をきゅっと握った。智也はそれ以上何も言わず、愛莉の好きにさせた。玲奈はその場に立ち尽くし、胸の奥が薄く冷えていくのを感じる。もう慣れたはずなのに、やっぱり刺さる。苦い笑いを二つ落としてから、玲奈も遅れて歩き出した。智也は沙羅を助手席に座らせ、丁寧にシートベルトまで締めてやった。立ち上がろうとした瞬間、沙羅が智也の手を引く。眉を寄せ、痛みに耐える顔で呟いた。「智也......怖い」水みたいに柔らかい声だった。人の心を揺らすような、甘い響き。智也は一瞬動きを止め、沙羅を見下ろす。そして頭を軽く撫でて、静かに言った。「大丈夫。大したことじゃない」それでも沙羅の涙は増すばかりで、しゃくり上げながら訴えた。「私......足が悪くなって、歩けなくなったらどうしよう」智也は指で彼女の唇にそっと触れ、言い聞かせる。「心配するな。そんなことにはならない」頬を染めた沙羅が、恐る恐る続ける。「もし......本当にそうなったら、あなた......」言い終える前に、智也が先に答えた。「万が一そうなっても、俺がその先の人生まで面倒を見る」その言葉で、沙羅の表情がすっと落ち着いた。瞳には一気に光が宿る。玲奈がここにいても、勝つのは自分――沙羅はそう確信したのだろう。智也が助手席のドアを閉め、振り返る。玲奈はまだ車のそばに立ったまま、乗る気配がない。「乗れ。愛莉の隣に座れ」玲奈は返事をせず、ドアを開けて後部座席へ滑り込んだ。愛莉は右側に座っている。けれど体ごと前へ傾け、ドアの隙間から小さな手を伸ばし、沙羅の手を握った。「ララちゃん、すごく痛

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    車に乗り込むと、玲奈は後部座席へ座り、愛莉もその隣に腰を下ろした。二人は左右に分かれ、間にはまるで天の川でも流れているみたいな距離があった。車内は静まり返り、誰ひとり口を開かない。智也はバックミラー越しに、ときおり後ろの妻と娘へ目をやった。――そこにいるのは、家族というより、互いを避け合う他人同士だった。玲奈は窓の外へ顔を向け、流れていく街灯の影をぼんやり追う。けれど心はずっと遠くに漂っていた。智也の条件を飲んだ自分が、情けなくて仕方ない。頬を張り飛ばしてやりたいほどだ。けれど拒めば、智也は別の手で必ずねじ伏せてくる。そうなるくらいなら、最初から承諾したほうがまだマシ――そう結論づけるしかなかった。それにしても、どうして急にこんな態度を取るのか。智也は離婚を待ち望んでいたはずだ。別れれば堂々と沙羅を迎えられるのに。なのに今の智也は、まるで別人みたいだった。この数日も、過去五年も。玲奈は一度も智也の本心を掴めなかった。自分は彼を、何ひとつ理解できていなかったのだ。やがて車が停車した。智也が愛莉を連れて降りると、玲奈も続いて外へ出る。ここは学のいる大学だった。玲奈が、ずっと憧れてきた博士課程。降りた瞬間から、玲奈は周囲の景色に目を奪われた。校内に漂う、濃い学術の空気。胸の奥が静かに熱を帯びる。前を行く一大一小は足早だ。玲奈は急がず、ゆっくりと後ろからついていく。心にあるのは、この場所への渇望だけだった。――三年後には、自分もここに立っていたい。気づけば三人は、沙羅のいる場所へ辿り着いていた。沙羅は階段に腰を下ろし、ズボンの裾を膝の上までまくり上げていた。覗いた脛はすらりと真っ直ぐで、肌は白い。傷口はないが、大きな青あざがはっきり残っている。玲奈は一目見ただけで、おおよその見当がついた。――骨に響いている。たぶん、打撲だけじゃない。しばらく座り込んでいた沙羅は、智也がようやく来たのを見た途端、目を赤くした。次の瞬間には、顔中涙でぐしゃぐしゃだった。沙羅が泣くのを見て、愛莉は胸を痛めたように駆け寄り、そっと首に抱きつく。「ララちゃん、泣かないで。愛莉とパパ、来たよ」沙羅は愛莉を抱き返しながらも、その言葉には答えず

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    智也は玲奈を見つめた。離婚の意思が揺らがないと分かった瞬間、胸の奥を鋭いもので突かれたようだった。しばらく黙ったあと、智也が口を開く。「離婚が成立するまでに、俺の条件を一つ飲め。そうしたら......きれいに別れてやる」その言い方が妙に改まっていて、玲奈は反射的に昨夜の「もう一度」の話を思い出した。胸の奥が冷える。それでも玲奈は、落ち着いた声で訊いた。「条件って?」煙草はまだ燃え尽きていなかった。玲奈の目が煙で赤くなっているのを見ると、智也は迷いなく煙草を地面に捨て、靴底で二度、強く踏み潰した。そして玲奈の前まで歩み寄り、低く言う。「最後の一週間、昔みたいに暮らすんだ」玲奈は反射的に断ろうとした。だが智也が続けて言葉を重ねる。「この数日だけは、前みたいな扱いはしない。普通の夫婦みたいに、夫としてやるべきことをちゃんとやる。期限が来て、それでもお前の気持ちが変わらないなら......そのときは本当に離婚する」玲奈は乾いた笑いを浮かべ、智也を見上げた。「......何を根拠に信じろっていうの?」智也は淡々と言い返す。「ここまで手続きが進んでる。何が不安なんだ」玲奈は言葉を飲み込んだ。すると智也は、さらに釘を刺すように言う。「ただし、よく考えろ。ここまで来ても、片方が嫌だって言えば、離婚は成立しない」笑っているのに、脅しが滲んでいた。玲奈は顔色を失いながら、それでも問い返す。「そこまでして......私たち、こんなにみっともなくならなきゃいけないの?」智也は視線を逸らし、目を閉じてから、硬い声で言った。「言っただろ。最後の条件を飲めば、きれいに終わらせる」玲奈は彼を見つめた。憎しみが、また一段深く沈んでいく。ここまで壊れているのに、なぜ今さら、理屈の通らないことに執着するのか。――けれど相手は智也だ。やると言ったら、やる男だ。玲奈は苦い笑みを落としてから、静かに言った。「口約束じゃ信用できないわ。......書面を作りましょう。誓約書、交わして」智也は即答した。「いいだろう」その迷いのなさが、玲奈には余計に滑稽だった。智也は続ける。「じゃあ今日から、お前は常に俺のそばにいろ。小燕邸に戻っ

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    玲奈は直子を見て、短く説明した。「ちょっと出てくるね。すぐ戻るから」智也がいる前では言いづらいことがあるのだろう。直子は言葉にせず、視線で玲奈に合図を送った。玲奈はそれを察し、小さく頷く。「うん。すぐ戻るわ」それでも直子は心配そうで、手にしていたスマホを軽く振ってみせた。「電話、忘れないでね」「分かった」智也は直子の言葉を深読みしなかった。ただ、出際にふと思い立ったように口を開く。「義母さん、今日は時間がなくてすみません。今度ちゃんと顔を出しに来ますね。その時は、ゆっくりしましょう」そう言うと、智也はポケットから一枚のキャッシュカードを取り出し、直子の手に差し出した。「これ、ほんの気持ちです。受け取ってください」直子は戸惑い、反射的に玲奈を見た。玲奈は迷わず頷き、受け取るよう目で促した。今のこの局面で、智也から出るものを「いらない」と突っぱねる理由はない。玲奈が受け取らなければ、結局それは沙羅に回るだけだ。結婚して五年。離婚が目前なら――せめて、得るべきものは得ておく。そんな思いが、玲奈の胸の底に静かに沈んでいた。直子がカードを受け取ると、智也はようやく安堵したように息をついた。玲奈がどう思っていようと、少なくとも直子は自分の差し出したものを拒まなかった。それで少し、心が落ち着いたのだろう。最後に智也は愛莉を自分の前へ呼び寄せ、目線を落として言った。「愛莉、もう行くぞ。おばあちゃんにさようなら言って」愛莉は気乗りしない顔のまま、力のない声で言う。「......おばあちゃん、さようなら」どこか投げやりで、感情も薄い。それを聞いた玲奈は、智也に淡々と言った。「愛莉が嫌なら、無理に言わせなくていいわ」智也は怒らず、代わりに愛莉がふん、と鼻を鳴らした。「ふんっ」それだけ吐き捨てると、愛莉はさっさと春日部家の玄関を出ていった。智也は慌てて直子に向き直る。「義母さん、体にお気をつけて。今日はこれで。次は、またみんなで集まりましょう」直子は形だけ返事をした。「......うん」声は硬く、気持ちが乗っていないのが分かる。それは愛莉と同じで、どこか仕方なくの響きだった。智也の「次は」という言葉が

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    愛莉の言葉を聞き、そしてあれほど心配そうな顔を見て、智也は一瞬考え込んだ末、先に沙羅の様子を見に行くことに決めた。声を落として愛莉に言う。「分かった。今すぐ行こう」愛莉はこくりと頷く。「うん」そうして愛莉は、少し離れたところにいる玲奈へ視線を移した。その隣には拓海が立っている。二人の距離感は、ただの友達とは違う。愛莉にはその違いがうまく説明できない。けれど胸の奥がちくりとして、言いようのない不安が湧いた。――もし、ママにこの先ほかの子ができたら......そこまで考えかけて、愛莉は慌てて思考を止めた。怖くて、続きを想像できなかったのだ。かつて何より自分を優先してくれたあの頃のママは、もういない。その事実が、幼い胸に重くのしかかっていた。智也は考えを固めると、玲奈へ向き直った。「お前も一緒に来い」すると拓海が眉を寄せ、乾いた笑いを漏らす。「お前は愛する人に会いに行くんだろ?なら俺だって俺の愛する人のところに行く。そういう理屈じゃないのか?」智也は答えず、玲奈だけを見据えた。しばらく間を置いて、低く問いかける。「来るのか、来ないのか。どっちだ」拓海の中で、何かが弾けた。苛立ちを隠さず二歩で玲奈の前へ出て、智也に言い放つ。「消えるならさっさと消えろ。俺の愛する人を巻き込むな」だが智也は拓海を相手にしない。その無視が、拓海の怒りをさらに宙ぶらりんにした。そのとき、背後の玲奈がそっと拓海の背中をつついた。拓海が振り返り、声を潜めて訊く。「......まさか。あいつと一緒に行って、あいつの大事な女に会う気か?」玲奈は拓海を見上げ、淡々と答えた。「うん」拓海は反射的に拳を握った。けれど、すぐに奥歯を噛んでその怒りを飲み込む。玲奈は拓海の脇をすり抜け、智也の前に立った。そして短く言う。「行こう。私も一緒に行くわ」理由はひとつ。残りわずかな最後の数日をやり過ごすためだ。正式に離婚届が受理されれば、もう智也の顔色なんて見なくていい。だが今は違う。もし彼が機嫌を損ねて、土壇場で取り下げでもしたら――もうこれ以上待つなんて嫌だ。これ以上、彼と絡み続けるのは耐えられない。だから、ここは耐える

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