LOGIN夕方になっても、玲奈は仕事を切り上げられず、結局、残業をもう三十分ほど続けた。病院を出たとき、同僚に夕食を誘われ、軽く食事を済ませて帰宅したのは夜の十一時を過ぎていた。朝、愛莉が入院している病院を出てからというもの――智也からは一度も連絡がなかった。玲奈もまた、娘の様子を尋ねることはしなかった。春日部家に戻ると、健一郎と直子はすでに寝室の明かりを落としていた。秋良と綾乃の部屋には灯りがついていたが、中は空っぽ。陽葵もとっくに寝静まっているようだった。玲奈は家族を起こさぬよう、足音を忍ばせて部屋へ向かった。ベッドに横たわるころには、湯も浴びる気力が残っていなかった。一晩中眠れず、さらに昼間は休む間もなく働きづめ。身体はもう限界を越えていた。だが、まどろみの中で――身体の内側から熱が立ちのぼるのを感じた。全身が燃えるように熱い。肌は汗でびっしょりと濡れ、息も荒い。手を額に当てた瞬間、その熱に自分でも驚いた。喉は焼けるように痛く、飲み込むたびに刃が立つようだった。身体は鉛のように重く、視界は霞み、目の奥までじんじんと痛む。――移った。愛莉の看病中に感染したのだと、玲奈はすぐに悟った。熱が上がっている。今すぐ薬を飲まなければ。そう思ってベッドから起き上がろうとする。けれど、腕も脚も言うことを聞かない。どれほど力を入れても、身体はびくともしなかった。やがて諦め、そのままシーツに沈み込む。息をするたび、胸の奥がひりつく。汗が滲み、髪の毛が頬に張りついた。どれくらい時間が経ったのか――意識が遠のく中で、玲奈はうっすらと目を開けた。窓のほうで、何かの音がした。視界の端に、ひとつの影がゆらりと現れる。薄闇の中を近づいてくるその人影が、やがて部屋の明かりに照らされたとき――玲奈の瞳に、はっきりとその顔が映った。拓海だった。現実なのか夢なのか。境目が溶けていくように曖昧だった。すべてが幻のように見えた。拓海は窓から身を乗り越え、急ぎ足で玲奈のベッドへ駆け寄った。布団の中の彼女の顔は真っ赤に染まり、全身から湯気が立つほどに汗ばんでいる。その姿を見た瞬間、拓海の心臓が強く跳ねた。「玲奈......!」慌ててベッドの縁に
沙羅は、腕の中にいる愛莉の小さな頬をそっと撫でながら、申し訳なさそうに微笑んだ。「私が悪かったの。私のせいで愛莉が病気になっちゃって......ごめんね、愛莉」愛莉は首を振り、弱々しい声で答える。「ちがうよ。悪いのは愛莉のほう。愛莉が弱いから」沙羅の目が赤く潤み、声には深い罪悪感が滲んだ。「そんなこと言わないで。もしあなたが病気になるってわかってたら、絶対に病院になんて連れてこなかった。......ごめんね嫌いにならないでくれる?」愛莉は小さな手を伸ばして、沙羅の頬を伝う涙をぬぐいながら、かすかに笑った。「ララちゃん、愛莉は怒ってないよ。あと少ししたら、また元気になるから」沙羅は無理に微笑み、その小さな頬をもう一度撫でた。「ほんとにいい子ね、愛莉」愛莉はそのまま沙羅にしがみつく。まるで八本の足で絡みつくタコのように離れなかった。智也は、その光景を見ながら、表情には笑みを浮かべていたが、声色には少しだけ注意の色が混じっていた。「愛莉、沙羅もまだ退院したばかりなんだ。そんなにくっついたら、疲れちゃうよ」その言葉を聞くと、愛莉は素直に手を放した。智也は娘の不満そうな顔を見て、すぐに小さな弁当箱を取り出した。「ほら見て。これは沙羅がお前のために、わざわざ家に戻って作ってくれた特製弁当だよ」その一言で、愛莉の顔がぱっと明るくなった。「わあ!ララちゃんのごはんなんて、初めて!パパ、早く食べさせて!」普段、小燕邸の食事はすべて宮下が用意している。沙羅は研究や仕事で忙しく、台所に立つことなどほとんどなかった。そんな彼女は、少し照れたように笑いながら言った。「でもね、あんまり期待しないでね。私、料理あんまり得意じゃないから......口に合わないかも」愛莉はそんなことおかまいなしで、目を輝かせながら智也をせかす。「パパ、早く開けて!」智也は頷いて、ふたを開けた。中には白く濁った魚のスープ。表面には黒い焦げのような小さな粒が浮かんでいる。見た目は決して美味しそうとは言えなかった。それでも愛莉は、少しも顔をしかめず、スプーンを取り、小さくすくって口に運んだ。......次の瞬間、舌の先がぴりっと痺れる。思わず眉をひ
およそ三十分ほど経って、愛莉はようやくゆっくりと目を開けた。玲奈の顔が視界に入る。本当は、嬉しかった。けれど、その「ママ」というたった二文字が、喉の奥からどうしても出てこない。玲奈は怒らなかった。代わりに、穏やかな声で問いかけた。「少しは楽になった?」手を伸ばして愛莉の額に触れると、熱はずいぶん下がっていた。愛莉は唾をのみ込んだ。喉は刃物で裂かれるように痛く、目の縁が真っ赤に染まり、涙がこぼれ落ちた。その様子を見て、玲奈は優しく言葉をかけた。「味噌汁を買ってきたの。少しだけでも食べて、また寝ようね」愛莉は小さくうなずき、かすれた声で「うん」と返す。玲奈は彼女をそっと支え起こし、顔を拭いてから、スプーンで味噌汁を口に運んだ。しかし、一口飲み込んだ途端、愛莉は顔をしかめて、吐き戻してしまった。玲奈は慌ててティッシュで受け止め、心配そうに尋ねる。「どうしたの?口に合わなかった?」愛莉は唇を尖らせ、かすれた声でつぶやいた。「......これ、ママが作った味噌汁じゃない。ママのが食べたいの」その言葉を聞いた瞬間、玲奈の胸の奥を鋭い痛みが貫いた。――あの朝、雅子にひっくり返されたあの味噌汁。どれほどの時間と想いを込めて煮込んだことか。それを思い出すと、胸が締めつけられた。それでも、玲奈は穏やかに言い聞かせるように微笑んだ。「愛莉、少しだけ我慢してね。お昼にはママがちゃんと美味しいのを作ってくるから。ね?少しだけ食べよう?」愛莉は顔を上げて玲奈を見つめた。母親の疲れ切った表情がそこにある。だが、心の中に湧き上がったのは、同情ではなく、怒りだった。――自分がこんなに苦しいのに、ママは何もしてくれない。味噌汁さえ作ってくれない。そう思うと、胸の奥がぐっと熱くなった。「......もういい。パパとララちゃんが来てくれるから、ママは自分の仕事をしてていいよ」その言葉に、玲奈は微かに息を詰めた。それでも、忍耐をこめてやさしく答える。「愛莉。ママは小児外科のお医者さんだからね。この病気は三日から五日は熱が続くの。最初の数日が一番大事なのよ。ママ、三日間お休みを取ったから、ずっとそばにいるわ」玲奈の声には、ほとん
一晩中眠れなかった玲奈の体は、すでに限界を超えていた。その疲れきった心に、智也の言葉が追い打ちをかける。胸の奥に押し込めていた息が、また詰まった。彼女は奥歯を強く噛みしめ、深く息を吐き出したあとで、ようやく言葉を絞り出す。「――やりたいなら、自分でやって。私は愛莉の分だけ作るわ」智也は、彼女の充血した目と、目の下に濃く刻まれた隈を見て、眉を寄せた。しばらく黙り込んだのち、低い声で問う。「......お前、前はこんなんじゃなかった。ただ味噌汁を少し多めに作ってくれって言ってるだけだろ。それのどこがそんなに気に入らないんだ?」玲奈は、もう抑えきれなかった。振り返りざま、智也を鋭くにらみつける。「智也、あなた自分で言ったじゃない、前はって。人は変わるのよ。いつまでも同じでいられる人なんていない。――私だって、そうよ」智也は、玲奈がここまで声を荒らげるのを、ほとんど見たことがなかった。けれど、最近の彼女は違う。その苛立ちは日に日に強くなっていた。彼の胸の中に、嫌な予感がもやのように広がる。――もしかして、玲奈はもう自分と愛莉を邪魔者だと思っているのではないか。そう考えた瞬間、今度は智也の感情が爆発した。「......具合が悪いなら病院に行け。俺に当たったって治らないぞ」その言葉を聞いた瞬間、玲奈の身体がぴたりと止まった。呆然と智也を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。やがて、かすれた笑いが漏れる。「......そうね。私、病気よ。あんたなんかを好きになった、この目が病気。子どもためにあなたの心をつなぎとめようなんて思った、この頭もおかしいの。私って、ほんと馬鹿よね。どうしようもないほどの」智也は、はっとした。自分の言葉が彼女をどれほど傷つけたか、その時ようやく気づく。思わず手を伸ばし、彼女の腕を掴もうとする。だが、玲奈はその手を振り払った。「触らないで。もう、あなたに触れられたくない」声は震え、身体も細かく震えていた。手にはまだ、かき混ぜる前のおたまを握っている。鍋の中では、米がまだ煮え立ってもいなかった。智也は、その震える背中を見つめながら、ただ焦燥だけに突き動かされていた。もう一度、手を伸ばす
タクシーに乗り込んだ玲奈は、シートにもたれた途端、疲れ果てて眠りに落ちた。「お客さん、着きましたよ」運転手に声をかけられて、ようやく目を開ける。料金を支払い、玲奈は車を降りて小燕邸の門をくぐった。いまの時間に春日部邸へ戻れば、家族を起こしてしまう。だから、玲奈は愛莉が慣れ親しんだこの小燕邸に戻ることにしたのだ。キッチンに入ると、彼女は手際よく鍋を火にかけ、娘のための朝食づくりを始めた。やがて味噌汁ができあがる。玲奈はそれを小さな容器に丁寧に移し、テーブルの上に並べた。そして「これだけでは足りない」と思い、味噌汁に合うあっさりした副菜をもう一品作ろうと、再びキッチンへ戻った。......しかし、料理を終えて出てきたとき、テーブルにはすでに雅子が腰を下ろしていた。雅子の目の前には、玲奈が心を込めて煮た味噌汁の容器が開けられている。雅子は中を覗き込み、眉をひそめて吐き捨てるように言った。「こんな少ししか作らないなんて、誰がこれで足りるの?」玲奈は何も言わなかった。無言のまま近づくと、容器を雅子の手からすっと奪い取った。そして、言葉ひとつ発せずにそれを袋に詰めはじめた。雅子はそれを見て、声を荒げる。「まったく、家政婦でもこんな仕事はしないわよ!食べる人のことも考えずに、ちょこっと作っただけで。それを持って行くつもり?恥知らずもいいところね!」そう言いながら、雅子は手を伸ばして奪い返そうとする。玲奈も引かなかった。味噌汁の容器をしっかりと握り、互いに譲らぬまま力を込める。――そして、次の瞬間。「ガシャン!」容器が床に落ち、味噌汁が四方八方に飛び散った。味噌汁が床一面に広がるのを見た瞬間、玲奈の中で何かがぷつりと切れた。彼女は真っ赤に染まった目で雅子をにらみ、肩を押し返すようにして言い放った。「......あなた、一体どうしたいの?」雅子は体勢を崩して後ろへよろめき、そのまま床に尻もちをついた。すぐさま、彼女の甲高い声が響く。「玲奈!あんた、私を殺す気?」玲奈は何も言わなかった。ただ、床に散らばった味噌汁を見つめたまま、動けずにいた。――この味噌汁を作るのに、一時間以上かかった。娘のために、心を込めて作ったというのに。その努
体温計の数字を見た瞬間、玲奈も智也も、思わず息をのんだ。まだ高熱のまま――三十九度を超えている。看護師も焦ったように言う。「先生に確認してきます。追加の処置が必要かもしれません」玲奈は何も言わず、ただ小さく頷いて看護師を見送った。智也は玲奈の隣に腰を下ろし、心配そうにベッドの愛莉を見つめる。やがて看護師が戻ってきて、「もう少し様子を見ましょう、自然に下がるかもしれません」と告げた。玲奈は医師でもある。熱がすぐに下がるものではないことも、処置を焦っても仕方のないことも、誰よりも分かっていた。――今はただ、待つしかない。愛莉の意識はまだしっかりしていたから、危険な状態ではない。それでも、母としては不安で仕方なかった。智也は娘の頬をそっと撫でながら、「大丈夫だよ、パパがそばにいる」と何度も囁きかけた。愛莉は青白い顔で、それでも微笑もうとする。「......パパ、愛莉、もう大丈夫」その言葉に、玲奈の胸が詰まった。鼻の奥が熱くなり、気づけば涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。智也はその様子を見て、「そんなに泣かなくていい、愛莉はすぐ良くなるさ」と、小さな声で慰めた。けれど、玲奈は何も答えなかった。返す言葉も、もう浮かばなかった。――涙は、病気のせいではない。娘が笑いながら「パパ、大丈夫」と言ったこと。それが、胸に刺さった。心配しているのは自分だって同じなのに。夜通し看病しているのも自分なのに。愛莉の中では、「安心できる人」は父親だけなのか。それが、悲しくてたまらなかった。それでも、玲奈は席を立たなかった。娘が眠るまで、ずっと傍にいようと決めていた。三十分ほど経ったころ、愛莉の熱はようやく下がり始めた。しかし、顔色はますます悪くなり、体の力も抜けてしまっている。ようやくうとうとし始めたかと思うと、突然、体を起こして吐いてしまった。吐いた後、また高熱がぶり返す。夜が明けるまで、高熱と嘔吐を繰り返すその姿を、二人はただ黙って見守るしかなかった。一睡もできぬまま、夜が白み始める。朝の五時――ようやく最後の高熱が引いたそのとき、愛莉が小さくつぶやいた。「......ママ」玲奈の目が見開かれる。「ええ、ママよ。ママはここにいるわ」