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03

Author: 仲原
last update publish date: 2026-07-03 21:44:15

 予想外の出来事が起こると、目の前が真っ白になることもあるらしい。

「結婚を望んだのが昴兄様……というのは、嘘ですよね?」

 結婚を望んだのは誰だと父親は言ったのだろうか? 長いこと耳にするのを避けていた名前を聞いた瞬間、海亜の心が激しく動く。

「そんな冗談は受け入れられません」

 しかし、どんなに甘い誘惑でも、所詮夢は夢でしかない。ぬか喜びに終わることなど、想像しなくとも分かり切っている。だからこそ、傷付く前にその期待を打ち砕いてしまおう。そんな思いから、海亜は言われた言葉を冗談だと片付け部屋を出て行くべく父親に背を向ける。

「冗談などでは無いとさっきも言っただろう?」

 現実味の無い時間から逃避しようと早足で扉へ駆け寄ると、素早く背後から伸びる手が視界に入る。ドアノブまでは後数センチ。だが、それに指が触れることは叶わず、行く手を阻むように腕を掴まれ「待ちなさい」と貴久に引き留められてしまった。

「離し……っ」

「良いから、話を聞きなさい!!」

 部屋中に響く怒号。頭上から降る大きな音に無意識に身を縮め怯えを見せる。そんな海亜の態度を見て貴久は気まずそうに表情を歪めるとゆっくりと摑んでいた腕を放し距離を取った。

「海亜は覚えているか?」

「何を……」

「お前と昴くんは元々、婚約者同士だったということをだよ」

 その言葉を耳にした瞬間、海亜表情が僅かに曇る。

「覚えて……います」

 忘れるわけが無い。忘れたいと願ったことも無い。何故なら、一條昴は海亜の初恋の相手で、今でも一途に思い続けている相手だからだ。

「でも、その婚約は一條の家の都合で白紙に戻されているはずですよね?」

 海亜の記憶が確かならば、婚約関係があったことは事実だが、それが既に破棄されていることも事実である。言葉に棘が含まれてしまうのは、その契約が白紙になったことを彼女自身が納得していないせいだった。

「お前の言うとおり、確かに一度は、あちらの都合で婚約は白紙に戻ってしまった」

 縁を結ぶのも勝手。縁を絶ちきるのも一方的。いつだって海亜の感情は、既に決められたことに合わせて育ち、崩れるもの。

「私は婚約を破棄されたことを、未だに納得出来ていませんので」

 海亜の母がまだ健在だった頃。久藤と一條の両家は非常に親しい間柄だった。そのため、両家の子供である海亜と昴はとても仲が良く、何処へ行くにも一緒で。双方が違いを意識し、惹かれ合うことは極自然なことであるかのような必然だったはずだ。

 二つ違いの幼馴染みである昴のことを、海亜は思っている以上に慕っている自覚はあった。昴の方も海亜に対し拒絶を見せたことは無く、どちらかというと彼女のことを可愛がり、面倒を見ることを買って出る程溺愛していたはずだ。そんな二人の様子から将来は、互いの伴侶になると良いと。そう望んだのは彼等の祖父母たちである。不思議なことに双方の両親も、祖父母の提案に異議を唱えること無くそれを受け入れ、昴や海亜自身もそのことを望んだため、自然と婚約関係が成立することになっていた。

 その状況が変わってしまったきっかけの一つが海亜の母親の葬儀である。

 母親の存在を無くし不安定になってしまった海亜は、少しずつ自分の殻の中に閉じこもるようになってしまった。非常に活発的だった無邪気な子が、徐々に大人しく目立たない空気のような子に変わっていくことに周りは心配したのだが、何をどう伝えても攻撃的に騒ぎ引きこもってしまう海亜に疲弊し、遂に根を上げ諦めてしまう。

 それは海亜の家族である貴久だけではなく、海亜と親しくしていた昴も同様だった。そうやって海亜が周りを拒絶すればするほど二人の時間は薄れていき、いつの頃からか昴の隣に知らない女性の気配がチラつき始めたことに彼女が気が付いた頃には、もう手遅れの状態へと進んでしまっていた。

「昴兄様には確か、結婚を考えているお相手がいたと記憶していますが」

 彼の隣に立ち共に刻を重ねること。それを何よりも強く願っていたのは海亜自身。

「式をいつに行うのかという詳細までは分からないにしろ、もう既に秒読みの段階だと聞いております」

 どんなに恋慕の情を抱いても、他人の者を欲しがるほど墜ちては居ない。

 諦めたくないと心の叫びに目を背け、なるべく恋い慕う相手を視界に入れないようにしながら己の中の切ない感情を慰める。そうして少しずつ。報われない念いに土を被せ、いつの日か笑って振り返ることのできる思い出へと昇華させようと努力していたのに、何故、今になって気持ちを揺さぶるような冗談を言われなければならないのだろうか。

「少なくとも、そのお相手は私では無いことは確かなはずです」

 だからこそ、変な期待は抱かせないで。やりきれなさで爆発しそうな怒りを抑えながら父親を睨み付けると、海亜は自分の素直な気持ちを言葉にし強く拳を握りしめる。

「昴くんとその女性の関係は、随分前に終わっているんだよ」

 何から話したら良いのだろう。そう呟くと、貴久は小さく溜息を吐いた後言葉を続ける。

「確かに、昴くんと相手の女性が結婚するかも知れないという話はあった。実際、式場の下見や準備を進めていると聞いたこともある。しかし、それが本格的になる前に、相手の方が別の男性と結婚して海外へ移住してしまったんだ」

「………え……?」

「それに……何というか……」

 そこで一度、貴久は言葉を濁し口を噤む。

「お父……様……?」

 明らかにおかしい父親の態度。政略結婚の相手にと娘を差し出すことを決めた憎い相手にしては、端々に感じる違和感に奇妙な感覚を覚える。彼は一体何を隠しているのだろうか。それが分からないせいで気持ち悪くて仕方が無い。

「……昴くんはどうやら、その女性との結婚について、随分と悩んでいたようなんだ」

 あれからいくつか言葉を交わしたが、一條の家のことは久藤にとって、結局は他人の事情にしか過ぎない。昴の父である一條亨とおるから間接的に聞くことは出来ても、昴自身がどう思っているのかなど貴久に分かる筈も無く、結婚を悩んでいたせいで式の準備が進んでいなかったこと。最終的には相手に逃げられそこからはずっと独り身だったこと以外説明出来ず、その後何があったから、再び海亜との婚姻の話が持ち上がったのか。その真意は諮りかねない。

「結婚するもしないも、私は海亜の意見に従うよ」

 唐突に与えられた選択肢。今まで無かったパターンに海亜は酷く戸惑うのに、貴久は判断を海亜自身に委ね書斎机へと戻る。

「昴くんと幸せになりたいならば結婚も良いだろう。許せないと言うのなら、この話は私の方から断りを入れておく。どうしたいのかしっかり考えて、海亜自身が決めなさい」

 要件はそれだけだ。

 それ以降の会話は一切無い。静まりかえった空間には、貴久が滑らせるペンの音だけが響いている。

「……分かり……ました」

 海亜は一歩後ずさり扉に背を預けると、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

「考えがまとまりましたら、後日、報告します」

 今はそれを言うことだけで精一杯。返事をせかされていないことを確認すると、海亜は逃げるように父の書斎を後にする。部屋の外には不安にこちらを見つめる妹の姿。

「じゃあね」

 こんな気持ちのまま誰とも会話をしたくはない。何か言いかけた妹を無視して通り過ぎると、来たときよりも早い速度で廊下を進み建物を出る。

「帰宅されますか?」

「お願いします」

 外には来たときに迎えに来てくれた老齢の男性の姿。開かれた扉から車内に滑り込むと、すっかり薄暗くなってしまった空に目を向けながら静かに建物を後にした。

◇

 翌日になっても頭の混乱は続いてる。

「昴兄様と結婚なんて……」

 本当にそんなことがあるのだろうか。

「…………」

 自分に取って都合の良い話が現実の物なのかを確かめたくて、海亜は軽く頬を抓ってみる。

「……痛っ」

 確かに感じるのは頬に付いた肉の弾力とそこから発する鈍い痛み。

「本当のこと……なん……だよ……ね?」

 右頬から広がる痛みに無意識に込み上げた涙には、沢山の感情が居り混ざっている。

「みんなして、私を騙しているわけじゃないよね?」

 もし、これが本当の事ならば、なんと幸運なことだろうか。

「私も幸せになって、良いのかなぁ……?」

 隠していた淡い恋心。それが再び芽吹こうと暴れ出す。

「ずっと、好きだったの。本当はずっと、昴兄様のお嫁さんになりたかったっ」

 あの女性よりも早くこの思いを伝えられていたら、彼は私のことを選んでくれただろうか。

 毎日繰り返していたのはそんな自問自答。外の世界に目を向けることも、自分の思いを伝えると決断することも遅すぎて、もう二度と実らないと決めつけていた夢が直ぐ目の前に姿を現す。

「私は、昴お兄様と幸せになりたいっ!」

 もし、本当にその願いが叶うのならば、申し出を断るという選択肢は選びたくない。

「昴お兄様。本当に、私と結婚してくれますか?」

 今は未だ本人に伝える勇気が持てない言葉。だがそれは、近いうちに相手に伝えたいと心に決めると、海亜は充電器に繋がれたままの携帯端末を手に取り番号を呼び出す。

「…………」

 耳に届くのは無規則な呼び出し音。気持ちが逸るせいか繰り返すコールの回数は多く、相手の反応が返ってこない間が随分と長いと感じてしまい苛立つ。

『もしもし』

 漸く繋がった父親の声を聞くと、海亜は珍しく積極的な口調で相手にこう告げた。

「この前言ってた昴兄様との結婚。お受けします」

 今までの刻は不運が重なっただけ。幸せになりたいと藻掻いても、いつだって小さな欠片は指の間からすり抜けていってしまうと思っていた。それでも、運命の輪が好転するときは必ず来るものだと初めて感じることが出来る。

「私、昴お兄様と結婚します」

 今度こそ。そのチャンスを逃がすことをしたくない。携帯端末を摑む指は震え、心臓が打つ鼓動は速度を上げ痛みすら感じる程だ。乾いた喉のせいで上擦る声はみっともなく、嬉しいのかどうかすら分からなくなってしまった顔には情けない笑みが浮かび涙が溢れる。

「私は、昴お兄様と結婚したいです!」

 それでも精一杯の気持ちで。父親にそう伝えると途端に気持ちが晴れやかになり、自然な笑顔が花開く。

「私、お兄様と結婚するから……」

 受話器越しの父親の言葉はたった一言。

『そうか』

 それでもその声はとても穏やかで、たったそれだけのことでほんの少しだけ。彼に対して抱いて居た負の感情が少しずつ解けていくのを感じたのだった。

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