LOGIN予想外の出来事が起こると、目の前が真っ白になることもあるらしい。
「結婚を望んだのが昴兄様……というのは、嘘ですよね?」
結婚を望んだのは誰だと父親は言ったのだろうか? 長いこと耳にするのを避けていた名前を聞いた瞬間、海亜の心が激しく動く。
「そんな冗談は受け入れられません」
しかし、どんなに甘い誘惑でも、所詮夢は夢でしかない。ぬか喜びに終わることなど、想像しなくとも分かり切っている。だからこそ、傷付く前にその期待を打ち砕いてしまおう。そんな思いから、海亜は言われた言葉を冗談だと片付け部屋を出て行くべく父親に背を向ける。
「冗談などでは無いとさっきも言っただろう?」
現実味の無い時間から逃避しようと早足で扉へ駆け寄ると、素早く背後から伸びる手が視界に入る。ドアノブまでは後数センチ。だが、それに指が触れることは叶わず、行く手を阻むように腕を掴まれ「待ちなさい」と貴久に引き留められてしまった。
「離し……っ」
「良いから、話を聞きなさい!!」
部屋中に響く怒号。頭上から降る大きな音に無意識に身を縮め怯えを見せる。そんな海亜の態度を見て貴久は気まずそうに表情を歪めるとゆっくりと摑んでいた腕を放し距離を取った。
「海亜は覚えているか?」
「何を……」
「お前と昴くんは元々、婚約者同士だったということをだよ」
その言葉を耳にした瞬間、海亜表情が僅かに曇る。
「覚えて……います」
忘れるわけが無い。忘れたいと願ったことも無い。何故なら、一條昴は海亜の初恋の相手で、今でも一途に思い続けている相手だからだ。
「でも、その婚約は一條の家の都合で白紙に戻されているはずですよね?」
海亜の記憶が確かならば、婚約関係があったことは事実だが、それが既に破棄されていることも事実である。言葉に棘が含まれてしまうのは、その契約が白紙になったことを彼女自身が納得していないせいだった。
「お前の言うとおり、確かに一度は、あちらの都合で婚約は白紙に戻ってしまった」
縁を結ぶのも勝手。縁を絶ちきるのも一方的。いつだって海亜の感情は、既に決められたことに合わせて育ち、崩れるもの。
「私は婚約を破棄されたことを、未だに納得出来ていませんので」
海亜の母がまだ健在だった頃。久藤と一條の両家は非常に親しい間柄だった。そのため、両家の子供である海亜と昴はとても仲が良く、何処へ行くにも一緒で。双方が違いを意識し、惹かれ合うことは極自然なことであるかのような必然だったはずだ。
二つ違いの幼馴染みである昴のことを、海亜は思っている以上に慕っている自覚はあった。昴の方も海亜に対し拒絶を見せたことは無く、どちらかというと彼女のことを可愛がり、面倒を見ることを買って出る程溺愛していたはずだ。そんな二人の様子から将来は、互いの伴侶になると良いと。そう望んだのは彼等の祖父母たちである。不思議なことに双方の両親も、祖父母の提案に異議を唱えること無くそれを受け入れ、昴や海亜自身もそのことを望んだため、自然と婚約関係が成立することになっていた。
その状況が変わってしまったきっかけの一つが海亜の母親の葬儀である。
母親の存在を無くし不安定になってしまった海亜は、少しずつ自分の殻の中に閉じこもるようになってしまった。非常に活発的だった無邪気な子が、徐々に大人しく目立たない空気のような子に変わっていくことに周りは心配したのだが、何をどう伝えても攻撃的に騒ぎ引きこもってしまう海亜に疲弊し、遂に根を上げ諦めてしまう。
それは海亜の家族である貴久だけではなく、海亜と親しくしていた昴も同様だった。そうやって海亜が周りを拒絶すればするほど二人の時間は薄れていき、いつの頃からか昴の隣に知らない女性の気配がチラつき始めたことに彼女が気が付いた頃には、もう手遅れの状態へと進んでしまっていた。
「昴兄様には確か、結婚を考えているお相手がいたと記憶していますが」
彼の隣に立ち共に刻を重ねること。それを何よりも強く願っていたのは海亜自身。
「式をいつに行うのかという詳細までは分からないにしろ、もう既に秒読みの段階だと聞いております」
どんなに恋慕の情を抱いても、他人の者を欲しがるほど墜ちては居ない。
諦めたくないと心の叫びに目を背け、なるべく恋い慕う相手を視界に入れないようにしながら己の中の切ない感情を慰める。そうして少しずつ。報われない念いに土を被せ、いつの日か笑って振り返ることのできる思い出へと昇華させようと努力していたのに、何故、今になって気持ちを揺さぶるような冗談を言われなければならないのだろうか。
「少なくとも、そのお相手は私では無いことは確かなはずです」
だからこそ、変な期待は抱かせないで。やりきれなさで爆発しそうな怒りを抑えながら父親を睨み付けると、海亜は自分の素直な気持ちを言葉にし強く拳を握りしめる。
「昴くんとその女性の関係は、随分前に終わっているんだよ」
何から話したら良いのだろう。そう呟くと、貴久は小さく溜息を吐いた後言葉を続ける。
「確かに、昴くんと相手の女性が結婚するかも知れないという話はあった。実際、式場の下見や準備を進めていると聞いたこともある。しかし、それが本格的になる前に、相手の方が別の男性と結婚して海外へ移住してしまったんだ」
「………え……?」
「それに……何というか……」
そこで一度、貴久は言葉を濁し口を噤む。
「お父……様……?」
明らかにおかしい父親の態度。政略結婚の相手にと娘を差し出すことを決めた憎い相手にしては、端々に感じる違和感に奇妙な感覚を覚える。彼は一体何を隠しているのだろうか。それが分からないせいで気持ち悪くて仕方が無い。
「……昴くんはどうやら、その女性との結婚について、随分と悩んでいたようなんだ」
あれからいくつか言葉を交わしたが、一條の家のことは久藤にとって、結局は他人の事情にしか過ぎない。昴の父である一條
「結婚するもしないも、私は海亜の意見に従うよ」
唐突に与えられた選択肢。今まで無かったパターンに海亜は酷く戸惑うのに、貴久は判断を海亜自身に委ね書斎机へと戻る。
「昴くんと幸せになりたいならば結婚も良いだろう。許せないと言うのなら、この話は私の方から断りを入れておく。どうしたいのかしっかり考えて、海亜自身が決めなさい」
要件はそれだけだ。
それ以降の会話は一切無い。静まりかえった空間には、貴久が滑らせるペンの音だけが響いている。
「……分かり……ました」
海亜は一歩後ずさり扉に背を預けると、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
「考えがまとまりましたら、後日、報告します」
今はそれを言うことだけで精一杯。返事をせかされていないことを確認すると、海亜は逃げるように父の書斎を後にする。部屋の外には不安にこちらを見つめる妹の姿。
「じゃあね」
こんな気持ちのまま誰とも会話をしたくはない。何か言いかけた妹を無視して通り過ぎると、来たときよりも早い速度で廊下を進み建物を出る。
「帰宅されますか?」
「お願いします」
外には来たときに迎えに来てくれた老齢の男性の姿。開かれた扉から車内に滑り込むと、すっかり薄暗くなってしまった空に目を向けながら静かに建物を後にした。
◇
翌日になっても頭の混乱は続いてる。
「昴兄様と結婚なんて……」
本当にそんなことがあるのだろうか。
「…………」
自分に取って都合の良い話が現実の物なのかを確かめたくて、海亜は軽く頬を抓ってみる。
「……痛っ」
確かに感じるのは頬に付いた肉の弾力とそこから発する鈍い痛み。
「本当のこと……なん……だよ……ね?」
右頬から広がる痛みに無意識に込み上げた涙には、沢山の感情が居り混ざっている。
「みんなして、私を騙しているわけじゃないよね?」
もし、これが本当の事ならば、なんと幸運なことだろうか。
「私も幸せになって、良いのかなぁ……?」
隠していた淡い恋心。それが再び芽吹こうと暴れ出す。
「ずっと、好きだったの。本当はずっと、昴兄様のお嫁さんになりたかったっ」
あの女性よりも早くこの思いを伝えられていたら、彼は私のことを選んでくれただろうか。
毎日繰り返していたのはそんな自問自答。外の世界に目を向けることも、自分の思いを伝えると決断することも遅すぎて、もう二度と実らないと決めつけていた夢が直ぐ目の前に姿を現す。
「私は、昴お兄様と幸せになりたいっ!」
もし、本当にその願いが叶うのならば、申し出を断るという選択肢は選びたくない。
「昴お兄様。本当に、私と結婚してくれますか?」
今は未だ本人に伝える勇気が持てない言葉。だがそれは、近いうちに相手に伝えたいと心に決めると、海亜は充電器に繋がれたままの携帯端末を手に取り番号を呼び出す。
「…………」
耳に届くのは無規則な呼び出し音。気持ちが逸るせいか繰り返すコールの回数は多く、相手の反応が返ってこない間が随分と長いと感じてしまい苛立つ。
『もしもし』
漸く繋がった父親の声を聞くと、海亜は珍しく積極的な口調で相手にこう告げた。
「この前言ってた昴兄様との結婚。お受けします」
今までの刻は不運が重なっただけ。幸せになりたいと藻掻いても、いつだって小さな欠片は指の間からすり抜けていってしまうと思っていた。それでも、運命の輪が好転するときは必ず来るものだと初めて感じることが出来る。
「私、昴お兄様と結婚します」
今度こそ。そのチャンスを逃がすことをしたくない。携帯端末を摑む指は震え、心臓が打つ鼓動は速度を上げ痛みすら感じる程だ。乾いた喉のせいで上擦る声はみっともなく、嬉しいのかどうかすら分からなくなってしまった顔には情けない笑みが浮かび涙が溢れる。
「私は、昴お兄様と結婚したいです!」
それでも精一杯の気持ちで。父親にそう伝えると途端に気持ちが晴れやかになり、自然な笑顔が花開く。
「私、お兄様と結婚するから……」
受話器越しの父親の言葉はたった一言。
『そうか』
それでもその声はとても穏やかで、たったそれだけのことでほんの少しだけ。彼に対して抱いて居た負の感情が少しずつ解けていくのを感じたのだった。
情けない。みっともない。 でも、それ以上に嬉しくて仕方ない。 強い力を込めれば直ぐにでも折れてしまいそうなほど細い腕なのに、とても強く大きく感じる安心感。忘れていた温もりに縋るように身を預ければ、水琴がそれに応えるようにして海亜の頬を撫でた。「大丈夫よ。あなたのことは、私が守ってあげるわ」 意識しなければ聞こえない程の小さな音。それは海亜の耳に届くこと無く、空気に混ざり静かに消えていった。◆ どれくらいの時間が経ったのだろうか。「…………あれぇ?」 間の抜けたような声が耳に届いたことで引き戻された現実。慌てて身を起こし水琴と距離を取ると、直ぐ隣に座る星奈が不思議そうに首を傾げながらこちらを見ている事に気が付き驚いてしまう。「海亜さん、泣いてる?」「え? いや、その……」 泣いていない。と、言うには群れた頬を誤魔化す事が難しい状況。見られたくないと顔を逸らすのに、お酒が入り酔っている星奈は遠慮を知らず、感じた疑問を追求しようと距離を詰めてくる。「もしかして、お母さんに泣かされちゃった?」 自らの言葉に勝手に納得をしてしまったのだろうか。見当違いの正義感で己の意見を正当かさせようと動く星奈は、鋭い視線で母親である水琴の事を睨み付ける。「な、何を言ってるの! 星奈!」 当然、その言葉を真っ向から否定するのは水琴だ。「私が海亜ちゃんを泣かせたなんて誤解よ!」 そんな事実は存在しない。相必死に訴えるのだが、いまいち噛み合わない会話は平行線を辿るばかり。「でも、お母さん。海亜さんは泣いてるじゃない。誤解って言っても説得力なんて無いわよ」 何があったのかの経緯を知らない星奈からしてみれば、今ある結果だけが全てである。星奈の言葉通り、海亜の目は赤く腫れ、ずっと潤んだ状態のまま。時折啜る鼻の音も手伝い、全ての要素が彼女が泣いていることを指し示しているのだから、勘違いするなというのが無理な話である。 このままでは、水琴の立場は益々悪くなってしまうだろう。それだけは何としても回避したいと。水琴の名誉の為に動いた海亜が慌てて口に出だす言葉。「私が泣いてしまったのは、水琴さんから私のお母さんの話を聞いたからなのよ!」一瞬だけ固まった空気。何とも言えない気不味さが場を満たす。「どういう……こと……?」何を言われたか分からず面食らった星奈が見せ
「考えてみれば、あの頃からあなたは昴のことを好きで居てくれたのよね」 改めてそう言われると、恥ずかしくてむず痒いと感じ真っ赤に染まる海亜の顔。 水琴が言うとおり、海亜の初恋は昴だ。それは彼女自身もしっかり自覚している。 仕事の付き合いで一条家の人間と初めて顔を合わせた時、海亜が真っ先に興味を持ったのが歳が近い幼馴染みの存在だった。 あの頃の一条に居た子供は二人の息子のみだったのだが、上の昇はと言うと既に学校に通っており歳が離れていることもあって、少しばかり距離を感じる事が多かった。そのため、彼に対しては兄のような存在以上の印象を持ったことがない。 逆に、昴に対してはというと、友達よりも少しだけ近い距離。初対面の相手に人見知りをしてしまう海亜に対しても始めからフランクに話しかけ、彼女の手を取り率先して行動を起こす。紳士的な態度と少年特有の活発さはとても輝いて見え、無意識に抱くのは強い憧れで。それが大きくなるにつれ、昴に対して少しずつ別の感情を覚え始める。そうやって幾度となく互いの時間を共有していくと、段々、兄以上の存在として意識をすることも多くなった。始めは気が付かなかった小さな小さな感情の芽。いつしかそれは、淡い恋心へと緩やかに育っていく。「海亜ちゃんはよく、慈乃さんにこう言っていたのよ。大きくなったら絶対に、昴と結婚するのって」「え!?」「昴も満更でもなかったみたいでね。いつの間にか二人とも、左手の薬指にお花で作ったお揃いの指輪をはめていたりしてね」「あっ……」「それどうしたの? って聞いたら昴ったら、海亜ちゃんに作って貰ったのって嬉しそうにはしゃいじゃって。海亜ちゃんのは僕が作ったんだってほっぺたにキスなんかしちゃって。二人ともとっても可愛かったわ」 小さなカップルが見せたのは将来のヴィジョン。それが今、確かに現実のものとなった。それを喜んでいるのは自分だけだと思い込んでいたのは海亜の勘違いで、どうやら水琴も海亜と家族になれたことを嬉しいと感じてくれていたらしい。「それを見たときに思ったわ。将来、絶対に海亜ちゃんを昴のお嫁さんに欲しいって。だから慈乃さんにお願いしたのよ。大人になったら海亜ちゃんを私の娘として迎えてもいいかしらってね」 水琴はすっかり過去の記憶を辿ることに夢中になってしまっている。ただ、海亜にしてみたら自分の
その言葉から分かる事とは、水琴も一条の家にとっては他人に近い立ち位置にあると言うこと。「結局の所、嫁に来た人間というものは、血の繋がった家族にはなり得ないのよね」「お義母さん……?」「だって、育ってきた環境が異なるでしょう? 価値観や常識というものは、周りの環境で変わっていくものよ。よく見てご覧なさい」 息子や孫たちから持ち上げられて上機嫌となった喜代子は、すっかり自分の話に夢中なようだ。先程までの不機嫌は何処へやら。上機嫌に語る自分語りは実に饒舌で、今までの苦労や人生観を事細かく言葉にし相手に伝えることで悦に浸る。それを冷ややかに見ている者が居ることなど彼女はきっと気が付かないだろう。「一条の家の人間には、喜代子さんという君主の言葉が絶対なの。勿論、それが悪いと言うことでは無いわ。でも、私たちのように外部から来た人間にとって喜代子さんの考え方は、全てが素直に受け入れられるようなものではないのよ」「……それは……何となく理解出来る気がします」「ええ」 この場に居る人間のうち、酒で気分が高揚しているのは亨や昇、昴といった男性陣と星奈の四人。彼等は耳障りの良い言葉に酔い、場の空気に流されるように喜代子の言葉に耳を傾けている。そこに冷静さは皆無で、まるで精神を支配されているかのように絶対的君主の言葉を信じて疑わない。「子供……ああ……。お祖母さんの場合は曾孫になるんだったわね。あの人があなたたちの子供を早く抱きたいと思うのは、実に自然なことだとは思うわ。海亜さんには悪いんだけれど、私だって、あなたたちの子供を楽しみにしている一人には違いないの。でもね、子供を作る事を催促したって、それが思った通りの結果に繋がる訳ではない事も理解しているつもりよ。私だって、昇を妊娠するまで色々と苦労はしたし、お婆さまに結構言われて、悔しくて泣いたことも多いの」 隣に座る義母の顔に浮かぶ疲れに、彼女の言葉が決して嘘ではないと感じ取る。海亜が引きこもるようになってから薄れてしまった付き合いのせいで、一度真っ新になった関係性。今は姑と嫁の立場になったのだが、この三年間、彼女とどう向き合えば良いのかが分からず考えがまとまることは無かった。それでもこの姑は不甲斐ない嫁に寄り添おうと手を差し伸べてくれる。きっかけはあまり気分の良い話では無かったが、こうやって理解してくれる人が居る
「今度来るときは、良い報告が出来る様に心がけますから」 体裁を保つ為に呈示した、叶うかどうかも分からない口約束。昴はいつになったら、このことについて真剣に向き合ってくれるのだろう。そんな不安が頭を過ぎる。 幾ら互いに納得して決めたこととは言え、それに関して他人に口を出されることを好ましいと思っている訳では決して無い。会う度に繰り返される催促は、常に此方のペースを掻き乱すだけ。それを回避しようと気持ちが焦れば焦るほど、必死さが表に立ち大きくなっていく温度差。今でも肌を重ねる事は度々あるが、新婚の時に比べて頻度は確かに減っている。だからこそ余計に耳の痛いこの話題が、海亜は本当に嫌で仕方が無い。 初年度は期待に応えたいと純粋に思っていた。二年目になるとその期待に押しつぶされそうになり辛さを覚える。そして三年目。相手からしてみたら純粋に孫の誕生を切望しているだけなのかも知れない。それでも、海亜にとってはこの話題を持ち出される度に憂鬱になり、余計に義理の祖母の事が苦手になってしまう。「昇はまだ結婚する気配はないし、星奈も学生だ」 優雅にお茶を啜りながら零した喜代子の言葉。そこに含まれる棘は、いつでも海亜の心を深く抉り続けている。「まぁ、早いところ昇が良い嫁さんを見つけてくれるなら、私もここまで言いやしないんだがねぇ」 突然話題の矛先を向けられたことで昇はグラスを傾けていた手を止める。「え? 俺?」 まさか自分に飛び火するとは思っていなかったのだろうか。「何でいきなり俺の話が出るんだよ」 のんびりと楽しく酒を楽しむつもりだった昇だが、自分の名前が挙がると顔を引き攣らせて苦い笑みを浮かべる。「本来ならば、お前の方が昴よりも先に結婚すべきだろう?」 年功序列とでも言いたいのだろうか。あくまでこれは喜代子の意見であって、昇の人生を定めるものではない。「そのことなら、もう随分前に話合って納得してくれたじゃないか」「ふん」 昇が家ではなく夢を追うことと選択したとき、頑固な祖母と正面から衝突することが多かった。「あの時はあの時。私は一切納得はしていないよ」 家に縛られ敷かれたレール。長男という肩書きの重さは昇にとって息苦しく逃げたしたい足枷のようなもので、優等生を演じていたことに限界を感じた瞬間、遅れてやってきた反抗期という形で爆発を起こした。『俺は
久藤の家に居る頃は、自分の居場所があの家だと感じられたことがない。母親が亡くなり父親との距離ができ、新しい家族が増えた時に海亜はあの家の中でたった一人の他人になった。家族という枠組みから外れた異物は新しい形に馴染めず、ずっと感じている疎外感を払拭することは不可能で。だからこそ外部に強く求めたのは自分だけの居場所である。 一人暮らしの家。気軽に付き合える友人。必要とされている職場や常連となった行きつけの店など。久藤のお嬢様というフィルターを通してではなく、海亜という一人の人間そのものを認めてくれる環境。それが、海亜のずっと探していた居場所という概念である。しかし、そういった場所に自分という存在を置いたからといって、どうやっても埋まらない欠落した部分があることは確かで。 海亜が最も欲しいと願ってやまない最後のピース。 その答えは久藤の家を出て、一条の家に入ったことで漸く形になる。だからこそ、海亜は小さな不満から目を背けることを選ぶ。そうやってしがみつく醜い自分を情けないと思うことはあっても、それを後悔することはあり得なかった。「突然のご連絡に驚いたのは確かですが、準備に手間取ってしまったのは此方の不手際です。お婆さまには大変不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」 角を立てず、適当に受け流すこと。これは海亜が生きていく上で身につけた防御術。「そんなこと無いわ。だから、そんな風に言わないで頂戴」 しかし、それを良しとしなかったのは水琴の方だった。言葉を窘められ謝罪を否定されたことで浮かんだ動揺はほんの僅かな間のもの。それでもそんな小さな変化を水琴が見逃すことは無かったようで、困ったように笑いながらも海亜の右腕を軽く叩きながらこう続ける。「不安にさせてしまってごめんなさい。でもね、昴。海亜さん。お婆ちゃんは不器用なだけで、本当にみんなに会うことを楽しみにしていたのよ。昇と星奈が着いたときは、早く迎えに行きなさいって私を急かしたくらいなんだから」 そう言いながらゆっくりと離れていく白い手は、ほんの少し前の記憶を辿るように宙を彷徨う。「昴たちの到着が遅いことを誰よりも心配していたのもお婆ちゃん。連絡が全然来ないから、お父さんに電話しろ、電話しろって強請ってたの。昴が着いたって聞いたときは、誰よりも先に会いたいって気持ちが焦っちゃって、思わ
「海亜!」「昴さん!?」 突然襲われる浮遊感。背中越しに伝わる温もりに慌てて振り返ると、直ぐ傍に迫る昴の拗ねた顔に思考が止まってしまった。「僕から海亜を奪おうだなんて、許さないからな! 星奈!」 一瞬、何を言われているのか分からなくて頭が混乱してしまう。耳が捕らえた言葉を反芻し、漸くそれを理解したと同時に真っ赤に染まる頬。「奪おうって、別に海亜さんはお兄ちゃんだけのものじゃないでしょ?」 海亜を無視して繰り広げられる不毛な争いからは、予想外の独占欲が垣間見える。星奈の方は単純に、兄嫁のことが気に入って構って欲しいという程度のものではあったが、昴の方は完全に、伴侶を誰にも渡したくないと牙を剥く程の熱量だ。「随分と愛されてるんだな」 その争いに加わること無く外野からこのやり取りを眺めているのは、二人の兄の昇だ。「モテモテで羨ましいねぇ」 からかいを含んだ意地悪な台詞と、陽気な笑い声が廊下に響く。「昇お兄様!!」 恥ずかしさに耐えられず大きな声で叫べば、脱兎の如く駆けだした昇がそそくさとその場から姿を消してしまう。後に残された下の兄妹はというと、相変わらず睨み合いを続けている状態で。「お兄ちゃんは毎日海亜さんと会ってるじゃない! 偶には私が一緒に居たっていいでしょ!?」「ダメだダメだ! お前と会うことを許可したら、海亜が帰ってこれなくなるだろうが! それは困る!!」 背後から腰に回された腕に僅かに力が込められ、さらに密着する互いの身体。首元に掛かる息が髪を揺らしくすぐったい。「偶には女同士で過ごす時間も必要なんですー」 お兄ちゃんの意地悪! 海亜の形の良い手を握ったまま星奈が舌を出して昴を煽る。「それに、束縛が強い男は嫌われるんだよ!」「なっ……」 その言葉に動揺したのだろうか。一瞬緩んだ拘束に海亜の身体はバランスを崩し前に傾く。「行こう! 海亜さん!」 その隙を見逃さない、と。軽く手を引っ張り昴の拘束から海亜を救い出すと、星奈は繋いだ手に力を込めて海亜を引っ張り歩き出した。「星奈!!」 着かず離れずの距離で続け追いかけっこは、目的の部屋に辿りつくまで続く。無理に距離を詰めず距離を保って後に続く昴の方を何度も振り返りながらも、海亜は素直に星奈の後に着いて歩いたまま。束縛が強いと思ったことはないが、今日は色々予想もしなかった