LOGIN「あ! お姉ちゃん!」
頭上から響く元気な声。反射的に声の方へ視線を向けると、嬉しそうに笑う女の子が大きく手を振りながら階段を駆け下りてきた。
「いつこっちに来たの?」
「…………」
目の前に立つのは子猫のように愛嬌のある義理の妹。海亜のことを『姉』と呼ぶその子は随分と好意的な態度で海亜に話しかけてくる。どうやら彼女は、海亜とは異なり『姉妹』という関係を肯定的に捉えているらしく、随分と久しく会っていない姉に対し躊躇うこと無く白い手を取ると、徐に距離を詰めた後で甘えるように腕を絡めてきた。
「さっき着いたばっかりです」
義妹のパーソナルスペースは思った以上に狭く、そんな彼女との距離感はいつまで経っても馴れないまま。海亜にとってこの子はどこまでもいっても他人という認識が強く、決して家族とはなり得ない存在なのだ。だからこそ、嫌そうに眉を寄せながら右腕に絡む彼女の手をやんわりと解くと、彼女は義妹を避けるようにして距離を取った。
「こっちに来るんだったら連絡してくれれば良いのに」
海亜が示したのは明らかな拒絶のはずだった。彼女自身ははっきりと態度で示したつもりなのだが、どうやら義妹はそのことが全く気になっていないらしい。
「お姉ちゃん、全然帰ってきてくれないから寂しかったんだよ」
心から再会を喜ぶような彼女の態度に決して悪気は無いのだろう。それでも、この無神経さは逆に海亜の神経を逆撫でてしまう。
「私はあなたに会いたくもありません」
「……お姉ちゃん……」
彼女を無視して歩き始めると、一瞬躊躇った後、義妹は躊躇いがちに海亜の後を追いかけてくる。
「……怒ってる?」
先程までの態度から一変。彼女は海亜の顔色を伺う様に、かけられた弱々しい声。
「別に……」
一瞬。否定の言葉を吐きかけて海亜は言葉を止めた。
「…………」
確かに馴れ馴れしく絡んでくるこの子に対して不愉快さは感じている。しかし、怒りというよりはどちらかというと、戸惑いの方が強いのが正直なところ。実際、海亜は名義上の妹という存在にどのように接して良いのかが未だに分かっていない。
「用がないのならば放って置いてください」
だからこそ相手に対しての反応はいつまでも中途半端なまま。漸く絞り出したその言葉で一方的に会話を終わらせると、その子の返事を待たず逃げるように足を動かして廊下を進む。
「お姉ちゃん!」
彼女は手を伸ばし何か言い足そうに口を開いたが、結局それは言葉になること無く会話はそこで途切れてしまい気まずい空気だけが残される。
「…………」
相変わらず背後には置き去りにした義妹の気配がある。お願いだからどこかに消えてと必死に願うのに、彼女が立ち去る様子は感じられない。それが余計に海亜を嫌な気分にさせ感じた頭痛。彼女の存在を受け入れられないからと言って、罪悪感が無いわけでは無いのだ。
実際、この義妹の人柄は悪くなく、距離感が噛み合わないせいで苦手意識が邪魔をして、相手のことを受け入れるタイミングを掴み損ねているのが本当のところ。頭のどこかでは不満を抱くことに見切りを付け、諦めて受け入れた方が楽になると分かっては居るのだ。それでも、そうやって自分を納得させ笑えるほど海亜は器用な人間ではない。
「……ごめんね」
もっと違う出会い方をしていたら、もしかしたら彼女のことを素直に可愛いと思うことが出来たのかも知れない。伝わらない謝罪の言葉はとても小さく、義妹に届くこと無く空気と混ざり消えた。
無駄に広い建物では、随分と音が響くものだ。
コツ、コツ、コツ、コツ……。
確かに人が生活しているはずの建物。それなのに、この場所は異様なほど音が少ないと感じてしまうのは気のせいだろうか。
そのせいか、足を進める度、床と触れあうヒールの音が廊下全体に響いてしまう。その後からついてくるのは濁ったような足音で。素材の違いで聞こえる二つの足音。それは一定の距離を保ちながら、同じ方向へと進み続けている。ただ、その追いかけっこもそれほど長くは続かない。何故なら、目的地である父親の書斎へと続く扉。その前に海亜が既に辿りついてしまったからだ。
コン、コン。
閉ざされたドアの前に立ち、軽く拳を握ると静かに甲で扉を叩く。ノックの音は二回だけ。それ以上は行動を起こさず静かにその場で待機していると、扉の向こう側から疲れた低い声が聞こえてきた。
「入れ」
「はい」
部屋の主から立ち入ることを許可されると、海亜はくすんだ真鍮製の飾り玉に手を伸ばし、ゆっくりとノブを回す。昔よりも建て付けが悪くなってしまっているのだろうか。手に力を込めて手前に引くと、目の前の重厚な木製のドアが、小さな軋み音を立てながらゆっくりと動いた。
「久しぶりだな」
開かれた扉から逃げ出してきたのは独特な古い本の匂いだ。懐かしいと感じる落ち着いた室内に思わず目を細め室内を見る。壁沿いに設置された高い本棚。その中には所狭しと大量の蔵書が収められている。それらは分類ごとに振り分けられ、タイトルと巻数がきちんと揃うように整理されているのだが、時々別の本が混ざってしまっているようで、所々背の高さと色が合っていない場所が存在していた。
部屋の奥にはベランダへと続く大きな窓。二重カーテンのうち、厚手のものは左右にまとめられており、今は薄手のレースカーテンだけが窓の向こう側に広がる景色を遮断している。
中央にあるのは随分と年期の入った書斎机で。この部屋の主が大切にしているものだということは一目見て分かる。重ねた時間を誇るように存在感を主張している机の上には、乱雑に拡げられている紙の山。それらの一部はファイリングされ、分類ごとにラベリングされているようだ。しかし、それ以外の紙は裸のまま。管理している人間にしか分からない状態で置かれているため、整理が追いついていないことは一目見て分かる。きっとこの書類は、父親が現在手がけている事業のものなのだろう。先程からこの紙の束を手に取り唸り声を上げているのがこの部屋の主。情報に目を通した後で苦い表情を浮かべ、重たくなった瞼を軽く指で押さえて眉間に皺を寄せている男の名は、
「元気にしていたか?」
海亜が入ってきたことは気配で気が付いている。海亜の方へ視線を向けることの無いまま、彼女にかけたのは当たり障りの無い言葉で。最も無難な質問に海亜の表情は暗くなってしまう。
「報告するようなことは何もありません」
会話をすることを忘れてしまったかのような返答。親子としては不自然なやりとりから分かる事は、この二人の関係が如何に歪なものなのかということだ。言葉の交わし方すら忘れてしまうほどすれ違った時間。それを埋めることは決して容易な事では無いことくらい、海亜も貴久も気が付いている。それでも父親である彼は非常に淡泊な言葉しか海亜に与えない。だからこそ目の前の相手に対し強い嫌悪が生まれ、感じたストレスによって逆流した胃酸で吐き気を覚える。
「海亜?」
軽く嘔吐いた音に気が付いたのだろう。漸く書類から顔を上げると、困ったような表情を浮かべた貴久と目が合った。
「大丈夫です。何でもありません」
心配なんてして欲しくない。そんな思いから視線を避けるように顔を逸らすと、顔の前に掲げた掌の動きで父親の動きを阻止する。
「私をここに呼んだのは、一体どういう要件でしょうか?」
長居なんてするつもりはない。だから早く本題に入って欲しい。バッグから取り出したハンカチで軽く口元を拭い改めて父親と向き合うと、海亜はしっかりした口調でそう尋ねた。
「……お前に、結婚の話が来ているんだ」
暫しの沈黙。
「…………え?」
嫌な予感というものは、どうしてこうも当たりやすいものなのだろうか。
「すみません。今、何と……?」
言われた言葉の意味が直ぐに理解出来ず、壊れた玩具のように海亜は父親に問いかける。
「私に結婚の話が来ているというのは、冗談でしょうか?」
嫌な汗が頬を伝う。
「見合いをしろと言うことですか?」
緊張のせいで声が震え上手く言葉を吐き出せない。
「お見合い……というか……」
質問に対しての答えは非常に歯切れが悪く、父親の反応はどこかしら違和感を感じさせるもので。
「何も直ぐに結婚しろという訳では無いぞ」
小さな音を立てて動く椅子。持っていた書類を机の上へ置くと、貴久はゆっくりと海亜へ歩み寄り目の前に立った。
「どうせ、私に拒否権はないんですよね?」
細身でも身長は高く、性別の差で襲われる圧迫感。自分の身を守るように両手で腕を摑み身を屈めると、海亜は恨みがましく父親のことを睨み付ける。
「どうせ、私の結婚は自分で決められるものじゃないって分かっていますから」
それでも少しくらいは、こちらの意見に耳を傾けて欲しい。淡い期待を捨てきれない自分に無意識に涙が溢れ視界が滲む。
「嫌だと言ったところで、政略結婚を無かったことにすることは難しいと理解しています。でも、まずはお相手のことを教えてくれても良いんじゃなですか?」
名も知らない相手に嫁ぎたくない。その精一杯の抵抗が、今の海亜に出来る全て。非力ではあるが、状況を少しでも自分にとって有利な方へと変えたいという願いからそう主張すると、貴久は驚いた顔を見せた後申し訳なさそうに口元を押さえた。
「確かにこれは、政略結婚と捉えられても仕方が無いな」
しかし未だ、打診している段階で結婚が確定した訳では無い。貴久から返ってきた答えは予想とは全く異なる言葉で、海亜は訝しげに顔を歪めると、一言も話さないまま貴久のことを見る。
「
一條昴。その名前を聞いた瞬間、海亜の表情が驚きに変わった。
「昴……兄様のこと、ですか?」
何故、その名前が父親の口から出てきたのか分からない。戸惑いを浮かべたままそう返すと、貴久は「そうだ」と頷き顎を撫でる。
「昴兄様が何故」
期待してはいけない。それを望んだらきっと後悔がついてくる。そう自分に言い聞かせるが、湧き上がる淡い期待が海亜の心を激しく揺らす。
「お前に結婚を申し込んできたの相手というのは、昴くんのことだよ。海亜」
「そこは難しい問題じゃない?」 先程まで裏切りだ! 離婚だ! と盛り上がっていたはずの上司は、急に真剣な口調でこう続けた。「どうするかを決断するのはその人自身だけど、一時の感情で決めるのか、状況を確認した上で冷静に判断するのかで結果は変わるでしょう?」 小さく音を立てて転がるグラスの中の氷。それをストローで弄びながら、上司はそっと表情を和らげ小さく溜息を吐く。「何がその人にとって最善なのか。それを知るための方法は探せば出て来たりするじゃない?」 そう言われて海亜は思わず固まってしまう。「そ……う……です…かね?」 明らかに震えてしまう声。本音を悟られないように適当に笑って誤魔化すと、上司は少し黙った後ですっと視線を逸らしながらこう続けた。「もしその人が、まだ旦那さんのことを信じたいって思っているのなら、感情的になって終わらせる前に足掻いてみる事も大事なのかもしれないよね」 そこで訪れる休憩時間の終わり。これ以上はこの話題を話すことなく、職場に戻ると作業に取りかかる。手を動かしながら考えるのは先ほど言われたばかりの言葉で、そのことが妙に気になって仕方が無い。 もしかしたら、彼女は気付いていたのかも知れない。 この話が海亜自身の事を語っているのだと言うことに。 だからこそ、敢えて「考えてみなさい」と言葉を残したのだろう。「今までは、色んな事を誤解してた……のよね……」 この数ヶ月の間に、海亜を取り巻く環境は著しく変化を続けている。それは周りの動きが想定外の動きをしているという部分もあるが、何よりも海亜自身の心が変化してきているという部分が大きい。 幼少期の出来事により内側に閉じこもり、何も見ず、何も聞こうとしなかったせいで大きくなっていく蟠り。それは彼女自身の間違った認識と思い込みがそうさせていたもので、もっと広い視野で見れば全く異なる面を見せていたことに気付けたということはかなり大きい。「もしかしたら、昴さんの件も……」 何か誤解していることがあるのかも知れない。 離婚という言葉を伝えた後から感じる変化。今まで、海亜の世界は昴を中心に回っていたのだが、それ以外の部分に目が向き始めたことで彼との距離が遠くなる。少しばかりの開放感と、彼に対しての未練で揺れる心は、実のところ未だ答えが出せないまま放置されている状態だ。 ただ、許せない
もっと器用に生きることが出来る人間だと思っていた。 しかし、それ自体が自らの驕りであることを嫌と言うほど思い知らされる。 自分なら大丈夫。自らの行動が自分自身を窮地に立たせていく。そんな考えは早く捨てるべきだったのだと後悔したところでもう遅い。 あの後、久しぶりにあった海亜と言葉を交わす事が出来た。内容なんて明るいものは一切無く、見せられる拒絶に心が抉られてしまう。それは誤解なんだと幾度となく訴えようとしたが、一度拗れたものを訂正することは難しく、旭や陽菜の事もあり、結局誤解は解けないまま解散となってしまった。 海亜から突きつけられたのは離婚についての話し合いについて。日時を設定するから、その時に改めて話合いましょうと切り捨てられた。 勿論、昴の方から彼女に離婚を切り出すつもりも、それに頷くつもりも無い。ただ、妻の表情を見る限り、縋ることで関係が改善出来る見込みは限りなく薄い事に気付いては居る。「覚悟……決めた顔してた」 女性は決断すると早い。その言葉を言っていたのは、一体誰だったのだろう。 女性の忍耐には限界がある、と。酒の席でその人はこう語っていたように思う。『女ってのはな、我慢出来るやつと我慢しないやつが居てな』 普段は滅多に見せない相手の一面。随分と酒に酔ってしまっていたのだろう。その人が語るのは、彼が実際に体験した出来事のようで、その言葉から滲み出ているのは明らかな後悔だった。『我慢しないやつはまだ良い。ぶつかり合えば修復が出来る可能性もあるからな。でもな、一条さん。我慢をしちまうやつはどうしようもない』 そう言って傾けたグラスの中で、氷がぶつかり小さな音を立てる。『我慢してる間は分かんないんだよ。我慢してるってことを隠すから。でも、それが一度でも爆発しちまうと、そういう女は簡単に覚悟を決めちまうんだ。そして決断するんだよ。自分に取って最善が一体なんなのかってことをな』 残っていた中身を一気に煽ると、その人は寂しそうな顔で自らの薬指を撫でる。『絆なんてもんはなぁ……案外脆いものなんだ。自分は大丈夫って思っていても、それは単なる思い上がりでしかなく、相手の取っちゃあ都合の良い言い訳にしか見えねぇらしい』 そこに残るのは確かに、婚姻を示す一つのリング。『こんな分かりやすい形で示しても、それがずっと効果があるって訳じゃ無い。
「昴義兄……さん……?」 聞き覚えのある声に無意識に肩が跳ねてしまう。「何で、ここに」 ゆっくりと振り返ると、背後には見知った一人の青年が立っていた。「久しぶりだね、旭くん」「あ、どうも」 小さく頭を下げたのは社交辞令みたいなものだろうか。数ヶ月ぶりに会う義兄と義弟。お互い突然の再会に驚きはしたものの、昴の直ぐ傍にる女性の存在に気が付くと、旭は嫌そうに表情を歪めて見せた。「ここで、何をしてるんですか?」 露骨に見せられた嫌悪感から感じるのは拙いという危機感で。咄嗟に繭を引き離し「何も無い」と訴えるのだが、そんなことは逆効果にしかならない。何も出来ずただ黙っていると、相手は呆れたような口調でこう告げる。「まさか、不倫?」 それは明らかな勘違いだ。 ただ、この状況において、そのように見えてしまうことは否定が出来なかった。「最低ですね」 彼が何を言いたいのかは痛い程よく分かっている。「姉さんとまだ離婚していないはずでは?」「…………っ」 そう言われ思わず逸らす視線。こうなると益々誤解が深まることは分かっていたが、どうしてこうなっているのかを説明をするタイミングは、少なくとも四埜杜繭が隣に居る今では無いことも分かっている。 早急に問題を片付け誤解を解かなければ、取り返しの付かない事になってしまう。そんな焦りから口を開こうとした瞬間、旭が真っ直ぐ睨み付けながらこう呟いた。「あなたのことは尊敬していました」 軽蔑を含んだ視線。それがとても痛い。「何があったのかは姉さんから聞いていましたが、正直、信じられませんでした。だって、あなたは姉さんのことをとても大切にしていたから」 今でも大切にしている。そう訴えたいのに、彼は此方に話す機会を与えてはくれず、更に言葉を続けていく。「あなただったら姉さんを幸せにしてくれると思っていた。俺達が出来なかった事を、あなたならできるはずだって思っていたのに、何でそんな風に姉さんを裏切ることが出来たんですか?」 一度だって不幸にしたいと思ったことは無い。ただ、それは、昴の一方的な主張でしかなく、その気持ちが海亜に伝わることは無かったのだから、言い訳にしか聞こえないことだろう。「姉さんの幸せを思うなら、早く彼女を自由にしてあげてください」 まるで恋人を守る騎士のように凛とした態度で、年下の青年からそう
特に何かを思っていったわけではなく、無意識に出た言葉。「そっ、それは、良いけど……」 ただ、こんな反応をされるのは予想外で海亜は戸惑ってしまう。「迷惑だったら無理をしなくても良いんだけど」 だからこそついこう言ってしまったのだろう。するとどうだろうか。先ほどまで俯き視線を合わせようとしなかった旭が、傷ついた表情を浮かべながら唇を噛んだ。「え?」 一体どういうことだろう。訳が分からず言葉を探していると、隣から上がる楽しそうな笑い声。「違うよ、お姉ちゃん」 陽菜の方へと視線を移すと、笑いが堪えられないとでも言うように口元を押さえながらも、眼を細めながらこう続ける。「旭はただ照れてるだけ。ホントは一緒に行きたいんだよ〜」「陽菜っっっ!!」 大きな音を立てて倒れる椅子。素早く伸びた腕が妹の手を掴もうと動く。「わーっっ! 暴力反対ー!」 慌てて席を立った陽菜がすんでの所でそれを交わす。「逃げるな!」 突然始まる追いかけっこ。取り残された海亜はその光景をぼんやりと眺めていたが、次第に面白くなり声を出して笑ってしまう。「あははっ」 海亜の笑い声を聞いた二人の動きがピタリと止まる。「二人とも、喧嘩をしちゃ駄目じゃない」 一通り笑ったところで涙を拭うと、海亜は改めて二人に向き合いこう提案を出した。「今週末、二人とも私に付き合いなさい」「え?」「陽菜はその時に靴を買うの。旭はそうね……本でも買おうか?」 数日前に千明から聞いていた旭の欲しいものを思い出し、どうかなと問いかける。「そ、そりゃあ、欲しいけど」 欲しいものを買おうかという提案に旭の心が揺らぐ。それを見逃すことはせず、海亜は一気に畳み掛ける。「それじゃあ、それを買いに行こう! そして、昼ご飯はみんなで外で食べる。良い?」 そう言われて陽菜は分かりやすく賛成の声を上げる。旭の方も悩むそぶりは見せたものの、最終的には分かったと頷き頭を掻いた。「あっ。旭、本当は嬉しいんだ〜」「うるさいっ!」 陽菜の言葉通り不機嫌そうに見えるのは表だけで、口元だけは満更でもないように緩んでいるのだからなんだか可愛く思えて仕方が無い。「じゃあ、決まりね! 二人とも、よろしく」◆ これで何度目の呼び出しになるのだろうか。「…………はぁ」 朝から続く頭痛と倦怠感。隣に陣取るのは扱いに
『あの人が戻ってくることは考えなかったのですか?』 以前、千々石にそう言われたことがある。「考えなかった訳じゃねぇよ」 確かに四埜杜繭という女性が、再び現れる可能性を考えなかった訳では無い。ただ、何故彼女が忽然と姿を消したのかという理由を調べて得た情報と、国外で成功して順調であるという報告が届いて居たため、直接関わることがないと高を括っていたのだ。「気の緩みがあったんだろうな」 自らの選択で首が絞まっていく。一度捕まると逃げ出すことに苦労をする事など分かっていたはずなのに、あの頃とは状況が違うと信じたかったのかも知れない。「待っていてくれ、海亜……」 一階のロビーに着くと、不機嫌そうに受付の女性へと八つ当たりを繰り返す繭の姿が見え気が重くなる。「あっ! 昴!」 待ち望んでいた人物が現れたことで彼女の表情は一瞬にして喜びで満ちる。それを見て感じるのは非常に複雑な思いだった。「この人達ってば、最初から約束してるって言ってるのに、コチラでお待ち下さいって言って全然通してくれないんだよ! ヒドくない?」 素早く伸びる白い腕が昴の左腕に絡みつく。明らかにおかしい距離感に無意識に身体を離し距離を取ろうと動くが、それを許さないと言わんばかりに密着され、彼女の身に纏う香りに顔が歪んだ。「でもいいや。こうやって直ぐに降りてきてくれたしぃ。繭ってばほんっと昴に愛されてるんだね」 このポジティヴさは一体どこから出てくるものなのだろうか。何も答えず黙っていても、彼女は勝手に話し続け昴のことなど見ても居ない。「ほら〜、早く行こうよぉ〜」 そして極めつけの甘えるような猫撫で声。上目遣いでねだるようにアピールしてくる彼女をちらりと見たが、表情を変える事無く昴は直ぐに視線を別の場所へと移した。「買い物には付き合う約束はしていたが、こちらにも予定というものがあるんだ。スケジュールが押してるし、早く済ませてくれないか?」 契約上無碍には出来ない。だからこそ妥協出来る部分の付き合いは行う。しかし、それ以上に付き合いを一切するつもりはないと態度に出すと繭の表情が凍り付いた。「……へぇ。そんなこと言うんだぁ」 ほんの僅かな間に漂う不穏な空気。「まぁ、いいや」 しかし、そんなことは気にしないと言いたげに満面の笑みを浮かべると、繭は早く行こうと昴をせっつく。「時間無
「ねぇ……これって、本当に大丈夫なのかなぁ……?」 その言葉を放ったのは確かに女性の声だった。 慌てて周囲を確認してみても声の主を特定することは難しく、一体誰がその言葉を口にしたのかが分からない。ただ、その内容から考えるに、どうやら起こった事故は偶然などでは無いという可能性が浮上してくる。「そんな……まさか」 何となく思い当たる節はある。しかし、実際にそうだという確証は得られない。事故なのか事件なのか分からないまま数日が過ぎていく。 学生服では無い制服を見る度に焦燥感に駆られるのだが、子どもの力など出来る事に限界があるのも事実で。 結局、昴自身がこの事件について捜査できることは無く、いつの間にか事故という形で収束が付いてしまった騒動は、真実は有耶無耶になって終わってしまった。 あの日以来、明らかに変わったことがあるとすれば、あれほど仲が良かった後輩がいつの間にか学校から居なくなってしまったと言う事だろう。理由が分かっている分、何も言えないもどかしさだけが残るが、こればかりはどうしよもない問題だ。 守ってあげられなかったという現実は重く、昴の中に大きな痼りを残す。 この頃になると不機嫌だった繭の機嫌は直り、再び昴の周りをうろつき始めたのだが、後輩を突き落とした真犯人が彼女だという疑惑がある以上、あからさまな突き放しは次なる悲劇を引き起こす引き金になるかも知れない。その恐怖から表立って波風を立てることはせず、昴は繭に必要以上に関わらないようにすることで己を保ち日々を過ごす。 その間、後輩の事故のことは出来る範囲で調査を続けてはいたのだが、思ったような結果を出すことが出来ず完全に行き詰まってしまっていた。 一方、繭の方はと言うと、昴の傍から女子生徒の影が消えたことに上機嫌だった。自らが唯一の彼女であると吹聴し、家名を出して家柄の差を周囲に見せる。一条と釣り合うのは四埜杜だとでも言うように。 その努力の甲斐があってか、昴に必要以上に近づこうとする女生徒は現れず、必ず繭の同席が無い蹴れば会話をする事が出来ない。例外として女性教師はその条件に当てはまらないものの、それでも四埜杜とう名前に怯えたのだろうか。連絡事項や重要な報告以外は言葉を交わすこと無く、それ以外は男性教師を間に挟んで言葉を交わす始末。こうやって徹底的に女という存在を排除する事により、







