Share

02

Author: 仲原
last update publish date: 2026-07-02 21:27:20

「あ! お姉ちゃん!」

 頭上から響く元気な声。反射的に声の方へ視線を向けると、嬉しそうに笑う女の子が大きく手を振りながら階段を駆け下りてきた。

「いつこっちに来たの?」

「…………」

 目の前に立つのは子猫のように愛嬌のある義理の妹。海亜のことを『姉』と呼ぶその子は随分と好意的な態度で海亜に話しかけてくる。どうやら彼女は、海亜とは異なり『姉妹』という関係を肯定的に捉えているらしく、随分と久しく会っていない姉に対し躊躇うこと無く白い手を取ると、徐に距離を詰めた後で甘えるように腕を絡めてきた。

「さっき着いたばっかりです」

 義妹のパーソナルスペースは思った以上に狭く、そんな彼女との距離感はいつまで経っても馴れないまま。海亜にとってこの子はどこまでもいっても他人という認識が強く、決して家族とはなり得ない存在なのだ。だからこそ、嫌そうに眉を寄せながら右腕に絡む彼女の手をやんわりと解くと、彼女は義妹を避けるようにして距離を取った。

「こっちに来るんだったら連絡してくれれば良いのに」

 海亜が示したのは明らかな拒絶のはずだった。彼女自身ははっきりと態度で示したつもりなのだが、どうやら義妹はそのことが全く気になっていないらしい。

「お姉ちゃん、全然帰ってきてくれないから寂しかったんだよ」

 心から再会を喜ぶような彼女の態度に決して悪気は無いのだろう。それでも、この無神経さは逆に海亜の神経を逆撫でてしまう。

「私はあなたに会いたくもありません」

 「……お姉ちゃん……」

 彼女を無視して歩き始めると、一瞬躊躇った後、義妹は躊躇いがちに海亜の後を追いかけてくる。

「……怒ってる?」

 先程までの態度から一変。彼女は海亜の顔色を伺う様に、かけられた弱々しい声。

「別に……」

 一瞬。否定の言葉を吐きかけて海亜は言葉を止めた。

「…………」

 確かに馴れ馴れしく絡んでくるこの子に対して不愉快さは感じている。しかし、怒りというよりはどちらかというと、戸惑いの方が強いのが正直なところ。実際、海亜は名義上の妹という存在にどのように接して良いのかが未だに分かっていない。

「用がないのならば放って置いてください」

 だからこそ相手に対しての反応はいつまでも中途半端なまま。漸く絞り出したその言葉で一方的に会話を終わらせると、その子の返事を待たず逃げるように足を動かして廊下を進む。

「お姉ちゃん!」

 彼女は手を伸ばし何か言い足そうに口を開いたが、結局それは言葉になること無く会話はそこで途切れてしまい気まずい空気だけが残される。

「…………」

 相変わらず背後には置き去りにした義妹の気配がある。お願いだからどこかに消えてと必死に願うのに、彼女が立ち去る様子は感じられない。それが余計に海亜を嫌な気分にさせ感じた頭痛。彼女の存在を受け入れられないからと言って、罪悪感が無いわけでは無いのだ。

 実際、この義妹の人柄は悪くなく、距離感が噛み合わないせいで苦手意識が邪魔をして、相手のことを受け入れるタイミングを掴み損ねているのが本当のところ。頭のどこかでは不満を抱くことに見切りを付け、諦めて受けれいた方が楽になると分かっては居るのだ。それでも、そうやって自分を納得させ笑えるほど海亜は器用な人間ではない。

「……ごめんね」

 もっと違う出会い方をしていたら、もしかしたら彼女のことを素直に可愛いと思うことが出来たのかも知れない。伝わらない謝罪の言葉はとても小さく、義妹に届くこと無く空気と混ざり消えた。

 無駄に広い建物では、随分と音が響くものだ。

 コツ、コツ、コツ、コツ……。

 確かに人が生活しているはずの建物。それなのに、この場所は異様なほど音が少ないと感じてしまうのは気のせいだろうか。

 そのせいか、足を進める度、床と触れあうヒールの音が廊下全体に響いてしまう。その後からついてくるのは濁ったような足音で。素材の違いで聞こえる二つの足音。それは一定の距離を保ちながら、同じ方向へと進み続けている。ただ、その追いかけっこもそれほど長くは続かない。何故なら、目的地である父親の書斎へと続く扉。その前に海亜が既に辿りついてしまったからだ。

 コン、コン。

 閉ざされたドアの前に立ち、軽く拳を握ると静かに甲で扉を叩く。ノックの音は二回だけ。それ以上は行動を起こさず静かにその場で待機していると、扉の向こう側から疲れた低い声が聞こえてきた。

「入れ」

「はい」

 部屋の主から立ち入ることを許可されると、海亜はくすんだ真鍮製の飾り玉に手を伸ばし、ゆっくりとノブを回す。昔よりも建て付けが悪くなってしまっているのだろうか。手に力を込めて手前に引くと、目の前の重厚な木製のドアが、小さな軋み音を立てながらゆっくりと動いた。

「久しぶりだな」

 開かれた扉から逃げ出してきたのは独特な古い本の匂いだ。懐かしいと感じる落ち着いた室内に思わず目を細め室内を見る。壁沿いに設置された高い本棚。その中には所狭しと大量の蔵書が収められている。それらは分類ごとに振り分けられ、タイトルと巻数がきちんと揃うように整理されているのだが、時々別の本が混ざってしまっているようで、所々背の高さと色が合っていない場所が存在していた。

 部屋の奥にはベランダへと続く大きな窓。二重カーテンのうち、厚手のものは左右にまとめられており、今は薄手のレースカーテンだけが窓の向こう側に広がる景色を遮断している。

 中央にあるのは随分と年期の入った書斎机で。この部屋の主が大切にしているものだということは一目見て分かる。重ねた時間を誇るように存在感を主張している机の上には、乱雑に拡げられている紙の山。それらの一部はファイリングされ、分類ごとにラベリングされているようだ。しかし、それ以外の紙は裸のまま。管理している人間にしか分からない状態で置かれているため、整理が追いついていないことは一目見て分かる。きっとこの書類は、父親が現在手がけている事業のものなのだろう。先程からこの紙の束を手に取り唸り声を上げているのがこの部屋の主。情報に目を通した後で苦い表情を浮かべ、重たくなった瞼を軽く指で押さえて眉間に皺を寄せている男の名は、久藤くどう貴久たかひさと言う。

「元気にしていたか?」

 海亜が入ってきたことは気配で気が付いている。海亜の方へ視線を向けることの無いまま、彼女にかけたのは当たり障りの無い言葉で。最も無難な質問に海亜の表情は暗くなってしまう。

「報告するようなことは何もありません」

 会話をすることを忘れてしまったかのような返答。親子としては不自然なやりとりから分かる事は、この二人の関係が如何に歪なものなのかということだ。言葉の交わし方すら忘れてしまうほどすれ違った時間。それを埋めることは決して容易な事では無いことくらい、海亜も貴久も気が付いている。それでも父親である彼は非常に淡泊な言葉しか海亜に与えない。だからこそ目の前の相手に対し強い嫌悪が生まれ、感じたストレスによって逆流した胃酸で吐き気を覚える。

「海亜?」

 軽く嘔吐いた音に気が付いたのだろう。漸く書類から顔を上げると、困ったような表情を浮かべた貴久と目が合った。

「大丈夫です。何でもありません」

 心配なんてして欲しくない。そんな思いから視線を避けるように顔を逸らすと、顔の前に掲げた掌の動きで父親の動きを阻止する。

「私をここに呼んだのは、一体どういう要件でしょうか?」

 長居なんてするつもりはない。だから早く本題に入って欲しい。バッグから取り出したハンカチで軽く口元を拭い改めて父親と向き合うと、海亜はしっかりした口調でそう尋ねた。

「……お前に、結婚の話が来ているんだ」

 暫しの沈黙。

「…………え?」

 嫌な予感というものは、どうしてこうも当たりやすいものなのだろうか。

「すみません。今、何と……?」

 言われた言葉の意味が直ぐに理解出来ず、壊れた玩具のように海亜は父親に問いかける。

「私に結婚の話が来ているというのは、冗談でしょうか?」

 嫌な汗が頬を伝う。

「見合いをしろと言うことですか?」

 緊張のせいで声が震え上手く言葉を吐き出せない。

「お見合い……というか……」

 質問に対しての答えは非常に歯切れが悪く、父親の反応はどこかしら違和感を感じさせるもので。

「何も直ぐに結婚しろという訳では無いぞ」

 小さな音を立てて動く椅子。持っていた書類を机の上へ置くと、貴久はゆっくりと海亜へ歩み寄り目の前に立った。

「どうせ、私に拒否権はないんですよね?」

  細身でも身長は高く、性別の差で襲われる圧迫感。自分の身を守るように両手で腕を摑み身を屈めると、海亜は恨みがましく父親のことを睨み付ける。

「どうせ、私の結婚は自分で決められるものじゃないって分かっていますから」

 それでも少しくらいは、こちらの意見に耳を傾けて欲しい。淡い期待を捨てきれない自分に無意識に涙が溢れ視界が滲む。

「嫌だと言ったところで、政略結婚を無かったことにすることは難しいと理解しています。でも、まずはお相手のことを教えてくれても良いんじゃなですか?」

 名も知らない相手に嫁ぎたくない。その精一杯の抵抗が、今の海亜に出来る全て。非力ではあるが、状況を少しでも自分にとって有利な方へと変えたいという願いからそう主張すると、貴久は驚いた顔を見せた後申し訳なさそうに口元を押さえた。

「確かにこれは、政略結婚と捉えられても仕方が無いな」

 しかし未だ、打診している段階で結婚が確定した訳では無い。貴久から返ってきた答えは予想とは全く異なる言葉で、海亜は訝しげに顔を歪めると、一言も話さないまま貴久のことを見る。

一條いちじょうすばるのことは知っているな?」

 一條昴。その名前を聞いた瞬間、海亜の表情が驚きに変わった。

「昴……兄様のこと、ですか?」

 何故、その名前が父親の口から出てきたのか分からない。戸惑いを浮かべたままそう返すと、貴久は「そうだ」と頷き顎を撫でる。

「昴兄様が何故」

 期待してはいけない。それを望んだらきっと後悔がついてくる。そう自分に言い聞かせるが、湧き上がる淡い期待が海亜の心を激しく揺らす。

「お前に結婚を申し込んできたの相手というのは、昴くんのことだよ。海亜」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • さよならは、笑顔の後で   17

    「お酒を楽しむのは構わないわよ。でも、酔った勢いで行動するのは良くない場合もあるわ」 水琴の言葉通り、酒の楽しみ方にも限度はあるのだと言うことは、星奈自身分かってはいる。それでも彼女は成人したばかりでまだまだ未熟。付き合いも気の合う仲間同士のものが多いため、酒の席で失敗したという経験自体が乏しい。「でも、お母さん以外には迷惑掛けてないんだし、反省してるからいいじゃない」 反省しているというのは言葉だけなのだろうか。胸の前で両手を合わせてそう訴えた星奈の態度から薄れるしおらしさ。一見すると、謝ればこの場を逃れられると軽く考えている様に見え、それが益々水琴を不機嫌にさせる。「あなたねぇ」 小さく舌を出して許して欲しいと訴える彼女に、どう叱って良いのかと悩む水琴は、海亜の目にはしっかりとした母親の姿として映る。水琴自身はというと言っても聞こうとしない娘に対し、次の言葉を探しながら眉間を押さえ瞼を伏せる。「まさか……普段から外で、そんな風にしてるんじゃないでしょうね?」 ふと過ぎったのは良くない考え。迷惑を掛けるような子に育てたつもりはないのだが、子育てについては正解なんてものは無い。何人産み育てたとしても、子供自体は一人一人性格が違い、接し方も異なってくる。だからこそ常に手探りで、出来なかったことも多いと自覚しているからこそ、考えすぎた最悪に不安を強く感じてしまう。 それなりに我が子がまっとうな人間になるよう努力してきた。 それでも、娘は自分とは異なる人間なのだ。 だからこそ、予想しなかった言葉を吐き、行動を起こしてしまうこともしばしばある。 羽目を外しすぎなければ多めに見るつもりではあったが、自分の預かり知らぬところで娘が大きな失敗をするかもしれない。そんな思いから聞いた質問は、娘を疑うような一言で。「そんなんだったらお母さん、どうしたら良いのか……」 星奈が本当の意味で親の手を離れるまではもう少し時間が掛かる以上、親の責任は非常に重く水琴の肩にのしかかる。「そ、そんなわけ無いじゃん!」

  • さよならは、笑顔の後で   16

     情けない。みっともない。 でも、それ以上に嬉しくて仕方ない。 強い力を込めれば直ぐにでも折れてしまいそうなほど細い腕なのに、とても強く大きく感じる安心感。忘れていた温もりに縋るように身を預ければ、水琴がそれに応えるようにして海亜の頬を撫でた。「大丈夫よ。あなたのことは、私が守ってあげるわ」 意識しなければ聞こえない程の小さな音。それは海亜の耳に届くこと無く、空気に混ざり静かに消えていった。◆ どれくらいの時間が経ったのだろうか。「…………あれぇ?」 間の抜けたような声が耳に届いたことで引き戻された現実。慌てて身を起こし水琴と距離を取ると、直ぐ隣に座る星奈が不思議そうに首を傾げながらこちらを見ている事に気が付き驚いてしまう。「海亜さん、泣いてる?」「え? いや、その……」 泣いていない。と、言うには群れた頬を誤魔化す事が難しい状況。見られたくないと顔を逸らすのに、お酒が入り酔っている星奈は遠慮を知らず、感じた疑問を追求しようと距離を詰めてくる。「もしかして、お母さんに泣かされちゃった?」 自らの言葉に勝手に納得をしてしまったのだろうか。見当違いの正義感で己の意見を正当かさせようと動く星奈は、鋭い視線で母親である水琴の事を睨み付ける。「な、何を言ってるの! 星奈!」 当然、その言葉を真っ向から否定するのは水琴だ。「私が海亜ちゃんを泣かせたなんて誤解よ!」 そんな事実は存在しない。相必死に訴えるのだが、いまいち噛み合わない会話は平行線を辿るばかり。「でも、お母さん。海亜さんは泣いてるじゃない。誤解って言っても説得力なんて無いわよ」 何があったのかの経緯を知らない星奈からしてみれば、今ある結果だけが全てである。星奈の言葉通り、海亜の目は赤く腫れ、ずっと潤んだ状態のまま。時折啜る鼻の音も手伝い、全ての要素が彼女が泣いていることを指し示しているのだから、勘違いするなというのが無理な話である。 このままでは、水琴の立場は益々悪くなってしまうだろう。それだけは何としても回避したいと。水琴の名誉の為に動いた海亜が慌てて口に出だす言葉。「私が泣いてしまったのは、水琴さんから私のお母さんの話を聞いたからなのよ!」一瞬だけ固まった空気。何とも言えない気不味さが場を満たす。「どういう……こと……?」何を言われたか分からず面食らった星奈が見せ

  • さよならは、笑顔の後で   15

    「考えてみれば、あの頃からあなたは昴のことを好きで居てくれたのよね」 改めてそう言われると、恥ずかしくてむず痒いと感じ真っ赤に染まる海亜の顔。 水琴が言うとおり、海亜の初恋は昴だ。それは彼女自身もしっかり自覚している。 仕事の付き合いで一条家の人間と初めて顔を合わせた時、海亜が真っ先に興味を持ったのが歳が近い幼馴染みの存在だった。 あの頃の一条に居た子供は二人の息子のみだったのだが、上の昇はと言うと既に学校に通っており歳が離れていることもあって、少しばかり距離を感じる事が多かった。そのため、彼に対しては兄のような存在以上の印象を持ったことがない。 逆に、昴に対してはというと、友達よりも少しだけ近い距離。初対面の相手に人見知りをしてしまう海亜に対しても始めからフランクに話しかけ、彼女の手を取り率先して行動を起こす。紳士的な態度と少年特有の活発さはとても輝いて見え、無意識に抱くのは強い憧れで。それが大きくなるにつれ、昴に対して少しずつ別の感情を覚え始める。そうやって幾度となく互いの時間を共有していくと、段々、兄以上の存在として意識をすることも多くなった。始めは気が付かなかった小さな小さな感情の芽。いつしかそれは、淡い恋心へと緩やかに育っていく。「海亜ちゃんはよく、慈乃さんにこう言っていたのよ。大きくなったら絶対に、昴と結婚するのって」「え!?」「昴も満更でもなかったみたいでね。いつの間にか二人とも、左手の薬指にお花で作ったお揃いの指輪をはめていたりしてね」「あっ……」「それどうしたの? って聞いたら昴ったら、海亜ちゃんに作って貰ったのって嬉しそうにはしゃいじゃって。海亜ちゃんのは僕が作ったんだってほっぺたにキスなんかしちゃって。二人ともとっても可愛かったわ」 小さなカップルが見せたのは将来のヴィジョン。それが今、確かに現実のものとなった。それを喜んでいるのは自分だけだと思い込んでいたのは海亜の勘違いで、どうやら水琴も海亜と家族になれたことを嬉しいと感じてくれていたらしい。「それを見たときに思ったわ。将来、絶対に海亜ちゃんを昴のお嫁さんに欲しいって。だから慈乃さんにお願いしたのよ。大人になったら海亜ちゃんを私の娘として迎えてもいいかしらってね」 水琴はすっかり過去の記憶を辿ることに夢中になってしまっている。ただ、海亜にしてみたら自分の

  • さよならは、笑顔の後で   14

     その言葉から分かる事とは、水琴も一条の家にとっては他人に近い立ち位置にあると言うこと。「結局の所、嫁に来た人間というものは、血の繋がった家族にはなり得ないのよね」「お義母さん……?」「だって、育ってきた環境が異なるでしょう? 価値観や常識というものは、周りの環境で変わっていくものよ。よく見てご覧なさい」 息子や孫たちから持ち上げられて上機嫌となった喜代子は、すっかり自分の話に夢中なようだ。先程までの不機嫌は何処へやら。上機嫌に語る自分語りは実に饒舌で、今までの苦労や人生観を事細かく言葉にし相手に伝えることで悦に浸る。それを冷ややかに見ている者が居ることなど彼女はきっと気が付かないだろう。「一条の家の人間には、喜代子さんという君主の言葉が絶対なの。勿論、それが悪いと言うことでは無いわ。でも、私たちのように外部から来た人間にとって喜代子さんの考え方は、全てが素直に受け入れられるようなものではないのよ」「……それは……何となく理解出来る気がします」「ええ」 この場に居る人間のうち、酒で気分が高揚しているのは亨や昇、昴といった男性陣と星奈の四人。彼等は耳障りの良い言葉に酔い、場の空気に流されるように喜代子の言葉に耳を傾けている。そこに冷静さは皆無で、まるで精神を支配されているかのように絶対的君主の言葉を信じて疑わない。「子供……ああ……。お祖母さんの場合は曾孫になるんだったわね。あの人があなたたちの子供を早く抱きたいと思うのは、実に自然なことだとは思うわ。海亜さんには悪いんだけれど、私だって、あなたたちの子供を楽しみにしている一人には違いないの。でもね、子供を作る事を催促したって、それが思った通りの結果に繋がる訳ではない事も理解しているつもりよ。私だって、昇を妊娠するまで色々と苦労はしたし、お婆さまに結構言われて、悔しくて泣いたことも多いの」 隣に座る義母の顔に浮かぶ疲れに、彼女の言葉が決して嘘ではないと感じ取る。海亜が引きこもるようになってから薄れてしまった付き合いのせいで、一度真っ新になった関係性。今は姑と嫁の立場になったのだが、この三年間、彼女とどう向き合えば良いのかが分からず考えがまとまることは無かった。それでもこの姑は不甲斐ない嫁に寄り添おうと手を差し伸べてくれる。きっかけはあまり気分の良い話では無かったが、こうやって理解してくれる人が居る

  • さよならは、笑顔の後で   13

    「今度来るときは、良い報告が出来る様に心がけますから」 体裁を保つ為に呈示した、叶うかどうかも分からない口約束。昴はいつになったら、このことについて真剣に向き合ってくれるのだろう。そんな不安が頭を過ぎる。 幾ら互いに納得して決めたこととは言え、それに関して他人に口を出されることを好ましいと思っている訳では決して無い。会う度に繰り返される催促は、常に此方のペースを掻き乱すだけ。それを回避しようと気持ちが焦れば焦るほど、必死さが表に立ち大きくなっていく温度差。今でも肌を重ねる事は度々あるが、新婚の時に比べて頻度は確かに減っている。だからこそ余計に耳の痛いこの話題が、海亜は本当に嫌で仕方が無い。 初年度は期待に応えたいと純粋に思っていた。二年目になるとその期待に押しつぶされそうになり辛さを覚える。そして三年目。相手からしてみたら純粋に孫の誕生を切望しているだけなのかも知れない。それでも、海亜にとってはこの話題を持ち出される度に憂鬱になり、余計に義理の祖母の事が苦手になってしまう。「昇はまだ結婚する気配はないし、星奈も学生だ」 優雅にお茶を啜りながら零した喜代子の言葉。そこに含まれる棘は、いつでも海亜の心を深く抉り続けている。「まぁ、早いところ昇が良い嫁さんを見つけてくれるなら、私もここまで言いやしないんだがねぇ」 突然話題の矛先を向けられたことで昇はグラスを傾けていた手を止める。「え? 俺?」 まさか自分に飛び火するとは思っていなかったのだろうか。「何でいきなり俺の話が出るんだよ」 のんびりと楽しく酒を楽しむつもりだった昇だが、自分の名前が挙がると顔を引き攣らせて苦い笑みを浮かべる。「本来ならば、お前の方が昴よりも先に結婚すべきだろう?」 年功序列とでも言いたいのだろうか。あくまでこれは喜代子の意見であって、昇の人生を定めるものではない。「そのことなら、もう随分前に話合って納得してくれたじゃないか」「ふん」 昇が家ではなく夢を追うことと選択したとき、頑固な祖母と正面から衝突することが多かった。「あの時はあの時。私は一切納得はしていないよ」 家に縛られ敷かれたレール。長男という肩書きの重さは昇にとって息苦しく逃げたしたい足枷のようなもので、優等生を演じていたことに限界を感じた瞬間、遅れてやってきた反抗期という形で爆発を起こした。『俺は

  • さよならは、笑顔の後で   12

     久藤の家に居る頃は、自分の居場所があの家だと感じられたことがない。母親が亡くなり父親との距離ができ、新しい家族が増えた時に海亜はあの家の中でたった一人の他人になった。家族という枠組みから外れた異物は新しい形に馴染めず、ずっと感じている疎外感を払拭することは不可能で。だからこそ外部に強く求めたのは自分だけの居場所である。 一人暮らしの家。気軽に付き合える友人。必要とされている職場や常連となった行きつけの店など。久藤のお嬢様というフィルターを通してではなく、海亜という一人の人間そのものを認めてくれる環境。それが、海亜のずっと探していた居場所という概念である。しかし、そういった場所に自分という存在を置いたからといって、どうやっても埋まらない欠落した部分があることは確かで。 海亜が最も欲しいと願ってやまない最後のピース。 その答えは久藤の家を出て、一条の家に入ったことで漸く形になる。だからこそ、海亜は小さな不満から目を背けることを選ぶ。そうやってしがみつく醜い自分を情けないと思うことはあっても、それを後悔することはあり得なかった。「突然のご連絡に驚いたのは確かですが、準備に手間取ってしまったのは此方の不手際です。お婆さまには大変不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」 角を立てず、適当に受け流すこと。これは海亜が生きていく上で身につけた防御術。「そんなこと無いわ。だから、そんな風に言わないで頂戴」 しかし、それを良しとしなかったのは水琴の方だった。言葉を窘められ謝罪を否定されたことで浮かんだ動揺はほんの僅かな間のもの。それでもそんな小さな変化を水琴が見逃すことは無かったようで、困ったように笑いながらも海亜の右腕を軽く叩きながらこう続ける。「不安にさせてしまってごめんなさい。でもね、昴。海亜さん。お婆ちゃんは不器用なだけで、本当にみんなに会うことを楽しみにしていたのよ。昇と星奈が着いたときは、早く迎えに行きなさいって私を急かしたくらいなんだから」 そう言いながらゆっくりと離れていく白い手は、ほんの少し前の記憶を辿るように宙を彷徨う。「昴たちの到着が遅いことを誰よりも心配していたのもお婆ちゃん。連絡が全然来ないから、お父さんに電話しろ、電話しろって強請ってたの。昴が着いたって聞いたときは、誰よりも先に会いたいって気持ちが焦っちゃって、思わ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status