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第7話

Author: リンゴ
美波は、最初から窓の外が一面の芝生だと知っていた。だから少し擦り傷を負っただけで済んだ。

それでも律は、片時も美波のそばを離れず、ずっと付き添っていた。

自分でスープを作り、ウサギの形にリンゴを切り、体を拭くのも律の役目だった。

「羨ましいよね、あの美波さん。あんなにイケメンで優しい旦那さんがいてさ」

「だよね。この前の楓さんなんて、あれだけひどい怪我したのに、数日経ったら誰も見舞いに来ないって」

「でもそれも自業自得だよ、見る目がなかっただけ。クズ男と結婚したんだから」

ドアの外で聞こえてくる看護師たちの会話に、律の顔が一気に険しくなった。

バンとドアを開け、鋭い声で言い放つ。「また陰口叩いてるの聞いたら、ただじゃおかないぞ」

看護師たちは驚いて慌ててその場を離れた。

律は、あの日楓が見せた強い目を思い出していた。どうしても心が落ち着かなかった。

眉間を押さえてイライラと呟く。「美波……あの日、本当は何があった?どうして窓から落ちたんだ?」

美波は一瞬で涙を浮かべ、潤んだ目で律を見上げる。「何度も言ったよ、律くん。楓さんが、私たちが関係を持ってるのを見て怒って、私を突き落としたの。信じてくれないの?」

愛する女の涙で、律の苛立ちは一気に消えた。そっと美波の涙を拭いながら、優しく言う。「もちろん信じてるよ、美波」

美波は涙ぐんだまま上目遣いで言う。「少しだけでいいから、楓さんに罰を与えたいの。手伝ってくれるよね?」

律はしばらく黙った後、静かにうなずいた。

その頃、別荘で楓の携帯に【戸籍・改名手続き完了】のメッセージが届いた。

楓は勢いよく立ち上がり、家の荷物をまとめ始めた。

「家」と言っても、最初からここを出るつもりで物を増やさなかったので、持ち物は最小限。小さなキャリーバッグすら埋まらなかった。

三年過ごしたこの家に、ほとんど思い出も未練もなかった。必要最低限だけを詰めて、虚しく笑う。

三年いても、こんなに荷物が少ないなんて、自分でも呆れるくらいだ。

ドアの外で物音がして、荷物を隠す暇もなく律に手首をつかまれた。

律の顔は不機嫌で怒りを隠そうともしなかった。「美波はまだ病院にいるのに、お前は旅行か?少しは思いやりってもんがないのか」

楓は律が「旅行」だと誤解したことに、内心ほっとした。静かに手を引き抜く。「……私が突き落としたんじゃない」

ここまで来て、もう我慢する気はなかった。

真っすぐに律を見つめる。「私は一度も美波さんを傷つけていない。全部、美波さんの自作自演だよ」

律はあきれたように乾いた笑いを浮かべる。「そうか、じゃあ俺が間違ってたんだな」

その目が急に冷え切り、嵐の前の静けさに変わる。「誰か、楓を車に乗せて美波のところに連れて行け」

車は病院には向かわなかった。

市の中心にある、国内で最も高いタワーの回転レストランに連れていかれた。

美波は車椅子で運ばれ、頬にはまったく病人らしさがなく、むしろ前よりも元気そうだった。

ボディーガードに粗末に投げ出されても、律は一瞥もしない。美波の肩にそっと毛布をかけ、優しく声をかける。「退院したばかりなんだから、もっと暖かくしろよ。こんな高いところは風も強いし」

律は美波を押して楓の前まで連れてきた。「ほら、楓を連れてきたよ。好きにしたらいい」

美波は笑いながら言う。「楓さんは律くんの奥さんだから、あまりひどいことはできないけど……窓の外で一時間だけ吊るしておくくらいで十分かな」

その言葉に、楓は顔を上げて絶句した。ここは地上600メートル以上の高さ。普通の人でも気絶しかねない場所だし、楓は重度の高所恐怖症だ。

「律、私たちはもう離婚したの。あなたにこんなことをされる筋合いはない」

本当は家を出てから、律の母・涼子から彼に離婚のことを伝えてもらうつもりだった。でも、今言わないと、楓はこのまま心臓発作で死んでしまうかもしれない。

だが律は冷たく鼻で笑うだけだった。「俺のサインなしで離婚できると思ってるのか?お前の口から真実が出たためしがない」

その時、律の父・雅人が言っていた言葉が頭をよぎった。律は、自分が何の書類にサインしたか分かっていなかったのだ。

楓は絶望で目を閉じ、体が震えだした。「律、こんなことされたら……私、本当に死ぬかもしれない」

律は見下ろして言い放つ。「お前は美波を窓から突き落とした時、死ぬかもなんて思わなかったんだろ?

心配するな。お前なら耐えられる。自分から来たいって言い出したんだろ?」

そのまま律は躊躇いなく、ボディーガードに命じて楓を窓の外へ吊らせた。

足元600メートル下の景色に、楓の心臓はトラックに轢かれたように痛む。

これが、彼の復讐だということに気づいた。楓が「美波が怪我をしたのは自作自演だ」と言ったから、彼は「自分から来たいと言ったんだろ」と言い訳して、彼女をビルの屋上から吊るしたのだ。

こんなに長く結婚して、愛がなくても多少の情はあると思っていたけれど、それすら自分の勘違いだった。

律は誕生日も記念日も覚えてくれなかったし、自分のアレルギーすら知らない。唯一覚えていたのは「高所恐怖症」だけ。それすら、ただ傷つけるために使った。

全身の血の気が引いて、肌は死人のように青白くなる。遠くの青空を見上げ、楓は必死に拳を握った。明日……明日には全部終わる……

あと一時間。律の気が済めばすべて終わる。そう信じて、楓は歯を食いしばった。

吊られている間、心臓は爆発しそうで、何度も止まりそうになりながら、それでも必死に耐え続けた。

向かいのビルの巨大な時計が、静かに一度だけ鐘を鳴らした。ようやく一時間が経過した。

荒い息をつきながら、窓の内側に叫ぶ。「律!もういい、降ろして!」

しかし、誰もいなかった。美波は律に送られて先に帰り、楓は600メートルの高さで朝から晩まで吊されたままだった。

レストランの閉店時間になり、ようやく地上に降ろされたときには、全身が汗と嘔吐物でぐしゃぐしゃだった。

全身は見るも無惨なほどで、顔色は真っ青だった。

足を床につけた瞬間、膝が抜けてそのまま座り込む。

そのとき、スマホが震えた。律からのメッセージだった。【明日、美波と旅行に行く。おとなしくしていろよ】

返事はしなかった。震える手で財布からマイナンバーカードを取り出す。

もう……何もいらない。この場所に、もう二度と戻らないと決めた。

電話を一本かけると、すぐに頭上からヘリの音が響いた。

プライベートジェットが目の前に降り立ち、制服姿のスタッフが声をかける。「神宮寺さんですね?どうぞご案内します」

楓はスマホとSIMカードをそのままゴミ箱に投げ捨て、顔を上げると、瞳は眩しいくらいに輝いていた。

「いえ、これからは滝川と呼んでください」
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