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第3章・第3話:噛み合わない死にたい心と、生きようとする身体の震え

Author: 銀狐
last update publish date: 2026-06-13 07:08:27

 少女の足先が、ぎりぎりのところで地面を探す。  

 靴の底が、小石を蹴った。  

 からん、と、頼りない音が闇に吸い込まれていく。

 落ちる。  

 このままだと、落ちる。

 分かっていたのに、俺の体は、その一瞬、動かなかった。

 殺し合いには慣れているくせに。  

 人間を、死から引き戻す距離感は、いまだに掴めない。

 ほんのわずかな間。  

 それでも、崖縁にいる人間には致命的になり得る間。

 少女は、ふっと目を閉じた。

 まぶたの裏側に、何が浮かんでいたのか。  

 俺には見えない。  

 けれど、その表情は、あまりにも静かだった。

「――ここでなら、誰にも見つからずに消えられるかな……」

 自分に言い聞かせるような声。  

 祈りとも、呪いともつかない響きが、夜気の中に溶けて
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  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第3章・第3話:噛み合わない死にたい心と、生きようとする身体の震え

     少女の足先が、ぎりぎりのところで地面を探す。  靴の底が、小石を蹴った。  からん、と、頼りない音が闇に吸い込まれていく。 落ちる。  このままだと、落ちる。 分かっていたのに、俺の体は、その一瞬、動かなかった。 殺し合いには慣れているくせに。  人間を、死から引き戻す距離感は、いまだに掴めない。 ほんのわずかな間。  それでも、崖縁にいる人間には致命的になり得る間。 少女は、ふっと目を閉じた。 まぶたの裏側に、何が浮かんでいたのか。  俺には見えない。  けれど、その表情は、あまりにも静かだった。「――ここでなら、誰にも見つからずに消えられるかな……」 自分に言い聞かせるような声。  祈りとも、呪いともつかない響きが、夜気の中に溶けていく。 その静けさが――逆に、何かを刺激したのかもしれない。 人間の本能か。  それとも、俺の中にいまだ残っている獣の本能か。 脳裏のどこかが、甲高い警鐘を鳴らした。 ――ダメだ。 言葉にならない警告が、背骨を走る。  足が、勝手に前へ出た。 伸ばした手が、宙を切る。  あと一歩、遅い。 その時だった。 静まり返った山道を、別の音が切り裂いた。 ドオオオオオオッ!! 爆音。  耳が痛くなるほどの、エンジンの咆哮。  直管マフラーの、品のない暴力的な音。 トンネルの向こう側から、光が飛び出してくる。 いくつも。  ばらばらに揺れながら、こちらへ近づいてくるヘッドライト。 その眩しさに、少女のまぶたがびくりと震えた。  

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第3章・第2話:ガードレールの外側で、世界からこぼれ落ちそうな少女

     トンネルの入口が見えたとき、もう一つ――想定外のものが見えた。 ガードレールの外側に、影。 細い。  折れそうなくらい、細い。 少女が、夜風にさらされるように、ガードレールの向こうに立っていた。 肩までの髪が、月明かりを吸い込んで、灰色に見える。  制服のスカートが風に揺れて、膝のあたりでかすかに震えている。 こんな時間に女子高生。  こんな場所で女子高生。「……はぁ」 ため息が、勝手に出た。  よりによって、今夜か。 とはいえ、見なかったふりをするほど、俺は人間嫌いでもない。  そういうふうに生きようとした時期も、昔はあったが、結局――目の前に「落ちるもの」があれば、手を伸ばさずにはいられない。 どれだけ、めんどうでも。 原付のスピードを落としながら、視線を少女に向ける。 その横顔は、月光に削り出されたみたいに白かった。  頬に血の気がまるでない。  目は、遠くの何かを見るように、焦点があやふやだ。 あの目を、俺は知ってる。 何百年も前から、いろんな顔で、いろんな時代の人間たちがしてきた目だ。 諦めと、疲れと、期待されることへの恐怖。  そして――かすかな、解放への憧れ。 原付を彼女の少し手前で停めると、エンジン音が、静寂を切り裂いた。 少女が、ゆっくりとこちらを振り向く。 その瞳は、思ったよりも若かった。  若いくせに、老けていた。  十六、七。  なのに、三十年は生きてきたみたいな沈んだ色をしている。 ガードレールの外側。足元は、すぐ下りの斜面だ。  踏み外せば、夜の山にそのまま飲まれていくだろう。 俺はハンドルから手を離し、ヘルメットを脱いだ。

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     原付のエンジンが、坂を上がるたびに情けない悲鳴を上げる。 深夜零時を少し回った頃だった。  月齢は十日。満月にはほど遠いが、山の稜線をなぞるように、白く薄い月光が差している。 山道は、街灯もまばらだった。  アスファルトはところどころひび割れて、路肩の雑草がそこから侵食している。  ガードレールは錆びつき、曲がりくねった道の向こうは、闇しかない。 こういう道には慣れている。  俺の旅は、だいたい人があまり通らない場所を選んで続いていくからだ。 風が頬を切る。  夏の終わりかけの夜は、さほど寒くはないはずなのに、体温とは別の冷たさだけが肌に残る。 ふと、胸ポケットを指先で確かめた。  薄くなったタバコの箱と、折りたたまれた小さなメモ用紙。  それから、こすれて色あせた小さな御守り。 ――思い出すのは、あの橋と、落ちていく月の光。 前輪が小さな段差を踏み、ハンドルがかすかに揺れた。  意識を前に戻す。「んだよ……」 坂がきつくなる。  原付のエンジン音が、不吉なくらい高くなった、その時だった。 プシュッ。 気の抜けたような音とともに、後輪あたりから鈍い衝撃が伝わってくる。  次の瞬間、重さのバランスが崩れた。「……チッ」 反射的にクラッチを切り、ブレーキをかけて停車する。  脇に寄せ、スタンドを立てると、夜の静寂が一気に押し寄せてきた。 虫の声。  遠く、見えない沢を流れる水の音。  それ以外は、何もない。 携帯を取り出してみるが、案の定、電波は圏外だった。「運がねぇにもほどがある」 独り言を零して、しゃがみ込む。  後輪に手を当てると、

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     朝の海は、夜の顔とはまるで別人だった。 昇りかけた太陽が、海の表面を金色に塗っていく。さっきまで冷たかった潮風も、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。 原付のエンジン音が、静かな国道に小さく響く。 前にカミヤ。後ろに私。「落ちんなよ」「落ちないよ」 彼の背中に腕を回して、しっかりとしがみつく。 ジャケット越しに伝わってくる体温は、人間と変わらない。でも、その奥に潜んでいる「何か」を、私はもう知ってしまっている。 風が、髪を後ろに流す。 潮の匂いと、ガソリンの匂いと、カミヤの匂い。 全部まとめて、胸いっぱいに吸い込んだ。「ねえ、カミヤ」 エンジン音に負けないように、少し声を張る。「ん」「最初に会った時、私のことどう思った?」「路地で囲まれてた時か」「うん」「面倒くせえ女だなって思った」「失礼」「事実だろ」「でも、助けてくれた」「見なかったことにするには、目の前の光景が目立ちすぎてた」「そういう言い方、ほんとズルい」 背中越しに軽く拳で叩くと、彼は苦笑した。「逆に、お前はどう思った」「え?」「俺のこと」「それ聞く?」「聞く」「ずるい」「さっきからずっとずるいって言われてるな、俺」「自覚して」 少しの沈黙。 風が、二人の間をすり抜けていく。「……最初はね」 私は、空を見上げた。「また変な男に絡まれたって思った」「ひでえな」「だって、路地の入口でこっちじっと見てたし」「あれは様子を見てたって言うんだよ」「結果助けてくれたから、許す」「上から目線だな」「ナンバーワンキャストだからね」

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     同じ頃——。 別の倉庫街の一角で、複数のライトが一斉に点いた。「動くぞ!」 久我山警部の声が飛ぶ。 黒い防弾ベストを纏った警官たちが、一斉に走り出した。盾を持った者、破壊用のツールを持った者、銃を構えた者。「対象倉庫、突入!」 破壊用のハンマーが、固いシャッターを叩き、鍵の周辺を歪める。 同時に、別ルートから特殊部隊が忍び込む。 倉庫の中では、複数の人影が動揺していた。 白い粉の入った袋。怪しいラベルの瓶。パレットに積まれた段ボール。 その中央で、電話を耳に押し当てている男が一人。 賀茂玄悟。 ふくよかな体つき。金の縁の眼鏡。笑うと歯茎が見える——はずの口は今、ひどく強張っていた。「どういうことだ、堂前。何が——」 その言葉が終わる前に、倉庫の扉が破られた。「警察だ! 動くな!」 怒号と共に、ライトの光が一斉に差し込む。「くそっ——!」 堂前が叫び、スタンガンを掴んで一人に飛びかかろうとする。 だが、その前に背後から押さえつけられた。「堂前恒一、覚醒剤取締法違反の容疑で——」 矢代もまた、隅で震えていたところを、すぐに見つかった。「や、やめてくれ、俺は、俺は——!」「売人矢代恒一、覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕する!」 叫び声と金属の音が混ざる。 久我山警部は、その混沌の中で、ただ一人冷静に周囲を見回していた。「薬物の押収! 帳簿と電子機器の確保急げ! 証拠はここに全部あるはずだ!」 その目には、かつて部下を薬で失った男の、執念にも似た光が宿っていた。 ——ほどなくして。 サイレンの光が、別の倉庫街にも差し込んだ。「……終わったのか」 三門巡査部長が、静かな足取りで歩いてくる。 そこにはもう、黒い影の狼たちの姿はなかった。 夜の闇に溶け、最初

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     その時。 足元の影が、爆ぜた。『——待たせたな、主人!』 闇から、黒い狼が飛び出した。 一匹。二匹。三匹。四匹。五匹。 全身が黒い毛に覆われ、目だけが赤く光っている。だが、その赤は、怒りではなく、意志の色だ。 クロが、先頭で吠えた。『やっと暴れられる!』「遅ぇぞ」 カミヤが、口の端で笑う。「主が呼ばんからだろうが!」 クロが、時雨に飛びかかる。 時雨は、咄嗟に後退する。 銀の刃が閃き、クロの輪郭を切り裂いた。だが、影でできた身体は、形を崩しながらも再び収束する。「……影を操る、か」 時雨が、僅かに目を見開いた。「聞いていた。だが、実際に見るのは初めてだ」「油断したな」 カミヤは、ゆっくりと立ち上がる。 切り裂かれた腱が、満月の光と影狼たちの存在に刺激されるように、じわじわと再生を早めていく。 満月は、彼にとって「毒」であり、「薬」でもあった。「——行け」 カミヤの一声で、五匹の影狼が一斉に動いた。 一匹が正面から。二匹が左右から。残り二匹は、足元と背後から。 時雨は、退いた。 退きながらも、攻撃の手は緩めない。 足元に飛びかかってきた一匹の影狼の前足を、銀の刃で切り裂き、その反動で脇腹を斬りつける。 影が、裂ける。 だが、消えない。『ガウッ!』 別の一匹が、時雨の手首に噛みついた。 ナイフを握っている方の手首だ。 影でできた牙は、獲物を前にして質量を持った凶器へと変わる。 肉を裂き、骨を軋ませる、明確な物理攻撃。「ぐっ……!」 一瞬、ナイフの動きが止まる。 その隙に、クロが背後から跳びかかった。

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