Se connecter英玲奈side
(企業買収……?この男は、南雲を自分の物にしようとしているの?)
三越はそう言うと、着ていた上質な背広の胸ポケットからシックな革の名刺入れを取り出した。そこから一枚の名刺を指先で挟むと、ビジネスの場で見られるような丁寧な両手の渡し方ではなく、まるで小馬鹿にするように片手で机の上へ乱雑に放り投げて差し出してきた。
滑り込んできた白い名刺には、極めてシンプルな文字だけが印字されていた。
『アレス・ファンド・ジャパン 代表 三越 凱』
陽向side「南雲副社長、例の二期目における為替対策を含めた事業計画書ですが……提出の期限を過ぎておりますが、進捗状況についてお聞かせ願いたいのですが」副社長室で書類に判を押していた俺の元にベテラン役員が強気の姿勢で俺に歩み寄ってくる。この前の役員会議で皆の前で恥を書かせたあの役員だ。「分かっている……。私は南雲グループ全体の指揮を執っていて多忙を極めているんだよ。現場の経営判断というものは、拙速に行うべきではない。為替の動向や市場のデータを慎重に見極めているところだ」「……慎重に、ですか。ですが原価の高騰は待ってくれませんよ」「そんなこと言われなくても承知している。出来たら連絡するからそれまでは何も言うな」そう言って追い払ったものの、俺は内心冷や汗でヒヤヒヤしていた。 言い訳をして時間を稼いでいたものの、当然ながら俺の頭の中に解決策など一つも浮かんでいない。為替リスクヘッジ? サプライチェーンの再構築? 専門用語を聞くだけで頭が痛くなる。(クソッ……! なんで俺がこんな苦労をしなきゃいけないんだ。英玲奈みたいに勝手に動いてくれる奴さえいれば、こんなことにはならなかったのに&hel
陽向side部下である新規事業部の部長に丸投げして無理やり作らせた二期目の事業計画書。あの役員会議での醜態から一か月が過ぎ、「これでなんとか形にはなった」と俺は胸を撫で下ろしていた。 だが、そんな俺を嘲笑うかのように次々と悪夢が襲いかかる。わずか二か月の間に、為替相場は一気に1ドルあたり20円も暴騰したのだ。英玲奈がこの新規事業を立ち上げた当初には想定されていなかった歴史的な為替の激動だった。為替変動の影響というものは恐ろしい。 製品の売上や契約自体が消えるわけではないが、海外から調達している部材の輸入原価だけが、タイムラグなくダイレクトに響いてくる。製品を日本で取り扱っている我々は、契約を履行すればするほど、原価率が圧迫されて会社の手元に残る利益が削り取られていくのだ。そして、まだ事業を開始して歴が浅いこの部門は、原価率上昇に耐えられるだけの利益のプールなど何もなかった。このままの状況が続けば、新規事業部は期待の事業から一転して負債を生みだすお荷物事業として冷ややかな視線を浴びることだろう。世界情勢が原因で、俺のせいではないが、赤字事業を指揮するなんてイメージが悪い。「——というわけで、南雲副社長」緊急で開催された役員会議の場で、役員が冷ややかな目線を俺に向けて放った。
陽向side「事業計画書の事なんだが、事業の責任者は君だ。それに君は私以上に現場サイドの管理職や社員の声を把握できる立場にある。君には期待しているからこそ、この二期目の事業計画書の作成は君に任せたい。これは君にとっても、大きな成長の機会になるはずだ」数日後、再び俺の元に訪ねてきた事業部長に対して、包み込むような笑みを浮かべて語りかけた。「ありがとうございます。……ですが副社長、我々現場のデータだけでは、経営層としての判断基準や市場の将来予測までは……」「大丈夫、君ならできるさ」不安げに言い淀む事業部長の肩をポンと叩き、「俺は、部下の挑戦を応援したいんだ。上がってきた計画書は俺が確認するから、まずは思い切って作ってみてほしい。これが評価されれば、君の出世にも大きく影響するだろう。期待しているよ」「……はぁ。承知いたしました。全力を尽くします」事業部長はどこか納得のいかない様子ながらも、深く頭を下げて部屋を出ていく。その姿を冷めた目で見送っていた。(フッ……単純な男だ。『期待している』と一言添えるだけで簡単に仕事を引き受けてくれる。英玲奈がいなくても、こうやって
陽向side結愛が男の子を出産した翌月、株主総会の決議案が無事可決され、義父からの『出産祝い』として、俺と結愛への株式譲渡の割合が大幅に引き上げられた。これにより、南雲家における俺の立場と発言権は一気に強まっていったのだった。新規事業もうまくいっており、社内でも高評価を得ている。このままいけば、新たに『会長』というポジションを作って義父には勇退してもらい、俺が社長に昇格して実質的な経営権を手に入れ、名実ともにトップへ君臨する――すべては順調な『はず』だった。事業開始から一年が経過し、定期役員会議が終わった直後の出来事だった。 新規事業部の事業部長がどこか不安げで落ち着かない表情を浮かべて副社長室を訪ねてきた。「南雲副社長、お忙しいところ恐縮です。来期の事業計画についてですが、具体的な内容のすり合わせを行いたいのですが……」「すり合わせ? すり合わせも何も、事業開始時に作成した事業計画書があるだろう。何か問題でも発生したのなら都度対処して、それ以外は計画書の通りに進めればいいじゃないか」面倒くさそうに手を振る俺に対し、事業部長は困惑したように眉をひそめた。「それが……英玲奈元専務が策定されていた計画書にある『フェーズ1・導入ロードマップ』は、今月で全て完了する予定となっております。そのため、来月からは事業を本格的に拡大させ、自走を図る『フェーズ2・二期目運用』へと突入いたします。ですが……手元の計画書では、フェーズ2は年単位の数値のみが記載されており、具
陽向side「陽向、副社長になって仕事が忙しいでしょ?急な陣痛があっても、大事な会議や出張で駆けつけられない可能性もあるかもしれない。産まれた時に陽向がいないのは寂しいから、計画分娩にして、その日は側にいて欲しいの……」妊娠八か月になった頃、結愛がそう言って病院からもらってきた『計画分娩・無痛分娩』のパンフレットを俺に差し出してきた。保険適用外の処置らしく、控えめだがご丁寧にしっかりと値段が書かれている。正直、その額に驚いたが相場なんて分からない。それに出産は、人生の一大イベントだ。子どもが元気に産まれてくるなら、結愛の好きなように産めばいい。それにお腹の子は男の子のようだし、義父も快く了承してくれるだろう。保険適用外だろうが、念願の男の子が産まれるのなら誤差の範囲だ。そして、そんなこと聞かなくても了承するのにわざわざパンプレットをもらってきて、少し甘えるような声でねだる結愛も可愛かった。「分かった。その日は一日、結愛の側にいるよ。出産方法についても結愛が望むようにすればいいよ」「陽向、ありがとう。私、この子と陽向のためにも出産頑張るね」嬉しそうにギュッと思いっきり抱き着いてくる結愛。胸よりも大きく前に出たお腹が俺のへそに当たる。妊娠のことはよく分からない俺は、水の入った風船をお腹の中に入れているようなイメージで、そんなに強く抱き着いたら、圧がかかってバチ
陽向side「南雲副社長、例の新規プロジェクトの今期の進捗報告書になります。予定通りのスケジュールで目標売上を大きく上回る推移を見せております!」副社長室のデスクで部下が出してきた書類に目を通し満足げに深く頷いた。「そうか、上々だな。まあ、まだ始まったばかりで予算も少なめにしてあるし、この程度の成果が出せるのは当然だ。現場にも手を抜かずにしっかり励むよう伝えておいてくれ」「承知致しました!顧客からの満足度も高く、現場サイドの士気も高く非常にいい状態です。引き続き、気を引き締めて邁進してまいります!」頭を下げて退出していく部下の背中を見送りながら、俺は背もたれに深く身体を預け、込み上げてくる万能感に浸った。英玲奈がいなくなって半年……南雲グループの新規事業は滞るどころか過去最高レベルの順調なスタートを切っていた。「陽向君、大したもんだな。業績も順調で英玲奈が作った事業計画よりも早期に投資資金の回収が可能になったそうだな。これからも期待しているぞ。」社長である義父も業績に満足しているようで、俺の評価も上々だった。そのおかげで、英玲奈がいる時は俺のことを低く邪険に扱う者もいたが、今では俺のことを慕う人間も出てきている。







