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第3話

作者: よつば日和
その夜、夏美はなかなか寝つけず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。

克哉がどこに行ったのか。彼女は気にならなかったし、もう気にしたくもなかった。

翌朝早く、夏美は翔の甲高い泣き声で目を覚ました。

夏美は急いで子供部屋に駆け込んだ。すると、人見知りのはずの翔が、杏奈の服の裾をぎゅっと握りしめて、たどたどしく一言を発していた。

「マ……マ……」

夏美は全身の血が凍りつくのを感じた。

まさか翔が初めて呼ぶ「ママ」が、他の女だなんて。

杏奈は翔を抱き上げると、隣にいる克哉を振り返った。三人の姿は、まるで本当の家族のようだった。

ドアの前に青ざめた顔で立ち尽くす夏美を見ても、克哉は顔色一つ変えず、当たり前のように言った。

「杏奈が今日、パーティーのドレスを選びに行くから、お前も付き合ってやれ。ああいう場所は、一人じゃ心細いだろうからな」

夏美の心は、ナイフで抉られるように痛んだ。

もう何年も一緒にいるのに、彼は一度だって、自分を大事な場に連れて行ってくれたことがなかった。

問い詰めても、「お前はああいう場には向いてない」と言われるだけで、結局うやむやにされてきた。

夏美はぎゅっと指先を握りしめた。

「わかったわ」

彼女は俯いて、すべての感情を押し殺した。

月末まで、あとたったの2週間。

ここから完全に逃げ出すまで、耐えなければならない。海外で生活が落ち着いたら、この男に離婚を切り出そう。

翔のことは……夏美は苦しげに目を閉じた。

自閉症の子供を連れて逃げるなんて、現実的じゃない。

まずは一人でここを出て、それから方法を考えるしかない。

高級ブティックへ向かう途中、杏奈は親しげに夏美の腕に絡みついてきた。

「夏希さん、これからあなたは私のアシスタントなのね。仲良くしようね!

本当に感謝してるの。克哉も私も、大学時代のあなたがどれだけ優秀だったか、ちゃんと覚えてるわ」

彼女はにこりと甘く笑った。

「安心して。私が必ず、克哉の社運を賭けた契約を成功させてみせるから。絶対に彼をがっかりさせたりしないわ!」

自分の名前すらまともに呼ばない杏奈を見ても、夏美の心はもう何も感じなかった。

そんなことは、もうどうでもよかった。

社運を賭けた契約がどうなろうと、彼女には関係のないことだ。

店に入ると、店員はみんな杏奈を取り囲み、誰もその隣にいる地味な服装で無表情な夏美には気づかなかった。

杏奈が三着目のドレスを試着していた時、突然、店の入り口が騒がしくなった。

「松田!お前の父は工事費も払わずにムショに入りやがった!それなのにお前はのうのうと贅沢しやがって!このクソ女!金返せ!」

作業員風の中年男たちが、警備員を突き飛ばして店になだれ込んできた。

杏奈はさっと顔色を変えると、ためらうことなく夏美の帽子とマスクを奪い取った。

「ここを出て右に曲がれば裏口よ!」

そう言うと、彼女は反対方向へ走ろうとした。

男たちの怒りは警備員では抑えきれず、人の波が店の中に押し寄せてきた。もう逃げられないと思ったのか、杏奈は突然、夏美を前へ突き飛ばした。

「あなたたちが探してるのは彼女よ!私は替え玉!」

まるで、時間が止まったかのようだった。

夏美が反応する間もなく、怒り狂った男たちに囲まれてしまった。

汚物を浴びせられ、彼女は地面に倒れ込んだ。腕を踏みつけられ、鈍い痛みが走る。

ぼやける視界の中、克哉が慌てて駆けつけてくるのが見えた。

彼は緊張した面持ちで、自分のジャケットを脱ぐと、震える杏奈の肩にかけた。そして、彼女を庇いながら足早にその場を去って行った。

一度も振り返えって夏美を見なかった。

夏美は、どうやって家に帰ったのか覚えていなかった。

体は汚物にまみれ、一歩進むごとに、床に悪臭を放つシミが残った。

「くさっ!うえっ!」

翔は彼女を見るなり、怯えたように後ずさり、小さな手で杏奈の服の裾を強く握った。

「ママ……ママ……ママ……だっこ……」

その瞬間、夏美は心の中で何かがぷつりと切れる音を聞いた。

克哉が近づいてきたが、その目には嫌悪の色が浮かんでいた。彼はくるりと背を向けると、翔が夏美を見ないようにその視界を遮った。

「夏美、早くシャワーを浴びてこい。あまりにも臭い」

夏美は、ただ一言、克哉に聞きたかった。

さっきお店の前で、本当に自分のことが見えなかったの?

しかし、克哉はすぐに顔をそむけ、杏奈の腕から翔を受け取ると、優しい声で話しかけた。

「工事費は、さっき俺が立て替えておいた。もう怖がることはない」

満面の笑みを浮かべる杏奈を見て、夏美は急に吐き気を催した。

シャワーを浴びて身支度を終えると、大学の先輩の高木弘樹(たかぎ ひろき)から電話がかかってきた。

「準備はすべて整ったよ。月末には出発できる。君のお母さんの転院手続きも済ませておいた。でも……本当に、子供は連れて行かないのか?」

夏美は鏡に映る惨めな自分を見つめた。そして、他の女の腕にぴったりと寄り添っていた翔の姿を思い出す。彼女の声は、恐ろしいほど静かだった。

「連れて行きません」

夏美は少し間を置いてから、一語一句、はっきりと告げた。

「克哉には、離婚協議書を送りつけますわ」
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