INICIAR SESIÓNこの5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。 かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。 彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。 夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。 そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。 夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。 夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。 息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。 彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しの嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。 そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……
Ver más夏美は弘樹の手の中できらめくブローチを見つめた。そして、彼の不器用だけど、心の底からの告白を聞いていた……克哉が突然また現れたことで心に巻き起こった大波が、不思議とすーっと静まっていくのを感じた。彼女は心を決めた。克哉が今、落ちぶれていようと、残された才能で再び頭角を現そうと、もう自分とは何の関係もないのだと。二人の間の愛憎は、すべてとっくに終わっていた。法廷で、翔を抱いて毅然と彼の元を去ったあの瞬間に。克哉の存在が、もう自分の心を少しでも乱すことはあってはならない。だから、たとえ克哉が賞金を手にしても、彼とこれ以上関わることはない。夏美は目の前で、緊張のあまり手と足が一緒に出てしまいそうな弘樹を見た。彼の瞳の奥にある、不安げだけど揺るぎない愛情を見て、ふと微笑んだ。その笑顔は、分厚い暗雲をかきわけた先に差し込む月明かりのように、明るく、そして優しかった。夏美はブローチを受け取らなかった。代わりに一歩前に進むと、驚きに少し見開かれた弘樹の瞳に見つめられながら、そっとつま先立ちになった。そして、優しく、でも確かなキスを彼の唇に落とした。弘樹は完全に固まってしまった。頭の中は真っ白で、ただ唇に残る柔らかく温かい感触だけが、やけにリアルだった。彼女らしい、本の匂いとほのかな花の香りが混じった、上品な空気が漂う。優しいキスが終わり、夏美は少し後ろに下がった。頬はほんのり赤く染まっていたけど、その瞳は星のように輝き、まっすぐに彼を見つめていた。「もう待たなくていいですよ」彼女の声ははっきりと落ち着いていて、色々なことを乗り越えてきた人のように、澄んでいて確信に満ちていた。「ありがとうございます。この間、何もかもを捧げるようにそばにいてくれて、私を尊重してくれて……あなたのおかげで、私はまだ大切にされ、深く愛される価値がある人間なんだって思えました。そして自分の気持ちもはっきり分かりました」夏美は少し言葉を切り、さらに柔らかく、でも力強い口調で続けた。「いつからかは分かりません。黙って私のために何でも用意してくれた時かもしれないし、辛抱強く子供につきあってくれた時かもしれません。もしかしたら、たった今、このブローチを持って告白してくれたその瞬間かも……気づいたら、私の心はあなたに惹かれていました。今度こそ
月の綺麗な夜だった。澄んで静かな月の光が、見慣れた小道をそっと照らしていた。弘樹はいつものように、夏美を彼女が住む家の前まで送っていった。頭上の暖かいオレンジ色の街灯が、二人の影を伸び縮みさせ、やがてエントランスの前でくっきりと映し出した。いつもなら、弘樹はここで「おやすみ」と優しく声をかける。そして夏美がエントランスに入るのを見届けてから、背を向けて去っていくはずだった。でも今夜、彼のすらりとした体は、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。二歩ほど歩いた夏美は、背後の静けさに気づき、不思議そうに振り返った。ぼんやりとした光の中、弘樹が静かに立っているのが見えた。いつもは落ち着き払っている彼の表情に、今は隠しきれない緊張の色が浮かんでいた。弘樹は無意識に指をきゅっと握りしめる。そして彼女と視線が合うと、何かを決心したような顔つきになった。「夏美」弘樹の声は、いつもより少し低く掠れていた。静かな夜の中で、その声はひときわはっきりと響いた。彼は一歩前に出ると、スーツのジャケットの内ポケットから、深青色のベルベットの箱をそっと取り出した。その箱はとても小さく、弘樹の大きな手のひらの上で、ひときわ精巧に見えた。箱がそっと開けられると、中には黒いビロードが敷かれていた。その上に、とてもユニークなデザインのブローチが置かれていた。それは、ただの宝飾品ではなかった。夏美は一目見て分かった。それは彼女が最近発表して、学会で大きな注目を集めた論文の中核にあった、あの重要なアルゴリズムの構造図が芸術的に表現されたものだったのだ。そして、その理知的で冷たい金属のラインの間には、完璧なカットが施された無数のサファイアが、繊細にちりばめられていた。弘樹は、夏美の顔から片時も目を離さなかった。彼女の表情のどんな小さな変化も見逃すまいとしながら、自分自身の耳は、抑えきれずにほんのりと赤くなっていた。彼は少しこわばった喉を、こほんと咳払いして、ゆっくりと口を開いた。「分かっているんだ……」弘樹の声はとても小さかった。この静かな夜を、そして夏美を驚かせないように、そうしているかのようだった。「君は今、まだ新しい恋愛を始める準備ができていないかもしれない。やらなきゃいけないこともたくさんあるだろう。研究も、子どものことも。それ
息が詰まるような裁判を終えた夏美は、翔を連れて海外に戻り、静かで日当たりの良い新居で暮らし始めた。ここには克哉の影も、杏奈の悪意もない。ただ親子のための、穏やかな空間だけが広がっていた。夏美は翔の療育にほとんどの時間を費やしながらも、自身の研究を続けることも忘れなかった。彼女は最新の脳科学とAIの技術を応用して、翔に合わせた、ゆるやかで継続的な治療プログラムを開発した。一度は壊されたAIロボットも、夏美が念入りに改良を重ねたことで、翔の最高の「相棒」になった。そのロボットは、センサーで翔の細かな感情の波や体のサインを読み取り、彼が好きな心地よい音楽を流したり、優しい光の変化でコミュニケーションをとったりする。簡単な知育トレーニングだってできるのだ。忍耐強い愛情と科学技術が合わさり、奇跡は静かに起こった。翔のこわばっていた体は次第に力が抜け、叫んだり泣きわめいたりする回数も明らかに減っていった。彼は夏美と、前より長く目を合わせられるようになった。たまに、ほんの少しだけ口角が上がることもあった。夏美が思わず涙ぐんだのは、ある晴れた日の午後のこと。翔がロボットをいじっていたかと思うと、不意に顔を上げて彼女を見つめ、はっきりとこう呼んだのだ。「ママ」それはもう意味のない音の羅列ではなかった。はっきりと、甘えるような響きを帯びた呼び声だった。夏美の涙腺は一瞬で崩壊し、彼女は翔を力いっぱい抱きしめた。小さな体から伝わる温もりと信頼を感じ、これまでの苦労も葛藤も、すべてこの瞬間のためにあったのだと心から思った。翔の状態がどんどん良くなるにつれて、簡単なコミュニケーションもとれるようになってきた。ある日、夏美が見せた古い写真を見ていた翔が、不意に小さな眉をひそめた。そして、写真を指さしながら、途切れ途切れにこう言ったのだ。「あめ……いっぱい……あまい……くらくら……」写真に写る杏奈を見て、夏美の心臓がどくんと重く沈んだ。彼女が根気強く何度も問いかけ、翔のつたない言葉と身振りを組み合わせた結果、胸が張り裂け、怒りに震えるような真相が明らかになった。杏奈は母子の仲を引き裂くために、なんと幼い翔にこっそりと大量のお菓子やジュースを何度も与えていたのだ。そのせいで翔の血糖値は不安定になり、感情や行動のコントロー
世紀の難問を解いたことで得た名声と賞金を元手に、夏美はすぐに自分の研究チームを立ち上げた。彼女は、脳科学とコンピューター科学が交差する分野の研究に全力を注いだ。特に、自閉症の子どもに向けたAI療育の分野では、母親としての思いと、研究者としての鋭い視点をつぎこんだのだ。進捗は予想以上だった。半年も経たないうちに、夏美のチームは画期的な論文を発表した。トップクラスの学術誌に掲載されると、すぐに世界中の学会から大きな注目を集めた。かつて克哉に「ガラクタ」と罵られ、杏奈によって夢ごと壊されたあの試作品は、彼女の手でより洗練されたかたちで再構築された。そして、驚くべき応用の可能性を示したのだ。夏美はもう、誰かに寄りかかる女でもなければ、同情されるべき被害者でもない。彼女は彼女自身。工学界に現れた、誰もが注目する期待の星なのだ。同じ頃、国内では、夏美と克哉との子どもの親権をめぐる裁判が、世間の注目を集める中でついに始まった。法廷は、厳かな空気に包まれていた。夏美が、きっちりとしたスーツを着て、落ち着いた表情と澄んだ瞳で入ってきたとき、そこにいたほとんどの人が息を飲んだ。彼女の姿からは、かつての弱々しさや悲しみはすっかり消えていた。そこには、試練を乗り越えた強さと、落ち着きだけがあった。一方、向かいの被告席に座る克哉は、必死に平静を装っていた。しかし、目の下のクマや少し丸まった背中、そして瞳の奥に隠しきれない疲労と落ちぶれた様子が、彼の今の状況を物語っていた。克哉の会社が倒産し、評判が地に落ちたことは、今や誰もが知っている。何もかも失ったと言っていい。裁判官に親権を求める理由を述べるよう促されたとき、夏美は少しもためらわなかった。そして、何の感情も見せなかった。まるで他人の物語を語るかのように、淡々とした口調だった。そして克哉が自分にしてきたことを、一つひとつ、筋道立てて証言した。克哉が、彼女に黙って離婚を成立させるため、裏でどんな準備を進めていたのかを語った。別の女のために、彼女をどんなに冷たく扱い、価値を否定したのかを語った。彼女が心血を注いで書いた技術報告書を、彼が紙くずのように扱い、足で踏みつけたことにも触れた。彼が、杏奈がAI技術で偽の動画を作るのを黙認し、さらには手助けまでしたこと。そして