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そして昨日、銀杏は落ちた

そして昨日、銀杏は落ちた

Por:  よつば日和Completado
Idioma: Japanese
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この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。 かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。 彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。 夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。 そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。 夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。 夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。 息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。 彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しの嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。 そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……

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Capítulo 1

第1話

この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。

かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。

彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。

夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。

そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。

夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。

夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。

息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。

彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しでも嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。

そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……

……

扉を開けた瞬間、背筋が凍るような寒気がした。

狭い部屋の壁一面に、同じ女の人の写真がびっしりと貼られていた。

少女時代から、今の落ちぶれた姿まで。パソコンのディスプレイまでもが、彼女の寝顔だった。

それは、松田杏奈(まつだ あんな)だった。

大学時代はミスキャンパスに選ばれたほどの美女。でも今は、悪い噂が絶えない落ちぶれた女優だ。

克哉が作ったこの地下室に、こんな狂気じみた想いが隠されていたなんて。

夏美は、必死に平静を装って、奥歯をぐっと噛みしめた。

心臓が自分の意思とは関係なく激しく脈打ち、恐怖が蔦のように体を締め付けてくる。

突然スマホが震えた。セレブ妻のグループラインで、友人の今井静香(いまい しずか)から立て続けに動画が送られてきた。

「夏美、あなたのご主人が岩崎さんの結婚式で……とにかく、これを見て」

岩崎雄太(いわさき ゆうた)、あの有名な芸能プロダクションの社長よね?

なぜ克哉は自分を連れて行ってくれなかったんだろう。そう考える間もなく、夏美は心臓が止まるような思いで動画を再生した。

そこには、結婚式場に乱入する杏奈の姿。手には真っ赤なペンキの入ったバケツを提げている。

招待客が悲鳴をあげる中、彼女は新郎新婦に向かって思い切りペンキをぶちまけた。

「ご結婚おめでとう!岩崎社長!」

雄太は顔にかかった赤いペンキを拭い、狂ったように笑う女を鋭い目つきで睨みつけた。

ボディーガードが駆け寄ってきて、杏奈を乱暴に取り押さえる。彼女はよろめき、地面に膝をつきそうになった。

「やめろ!」

克哉が駆け寄り、ボディーガードを突き飛ばすと、みすぼらしい姿の杏奈を背後にかばった。

そして、自分のスーツの上着を脱いで、震える彼女の肩にかけてやった。

雄太は信じられないという目で見ていたが、相手が相手だけに、強くは出られないようだった。

「工藤社長?一体どういうおつもりですか?」

静まり返った会場で、克哉は端正な顔に迷いの色一つ見せず、はっきりとした声で言った。

「松田さんは、うちが新しく契約したタレントで、俺は彼女の雇い主です」

会場は騒然となった。

杏奈といえば、実家が没落し、雄太に婚約を破棄されてからは素行も悪くなった。悪い噂が絶えず、業界では誰も手を出したがらない厄介者だというのは、周知の事実だったからだ。

雄太は鼻で笑った。

「工藤社長も人がいいですね。あんなガラクタを拾って、工藤グループの看板に傷がつくとは思いませんか?」

克哉はメガネの位置を直すと、少し顔を上げて、傲慢な態度で相手を見た。

「彼女の価値は、俺が決めます。

岩崎社長がご信用なさらないのでしたら、ここで一つ、賭けをしませんか?

一年以内に、松田さんをトップスターにしてみせます。もしできなければ、工藤グループの全株式をお譲りします」

彼はその場で契約書を作らせ、それにサインすると、呆然とする人々を後に、杏奈の肩を抱いて去っていった。

動画はそこで終わっていた。静香から送られてきたボイスメッセージは、からかうような口調だった。

「夏美、ご主人のかばい方は、ちょっとやりすぎじゃない?あの松田って女、気をつけた方がいいわよ!」

夏美はただ、画面の中で克哉が杏奈に向ける眼差しを、じっと見つめていた。

その眼差しには、ひたむきで痛ましいほどの愛情が宿っていた。それは、彼女が今まで見たこともないほど強いものだった。

夏美の心は、ずしりと重くなった。

疑念と絶望が入り混じった感情が胸に込み上げ、息が完全にできなくなった。

夏美は狂ったように目の前のパソコンのロックを解除しようと、震える指で杏奈の誕生日を入力した。

すると、画面が明るくなった。

目に飛び込んできた一文を読んで、夏美の頬を涙が伝った。

【もし卒業式のあの日、俺が行っていたら、俺たちの結末は違っていたんだろうか】

この言葉が、自分に向けられたものではないことくらい、すぐに分かった。

過去の記憶が、痛みと共に一気によみがえってきた。

あの頃、夏美と克哉は、情報科学科で最も注目を集める二人の天才だった。

克哉は才能にあふれ、すらりとしていて、夏美は派手さはないものの、優しく知的で、物静かな雰囲気を持っていた。

二人はいつも図書館で肩を並べて勉強していた。克哉が席を取っておいてくれれば、夏美はプログラミングに夢中な彼の手元に、そっと温かい牛乳を置いた。

クラスのみんなはとっくに二人をカップルだと思っていて、いつも冷やかされていた。

グループ課題ではいつも克哉がリーダーだった。コーディングで行き詰まると、彼はさりげなく身を乗り出して夏美の手に重ねてマウスを握った。そのとき、温かい息が耳元をくすぐった。

「ここは、こうすればもっと良くなる」

ある日の学園祭で、きらびやかな杏奈がステージに登場した。まるで輝く星のようだった。

夏美はステージを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。

「家柄も良くて、綺麗で、彼氏は芸能プロダクションの社長だっていうし、卒業を待たずにデビューも決まってるなんて……あんな子、まるで高嶺の花みたい。誰もが手に入れたいって思うよね」

でも、杏奈が甘いラブソング『ソフトスウィート』を歌い、会場中が彼女に熱狂している、まさにその時だった。

隣にいた克哉が、そっと夏美の手を握ったのだ。

彼の目つきは澄んでいて、確かな意志を宿していた。

「高嶺の花なんて、手が届かないよ。

だから、俺は花が欲しいなんて思わない。俺が欲しいのは、お前だけだ」

その瞬間、夏美の心は完全に克哉に奪われた。

それから二人は、大学で誰もが羨むカップルになった。

二人揃って特待生に選ばれ、数々のコンテストでは息の合ったコンビネーションで、たくさんのトロフィーを手にした。

誰もが、二人は知性も感性もぴったりで、未来が明るいと言っていた。

卒業式では、優秀な学生の代表として二人並んでスピーチをし、希望に満ち溢れていた。

幸せで胸がいっぱいだった夏美は、式の後、克哉を実家に連れて行って両親に紹介するつもりでいた。

しかし、式が終わり、人々が会場を後にしていく中で、彼のスマホの画面が光った。

なんと、杏奈からのメッセージだった。彼女が開くプライベートな卒業パーティーへの招待状だ。

それを見た夏美は、一瞬きょとんとしたが、すぐににっこり笑ってみせた。

「まさか、松田さんからお誘いが来るなんて!せっかくだから、うちの大学の有名人に会いに行ってきたら?」

克哉は画面を見つめたまま、一瞬、指先の動きが止まった。

ほんの2秒にも満たない間。でも、幸せの絶頂にいた当時の夏美にとって、それは気にも留まらないようなことだった。

結局、克哉は画面を消すと、彼女に優しく微笑んだ。

「バカなこと言うなよ。俺と彼女に接点なんてないんだから、きっと間違いだよ。

それより、今はお前のお母さんに会うことの方が大事だ」

その時は、彼が迷いなく自分を選んでくれたのだと信じていた。

二人はすぐに結婚し、愛情に満ちた、幸せなものだった。

夏美は、自分が克哉の唯一の、そして最愛の人なのだと、心の底から信じていた。

この薄暗い地下室を見つけるまでは。動画の中で、彼が杏奈に向けていた、あの熱い眼差しを見るまでは。

夏美は、痛みと共に、はっと現実に引き戻された。

卒業式のあの日、克哉が行かなかったパーティー。それは、彼が口にしたように、決して軽い気持ちで断ったものではなかったのだ。

あれは、心の奥底に深くしまい込まれた、未練と執着だったのだ。

じゃあ、自分は一体何だったの?

本命が手に入らなかったから、代わりに選んだ妥協の産物?

克哉が本当に愛する人と結ばれるのを阻む存在、邪魔者なの?

どうやって重い足を引きずって、克哉のあの「秘密基地」から出てきたのか、覚えていない。

頭が混乱していたが、玄関のドアが開く音で、はっと我に返った。
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第1話
この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しでも嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは…………扉を開けた瞬間、背筋が凍るような寒気がした。狭い部屋の壁一面に、同じ女の人の写真がびっしりと貼られていた。少女時代から、今の落ちぶれた姿まで。パソコンのディスプレイまでもが、彼女の寝顔だった。それは、松田杏奈(まつだ あんな)だった。大学時代はミスキャンパスに選ばれたほどの美女。でも今は、悪い噂が絶えない落ちぶれた女優だ。克哉が作ったこの地下室に、こんな狂気じみた想いが隠されていたなんて。夏美は、必死に平静を装って、奥歯をぐっと噛みしめた。心臓が自分の意思とは関係なく激しく脈打ち、恐怖が蔦のように体を締め付けてくる。突然スマホが震えた。セレブ妻のグループラインで、友人の今井静香(いまい しずか)から立て続けに動画が送られてきた。「夏美、あなたのご主人が岩崎さんの結婚式で……とにかく、これを見て」岩崎雄太(いわさき ゆうた)、あの有名な芸能プロダク
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第2話
克哉は、夜の冷たい空気をまとったまま帰ってきた。高価そうなそのジャケットは、別の女の肩にかけられていた。克哉は夏美を一瞥だにせず、慣れた手つきでネクタイを緩めると、何気なく彼女に手渡した。いつもの、ごくありふれた日常の一コマのように。「彼女は松田杏奈。知ってるだろ、大学の同級生だ。うちが契約したタレントでもある」説明する気などなさそうな、平坦な口調だった。この女のために出しゃばって、法外な条件の契約を結んだ。そんな馬鹿げたことなど、まるで無かったかのようだった。言い終わると克哉は、夏美の目の前で、目を真っ赤にして泣いている杏奈の前に跪いた。かつて夏美の指に結婚指輪をはめてくれたその手で、今は別の女に優しくスリッパを履かせている。「山下さん、この子を洗面所へ。クローゼットに着替えを用意してある」夏美は、家政婦の山下に連れられていく杏奈の後ろ姿を見つめていた。喉が詰まり、何か問い詰めようとしたその時、ふと克哉に手を握られた。「夏美……」彼はまた、夏美にとって見慣れた優しい顔つきに戻っていた。「お前はこの間、仕事に復帰したいって言ってただろ?ちょうど杏奈と契約したことで、うちも芸能界に進出できる。お前たちは同級生で杏奈のことも分かるだろうし、しばらく彼女のアシスタントをやってくれ」夏美は信じられないというように、目を大きく見開いた。「なんて?私の専門はコンピューターよ!それに……」しかし、夏美が言い終わる前に、克哉は手を振って話を遮った。そして、杏奈が去った方へ視線を向けた。その声は、有無を言わせぬ迫力があった。「いいか。これはもう決まったことだ」去っていく克哉の後ろ姿を見て、夏美はまるで深い穴に突き落とされたような衝撃を受けた。翔の容体が安定し、やっと仕事への情熱を取り戻したところだった。翔の未来のため、脳科学とコンピューターの融合分野を研究しようとさえ考えていた。ずっとお願いして、やっと克哉に認めてもらえたばかりだった。それなのに、今はたった一人の評判の悪い女のために、長年積み重ねてきた専門知識も、自分の夢も、こんなにあっさりと否定されてしまうなんて!夏美は血の味が滲むほど強く下唇を噛みしめ、どうにか涙を堪えた。彼女は寝室に駆け戻ると、何日も徹夜して書き上げた二冊の技術
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第3話
その夜、夏美はなかなか寝つけず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。克哉がどこに行ったのか。彼女は気にならなかったし、もう気にしたくもなかった。翌朝早く、夏美は翔の甲高い泣き声で目を覚ました。夏美は急いで子供部屋に駆け込んだ。すると、人見知りのはずの翔が、杏奈の服の裾をぎゅっと握りしめて、たどたどしく一言を発していた。「マ……マ……」夏美は全身の血が凍りつくのを感じた。まさか翔が初めて呼ぶ「ママ」が、他の女だなんて。杏奈は翔を抱き上げると、隣にいる克哉を振り返った。三人の姿は、まるで本当の家族のようだった。ドアの前に青ざめた顔で立ち尽くす夏美を見ても、克哉は顔色一つ変えず、当たり前のように言った。「杏奈が今日、パーティーのドレスを選びに行くから、お前も付き合ってやれ。ああいう場所は、一人じゃ心細いだろうからな」夏美の心は、ナイフで抉られるように痛んだ。もう何年も一緒にいるのに、彼は一度だって、自分を大事な場に連れて行ってくれたことがなかった。問い詰めても、「お前はああいう場には向いてない」と言われるだけで、結局うやむやにされてきた。夏美はぎゅっと指先を握りしめた。「わかったわ」彼女は俯いて、すべての感情を押し殺した。月末まで、あとたったの2週間。ここから完全に逃げ出すまで、耐えなければならない。海外で生活が落ち着いたら、この男に離婚を切り出そう。翔のことは……夏美は苦しげに目を閉じた。自閉症の子供を連れて逃げるなんて、現実的じゃない。まずは一人でここを出て、それから方法を考えるしかない。高級ブティックへ向かう途中、杏奈は親しげに夏美の腕に絡みついてきた。「夏希さん、これからあなたは私のアシスタントなのね。仲良くしようね!本当に感謝してるの。克哉も私も、大学時代のあなたがどれだけ優秀だったか、ちゃんと覚えてるわ」彼女はにこりと甘く笑った。「安心して。私が必ず、克哉の社運を賭けた契約を成功させてみせるから。絶対に彼をがっかりさせたりしないわ!」自分の名前すらまともに呼ばない杏奈を見ても、夏美の心はもう何も感じなかった。そんなことは、もうどうでもよかった。社運を賭けた契約がどうなろうと、彼女には関係のないことだ。店に入ると、店員はみんな杏奈を取り囲み、誰もその
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第4話
その夜のパーティーで、克哉はめずらしく楽しそうに談笑していた。いつもはクールでとっつきにくい彼が、今夜はまるで別人のようだった。会場の客たちは克哉と杏奈を取り囲み、次々とお世辞を口にした。「工藤社長と松田さんは、本当にお似合いのカップルですね」克哉が既婚者であることなど、誰も覚えてはいなかった。公の場に姿を現したことのない妻の存在は、すっかり忘れ去られているようだった。克哉の隣にいるのが、最近悪い噂の絶えない杏奈だと気づくと、人々は一瞬驚いた。でも克哉の芸能所に所属していると知ると、すぐに、もっと熱烈な賛辞を送り始めた。克哉は笑みを浮かべていた。彼は杏奈が、かつて自分を門前払いした財界の大物たちの間を巧みに渡り歩く姿を目で追い、満足げな表情を浮かべた。帰りの車で、克哉は杏奈に言った。「今夜はご苦労だったな」杏奈は優しく微笑み、彼の袖口を指先でなぞるかのように触れた。「克哉、こんなの当然でしょ。私の評価が上がった方が、会社にとってもいいに決まってるよ」彼女の言葉を聞いて、克哉は何かを考えているようだった。家に帰ると、彼はゲストルームに入ってきた。そして夏美の隣に横になり、彼女の腰を抱いた。夏美の体が震えているのを感じて、克哉は彼女が眠っていないと分かった。それから、ようやく口を開いた。「夏美……」夏美は黙っていた。すると、彼のくぐもった声がまた聞こえてきた。「杏奈に優しくしているのは、会社のためなんだ。彼女の評判が悪すぎて会社のイメージまで下がるから、一つ方法を考えた。世間は悪役を求めている。だから、俺は架空のマネージャーをでっちあげようと思う。長年、杏奈を脅して搾取してきたってことにして、彼女のこれまでの失態は全部そいつのせいにするんだ。そうすれば、杏奈は勇敢に立ち向かった被害者になれるだろ……」克哉は一瞬言葉を止めると、何でもないことのように、最も残酷な言葉を口にした。「お前が、その役を演じてくれないか?」夏美は完全に呆然とした。自分が何を聞いたのか、信じられなかった。彼女はベッドから起き上がった。目の前にいる、よく知っているはずなのに見知らぬ男に感じる夫を見て、震えながら一言ずつ、言葉を絞り出した。「克哉、自分が何を言ってるかわかってるの?私がそんなこと、同意するわけない
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第5話
翔の甲高い泣き声が部屋に響き渡った。夏美は赤くなった自分の手のひらを見つめ、思わず胸が締め付けられた。彼女が翔を抱き上げようと屈んだ、その時だった。背後から、ねっとりと甘いのに、氷のように冷たい声が聞こえてきた。「あら、良妻賢母を気取ってたあなたも、誰も見ていないと化けの皮が剥がれるのね」杏奈が、ハイヒールを鳴らして優雅に部屋に入ってきた。揺れるスカートの裾が、彼女の存在をことさらにアピールしているかのようだ。泣いていた翔は、思わず杏奈に小さな手を伸ばした。しかし彼女は、まるで邪魔者を払うかのように、翔を足で軽く横に押しのけた。「ねえ、夏美さん。こんな子はさっさと特別支援学校にでも入れたらどう?本当に邪魔よ」その言葉を聞いた瞬間、夏美の目つきが鋭くなった。彼女は、さらに激しく泣きじゃくる翔を家政婦の山下に預けると、杏奈に向かって怒鳴りつけた。「この家も私の息子も、あなたに口出しする権利はないわ!」杏奈は、怒りに燃える夏美の顔を見て、逆に声をあげて笑った。「口出し、だって?あなたなんてもう、とっくにこの家の女主人じゃないのに。一体何様のつもり?」夏美は、ぽかんとした。杏奈は書斎から箱を取り出すと、その中身を彼女の足元に投げつけた。「夏美さん、これをよく見て」杏奈の声は相変わらず甘ったるかったが、その裏には明らかな悪意が潜んでいた。「克哉はあなたが面倒なことになるのを心配して、とっくに手続きを済ませてくれていたのよ」それは、一枚の離婚届受理証明書だった。夏美は、息が止まった。驚きのあまり、瞳孔が収縮するのが自分でもわかった。震える手でそれを拾い上げ、中を開いた。そこには、彼女の名前や個人情報がはっきりと記載されていた。そして、日付はなんと3年前。ちょうど母親が事故で亡くなった直後の日付だった。まさか……自分がまったく知らないうちに、克哉が署名を偽造して一方的にすべてを操っていたというの?「ありえない……」夏美はそう呟いた。全身の血が、一瞬で凍りつくような感覚だった。「あら、ありえないことなんてないでしょ?」杏奈はクスッと笑い、夏美の絶望に歪む表情をうっとりと眺めた。「克哉によると、あの頃は会社が危なくて、あなたに迷惑をかけたくなかったんだって。でも、その問題はすぐに解決し
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第6話
夏美は狂ったように家を飛び出し、克哉の会社へと向かった。受付の制止も、周りからの奇異な視線も気にせず、彼女は社長室へまっすぐ乗り込んだ。夏美が乗り込んでくるのを見ると、克哉はスマホを置き、不愉快そうに眉をひそめた。彼の周りの空気は一変し、凍てついたようなオーラを放ち始めた。「克哉!あなたは……」しかし、問い詰める言葉はどれも出てこなかった。こみ上げてくる思いに喉が詰まって、声にならない。対照的に、克哉はぞっとするほど落ち着き払って、夏美の言葉を冷たく遮った。「夏美、母親失格だな。なぜ翔に手をあげたんだ?」克哉はスマホを夏美の前に突きつけた。画面には、彼女が翔を叩いた、まさにその瞬間が映し出されていた。夏美ははっと顔を上げた。彼に先手を打たれるなんて、信じられなかった。「気になるのはそれだけ?あの女が翔に何をしたか知ってるの?あの子の前で『邪魔』と言い放って、伸ばしてきた手を払いのけたのよ!」「もういい」克哉の視線は、まるで刃物のように鋭かった。「夏美、自分の姿を鏡で見てみろ。杏奈はいつもあの子に優しく接してくれていたじゃないか。そんなことを言うはずがないだろう?」「私のことより、あの女を信じるの?私たち、何年も一緒にいるのに。私がいつ……」夏美の声は、絶望のあまり震えていた。克哉は彼女をじっと見つめ、ふいに声のトーンを和らげた。「長年一緒にいたからこそ……最近のお前の調子が、どれだけ悪いか誰よりも分かるんだ」彼は突然、夏美の手を握り、わざとらしく心配するような口調で言った。「翔に診断が下りてから、お前はずっと不安でいっぱいだった。その気持ちは、俺にも分かる」夏美は克哉の腕を激しく振り払った。「私の調子が悪い?克哉、一体何が言いたいの?」克哉はため息をつくと、引き出しから一枚の書類を取り出し、そっと彼女の前に差し出した。「これは、お前が去年、精神科で診てもらった時の診断記録だ。先生ははっきりと、静養が必要で刺激を与えてはいけないと書いている」夏美はその場で完全に凍りついた。見覚えのあるカルテを前に、彼女の体は激しく震え始める。「あれはただの、産後うつの経過観察で……」克哉は立ち上がって彼女に詰め寄り、声のトーンをさらに下げた。「じゃあ、ここ最近のおかしな行動はどう説
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第7話
冷たい針が肌を突き刺し、得体のしれない薬が体の中へと流し込まれていく。夏美はカビ臭い部屋に乱暴に放り込まれ、後ろで鉄の扉がガチャン、と音を立てて固く閉ざされた。ここは、まさにこの世の地獄だ。「治療」と称して行われるのは、体じゅうが痙攣するほどの電気ショックだった。電気ショックの後には、さらに数え切れないほどの薬が待っていた。夏美が抵抗しようものなら、大勢の人に取り押さえられ、無理やり薬を飲まされるのだ。それどころか、看護師の誰かしらが、なんの理由もなく彼女を殴ったり蹴ったりすることもあった。夏美は冷たいコンクリートの床で体を丸めていた。逃れようともがき続けたせいで爪は剥がれ、滲んだ血が床のほこりと混じって、どす黒くこびりついている。彼女に唯一許された自由時間は、談話室での30分だけだった。そこには、壁に掛けられた古いテレビが一台ある。その日、テレビ画面に映し出されたのは、杏奈の健気で、それでいて芯の強さを感じさせる顔だった。映っていたのは、世間の注目を集めるIT技術の授賞式だった。杏奈は優雅なドレスを身にまとい、スポットライトを浴びていた。そして、プレゼンターから「年間最優秀新人技術者賞」のトロフィーを受け取っているところだった。司会者が大げさな口調で彼女を紹介する。「松田さんは、女優として活躍する一方で、実は天才的な技術者でもあります!学生時代には国の重要な研究にも参加し、特待生として学んでいました。そして今、自閉症の子供をサポートするAI開発で、画期的な進歩を遂げたのです……」その瞬間、夏美の全身の血が凍りつくようだった。画面には、杏奈の功績をまとめた映像が流れ始めた。そこに映し出されたコード、アルゴリズムの設計……それらはすべて、かつて夏美が克哉と幾夜も徹夜して乗り越えてきた難題そのものだった。そのすべてが、杏奈の手柄にすり替えられていたのだ。それだけではない。夏美が誇りにしていた大学の卒業制作までもが……あの、彼女と克哉がそろって高い評価を得たAIシステム。その開発者名が、なんと杏奈に変わっていたのだ。カメラが会場の客席を映し出す。来賓席に座る克哉の姿があった。彼は、ステージ上の杏奈をうっとりと見つめ、口元には満足そうな笑みを浮かべている。続いて、記者たちが大学時代の同級生数名に
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第8話
克哉はイライラしてネクタイを緩めた。胸につかえるような、この息苦しさから逃れたかった。「すぐに療養院に連絡しろ!」彼は内線電話のボタンを押した。その声には、自分でも気づかないほどの焦りが滲んでいた。「妻の様子を聞いてこい!どんな些細なことでも構わん!今どうしているのか、全て知りたいんだ!」しばらくして、秘書の西村竜也(にしむら りゅうや)から報告があった。「療養院からの連絡です。彼女は容体も安定し、静養に専念されているため、今は面会も電話も難しいとのことです」「写真か動画を送らせろ!俺が直接、この目で確かめたいんだ!」克哉は、そう即座に命じた。彼には確かめたいことがあった。たとえそれが、ただの一枚の写真でもよかった。すぐに、一枚の写真が送られてきた。写真には、患者着を着た夏美が写っていた。彼女は窓辺に座って本を読んでいて、その横顔は穏やかだった。画質はあまり良くなく、アングルもどこか不自然だった。克哉は画面を見つめ、少し眉をひそめた。確かに夏美本人だ。でも……何かが違う気がしてならなかった。あの目はひどくうつろだった。まるで焦点の合わないガラス玉のようだ。彼の記憶にある、優しくて生き生きとしたあの女の瞳とは、まったく違っていた。克哉はもう迷わなかった。療養院に電話をかけ、院長に直接繋ぐよう要求した。「本当に大丈夫ですか?写真の彼女は、なぜあんなに生気がないんです……」彼は低い声で尋ねた。その口調には、有無を言わせぬ圧があった。相手の声は丁寧だったが、どこか隠しきれない緊張が感じられた。「工藤社長、ご安心ください。患者さんは全て順調です。我々は最新の環境療法を採用しており、絶対的な安静が必要なため、面会や通話はご遠慮いただいております。写真をご覧になった通り、彼女はとても落ち着いています」克哉は無理に疑念をねじ伏せた。もしかしたら……ただの考えすぎかもしれない。夏美には治療が必要だった。だから、一番だと言われる療養院に入れたんだ。問題が起きるはずがない。彼はそう自分に言い聞かせ、心の中でどんどん大きくなる不安をなだめようとした。しかし、その不安はすぐに杏奈が引き起こす問題にかき消されてしまった。杏奈の「天才」というイメージを早く世間に定着させ、会社のPRに繋げるため、克哉は
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第9話
それに比べて、かつての夏美の優秀さと自立心は、今の杏奈のみじめな姿を映し出す鏡のようだった。克哉は疑い始めていた。かつて杏奈に抱いていた執着心だけで全てを賭けたことは、とんでもない間違いだったのかもしれない、と。翌日に開かれた正式な新製品発表会は、完全なる大失敗に終わった。スポットライトの下、杏奈は高価なドレスをまとい、完璧なメイクで息をのむほど美しかった。しかし、その瞳に映るうろたえと空虚さは隠せなかった。彼女は原稿をただ棒読みするだけで、その声には感情がこもっていなかった。少し複雑な専門用語が出てくると言葉に詰まり、気まずそうに微笑むことしかできなかった。会場の観客は最初こそ杏奈の美貌に見とれていたが、言葉に詰まる回数が増えるにつれて、次第にざわつき始めた。それを見て、杏奈はますますうろたえた。製品のデモンストレーションになると、彼女はさらにとんでもない失態を演じた。克哉は杏奈に、新しいアプリのウェブダイレクト機能を実演するように指示した。彼女はデモ用のスマホを手に取り、アドレスバーにURLを入力した。そして……そこで止まってしまった。会場は静まり返り、次の動作を待っていた。杏奈はマイクに向かって、自分では魅力的だと思っているであろう笑顔を浮かべて言った。「はい、URLの入力が終わりました」その瞬間、会場は騒然となり、あちこちから嘲笑が絶え間なく聞こえてきた。司会者が慌てて小声でささやいた。「松田さん、次のページに移動するには『リターンキー』か『移動』ボタンを押す必要があります」杏奈は「あっ」と声を上げ、一瞬うろたえた表情を見せた。それからうつむいて不器用に探した後、ようやく誰でもすぐに見つかるリターンキーを押した。会場は騒然となった。ネットの基本的な操作もできないなんて?これが「天才技術者」で「天才女優」のあるべき姿なのだろうか?ほぼそれと同時に、準備を整えていたゴシップ系のメディアが、杏奈の過去を暴く衝撃的なニュースをネット上に一斉に流し始めた。昔クラブで遊んでいた時の品のない写真。スタッフに辛辣な態度をとっていた時の録音……これまで力ずくで隠蔽されてきたスキャンダルが、一気に表に出て、彼女の取り繕ってきた化けの皮は瞬く間に崩れ去った。ライブ配信のコメント欄やSNSは、完
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第10話
会議室はタバコの煙で充満していた。株主たちの不満の声が、うるさく会議室に響いていた。モニターの株価は下がり続けていて、その数字が克哉の神経をすり減らしていく。技術チームは突然のデータロックを前にして、何もできずにいた。広報部は、杏奈が引き起こした大炎上の対応に追われている。あらゆるものがごちゃ混ぜになり、事態は制御不能な方向へと滑り落ちていく。克哉はズキズキと痛むこめかみをもんだ。いつもなら冷静なはずの頭が、今はぐちゃぐちゃだ。とんでもない考えが、ふと頭をよぎった……もし夏美がいてくれたら、こんなことにはならなかった。彼女がこの発表会を取り仕切ってくれていたら……一度そう思うと、その考えが頭から離れなくなった。夏美なら、専門用語だって完璧に使いこなす。その場の状況に合わせて、誰にでも分かりやすく説明して、聞いている人すべてを納得させられたはずだ。夏美なら、プレゼンでリターンキーを押すなんて、馬鹿げた初歩的なミスは絶対にしない。夏美なら、トラブルが起きても冷静に状況を分析して、一番いい解決策を見つけ出せる。杏奈のように、ただ慌てふためいて笑い物になるなんてことは、絶対にない。……後悔。こんな風に後悔するなんて、今までなかった。その鋭い感情が、自信家だった克哉の心を容赦なくえぐった。自分は、一代で巨大な工藤グループを築き上げた男だ。これまで判断を間違えたことは一度もないし、目標を達成できなかったこともない。後悔なんてするはずがない。後悔なんていう、弱くて何の役にも立たない感情は、自分には無縁だったはずだ。だが今、このめちゃくちゃな状況を前にして、「後悔」という感情が克哉の理性をどんどん蝕んでいく。けたたましい内線のベルが鳴り、彼の混乱した思考は中断された。克哉ははっと我に返った。気づけば、手のひらには爪が食い込み、深い痕がついていた。このままではダメだ。すぐにでも、この状況を立て直さなければならない。克哉は息を深く吸い込み、内線電話のボタンを押した。その声はひどく焦っていた。「今すぐ療養院へ行って、妻を連れ戻してくれ!急いでだ!」それを聞いた竜也は、途端に困ったような妙な顔つきになり、ためらいがちに口を開いた。「社長……ですが、奥さんをお送りした日、あとのことはすべて松田さん
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