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そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。
そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。
Author: 中岡 始

1.初日、ネクタイは曲がっていた

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-24 15:48:40

朝の空は雲ひとつなく、澄み切っていた。四月とは思えないほど冷たい風が、街路樹の葉を静かに揺らしている。通勤ラッシュにはまだ早い時間帯。東京のビジネス街にしては珍しく、人通りがまばらで、交差点の信号機だけが規則的に音を鳴らしていた。

東都商事の本社ビル前に、牧野晴臣はいつものように静かに立っていた。手には資料の詰まった薄いブリーフケース。髪はきちんと整えられ、シャツの襟もスーツの肩も乱れひとつない。革靴の音をさせずに歩くことが身についているのか、アスファルトを歩いていても、彼の存在を先に気づく者は少ない。

この時間に出社するのは、彼を含めても数人。晴臣は一つ深呼吸し、胸ポケットから社員証を取り出して入館ゲートに向かおうとした。だが、ふと足が止まった。

ビルの柱の陰に、人影がひとつ。背の高い男が、コーヒーの紙カップを手にぼんやりと空を見上げている。背広姿ではあるものの、どこか妙に力が抜けている。肩のラインが合っていない。スラックスは少しよれていて、靴も革製ではあるが、くたびれた印象が否めない。何よりも目を引いたのは、首元のネクタイだった。

結び目が片側に寄っている。しかもシャツの第一ボタンが留まっておらず、襟元が開いたままになっている。胸元からは白い肌が覗き、そこだけ妙に生々しい。

晴臣はその男の顔を知らなかった。だが直感的に「関係者だ」と悟った。理由はわからない。ただ、彼の立ち方、所在なさげな表情、そして…何よりもその「違和感」が、どこか自分に近い種類のものだと感じたからだった。

男がこちらに気づき、ゆっくりと振り返る。

「おはようさん。ここ営業二課で合ってる?」

柔らかな関西訛りだった。笑っているが、目元に眠気が残っている。髪はきちんと寝癖がついており、眉間には寝起き特有の皺が寄っている。それでも顔立ちは整っていた。まつ毛が長く、唇の形が妙に艶っぽい。身なりは崩れているのに、なぜかそこだけが整っている。

晴臣は軽く頭を下げた。

「はい。営業二課は五階になります。もしかして、今日から着任される岡田課長…でいらっしゃいますか?」

男は目を丸くし、ああ、と小さく笑った。

「そうそう。やっぱ合ってたんやな。助かったわ。初日から迷いかけてたとこや」

言いながら紙カップを口元に運び、コーヒーをすすった。何の警戒もなく笑うその顔が、まるで朝に弱い大型犬のようで、晴臣は内心で小さくため息をついた。

(終わったな)

それが彼の第一印象だった。少なくとも「新任の課長」という言葉から連想されるような、頼れる上司像とはかけ離れていた。

「ご案内します。セキュリティカードはお持ちですか?」

「ん? あ、ちゃうねん。まだ貰ってへんねん。初出社やし」

「承知しました。ゲストカードを申請しますので、こちらへ」

手際よく案内しながら、晴臣は目を逸らさずに観察を続けていた。岡田の足取りはやや不安定で、カップを持つ手も少し揺れている。だがその視線は明確で、廊下の案内板やフロアの構造を無意識に見ていた。ぼんやりしているように見えて、実際には何も見逃していないのかもしれない。

エレベーターが開き、二人は乗り込む。中は無音。晴臣は操作盤に触れながら、岡田の視線がガラス壁越しの街並みに向いているのを感じていた。

「このビル、思ったより古いなあ。もっとピカピカかと思ってたわ」

「昭和末期に建った本社ビルです。外装は改修済みですが、構造は当時のままです」

「ほう。じゃあ耐震とか大丈夫なん?」

「一昨年、基礎から再工事が入りましたので」

岡田は「さすがやな」と笑った。その笑いは悪意のないものだったが、どこか掴みきれない軽さがあった。晴臣はその空気に身を任せながらも、気持ちの奥底にひとつの疑問を抱えたままだった。

この人は、本当に“できる人”なのだろうか。

五階のフロアが開き、静かな朝のオフィスが広がった。デスクの並び、観葉植物、複合機の音。誰もいないが、それが逆に整然として見えた。

「お席はそちらです。前任のデスクをそのまま使用していただく形になります」

「ああ、助かるわ。えっと…これ、荷物置いてええ?」

「どうぞ。椅子は調整式ですので、高さはお好みで」

晴臣が説明している間、岡田は自分のカップをそっとデスクの端に置いた。持ち手の位置が不安定で、少し傾いていたが、本人は気にも留めない様子だった。

そしてネクタイがまた、微妙に曲がっていた。

シャツの襟から覗く首筋が、日差しの角度で鈍く光っている。汗ではなく、肌の温度のせいだろう。無防備なそれを見て、晴臣は一瞬だけ視線を逸らした。

「ネクタイ、曲がってますよ」

「あ、ほんまや。これなあ、朝、結び直すの忘れてて」

岡田は笑いながら結び目に手をかけたが、うまく直せていない。結び直す指先がもどかしく動き、余計にずれていく。見かねた晴臣は、手を伸ばしてその手を止めた。

「少し失礼します」

岡田が少し驚いたように目を見開き、次の瞬間、静かに身を任せた。晴臣は、指先でゆっくりと結び直した。ネクタイの滑らかな生地が手の中でしっとりと動き、体温がじんわりと指に伝わってくる。

結び目を整えた瞬間、岡田がふっと笑った。

「……あんた、もしかして几帳面なタイプ?」

「人に迷惑がかかるのが嫌いなだけです」

「ほな、これからもよろしく頼んますわ。俺、朝はほんまにアカンからなあ」

晴臣は返事をせず、ただ軽く会釈した。

岡田佑樹。見た目は最低。態度もルーズ。声は柔らかく、言葉は曖昧。だが、まっすぐな目だけは、どこか冗談では済まされないものを持っていた。

初対面のその朝、晴臣は確かに思った。

この人は、きっと厄介だ。

だけどーーなぜか、それでも少しだけ目が離せなかった。

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