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2.課内会議、伝説のはじまり

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-24 15:49:03

会議室の照明は朝の光を跳ね返すように白く、書類の紙面がどこか冷たく光って見えた。九時ぴったり。営業二課のメンバーが椅子を引く音や、マグカップを置く音が微かに混ざり合って、空間にはまだ眠気の残る空気が漂っている。

牧野晴臣は、ホワイトボード側に置かれた自席に資料を並べながら、時計にちらと視線をやった。そのすぐ後、ドアが開いた。

「おはようございます」

三枝部長の声に続いて、柔らかな足音がもう一つ。

岡田佑樹だった。

スーツは相変わらず皺が目立ち、シャツの裾がほんのわずかにはみ出している。髪は朝より幾分マシになっていたが、寝癖は右の側頭部にしっかり残っていた。何より目立っていたのは、彼の手に資料もノートも、何一つなかったことだ。

晴臣の眉が、わずかに動いた。

部長が前に出て、口を開いた。

「今日から営業二課に着任される岡田課長だ。大阪支社からの異動になる。実績も十分、頼りになる課長だよ。みんな、色々教えてもらいなさい」

拍手がまばらに広がる中で、岡田が軽く頭を下げる。

「どうも、岡田です。大阪から来ました。えー、見たまんまのゆるい人間ですが、よろしくお願いします」

その瞬間、場の空気がふっとざわついた。

田島陽介が隣の席でニヤけたまま肘をつき、川嶋紗英はきっちり結んだポニーテールを揺らしながら、明らかに不安げな顔をした。

岡田はその反応にまったく動じる様子もなく、のんびりと席に座った。晴臣の隣だ。椅子の位置を調整することもなく、足を投げ出すように座り、手ぶらのまま、会議が始まるのを待っている。

会議資料の束が一つ足りないことに、晴臣はすぐに気づいた。

岡田の机の上には、何もない。

(まさかとは思ったが…持ってきてない)

晴臣は椅子から静かに立ち、手元に用意していた予備の資料にクリップをかけた。そして、岡田の席の上にそっと置いた。

「こちら、会議資料です。予備もありますので」

岡田は驚いたように目を丸くしたあと、にっこりと笑った。

「おお、助かるわぁ。ほんま晴臣くんおらんかったら終わってたな」

…名前呼び。

会議室の空気が一瞬凍った。

晴臣の唇がぴたりと閉じた。まるで何もなかったように、椅子へと戻る動きは滑らかだったが、その口元には一瞬だけ、かすかに力がこもったように見えた。

その微細な変化を、田島は隣でしっかりと目にしていた。

「牧野主任、名前で呼ばれるの、嫌いだったよなあ…」

ぼそりと呟かれたその言葉は誰にも聞こえなかったが、晴臣の胸には妙な違和感として残った。

「じゃあ、始めようか」

部長がそう言って、会議が始まった。

議題は来期の営業方針についてだった。主要取引先の契約状況と、月ごとの売上計画を照らし合わせながら、各担当のアクションプランを擦り合わせていく。毎月のルーチンではあるが、内容は決して軽くはない。

「今のところ、B社は3月に契約更新の打診があるはずです」

「C社は値上げ交渉が難航してます。代替品の提案も視野に入れてます」

晴臣と田島の報告が続く中、岡田は静かに資料をめくっていた。ゆっくりと、だが確実に目を通しているようだった。指先で紙の端を軽く押さえ、時折、視線だけで表の内容を確認していた。

会議も中盤に差しかかった頃だった。

川嶋が自分の分の報告を終え、部長が締めに入ろうとしたとき、岡田がふと口を開いた。

「ひとつ、ええかな」

全員の視線が一斉に集まった。晴臣も無意識に椅子に背をつけ直す。

岡田は何かを言う前に一呼吸置き、資料のページを一枚めくった。

「D社のフォロー体制、ちょっと気になってんねん。前回の納品トラブル、経緯確認した?」

田島が目をしばたたいた。

「…ああ、それ、確か返品分の納期がずれてて、再発注かけて…」

「せやけど、それでD社の営業、けっこう怒ってたんやろ?」

「まあ…少し不満は口にしてましたけど」

「ほんで対応がメール一本やったら、あかんて。あそこは年齢層高めやから、電話入れな礼儀欠くって思われるで。関西の法人って、そこだけやないんや」

岡田の声はいつも通り、ゆるくて柔らかい。だがその口調には、断定の響きがあった。語尾に力を入れるでもなく、事実だけをすくい上げるように話す。指摘された田島は何も言えず、目を伏せた。

川嶋が視線を向けてきた。晴臣は、その視線の意味を即座に理解した。

(え…ちゃんとしてる…?)

岡田は続けた。

「あとB社な、あそこの担当、ほんまはリースの更新と一緒に倉庫の什器も検討してるで。うちの営業リストにはまだ載ってへんけど、たぶんその話、支社側には行っとる」

「…確認してみます」

晴臣が短く答えた。

岡田は「よろしく」と笑い、再び資料に目を落とした。

晴臣はその横顔を見ながら、妙な感覚を覚えていた。

岡田の言葉は、どれも的確だった。決して上からではなく、事実を事実として指摘し、それを組み立てて問題を見抜いていく。その口ぶりは飄々としていたが、明らかに“場”を読んでいる。

(…できるのか、この人)

予想外だった。

外見も態度も、まともな印象はひとつもない。だがその軽さの下に、計算ではない“確かさ”があった。

「以上、ですか?」

部長が聞いた。

岡田は「はいな」と返事をし、椅子に寄りかかった。

「晴臣くんの予備資料のおかげで助かりました。ほんまありがとう」

また、名前呼びだった。

今度は晴臣の表情に変化はなかった。ただ、視線を一度だけ、岡田の胸元に落とした。ネクタイの結び目が、また少しずれていた。

(さっき直したばかりなのに)

誰にも気づかれないように、晴臣はそっと目を伏せた。そこにあったのは、苛立ちではなかった。違和感でも、怒りでもない。ただ一つ、理解できない感情だった。

なぜ、自分がこの人を“支えてやらないと”と思っているのか。

それを自覚するには、まだ早すぎた。

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