LOGIN会議室の照明は朝の光を跳ね返すように白く、書類の紙面がどこか冷たく光って見えた。九時ぴったり。営業二課のメンバーが椅子を引く音や、マグカップを置く音が微かに混ざり合って、空間にはまだ眠気の残る空気が漂っている。
牧野晴臣は、ホワイトボード側に置かれた自席に資料を並べながら、時計にちらと視線をやった。そのすぐ後、ドアが開いた。
「おはようございます」
三枝部長の声に続いて、柔らかな足音がもう一つ。
岡田佑樹だった。
スーツは相変わらず皺が目立ち、シャツの裾がほんのわずかにはみ出している。髪は朝より幾分マシになっていたが、寝癖は右の側頭部にしっかり残っていた。何より目立っていたのは、彼の手に資料もノートも、何一つなかったことだ。
晴臣の眉が、わずかに動いた。
部長が前に出て、口を開いた。
「今日から営業二課に着任される岡田課長だ。大阪支社からの異動になる。実績も十分、頼りになる課長だよ。みんな、色々教えてもらいなさい」
拍手がまばらに広がる中で、岡田が軽く頭を下げる。
「どうも、岡田です。大阪から来ました。えー、見たまんまのゆるい人間ですが、よろしくお願いします」
その瞬間、場の空気がふっとざわついた。
田島陽介が隣の席でニヤけたまま肘をつき、川嶋紗英はきっちり結んだポニーテールを揺らしながら、明らかに不安げな顔をした。
岡田はその反応にまったく動じる様子もなく、のんびりと席に座った。晴臣の隣だ。椅子の位置を調整することもなく、足を投げ出すように座り、手ぶらのまま、会議が始まるのを待っている。
会議資料の束が一つ足りないことに、晴臣はすぐに気づいた。
岡田の机の上には、何もない。
(まさかとは思ったが…持ってきてない)
晴臣は椅子から静かに立ち、手元に用意していた予備の資料にクリップをかけた。そして、岡田の席の上にそっと置いた。
「こちら、会議資料です。予備もありますので」
岡田は驚いたように目を丸くしたあと、にっこりと笑った。
「おお、助かるわぁ。ほんま晴臣くんおらんかったら終わってたな」
…名前呼び。
会議室の空気が一瞬凍った。
晴臣の唇がぴたりと閉じた。まるで何もなかったように、椅子へと戻る動きは滑らかだったが、その口元には一瞬だけ、かすかに力がこもったように見えた。
その微細な変化を、田島は隣でしっかりと目にしていた。
「牧野主任、名前で呼ばれるの、嫌いだったよなあ…」
ぼそりと呟かれたその言葉は誰にも聞こえなかったが、晴臣の胸には妙な違和感として残った。
「じゃあ、始めようか」
部長がそう言って、会議が始まった。
議題は来期の営業方針についてだった。主要取引先の契約状況と、月ごとの売上計画を照らし合わせながら、各担当のアクションプランを擦り合わせていく。毎月のルーチンではあるが、内容は決して軽くはない。
「今のところ、B社は3月に契約更新の打診があるはずです」
「C社は値上げ交渉が難航してます。代替品の提案も視野に入れてます」
晴臣と田島の報告が続く中、岡田は静かに資料をめくっていた。ゆっくりと、だが確実に目を通しているようだった。指先で紙の端を軽く押さえ、時折、視線だけで表の内容を確認していた。
会議も中盤に差しかかった頃だった。
川嶋が自分の分の報告を終え、部長が締めに入ろうとしたとき、岡田がふと口を開いた。
「ひとつ、ええかな」
全員の視線が一斉に集まった。晴臣も無意識に椅子に背をつけ直す。
岡田は何かを言う前に一呼吸置き、資料のページを一枚めくった。
「D社のフォロー体制、ちょっと気になってんねん。前回の納品トラブル、経緯確認した?」
田島が目をしばたたいた。
「…ああ、それ、確か返品分の納期がずれてて、再発注かけて…」
「せやけど、それでD社の営業、けっこう怒ってたんやろ?」
「まあ…少し不満は口にしてましたけど」
「ほんで対応がメール一本やったら、あかんて。あそこは年齢層高めやから、電話入れな礼儀欠くって思われるで。関西の法人って、そこだけやないんや」
岡田の声はいつも通り、ゆるくて柔らかい。だがその口調には、断定の響きがあった。語尾に力を入れるでもなく、事実だけをすくい上げるように話す。指摘された田島は何も言えず、目を伏せた。
川嶋が視線を向けてきた。晴臣は、その視線の意味を即座に理解した。
(え…ちゃんとしてる…?)
岡田は続けた。
「あとB社な、あそこの担当、ほんまはリースの更新と一緒に倉庫の什器も検討してるで。うちの営業リストにはまだ載ってへんけど、たぶんその話、支社側には行っとる」
「…確認してみます」
晴臣が短く答えた。岡田は「よろしく」と笑い、再び資料に目を落とした。
晴臣はその横顔を見ながら、妙な感覚を覚えていた。
岡田の言葉は、どれも的確だった。決して上からではなく、事実を事実として指摘し、それを組み立てて問題を見抜いていく。その口ぶりは飄々としていたが、明らかに“場”を読んでいる。
(…できるのか、この人)
予想外だった。
外見も態度も、まともな印象はひとつもない。だがその軽さの下に、計算ではない“確かさ”があった。
「以上、ですか?」
部長が聞いた。
岡田は「はいな」と返事をし、椅子に寄りかかった。
「晴臣くんの予備資料のおかげで助かりました。ほんまありがとう」
また、名前呼びだった。
今度は晴臣の表情に変化はなかった。ただ、視線を一度だけ、岡田の胸元に落とした。ネクタイの結び目が、また少しずれていた。
(さっき直したばかりなのに)
誰にも気づかれないように、晴臣はそっと目を伏せた。そこにあったのは、苛立ちではなかった。違和感でも、怒りでもない。ただ一つ、理解できない感情だった。
なぜ、自分がこの人を“支えてやらないと”と思っているのか。
それを自覚するには、まだ早すぎた。
正午を少し回った頃、営業二課のフロアには昼休み特有のゆるやかな空気が流れていた。いつものように弁当を囲むグループ、食事を終えてスマホを見つめる者、コンビニの袋を提げて戻ってくる者、それぞれが束の間の自由に身を預けている。蛍光灯の白い光の下に、どこか気の抜けた会話と笑い声が響いていた。晴臣は自席でサラダをつつきながら、斜め向かいに目をやった。岡田が、川嶋紗英と話していた。川嶋は入社三年目の営業アシスタントで、明るく、誰にでも分け隔てなく接するタイプだ。けれどその人懐っこさが、たまに必要以上に近く感じられるときがある。特に、相手が岡田である場合には。「ほんまに?課長、それどう見ても自分が悪いですよ〜」川嶋の声はよく通る。笑い混じりに軽く詰め寄るような口調に、岡田が苦笑する。「いやいや、紗英ちゃん、それはちょっと手厳しいわあ」その呼び方に、晴臣の指がピタリと止まった。咀嚼の途中、舌に残ったトマトの酸味が妙に鮮烈に感じられる。箸を持つ手が、ほんの僅かに硬直した。「紗英ちゃん」――岡田の口から出たそれは、あまりにも自然で、悪気のない甘さを含んでいた。だが、耳に入った瞬間に、喉奥に何かが刺さるような感覚を覚えたのはなぜだろう。「やだ、課長、ちゃっかり名前で呼ぶとかずるい〜」「いややなあ。人見知り克服のための努力やがな」「どこが人見知りですか。あれでモテるんですよね〜、うちの課長」それは別の席から投げられた軽口だった。ちょうど今食事を終えたばかりの若手社員が笑いながら言った。「この前、総務の小泉さんも言ってたよ。『岡田課長って絶対ギャップあるよね』って」「ギャップとかあったっけ?」「あるある。見た目ちょっと頼りなさそうなのに、めちゃくちゃ切れるとこ、あれ反則でしょ」笑い声が小さく弾けた。晴臣は作り笑いを浮かべたまま、声を出さずに箸を置いた。胸の奥に、じりじりとした熱が渦巻いている。岡田はと言えば、恥ずかしそうに後頭部をかいている。「そない持ち上
廊下の奥から、うっすらと紙詰まりの警告音が聞こえていた。昼下がりの本社ビル。営業二課のフロアを離れたコピー室は、どこか取り残されたような静けさを湛えていた。晴臣は手にした企画書を提出先に届ける途中、その音に足を止めた。「……」角を曲がった先、コピー機の前で困ったように立ち尽くしている人物がいた。岡田だった。ネクタイは当然のように少し斜めにずれ、シャツの裾が片方だけわずかにズレている。足元にはコンビニのビニール袋。よく見ると、襟元のボタンもどこか浮いている。手にしたマニュアルのような紙を片手でひらひらさせながら、もう一方の指でタッチパネルをあちこち突いている様子が、まるで機械に遊ばれている子どものようだった。「何してるんですか」晴臣が声をかけると、岡田は振り向いた。「あ、主任。えっとな、両面印刷しようとしたら…なんか、裏だけ真っ白で出てきてもうて」「設定、逆ですよ。原稿、上向きに置かないと」「そうなんか?ほな…あ、もう出てきてもうた」言いながら、岡田が手を伸ばした拍子に、シャツの前がふわりと開いた。見えてはいけないほどではないが、ボタンが一つ、ずれていることに晴臣はすぐに気づいた。こういうとき、なぜか目が勝手にそういう場所を捉えてしまう。コピー機の排出口から無音で吐き出される失敗した用紙を岡田が受け取り、肩をすくめる。「すまんな。紙、無駄にしてもうて」「いいですけど。あと…ボタン、ひとつずれてます」「え、どこ?」岡田が視線を下に向ける。その間に晴臣は自然と数歩近づいていた。「ここ。第二ボタンがこっちの穴に入ってる。ちょっといいですか」「え、ああ…うん」言うよりも先に、手が動いた。襟元に指先を滑り込ませ、ずれているボタンを静かに外す。そのまま、正しい穴に通し直す。指が一度、岡田の胸元に触れた。シャツ越しに感じた肌の温度は
月曜の朝は、どこか湿気を孕んでいた。十月も半ばになり、秋の匂いは濃くなってきたはずなのに、東京の空気はまだ汗ばんだ肌にじっとりと張り付くような温度を残している。東都商事の営業二課フロアには、冷房の名残とコーヒーの香りと、キーボードの軽快な打鍵音が交錯していた。週明け特有の張りつめた空気が漂うなか、晴臣はすでにデスクに着いてメールのチェックを終え、会議用の資料に目を通していた。エレベーターの扉が開く音がして、ゆるい足音がフロアに近づいてくる。晴臣は手元の資料を閉じ、気配だけで誰なのかを察する。「おはようさん」岡田佑樹の声だった。相変わらずのんびりとした関西訛り。大して早口でもないのに、言葉の輪郭だけがはっきりと届くその話し方は、フロアに不思議な余白を作っていく。晴臣は顔を上げた。案の定、岡田は今日も寝癖をつけたまま現れた。白いシャツはアイロンが甘く、ネクタイは見事なまでに右に傾いている。「……おはようございます」「ん、おはよ」岡田はそのまま自席に座ると、鞄からぐちゃりとした資料を取り出し、机の上に広げた。椅子の背にジャケットを放り投げるようにかけ、ペンを探して机の中を引っ掻き回す。ペン立てに入っているにもかかわらず。晴臣は無言のまま立ち上がり、会議室に提出する資料を手にした。そのついでのように、岡田の席に近づいていく。岡田が気づくよりも先に、晴臣は手を伸ばした。ネクタイの結び目に指先が触れる。岡田の動きが一瞬、止まる。ごく軽く、人差し指と親指で結び目を整える。その下の細い布がまっすぐになるように撫で下ろすと、晴臣の手の甲に微かな温もりが触れた。岡田の喉が、わずかに動いた。声を出すでもなく、身を引くでもなく、ただそこに立っている。触れた首元の皮膚は思っていたよりも柔らかく、熱を持っていた。香水でも汗でもない、岡田の体温のような匂いが、わずかに指先にまとわりつく。「……」晴臣は何も言わず、手を引いた。
夜に溶けきる寸前の空が、窓の外に広がっていた。十八時少し前の社内。残業申請のない社員たちはすでに引き上げ、オフィスの中には散らばる蛍光灯の光と、ところどころの席に残されたデスクライトだけが灯っていた。コピー機の作動音も、清掃員の足音もなく、東都商事・営業二課は、稀に見る静寂をまとっていた。晴臣は、自席で最後のチェックを終えた書類をデータ化し、USBを外してバッグにしまった。「さて…」声に出すこともなく、そう呟くように息を吐きながら立ち上がる。机の引き出しを静かに閉め、ジャケットを肩にかける。タイムカードを切ろうとフロアを出たそのとき、目の前の廊下の先に岡田の後ろ姿が見えた。その人も、ちょうど帰るところだったらしい。背中のラインが、ネクタイの先まできちんと整っているのが目に留まる。珍しいな、と思った。それだけのことだったはずなのに、なぜか、その後ろ姿に吸い寄せられるように足を進めていた。エレベーター前に立つと、岡田が気配に気づいたように振り返った。「お、主任もお帰り?」「はい、今ちょうど」それだけ言葉を交わすと、また沈黙が落ちた。しんとした廊下に、電子音と共にエレベーターの扉が開く。乗り込んだふたりの間に、会話はなかった。フロア表示がひとつずつ下がっていくたびに、わずかに軋むような機械音が耳に残る。晴臣は、自分でも妙だと思いながら、真正面を見ていた。視線を岡田の横顔に向けないように、まるで意識してそうしていた。なぜだろう。ここ数日、岡田という存在がやけに近い。仕事で関わっているのはもちろんだが、それだけでは片づけられない“密度”が、どこかにある。昨日触れた手の感触が、ふと指先に蘇る。あの温度。言葉にできない沈黙。交わされなかった答え。扉が静かに開いた。一階のロビーは、昼間の賑わいが消えて、ガラス張りの壁から伸びた斜めの夕陽が床に長く差し込んでいた。岡田が先に歩き出し、自動ドアの前で立ち止まる。その横顔に、ちょうど西日の光がかかる。
午後六時を少し過ぎたオフィスには、キーボードを叩く音と、書類を束ねる紙の擦れる音が断続的に響いていた。東都商事・営業二課。定時を過ぎても席に残っている社員はまばらで、誰もがそれぞれのペースで仕事の仕上げに取りかかっている。エアコンの風音がかすかに耳に届く程度の静けさのなか、晴臣はパソコンの画面を睨みながら、手元の資料を一枚めくった。外はすでに陽が落ち、窓の外には夜景が広がっていた。街灯とビルの灯りがガラスに反射し、自分の顔と重なる。斜め後ろの席から、ふと軽口まじりの声が聞こえた。「いやー、岡田課長って、なんだかんだで仕事できるんすね」「わかる。最初見たときは絶対やばいやつやと思ったけど、昨日のクロージングとか、めちゃスムーズやったし」「たぶん、手抜いてるようで要所は押さえてんだよな」こそこそとした声ではあったが、内容は明確だった。晴臣はマウスを持った手を止め、無意識に耳をそちらに傾けた。そのとき、自分の胸の奥が、わずかにきしむような感覚を覚えた。…それ、俺の方が、先に知ってた。そう、誰に向けるでもなく、心の中で呟いた。岡田佑樹は、ずるいほどに「力を隠す」人間だ。何も考えていないような間延びした口調。シャツの襟元がずれていても気にせず、コンビニ袋をぶら下げて現れる。スリッパのまま会議室に入ってくる日もあった。あらゆる“だらしなさ”を隠そうともしないくせに、その裏で、仕事の核心だけはしっかりと握っている。昨日の商談で空気を和らげたのも、今日のプレゼンで要所を押さえたのも、決して偶然ではない。「課長、あの後またB社に連絡入れたみたいっすよ。なんか、納期調整も前向きらしいっす」「え、マジ?やっぱやるじゃん、あの人」笑い声が小さく起きる。晴臣は、それに微笑むことも、苦笑することもなく、ただ背筋を伸ばして席を立った。手元の書類をファイルに挟み、プリンターのある棚へと向かう。歩く先に、岡田の席があるのが視界の隅に入ってきた。岡田は、デスク
昼過ぎの会議室には、静かな冷気が漂っていた。本社九階、使われていないミーティングルーム。壁際に置かれた長机の上にはノートパソコンとプリントアウトされた資料、ミネラルウォーターのボトルが一本だけ転がっている。蛍光灯の白い光が、整然と並んだ文字の上に規則正しく落ちていた。晴臣と岡田は、その一枚のモニターを挟んで、隣り合って座っていた。「ここの数字、最新のデータに差し替えてあります」晴臣は、画面の左下に表示されたグラフの棒を指さした。昨日まとめた収益率の推移に、今朝の更新分が追加されている。岡田はそれを覗き込むように身を乗り出し、頷いた。「うん、ええんちゃうかな。こっちのページとの整合も取れてるし」「……よかったです」会議室の空調が低く唸る音だけが、ふたりの間を満たしていた。資料のチェックは順調で、進行にも滞りはない。だが、そのわりには、空気に不思議な緊張が漂っていた。問題は、距離だった。晴臣の左肩と、岡田の右肩が、あと数センチで触れ合いそうな距離。座面を調整することもできたが、それをするには、なぜか妙な意識が働いた。画面をスクロールしようと、晴臣がマウスに手を伸ばした、そのときだった。「……っ」岡田の指先と、晴臣の手の甲が、わずかに触れた。ほんの一瞬。指の腹が、かすかに沈む感触。熱というより、柔らかさだった。紙をめくるような軽さで、それでいて確かに、相手の温度がそこにあった。音もなく、ふたりは動きを止めた。岡田がマウスを持っていた手をすっと引いた。晴臣はそのまま、触れた手を机の上に残したまま、モニターに視線を戻した。だが、もはや画面の文字は頭に入ってこない。たったそれだけの接触だったのに、手の甲に残った感触は、微かに痺れているようだった。岡田はすぐには何も言わなかった。ややあってから、ぽつりと呟いた。「……なあ、こういうの、苦手なん?」