Masuk玄関の鍵が回る音がしたのは、夜の十二時を過ぎていた。
岡田は半分眠りの底にいたが、金属音のわずかな響きに、反射的に目を覚ました。寝室のカーテンの隙間から漏れる街灯の光が、天井にぼんやりとした線を描いている。その下で、時計の針が静かに進む音だけが、時間の遅れを告げていた。リビングの方から、スーツの布が擦れる音、鞄を置く鈍い音、冷蔵庫を開ける小さな音が重なって聞こえた。
いつもなら、気づかないふりをしてそのまま眠りに戻る。けれど今夜は、どうしてもまぶたが閉じなかった。岡田は枕元の眼鏡をかけ、ゆっくりと体を起こした。
足裏が床に触れた瞬間、ひやりとした冷気が肌を撫でた。リビングへ向かう途中、扉の隙間から光が漏れている。その光がやけに遠く見えた。キッチンに立つ晴臣の背中が見えた。
スーツのまま、冷蔵庫を開けて中を覗いている。テーブルの上には、ラップをかけたままの夕食。その横に、保温ポットとマグカップ。どれも、岡田が数時間前に並べたままの状態だった。「……遅かったな」
声をかけると、晴臣の肩がかすかに揺れた。
振り返った顔には、驚きというよりも疲労の色が滲んでいる。ネクタイをゆるめた指先が、どこか不器用に見えた。「起こしてしまいましたか」
「いや、音がしただけや。……飯、食う?」
晴臣は少しだけ視線を落とした。
テーブルの上のラップ越しに見える、冷えた味噌汁と焼き魚。箸は添えたまま、湯気はとうに消えている。「もう食べました。会社で軽く」
その答えに、岡田の胸の中で何かが小さく軋んだ。
「そうか」
それ以上は言わず、ポットの湯で自分のマグにお茶を注いだ。
お湯がカップの内側を伝って小さな音を立てる。その音が、やけに耳についた。晴臣はコートを脱ぎ、椅子にかけた。
手を洗うためにシンクへ向かう。水が流れる音の夕食を終えた食卓には、空の皿が静かに並んでいた。箸はきちんと箸置きに戻され、湯気の消えた味噌汁の椀だけが、まだ食事の記憶を留めている。晴臣が椅子を引いて立ち上がると、岡田もそれに続いた。「片づけ、手伝おか」岡田がそう言ったのは、何日ぶりだっただろうか。「じゃあ、お願いしてもいいですか」晴臣が素直に受け入れると、岡田は少しだけ頬を緩めた。リビングのソファに身体を沈めていた沈黙の時間とは打って変わり、ふたりは台所で肩を並べる。キッチンシンクの蛇口をひねると、水音が立ち上がり、ステンレスの中で反響した。スポンジの泡立つ音、湯気を含んだ食器がカチャリと鳴る音。テレビの音は小さく、遠くの部屋から漏れてくるだけで、今この台所を支配しているのは生活の音だけだった。「…洗剤、減ってきたかもな」岡田がぽつりと呟いた。「今度買ってきます。メモしときますね」晴臣の声も、いつもより自然だった。こうして会話が交わされることが、ひどく久しぶりに思えた。まるで喉の奥で固まっていた石ころが、ひとつずつ転がり落ちていくように、言葉が少しずつ出てくる。岡田は食器を布巾で拭きながら、晴臣の横顔をちらと見た。無言で手を動かす彼の姿は、いつも通り几帳面で、手の動きに無駄がない。けれど、その横顔には、どこかやわらかさがあった。「なあ、晴臣」「はい?」「この前、怒ってごめんな」手を止めずに、岡田が言った。声は静かで、けれど芯があった。「俺も…ごめんなさい。ちゃんと気づけてなかったです」言葉の合間に流れる時間が、ゆるやかにふたりの呼吸を揃えていく。「怒っても、拗ねてもさ…待っててくれる人って…ずるいくらい、優しいなって思った」そう言った岡田の声は、湯気にまぎれて霞んでいた。まるで、湯の温度に包まれるような、そんな感覚。晴臣は布巾で皿の水気を取りながら、ほんの少し笑ってうなずいた。「優しいっていうか…たぶん、課
帰り道、晴臣はコンビニのビニール袋を右手にぶら下げたまま、ふと足を止めた。夜風が首筋を撫でていく。空は高く、黒に近い|群青《ぐんじょう》。街灯に照らされた歩道の先に、小さな花屋の明かりが残っているのが目に入った。「まだ、やってたんだな」自分でも気づかぬ声が、吐息にまぎれてこぼれる。時計を見れば、二十三時をまわっていた。通常の営業時間はとっくに終わっているはずだが、シャッターの隙間から中の灯りが漏れている。店の奥で片づけをしていた店主が、こちらに気づいて目礼した。晴臣はビニール袋を持ち直して、迷うように一歩を踏み出した。花屋に入るのは、どれくらいぶりだろう。記憶をたどっても、自分のために花を買ったことはほとんどない。プレゼント用に選んだことは何度かあったが、こうして衝動的に、理由もなく足を向けたのは、初めてだったかもしれない。並ぶ花の中で、ひときわ目を引いたのは、白いガーベラだった。ふわりと開いた花弁が、やさしく静かな光を集めている。派手さはないが、見る者の呼吸をそっと整えてくれるような、そんな柔らかさがあった。「一本で、大丈夫ですか?」店主の問いかけに、晴臣は小さく頷いた。「はい、それで」ラッピングされたガーベラは、小さな紙袋にそっと収められた。温もりの代わりに、花の香りが袋の口からふわりと漂った。晴臣は深く頭を下げて店を出る。家までの道は、あいかわらず静かだった。足音だけがアスファルトに響き、ふと気を抜くと、紙袋の中から花の香りが夜気とともに鼻先をくすぐった。理由は聞かれたら、きっと答えに詰まる。ただ、なんとなく、そうしたかった。それだけだった。リビングの明かりはついていた。玄関を開けても、岡田の声は聞こえない。けれど、テレビの音がほんのわずかに漏れている。無言の沈黙ではなく、生活の音があるだけで、晴臣の肩は少しだけ落ち着いた。「ただいま」自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。奥から返ってきた「おかえり」は、眠そうで気の抜けた声だった。ソファに岡田が横になっている。テレビはつけ
夜の帳が落ちる頃、晴臣はようやく帰宅した。靴を脱ぐ音だけが、無人の玄関に控えめに響く。リビングの照明は落とされ、間接照明のやわらかな光が壁の一部だけをほのかに照らしていた。テレビもついていない。岡田の気配はあるのに、その姿は見えなかった。キッチンカウンターに置かれた、ラップのかかった皿。料理は温め直された形跡もなく、盛り付けられたまま、冷めている。味噌汁の鍋にはまだ湯気が残っていた。作られた時間は、そう遠くないのかもしれない。晴臣はそのまま、自分の部屋に向かった。岡田の顔を探すようなこともせず、ましてや「ただいま」と口にすることもなかった。ドア一枚隔てた場所で、岡田はソファに横になっていた。壁越しに聞こえる生活音が、彼の眠りを浅くする。実際にはもう眠ることもできず、ただ目を閉じていたに過ぎなかった。起きてリビングに向かうこともできた。でも、その間にどう声をかけたらいいのか、岡田にはまだわからなかった。あの夜のすれ違い以降、ふたりの間の会話は、必要最低限にまで削られていた。「おはよう」「いってきます」「おかえり」「ありがとう」そのどれもが、機械的な響きを持つようになった。互いを傷つけまいと選んだ言葉のつもりでも、そこに熱や弾みがないぶん、どこか皮膚の上をなぞるだけの温度しか残らない。その翌朝も、晴臣は一足早く家を出た。岡田が目覚めたときには、既にダイニングの椅子が少しだけ引かれたままになっていて、朝食をとった痕跡がそこにあった。カップが一つ、シンクに伏せられている。その脇に置かれた紙ナプキンには、何も書かれていなかった。前までは、手書きのメモが残されている日もあった。今日はそれがない。無言の朝だった。岡田は洗面所で顔を洗い、ベランダのドアを開ける。窓の外は、秋の気配を深く含んだ空気に満ちていた。夏の暑さが残っていた時期は、朝のベランダに出ることも珍しかったのに、今はそのひんやりとした温度が心地よい。冷たい風がシャツの裾を揺らす。岡田はポケットから小さな箱を取り出し、煙草を一本くわえた。ライターで火をつける。たちまち、白い煙が静かに空へと溶けて
玄関の鍵が回る音がしたのは、夜の十二時を過ぎていた。岡田は半分眠りの底にいたが、金属音のわずかな響きに、反射的に目を覚ました。寝室のカーテンの隙間から漏れる街灯の光が、天井にぼんやりとした線を描いている。その下で、時計の針が静かに進む音だけが、時間の遅れを告げていた。リビングの方から、スーツの布が擦れる音、鞄を置く鈍い音、冷蔵庫を開ける小さな音が重なって聞こえた。いつもなら、気づかないふりをしてそのまま眠りに戻る。けれど今夜は、どうしてもまぶたが閉じなかった。岡田は枕元の眼鏡をかけ、ゆっくりと体を起こした。足裏が床に触れた瞬間、ひやりとした冷気が肌を撫でた。リビングへ向かう途中、扉の隙間から光が漏れている。その光がやけに遠く見えた。キッチンに立つ晴臣の背中が見えた。スーツのまま、冷蔵庫を開けて中を覗いている。テーブルの上には、ラップをかけたままの夕食。その横に、保温ポットとマグカップ。どれも、岡田が数時間前に並べたままの状態だった。「……遅かったな」声をかけると、晴臣の肩がかすかに揺れた。振り返った顔には、驚きというよりも疲労の色が滲んでいる。ネクタイをゆるめた指先が、どこか不器用に見えた。「起こしてしまいましたか」「いや、音がしただけや。……飯、食う?」晴臣は少しだけ視線を落とした。テーブルの上のラップ越しに見える、冷えた味噌汁と焼き魚。箸は添えたまま、湯気はとうに消えている。「もう食べました。会社で軽く」その答えに、岡田の胸の中で何かが小さく軋んだ。「そうか」それ以上は言わず、ポットの湯で自分のマグにお茶を注いだ。お湯がカップの内側を伝って小さな音を立てる。その音が、やけに耳についた。晴臣はコートを脱ぎ、椅子にかけた。手を洗うためにシンクへ向かう。水が流れる音の
雨も降っていないのに、靴の裏が濡れていた。岡田が玄関のドアを開けたとき、廊下にかすかに残る湿気の気配に、ほんの少しだけ足を止めた。傘立てには傘がなく、靴箱の上にあるキーケースの位置も朝と変わっていなかった。その小さな確認に、まだ帰ってきていないんやな、とつぶやかずともわかってしまう。靴を脱いでリビングに足を踏み入れると、昼間閉めたままのカーテンが外光をさえぎり、部屋全体が青く沈んでいた。冷蔵庫の音と、自分の足音だけが耳に届く。テレビもエアコンも、何一つついていない空間に、岡田は深く息をついた。ダイニングのテーブルには、朝に晴臣が置いていった弁当箱が返却されるように置かれていた。空になったそれを手に取り、流しに運ぶ。少しだけ残ったソースの香りが、ほんのわずかに鼻をくすぐった。いつもより二時間早く帰れた。それだけのはずなのに、何をすればいいのかが一瞬わからなくなる。時計の針は午後七時を少し回ったところだった。晴臣が帰るのは、最近では十時を過ぎるのが当たり前になってきている。「新規の案件が始まってて…もうしばらくしたら、落ち着きますから」そう言っていた晴臣の声を思い出しながら、岡田は冷蔵庫を開けた。昨晩作り置きした野菜炒めと味噌汁が、タッパーの中に整然と収まっている。食卓に並べようか、と一瞬思うが、ひとりで食べるには少しだけ虚しく感じた。結局、インスタントのカップ麺に湯を注ぎ、テレビをつけた。音のない部屋にニュースの声が流れ込んでくる。それは、まるでどこか別の場所の出来事のようだった。三分のタイマーが鳴る間、岡田はぼんやりとリビングのテーブルに並ぶコースターを見つめていた。色違いの二枚。晴臣が選んだ、淡いグレーと自分の青。買ったときは、そんな風に選ぶことに微笑ましさを感じたのに、今はただ、整然と「並んでいる」だけに見える。タイマーの音に背を押されるようにして席を立ち、麺を啜る。熱さと塩気が舌を刺激するが、味の記憶はすぐに薄れていった。その夜、晴臣が帰宅したのは十一時を回っていた。玄関の鍵がまわる音がしても、岡田はすでに布団に入っていた。
室内はすでに灯りが落とされ、空気は眠りの匂いを含んでいた。時計の針は午前二時を差し、カーテン越しの街灯の光が薄く壁を照らしている。岡田は、リビングのソファに背を預けたまま、目を閉じても眠気は訪れなかった。天井を見上げていた視線が、ふと横へ逸れる。窓の向こう、ベランダの影が濃く揺れている。彼は立ち上がり、そっと足音を殺して窓を開けた。冷気がわずかに頬を打つ。夜の空気には湿気が混ざっていて、生ぬるいようで、それでも肺に入ると少し刺すような冷たさが残る。岡田はポケットから小さな箱を取り出し、一本だけ取り出した煙草を指に挟んだ。ライターの火花が弾け、暗がりの中で細く白い煙が立ちのぼる。煙草に火を点けるのは、どれくらいぶりだろうか。最後に吸った日も、このベランダだった。吸わないと決めていたわけではないが、晴臣との生活が始まってから、自然と遠ざかっていた。口に含んだ煙をゆっくり吐き出す。白いそれは、夜の空へ向かってふわりと溶けていく。視線を上げれば、向かいのマンションにぽつりと灯る窓。その向こうにも誰かの生活があるのだと思うと、急に孤独ではなくなる。けれど、胸の奥にある小さなざわめきが、消えるわけではなかった。岡田は、煙草を左手に持ち直し、右手で首筋をかく。指先が肌に触れたとき、ようやく自分が少し汗ばんでいることに気づいた。昼間の会議、些細なミス、言い返せなかった言葉。そんなものが、全部混ざって、夜の底で膨らんでいた。「…はぁ」深く吐き出した煙が、夜気と混ざって漂う。煙の向こうで、自分の顔がぼやけている気がした。そのときだった。背後でカーテンの擦れる音が、かすかにした。岡田は振り返らず、そのまま煙草を持つ手を少しだけ外に出す。視線を動かさなくても、足音がわかる。静かに、しかし確実に近づいてくる。晴臣だった。パジャマ姿のまま、寝癖の髪をそのままにして、彼は無言で岡田の