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67.静かな覚悟を、通勤の雑踏で

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-12-20 16:42:37

昼休みどき、1階にある提携カフェの窓際席に、ふたりは並んで腰を下ろしていた。

曇天の空から差す薄い光が、ガラス越しに淡い影を机の上に映している。水滴の名残が外のテラステーブルの表面を光らせていて、雨がすぐに止んだものの、空気はまだ湿気を帯びていた。

室内にはコーヒーの香りと、店員が注文を確認する声、そしてカップがトレイに置かれる音が穏やかに混ざっていた。

ふたりは“いつも通り”といっていいランチタイムを過ごしていた。仕事の話題が主で、先方の対応、追客の進捗、今週の数字、そして午後のプレゼン準備。課長・受注・資料・見込みといった営業風語が穏やかな昼の明かりのなかで並ぶ。

けれど、その「いつも通り」の背後に、変化の気配が静かに広がっていた。

晴臣がロングホットを口に運びながら、ふと顔を伏せた。カップの縁に映る自分の顔を視界の端で見たのだろう、眉がわずかに寄っていた。

そのまま視線を窓の外へ向け、コーヒーの湯気の合間に浮かぶ自分の呼吸を感じる。

手の甲に湯気がふわりと触れ、その熱にほのかな安心を覚えながらも、晴臣は微かに肩を竦めた。

「…こういうのって、いつまで続くんですかね」

その言葉は軽い冗談に聞こえたかもしれない。けれど、晴臣の声には確かな揺れが含まれていた。視線は外へ出たままで、曇り空を見上げるように唇を薄く開いていた。

岡田は、一口コーヒーを飲んで、ゆっくりと湯気を吐き出した。苦味が舌の奥に滲む。社内外を行き来する喧騒を背負った口がその苦味を包み込んで、思考を整えた。

「お前が辞めん限りやろ」

その返答には、軽い冗談のような響きがあった。だが、目の端に見えた晴臣の顔の変化が、それをただの冗談ではないものにしていた。

晴臣の眉が少しだけ上がり、口元が甘く笑った。

窓の外を、傘をたたんだ人々が足早に歩いていく。ネオン広告がまだ点灯している時間帯、街には昼の眠気とも夕の始まりともつかない緩やかな移行があった。店内の時計の秒針がひとつ回るたび、ふたりのテーブルの上のコーヒーカップがわずかに揺れ、反射する光が揺らいだ。

晴臣はカップを置き、指先で

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  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   11.鍵がふたりを繋ぐ

    小さなテーブルの上に、いくつもの物件資料とノートパソコンが広げられていた。明るさを落とした間接照明の下、紙とデジタルが交差するその風景は、まるでふたりの新しい生活の縮図のようだった。リビングにはテレビもつけず、食器も洗い終えた後の静寂が漂っている。窓の外は完全に夜。ビルの向こうに黒く沈んだ空が広がり、街灯が細く路地を照らしていた。晴臣は、膝の上の資料を順に見返していた。各物件の間取り、家賃、アクセス、条件…そのすべてに赤や青の蛍光ペンで書き込みがなされている。几帳面な性格がそのまま現れた資料だった。その横で岡田は、ソファに背を預け、緩く伸びをしながら缶ビールを手にしていた。ラベルの端に指を引っかけながら、ゆっくりと飲む仕草には、どこか覚悟にも似た静けさがあった。「……なあ」岡田がぽつりと声を上げた。晴臣は、目を資料から上げる。「ん?」「こういうの、ちゃんと決めて動くっての、俺には新鮮やわ」「悪い意味ですか?」「いや。ええ意味や。……お前とおったら、先のこと、見ようって思える」晴臣は、その言葉に少しだけ呼吸を止めた。心の奥に、熱がひとつ灯る。岡田の目は、遠くを見ていた。けれどその焦点は、確かに、ふたりの未来に向いているように見えた。「決めるって、簡単やないな」「だからこそ、こうして確認し合う必要があるんです」「せやな」岡田が缶を置き、テーブルに手を伸ばした。無造作に転がっていた自分の鍵束を手に取り、掌の上にそっと乗せる。小さな金属の束。ジャラ、と控えめに音が鳴った。見慣れたはずのそれを、岡田はじっと見つめている。「俺、この鍵な。何年も変わらん生活の出入り口みたいなもんやって思ってたんやけど」「……はい」「でも今は、ちょっとだけちゃうねん」晴臣は黙って聞いていた。岡田の横顔に、ふだん見ないほどの静けさが宿っていた。「この鍵

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   10.キーワードは“いっしょ”

    ノートパソコンの画面に、ずらりと物件のサムネイルが並んでいた。白い間取り図、フローリングの室内写真、築年数と駅からの距離――そのひとつひとつが、まだ見ぬ生活を象徴しているように思えた。晴臣と岡田は、肩を並べてテーブルに向かっていた。窓際のカーテンからは淡い昼下がりの光が差し込み、ふたりの手元とディスプレイを優しく照らしている。「このへん、静かそうやな」岡田が画面を指差す。そこにはやや郊外のファミリー向け物件が表示されていた。緑の多い住宅地で、広めの2LDK。リビングの写真には陽の光が溢れている。「でも駅から徒歩18分です。バスも便数が少ないですし」「そんな歩く?って感じやな。帰宅中に干からびそうや」「夏場は確実に後悔すると思います」「せやな、俺、汗かきやしな」岡田は苦笑し、マグカップに口をつけた。中のコーヒーはすでに冷めかけていたが、飲む仕草はどこか落ち着いている。彼のすぐ隣にいるというだけで、晴臣は不思議と胸の奥に柔らかい熱を感じていた。「じゃあこれ。駅徒歩7分、築浅、1LDK」晴臣がマウスを動かして別の物件を示す。壁は白く清潔感があり、キッチンも広めだ。「内装ええな。収納も多そう」「ただ……リビングが狭めですね。ベッドルームに大型の家具は厳しいかと」「つまり俺のソファは持ってけん、と」「断捨離の好機です」「ひどい」岡田は笑いながら肘で軽く晴臣の腕をつついた。その仕草にふっと体温が走る。距離は近い。けれど、その近さが心地よい。「じゃあ、次。ここは?」「うーん……築年数は10年超え、駅からの距離は理想的ですが……防音が心配ですね」「お前、音に敏感やもんな」「岡田さんがテレビの音量を上げすぎるんです」「耳が遠いんや」「三十代でそれは言い訳です」小さな応酬の中に、どこか微笑みがこぼれる

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   9.生活の設計図

    冬の朝の光は、どこか柔らかく鈍い。カーテンの隙間から差し込む淡い陽が、テーブルの上に置かれた湯気立つマグカップをぼんやり照らしていた。コーヒーの香ばしい匂いが部屋中に広がり、静かな音だけが漂っている。トースターのチーンという音が、ようやくその沈黙を破った。晴臣はパソコンの前に座り、マウスを慎重に動かしていた。ディスプレイの上には「同棲生活ルール一覧」という文字。画面の右端で点滅するカーソルが、どこか緊張を象徴しているように見える。「……これでいいかな」プリンターの音がカタカタと鳴り始める。紙が一枚、また一枚と出てくるたび、晴臣の胸の奥で鼓動が重なる。印刷が終わると、彼はゆっくりと息を吐き、整った書類をクリップで留めた。タイトルの下に自分の名前と岡田の名前が並ぶのを見て、一瞬だけ指先が止まった。振り返ると、キッチンでは岡田がゆるく寝癖のついた髪のまま、トーストを皿にのせていた。グレーのスウェットに古びたパーカー。休日の気の抜けた姿が、妙に絵になっている。どんな格好をしていても、彼の動作には不思議と温かさがあった。「課長、少しお時間いいですか」「ん?なんや朝から改まって」「これを」晴臣が書類を差し出すと、岡田はトーストを持ったまま受け取った。目を走らせる岡田の眉が、わずかに上がる。「……なにこれ、“ルームシェア誓約書”?」「“同棲ルール一覧”です」「こっわ…表題からして堅苦しすぎるわ」晴臣は微かに眉をひそめながらも、真面目な口調を崩さなかった。「同棲は生活です。ルールがなければ破綻します」「はあ…なるほどな。まるで会社の規定書みたいやな」岡田はソファに腰を下ろし、ページをめくった。そこには整然とした箇条書きが並んでいた。『1.食費・光熱費は折半』『2.掃除は週に一度、交代制とする』『3.家

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   8.“住む”という可能性

    玄関の扉が閉まる音とともに、今日という一日がそっと幕を下ろす。岡田の部屋に戻ったふたりは、言葉を交わさず、コートを脱ぎ、靴を揃えた。沈黙は、もう重たくはなかった。ただ、必要なものとしてそこにあった。リビングに入ると、岡田がまっすぐキッチンの冷蔵庫へ向かい、缶ビールを二本取り出す。片方を持ったまま、振り返る。「飲むか?」晴臣は頷きながらソファに腰を下ろした。深く沈むクッションに体を預けると、ふわりと柔らかな疲労感が全身を包む。岡田がソファの反対側に腰を下ろし、二人は小さな乾杯を交わした。「おつかれ」「……おつかれさまです」プシュ、と静かに弾けた炭酸の音と、テレビから流れるバラエティの笑い声が重なる。けれど、ふたりのあいだには、それを遮るような空気はなかった。晴臣は缶の冷たさを掌で転がしながら、岡田の横顔をちらと盗み見た。照明の加減で頬がやわらかく照らされていて、まるで別人のように静かだった。岡田は、缶を口元に運びながらぽつりと呟いた。「なんか、今日、変なこと言うたな。悪かったな」その言葉に、晴臣は心の奥が小さく波打つのを感じた。「……いえ」「別に、プレッシャーかけるつもりちゃうかってん。なんとなく、ああいう店行くと…その、想像するやん。もし一緒に住んだら、みたいな」晴臣はすぐに答えられなかった。けれど、岡田の声は急かさなかった。ふたりの間に流れる時間は、ゆるやかで、ほどけた毛布のようだった。「晴臣」呼ばれて、彼はゆっくりと視線を上げた。岡田は遠くを見ているような目で、淡々と続けた。「俺さ、これまで誰かと住むとか、考えたこともなかったんよ」「……そうなんですか?」「うん。自分のペースでしか動けんし、だれかと居ると気ぃ遣い過ぎてしんどくなるやろって思ってた。でも、お前とおると…なんやろな」そこまで言って、岡田は

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   7.沈黙の帰り道

    アーケードの商店街を抜けた先、小さな路地に足を踏み入れた瞬間、空気の温度が変わった。人混みとネオンから解放された歩道は、ひどく静かで、どこか取り残されたように感じられた。ふたりの足音だけが、カツン、カツンとアスファルトの上に落ちていた。正月休みの終盤とはいえ、初売りセールで混雑していたモールの喧噪が、まだ耳の奥に残っている。だが今は、その反動のように、あまりにも静かだった。晴臣は、岡田の右隣を歩いていた。互いに半歩ずつズレた歩幅。岡田のポケットに入った手と、晴臣の手がぶつかりそうでぶつからない位置。ふたりとも、口を閉ざしていた。何かを言いたいのに、言えない。そんな沈黙が、重くではなく、じれったくふたりの間を漂っていた。陽は西に傾き、空は茜に染まっていた。遠くにある電車の音が、小さく耳に届いた。晴臣は視線を落としたまま、岡田のスニーカーと自分のブーツがアスファルトを踏む音に耳を澄ました。――さっきのあの一言。ベッド売り場で岡田が言った「一緒に住むかって気分なるな」という軽い調子の言葉が、頭の中で繰り返されていた。軽口だった。冗談に違いない。…でも、少しだけ、違って聞こえた。それがただの気のせいなら、自分のこの動揺はなんなのか。岡田は、何も言わなかった。いつもと同じように、気怠げな横顔をして歩いている。だからこそ、余計にわからなかった。沈黙が続く。ふたりの間には、ちょうど猫一匹が通れるくらいの距離があった。それがたまらなく、遠く感じた。晴臣は一度、唇を開きかけてやめた。喉が渇くような感覚に、襟元を指で少し引いた。岡田が気づいたふうもなく、空を見上げたまま、肩をすくめるように歩いていた。もうすぐ駅だ。このまま電車に乗って、家に帰って、いつもどおりの夜に戻る。そうしたら、あの言葉も、今感じていることも、全部なかったことになってしまうかもしれない。でも。「……課長」ようやく晴臣が言葉

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   6.寝具売場と、不意の未来

    ベッド売り場の空気は、家具屋の喧騒からほんの少しだけ隔たれていた。通路の片隅、整然と並べられたマットレスの島の間を歩くふたりの足音だけが、カーペットの上に静かに落ちていく。岡田が立ち止まり、手近な展示品に腰を下ろした。ゆっくりと体重をかけて沈み込むマットレスの反発が、わずかに空気を揺らす。「おお、これ意外とええな」そう言って、岡田はごろんと仰向けになった。腕を頭の下に入れ、うっすらと目を閉じる。無造作な姿勢なのに、やけに様になっていた。晴臣は隣のマットレスの端に立ったまま、どこか居心地悪そうにその様子を見下ろしていた。「課長、さすがに売り物ですから…」「試してくれって書いてあるで。ちゃんとタグ見てみ、お行儀のいい営業スマイルで『お気軽にお試しください』って書いとる」晴臣が視線を落とすと、確かにその文言がマットレスの下端にプリントされていた。仕方なく、自分も腰を下ろす。隣に並ぶ形になった岡田の肩が、ほんの少し触れた。体温が伝わる距離。誰も見ていない空間。なのに、晴臣はなぜか目線の置き場に困っていた。岡田が片目だけ開けて、こちらを見た。「お前も横になれや。比べんとわからんやろ」「……はい」背中を預けた瞬間、柔らかな沈み込みが全身を包んだ。岡田の腕が、ほんの数センチ先にある。香水ではない、岡田自身の香りが、微かに鼻腔をくすぐった。目を閉じれば、自分がどこにいるのかわからなくなりそうだった。すると、岡田がぼそりと呟いた。「どれがええ?…なんなら、やっぱり一緒に住むかって気分なるな」その言葉が、空気の表面にぽつんと落ちた。ふいに、世界が止まったように感じた。岡田の声は軽く、冗談に近いトーンだった。けれど、その“仮定”が持つ重みが、晴臣の胸に静かに沈んだ。「……」返事ができなかった。喉が詰まり、呼吸がうまくできていない気

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