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8.その横顔は、知らない顔だった

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-25 16:10:37

午後三時過ぎ。ビル街の一角にあるこぢんまりとしたカフェに、晴臣と岡田は向かい合って座っていた。

商談帰りに立ち寄ったのは、ふたりとも初めての場所だった。コーヒー豆の焙煎の香ばしい匂いと、バターの染み込んだ焼き菓子の香りが、足元から這い上がるように店内を包んでいた。外の喧騒が嘘のように静かで、室内には落ち着いたジャズが流れている。

「…なんや、想像よりええ店やな」

岡田がそう言いながら、フォークでドーナツを割って口に運んだ。表面にかかったグレーズが照明を反射して、岡田の指先まで微かに甘い艶を纏わせていた。

晴臣は、カップを手にしながらも、なかなか口元に運ばずにいた。

「課長、さっきの…わざとでしたよね」

「どれのことや?」

「俺が詰めすぎて、場が凍りかけたときに、あんなタイミングで来たことです」

岡田はフォークを口から抜きながら、目を細めた。

「…あれなあ、たまたまや」

「嘘ですね」

「うん、嘘やわ」

そうあっさり認めると、岡田は笑いながらアイスコーヒーに口をつけた。氷のカランという音が耳に触れた瞬間、晴臣の喉が微かに動いた。

「…主任が理詰めで詰めるときの声、ちょっと怖いんよな」

「それでやってきたので」

「そらそうやろな。あの声、すごいな。理路整然で、芯もあって、音の粒が揃ってる。けどな、ちょっと刺さるんや。相手にも、体温あるからな」

晴臣は、返答をすぐには選ばなかった。

目の前にいる男が、ドーナツの穴の向こうから、自分を淡々と評している。その口調は柔らかいのに、言葉の芯はしっかりと鋭い。

「…俺には、ああいう空気を読んで、軟着陸させるスキルはないですから」

「そう見えるけどなあ。ほんまは、読む力あるで。読みすぎて、詰めすぎるタイプちゃう?」

「…どうですかね」

晴臣はようやくカップに口をつけた。浅く苦みの残るコーヒーが舌に広がり、喉の奥でゆっくりと温度が沈んでいく。

岡田の方はというと、再びドーナツの最後の一欠片を口に運び、ゆっくりと咀嚼しながら、何かを考えているようだった。

晴臣は、その横顔を見ていた。

いつもは緩んだ口元。寝癖の名残を残した髪。雑に結ばれたネクタイ。そのすべてが「隙」だらけの印象を持たせる岡田という人間が、今だけは違って見えた。

眉間の筋がわずかに寄っていた。顎のラインが、咀嚼のたびに静かに動いている。瞼の下の影が、思いのほか深かった。

「…岡田課長」

「ん?」

「さっき、低い声で話したとき、完全に場を握ってましたよね」

「そうやった?」

「怖かったですよ、正直。…あんな声、普段出すんですね」

岡田はしばらく黙ったあと、グラスの氷をスプーンでくるりと回した。

「せやな。たまに出る。…ほんまに、たまにやけど」

その声に、ほんのわずか熱がこもっていた。

晴臣は、また心が揺れた。目の前の男の「見えてない部分」が、唐突に顔を覗かせたような気がしたのだ。

「課長って…いつも、そうやって演じてるんですか」

「え?」

「いや…なんでもないです」

晴臣は目を逸らした。

自分の言葉が、どこか踏み込んではいけない領域に触れた気がして、慌てて視線を窓の外に移した。カフェのガラス越しに、秋の日差しが交差点を斜めに照らしている。赤信号で立ち止まる人々。風に揺れる街路樹の葉。

その光景さえ、なぜか遠く感じた。

岡田の声が、低く響いた。

「演じてる、いうより…出し分けてるだけや」

「…」

「いろんな人、おるやろ。強い声で押してくる人も、黙って睨む人も、やたら共感してくる人も。みんなクセがあるからな。そのへん、見てから話し方変えてるだけ」

「それ、演じてるってことじゃ…」

「ちゃう。見抜こうとしてるだけや。…どこまで、通じるかって」

その言葉に、晴臣の胸の奥が静かに軋んだ。

彼の語り口は相変わらず柔らかいのに、内側にあるものは、まるで硬質の金属のような冷たさと鋭さを孕んでいる。

一見ふわふわと人を流すようでいて、本質はきっと、誰よりも他人に敏感なのだ。

カフェを出ると、風が少しだけ強くなっていた。

社用車に乗り込んだ車内、窓を少しだけ開けて走ると、秋の乾いた空気が頬にあたった。

「…あのドーナツ、意外とうまかったですね」

運転席の晴臣が呟くと、助手席の岡田が首を傾げた。

「せやな。ようあるチェーンの味やったけど」

「課長、甘いの好きなんですね」

「まあな。甘いもんは嘘つかへんし」

「…それ、妙な理屈ですね」

「ほんまやろ?人間は平気で裏切るけど、砂糖は絶対に甘いからな」

晴臣はその言葉に小さく息を漏らした。笑ったのか、呆れたのか、自分でも判別がつかない。

ふと、信号待ちで車が止まった。

横顔を、また見てしまった。

岡田の髪が風に少しだけ揺れて、前髪が眉の上にかかっていた。その下にある目元が、先ほどのカフェで見せたものとはまた違って見える。気怠げでいて、芯がある。ひとことで言えば、整っている顔立ちだった。

「…晴臣くん」

「はい」

「さっきの、B社の部長な。あの人、昔から理屈に弱いわりに、プライド高いねん」

「そうだったんですか」

「うん。せやから、あれ以上押したら、多分帰らされとったで」

「…そうですか」

岡田は笑わなかった。ただ、前を向いたまま、ゆっくりと首を横に傾けた。

「ほんまにええ案やったと思う。主任の組み立ては、隙がない」

「ありがとうございます」

「せやけどな…人って、正しすぎると逆に怖いねん」

「…」

「ちょっとだけ、余白あったほうが、相手も寄ってきやすい」

それは、自分にとって一番不得意な領域だった。

晴臣は青信号になったことに気づき、ブレーキを離した。

アクセルを踏む足に、少しだけ力が入っていた。指先にも、熱がこもっていた。

「…努力します」

「うん、それでええ」

岡田が、ふっと笑った。

その笑顔が、今度は心からのものに見えた。

そして晴臣は、ふと気づいた。

車内が静かだった。風が止まっていた。自分の中の何かも、わずかに変わっていた。

たった一つの横顔が、こんなにも揺らぎを生むなんて。自分は、知らなかった。

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