Se connecter打ち切りになったBL小説の作者・俺は、気づけば自作の当て馬令息リュカに転生していた。 原作のリュカは主人公をいじめて断罪され、追放されて死ぬ。しかも、その死に様を書いたのはたった1行。 ……雑すぎるだろ、過去の俺。 破滅を回避するため、作者の知識を使って立ち 回るはずだった。ところが、うっかり攻めのアルベルトに、設定資料にしか書いていない秘密を言い当ててしまう。 「お前、なぜそれを知っている」 書いたからです、とは言えない。 それ以来、完璧な優等生のはずのアルベルトが、なぜか俺から離れてくれない。 俺の書いていない顔で、俺を見ないでくれ。 打ち切りで書けなかったハッピーエンドを、今度こそ書き上げる。
Voir plus右手の中で、紅茶のカップが傾きかけていた。
目の前には、亜麻色の髪の少年が座っている。大きな榛色の瞳が、怯えたように俺を見上げていた。 ――あ、これ知ってる。 そう思った瞬間、頭の中に濁流が流れ込んできた。 締め切り前の深夜三時。冷めきったコーヒー。モニターに映る原稿。担当編集からのメール。 『春日先生、大変申し上げにくいのですが、『銀の誓約』は三巻で完結という形に……』 打ち切りの連絡だった。 そして俺は、その三巻を書き上げた帰り道に―― 「リュカ様?」 隣にいた取り巻きの声で、我に返る。 王立セレスタ学院の中庭。白い東屋のサロン。午後の茶会。テーブルを囲む貴族の子息たちと、ひとりだけ制服の型が古い、平民の特待生。 間違いない。『銀の誓約』第一巻、第三章。悪役令息リュカ・ベルナールが、主人公ミシェルの頭から紅茶を浴びせる場面だ。 そして俺は今、そのリュカ・ベルナールの手で、カップを持っている。 (待て待て待て待て) この後の展開を、俺は誰より知っている。だって、書いたのは俺だ。 紅茶を浴びたミシェルの前に、アルベルト・グランツが現れる。公爵家の嫡男で、次期騎士団長と目される学院の憧れ。彼は濡れたミシェルに上着をかけ、リュカを冷たく見下ろして言うのだ。 「品性は、家名では買えないようだな」 担当に「ここ、最高です!」と褒められた台詞だった。読者アンケートでも人気だった。 それを今から、俺が言われる。 (いやだ、絶対いやだ) カップの傾きを、ぎりぎりで止める。手首に変な力が入って、紅茶の表面が大きく揺れた。 ミシェルが、ぎゅっと目をつぶる。 その顔を見て、胸の奥がずきりと痛んだ。 俺はこの子に、ずいぶん酷いことをしてきた。原稿の上で。一巻では紅茶、二巻では階段、三巻では舞踏会のドレスコード事件。全部リュカにやらせた。全部、ミシェルとアルベルトを近づけるための装置として。 「……失礼」 俺はカップをソーサーに戻した。かちゃん、と間の抜けた音がした。 「手が滑りそうになった。かからなかったか?」 ミシェルが恐る恐る目を開ける。取り巻きたちが顔を見合わせる。 「リュ、リュカ様……? でも、さっき『その汚い手で菓子に触るな』って……」 言ったのか、俺。いや、リュカが。いや、俺か。 記憶を探ると、確かにほんの数分前に言っていた。原作通りの台詞を、一字一句違わずに。 (俺の書いた台詞、性格悪っ) 「……訂正する。手は汚くない。菓子も好きに食べてくれ」 場の空気が、完全に凍った。 ミシェルは口をぱくぱくさせている。取り巻きの一人は「熱でもあるのでは」と真顔で俺の額に手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。 そのとき、東屋の入り口に影が差した。 「何の騒ぎだ」 低く、よく通る声。 振り返らなくてもわかる。銀灰色の髪。夜明け前の空みたいな青い瞳。学院の制服を誰より正しく着こなす長身。 アルベルト・グランツ。 俺が作った、この物語の攻めだ。 (実物、顔がいい……!) 違う、そうじゃない。いや、そうなんだけど。 挿絵の先生が描いてくれたキャラデザを、何百回も見た。でも、実物は違う。生きている人間の顔には、紙にはない温度がある。 アルベルトは東屋を一瞥し、ミシェルを見て、最後に俺を見た。濡れていないミシェル。ソーサーに戻ったカップ。凍りついた取り巻きたち。 彼の眉が、ほんのわずかに寄る。 「……何もなかったのか」 「何もありませんでした」 俺は即答した。声が裏返らなかったのは奇跡だと思う。 アルベルトはしばらく俺を見ていた。値踏みするような、温度のない目。原作のリュカが何度も向けられた目だ。 「そうか」 それだけ言って、彼はミシェルに軽く会釈をし、去っていった。上着は脱がなかった。名台詞も、なかった。 東屋に、長い沈黙が落ちる。 俺は震える手で、自分の紅茶を一口飲んだ。すっかりぬるくなっていた。 ――さて。 整理しよう。 俺は打ち切りBL小説『銀の誓約』の作者だ。たぶん、死んだ。そして自作の世界の、当て馬悪役令息リュカ・ベルナールになっている。 リュカの結末は知っている。 三巻の終盤。卒業前夜祭の大広間で、これまでの悪行をアルベルトに暴かれ、断罪される。実家から勘当され、北の修道院へ送られる。 そして最終ページの手前、ほんの数行の後日談の中に、こう書いた。 『リュカ・ベルナールは北の修道院へ送られ、その冬に死んだ。』 それだけだ。 死因も、最期の言葉も、何もない。 (だって、ページが足りなかったんだよ……!) 打ち切りが決まって、書きたかった話を三巻に詰め込んだ。削れるところは全部削った。真っ先に削ったのが、悪役の末路だった。 一行。 たった一行で、俺は死ぬ。 カップの中の紅茶が、小さく波打っている。手が震えているのだと、少し遅れて気づいた。 「リュカ様、やはりお加減が……」 「大丈夫だ」 大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。 でも、ひとつだけはっきりしていることがある。 俺は、この物語の作者だ。 誰よりもこの世界を知っている。誰が何を隠し、何に怯え、どこで間違えるのか。全部、知っている。 だったら、やることは決まっている。 一行で死ぬ当て馬の人生を――作者の手で、推敲してやる。それから三日間、俺は図書館に近づかなかった。 カイルの話が本当なら、アルベルトは俺を探している。理由はわからない。わからないが、原作の攻めが当て馬を探す理由なんて、ろくなものじゃないに決まっている。断罪の証拠集めとか。 だから避けた。徹底的に避けた。 そのはずだった。 「リュカ様。本日、三度目です」 昼休みの回廊で、トマが小声で言った。 前方から、銀灰色の髪の長身が歩いてくる。取り巻きもつけず、一人で。 朝は寮の玄関で。二限のあとは中庭の噴水の前で。そして今、回廊で。 (なんで!? 俺、原作のルート全部避けてるのに!?) アルベルトは俺の前で立ち止まりもしなかった。ただ、すれ違いざまに、ちらりとこちらを見る。それだけだ。 それだけなのに、三度目となると、さすがに偶然とは思えない。 「グランツ様は、リュカ様に何か御用がおありなのでは」 「ない。あったとしても、ろくな用じゃない」 「左様でございますか。ちなみに使用人たちの賭けですが、本日より『グランツ様に恋をした』派が新たに加わりまして」 「増やすな」 「倍率は現在、二・五倍です」 「聞いてない」 その夜、俺は寮の自室で、トマが淹れたぬるめの紅茶を飲んでいた。 猫舌に合わせた温度だ。三日前に「熱い」と言ってから、トマは一度も熱いものを出してこない。 「なあ、トマ」 「はい」 「お前、なんで俺に仕えてるんだ」 トマが、ティーポットを持ったまま動きを止めた。 「……と、おっしゃいますと」 「正直に言っていい。俺は、ひどい主人だっただろう。使用人に当たり散らして、気に入らなければ物を投げて」 本文には、そう書いた。リュカの性格の悪さを示すために、何度も。 「五年も仕えて、嫌にならなかったのか」 トマは、しばらく黙っていた。それからポットを置いて、まっすぐに俺を見た。 「七年前の冬を、覚えていらっしゃいますか」 「七年前?」 「私は、王都の路地でパンを盗んで、衛兵に捕まりかけておりました。十三の頃です。その日はひどい雪で、親もおらず、行くところもなく」 知らない。 そんな話、俺は書いていない。 「そこに、ベルナール家の馬車が通りかかったのです。まだ十歳のリュカ様が窓から顔を出して、衛兵におっしゃいました」 トマは、少しだけ口元をゆるめた。 「『見苦しい。そ
推敲方針、その二。ミシェルにきちんと謝る。 これだけは、作者として逃げられなかった。 紅茶、階段、ドレスコード事件。まだ起きていないものもあるが、この半年の間にリュカがミシェルにしてきた嫌がらせは、本文に書いた分だけでも両手で足りない。書いたのは俺だ。実行したのはリュカだ。でも今、リュカの体にいるのは俺だ。 つまり、謝るのは俺しかいない。 「リュカ様、本当にお一人で行かれるのですか」 「ついてくるなよ、トマ。大勢で押しかけたら脅しにしか見えない」 「普段のリュカ様は、大勢で押しかけて脅していらっしゃいましたが」 「だからやめるんだ」 トマを寮の前に置いて、俺は学院の裏手へ向かった。 ミシェルは放課後、温室の手入れを手伝っている。これは本文に書いた。平民の特待生である彼は、奨学金の条件として学院の雑務を引き受けているのだ。そして温室は、一巻でアルベルトと二人きりになる、大事な場面の舞台でもある。 (アルベルトがいたら、即撤退) 温室のガラス戸から、そっと中をのぞく。 ミシェルはいた。亜麻色の髪を揺らして、鉢植えに水をやっている。 そして、その隣にもう一人。 赤茶色の短髪に、騎士科の制服。肩幅の広い、無口そうな青年が、重たい肥料袋を黙々と運んでいる。 カイル・ハーヴィー。騎士科の三年で、アルベルトの剣の稽古相手だ。 本文での出番は少ない。アルベルトの隣で、腕を組んで立っているだけのキャラだった。台詞は、全三巻で十個もなかったと思う。 「カイル先輩、それ、僕が運びますから」 「いい。重い」 「でも、先輩の手が汚れちゃいます」 「洗えば落ちる」 そっけない返事。でもカイルは、ミシェルの手から如雨露まで取り上げて、黙って水やりを代わっていた。 ミシェルが、その横顔を見上げている。 頬が、赤い。 (……え?) 俺は、その顔を知っていた。 本文では見たことがない。でも、知っている。 一番最初のプロット。担当に見せる前、自分のパソコンの中だけで書いていた、ボツ原稿。その中のミシェルが、まったく同じ顔で、カイルを見上げていた。 そうだ。最初は、カイルが攻めだった。 寡黙で不器用な騎士と、ひたむきな特待生。俺が本当に書きたかったのは、その二人の話だった。 でも担当に言われたのだ。 『春日先生、攻めはもっと華がないと。公爵家
翌日の放課後、俺は学院の図書館にいた。 理由は二つある。 ひとつ。図書館は、本文で一度も舞台にしなかった場所だ。つまり、原作のイベントが起きない。アルベルトもミシェルも、ここには来ない。避難所としては完璧だった。 ふたつ。純粋に、気になったのだ。 俺は窓際の席で、棚から適当に抜いた一冊を開いた。『セレスタ王国風土記』。本文では、背景の小道具として名前だけ出した本だ。 中身なんて、考えたこともない。 ページをめくる。 ――書いてあった。 北部の気候。南部の葡萄畑。王都の水路の歴史。整った活字が、びっしりと並んでいる。 俺の書いていない文章だった。 (余白が、勝手に埋まってる……) 背筋が少し寒くなる。この世界は、俺が書いたものだけでできているわけじゃない。俺が書かなかった部分を、誰かが――あるいは世界そのものが、勝手に書き足している。 本を閉じて、深く息を吐く。 考えても仕方がない。今は生き延びることだけ考えよう。 俺は鞄から小さな包みを取り出した。今朝、トマが「頭を打った方には糖分が必要です」と言って押しつけてきた、蜂蜜の焼き菓子だ。 図書館で飲食は禁止だったかな、と包みを開きかけたとき。 「ここにいたか」 心臓が止まるかと思った。 顔を上げると、テーブルの向かいにアルベルト・グランツが立っていた。 (なんで!? ここ、本文に出てこない場所なんだけど!?) 「……グランツ様。図書館に、何か御用で」 「お前に用がある」 アルベルトは向かいの椅子を引き、断りもなく腰を下ろした。長い脚を組む動作まで、いちいち絵になる。 推敲方針、その三。アルベルトには近づかない。 二日目にして、向こうから近づいてきた。 「昨日の茶会の件だ」 「何もなかったと、申し上げましたが」 「ああ。何もなかった。だから来た」 青い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。 「お前がミシェル・ローランに嫌がらせを続けていることは、学院の誰もが知っている。昨日も、取り巻きたちは紅茶が浴びせられると思っていたそうだ。だが、お前はやめた。そのうえ、謝った」 「……」 「何を企んでいる」 ですよね。 作者の俺が一番わかっている。アルベルトは、筋の通らないことを嫌う。だからこそ、悪役の急な心変わりを見過ごせない。そういうキャラに作った。 「企んでなどいませ
その夜、俺は自室の机にかじりついていた。 羊皮紙を三枚並べ、それぞれの一番上に見出しを書く。 一枚目、「本文」。 二枚目、「設定資料」。 三枚目、「余白」。 作家の悪い癖だ。混乱したら、とりあえず紙に書く。 まずは確認からだ。 本文で、俺はリュカの部屋をこう描写した。『深い青のカーテンと、使われない書棚。リュカは本を読まない』。 顔を上げる。カーテンは深い青。壁際の書棚には、背表紙の金文字が剥げかけた本が、新品同然で並んでいる。 (読んでやれよ、リュカ) 本文に書いたことは、そのままこの世界にある。これは間違いない。 次に二枚目。設定資料だ。 本の中には書かなかったけれど、俺のパソコンの「銀の誓約_設定.txt」には書いてあったこと。キャラの好物、家族構成、子どもの頃の思い出。物語に出す予定はないけれど、キャラを動かすために作者だけが知っておく裏設定。 リュカの設定にはこう書いた。『猫舌。本人は認めない』。 昼間の紅茶を思い出す。ぬるくなってから飲んで、ちょうどよかった。 試しに、侍従が運んできたばかりのホットミルクに口をつける。 「あっつ!」 「リュカ様!?」 扉の脇に控えていた侍従が、慌てて駆け寄ってきた。 「申し訳ございません、少し冷ましてからお出しすべきでした」 「いや、いい。確認しただけだ」 「確認……?」 設定資料も、生きている。本文に一文字も書かなかったことまで、この世界はちゃんと覚えている。 そして三枚目。余白。 本文にも設定資料にも、書かなかったこと。 俺は目の前の侍従を見上げた。黒髪を短く刈った、二十歳くらいの青年。いつもリュカの後ろに控えていて、原作では一度も台詞がない。本文での扱いは、たしか―― 『侍従は黙って頭を下げた。』 それだけだ。 「なあ」 「はい」 「お前、名前は」 侍従は一瞬、きょとんとした顔をした。それから困ったように眉を下げる。 「トマでございます。お仕えして、五年になりますが」 「……そうか。トマか」 知らなかった。 俺は、知らなかった。 五年もリュカに仕えてきた男の名前を、作者の俺は一度も考えなかった。リュカに名前を呼ばせる必要がなかったから。 (余白は、俺にもわからない) 羊皮紙の三枚目に「トマ」と書く。それから少し考えて、こう付け足した。