LOGIN「花澄、お前に縁談がきている」
お父様の言葉に、私は心が凍りついた。 まるで、冬の朝に薄く張った氷の上を、突然誰かに踏み抜かれたような感覚だった。 胸の奥が、ひやりと冷たくなる。 息を吸うのも忘れて、私はただその言葉を反芻した。 縁談。 その二文字が、私の未来を一瞬で塗り替えていく。 まさか、こんなふうに、何の前触れもなく、運命が決まってしまうなんて。 …どこかで分かっていたのかもしれない。 それでも、どこかで願っていた。 せめて、もう少しだけ自由でいられたらと。 せめて、自分の気持ちに正直でいられる時間が、あと少しだけでもあったならと。 でも、そんな願いは、やはり甘えだったのだろう。 「あら、良かったじゃない」 お姉様の声が、わざとらしく明るく響いた。 その笑みは、口元だけが動いていて、目はまったく笑っていなかった。 むしろ、冷たい光を宿したその瞳は、私の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。 お姉様はいつもそうだった。 私が困っているときほど、よく笑う。 もう慣れていた。 この家で生きるには、痛みにも慣れなければならない。 「そうですか」 私は感情を押し殺して答えた。 声が震えないように、喉の奥に力を込める。 目を伏せ、まつげの影に表情を隠す。 拒絶を口にしたところで、何も変わらない。 「嫁ぎ先は東条家の所だ」 お父様の言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。 東条家といえば、名家ではあるけれど、どこか得体の知れない噂が絶えない家。 その家に、私が嫁ぐ? なぜ、私が… そんな疑問が頭の中をぐるぐると巡っていた。 「東条家ってあの謎が多くて有名な?」 お姉様が、興味深そうに言葉を挟んだ。 その声音には、どこか面白がっているような響きがあった。 まるで、他人事のように。 いや、実際、他人事なのだ。 私が誰と結婚しようと、お姉様には何の関係もない。 私がどんな相手に嫁ごうと、それがどれほど不安でも、彼女にとってはただの娯楽に過ぎない。 「ああ」 お父様は短く答えた。 その声には、何の感情もこもっていなかった。 まるで、ただの事務連絡のように。 私の人生が誰かの手に渡るというのに、そこに一片の迷いも、ためらいもない。 「可哀想に…ふふっ…気持ち悪いおじさんじゃなかったらいいわね」 お姉様の言葉に、私は心の中でため息をついた。 その笑い声は、私の不安をあざ笑うかのようだった。 けれど、私は何も言わなかった。 言い返したところで、何も変わらない。 それに、樹様と結婚できないんだから、もうどうでもいい。 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。 「相手が誰か分からないとしても、花澄を貰ってくれるなら有難く譲るべきだろう」 お父様の言葉は、まるで私が物であるかのようだった。 譲る…か。 私は誰かの所有物ではない。 でも、私は花澄である前に、“この家の娘”であり、その役割を果たすために生かされている。 誰に渡されようと、何を命じられようと、逆らうことは許されない。 「そうですね」 感情を押し殺し、ただ機械のように返事をした。 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。 「話は以上だ」 お父様のその言葉は、まるで判決のようだった。 冷たく、揺るぎなく、そこには一切の情がなかった。 娘を嫁がせる父親としての情など、微塵も感じられなかった。 私の人生が、たった一言で締めくくられた。 「はい。失礼します」 丁寧に一礼した。 その動作は、何度も練習してきた通りのものだった。 背筋を伸ばし、視線を落とし、音を立てずに歩き出す。 心の中では、何かがぽっかりと空洞になっていた。 ただ、冷たい風が胸の奥を吹き抜けていく。 「花澄…!」 廊下を歩いていると、背後から呼び止める声がした。 その声を聞いた瞬間、私は立ち止まった。 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。 私はゆっくりと身体を反転させる。 そこには、真剣な表情の樹様が立っていた。 その目が、まっすぐに私を見つめていた。 「樹様…」 彼の顔を見た瞬間、張りつめていたものが、一気にほどけていくのを感じた。 私は、まだこの人に未練がある。 それを、認めざるを得なかった。 「美咲から聞いた。見合いをするんだって?」 樹様の声は、いつもより少しだけ低く、抑えた怒りと焦りが滲んでいた。 彼の目はまっすぐに私を見つめていて、その視線から逃れることができなかった。 彼の口から見合いという言葉が出た瞬間、現実がより鮮明に突きつけられた気がした。 やっぱり、もう後戻りはできない。 私は小さくうなずき、目を伏せた。 「…はい」 その一言を口にするのに、どれほどの勇気が必要だっただろう。 「謎に包まれてる人だとかなんとかって…」 彼の声が、どこか遠くから聞こえるように感じた。 お姉様が嬉しそうに話す姿が、頭の中に浮かぶ。 「そうみたいですね」 何も感じていないふりをするのは、もう慣れたはずなのに…。 こんなふうに胸が軋むのは、久しぶりだった。「そうみたいって、そんな人と結婚させられるかもしれないんだよ?」 樹様の声が、少しだけ強くなった。 その怒りは、私のためのものだった。 彼の優しさが、私を縛る。 逃げたいのに、逃げられない。 彼の言葉に応えたい気持ちと、応えてはいけないという理性が、胸の中でせめぎ合っていた。 「覚悟は…していたので」 私は小さく息を吐きながら、そう答えた。 いつか、いつかこんな日が来ると。 覚悟していたはずなのに、心はまだ抗おうとしていた。 ほんのわずかでも、奇跡を信じていた自分がいたことに気づいて、私はそっと唇を噛んだ。 痛みで、余計な感情を押し込めるように。 「そんなのダメだよ。破談にするべきだって俺が──」 彼の言葉が、私の心を大きく揺さぶった。 その真っ直ぐな想いが、私の胸に突き刺さる。 けれど、私はそれを受け止めることができなかった。 彼が動けば動くほど、彼が傷つく。 もう、終わったことなのに。 私のために、これ以上、傷つかないで。 「それはいけません」 私は、思わず彼の言葉を遮っていた。 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。 私の中にある最後の理性が、彼を守ろうとした結果だった。 これ以上、彼に踏み込ませてはいけない。 私のために、彼が傷つくのはもう見たくなかった。 彼が声を上げれば上げるほど、この家の怒りは彼に向かう。 それが、どれほど危ういことか、私は誰よりもよく知っていた。 「どうして…」 樹様の声が、かすかに震えていた。 その響きに、胸が締めつけられる。 彼の目が、まっすぐに私を見ていた。 「頼んでみたところで何も変わりません。それどころか父を刺激すると、樹様がここにはいられなくなってしまいます」 私は、できるだけ冷静に言葉
「花澄、お前に縁談がきている」お父様の言葉に、私は心が凍りついた。まるで、冬の朝に薄く張った氷の上を、突然誰かに踏み抜かれたような感覚だった。胸の奥が、ひやりと冷たくなる。息を吸うのも忘れて、私はただその言葉を反芻した。縁談。その二文字が、私の未来を一瞬で塗り替えていく。まさか、こんなふうに、何の前触れもなく、運命が決まってしまうなんて。…どこかで分かっていたのかもしれない。それでも、どこかで願っていた。せめて、もう少しだけ自由でいられたらと。せめて、自分の気持ちに正直でいられる時間が、あと少しだけでもあったならと。でも、そんな願いは、やはり甘えだったのだろう。「あら、良かったじゃない」お姉様の声が、わざとらしく明るく響いた。その笑みは、口元だけが動いていて、目はまったく笑っていなかった。むしろ、冷たい光を宿したその瞳は、私の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。お姉様はいつもそうだった。私が困っているときほど、よく笑う。もう慣れていた。この家で生きるには、痛みにも慣れなければならない。「そうですか」私は感情を押し殺して答えた。声が震えないように、喉の奥に力を込める。目を伏せ、まつげの影に表情を隠す。拒絶を口にしたところで、何も変わらない。「嫁ぎ先は東条家の所だ」お父様の言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。東条家といえば、名家ではあるけれど、どこか得体の知れない噂が絶えない家。その家に、私が嫁ぐ?なぜ、私が…そんな疑問が頭の中をぐるぐると
「俺のせいだよな。俺は花澄と別れたこと、後悔してるよ」ずっと閉じ込めていた感情が、ふいに呼び起こされる。あのとき、何も言えなかった自分を思い出す。別れを告げたのは私だった。でも、それは私の意思ではなかった。彼を、守りたかった。「これ以上、二人きりでいるのはよくありません」声を潜めながらも、必死に冷静を装った。けれど、心の中では警鐘が鳴り響いていた。こんな話がお姉様の耳に入ったら…。「正直、今でもやり直せると思ってる。いっそのこと、二人で駆け落ちしようよ」その言葉に、息が止まりそうになった。夢のような響きだった。誰にも邪魔されず、彼とふたりで生きていける世界。そんな未来を、何度も想像したことがある。けれど、それは夢でしかない。現実は、そんなに優しくない。逃げたところで、きっとすぐに見つかる。お姉様は、そういう人だ。どんな手を使ってでも、私たちを引き裂こうとする。その執念深さを、私は誰よりも知っている。「樹様…」名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。心の奥では、彼の言葉に応えたい気持ちが渦巻いていた。でも、現実を知っているからこそ、踏み出せない。夢を見てはいけない。希望を抱けば抱くほど、失ったときの痛みは深くなる。私はそれを、もう何度も味わってきた。「樹様なんて言わないで、前みたいに樹って呼んでよ」彼の声が、どこか寂しげだった。私だって、そう呼びたい。昔のように名前を呼んで、手を繋いで歩きたい。でも、今の私は、あの頃の私じゃない。彼の隣に立つ資格なんて、もうない。「すみません…」それが、私にできる精一杯の返事だった。彼の視線が、まっすぐに私を見つめていた。その眼差しが、心の奥を揺さぶる。「俺は、まだ花澄のことが──」その声が、かすかに震えていた。彼の想いが言葉になる前に、空気が凍りついた。「あら、二人でコソコソ、何のお話をしているのかしら」冷たい声が、私たちの間に割り込んできた。その声を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。振り返ると、そこにはお姉様が立っていた。その視線は氷のように冷たく、私たちを射抜いていた。「…お姉様」声がうわずった。心臓が、早鐘のように打ち始める。手のひらが汗ばみ、足元がふらつく。逃げ場は、どこにもなかった。「まさか浮気でもしてるんじゃないでしょうね」その場
「こんな不味いご飯は食べられないわ!」甲高く響いた声が、食卓の空気を一瞬で凍らせた。お姉様の手が振り下ろされ、陶器の皿がテーブルから弾け飛ぶ。カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた皿は、無惨に割れ、炊きたてのご飯が畳の上に散らばった。味噌汁の椀も倒れ、汁がじわりと染み広がっていく。私は反射的に膝をつき、こぼれた食べ物を拾い集め始めた。指先が熱い汁に触れても、痛みを感じる余裕はなかった。ただ、これ以上怒らせてはいけないという思いだけが、私の体を動かしていた。「申し訳ございません…」声はかすれていた。喉の奥がひりつくほど乾いていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。床に散らばったご飯を、一粒ずつ、指先で拾い上げる。誰にも必要とされていない私が、それでもここにいるという証を、必死に掻き集めるように。「味が濃いと前にも言ったでしょ!?この役立たず!」お姉様の怒声が、背中に突き刺さる。前は味が薄いと怒られた。だから、少しでも美味しくなるようにと、調味料を増やした。それが、また裏目に出た。「はい。すみません」それ以上、何も言えなかった。言い返す言葉なんて、とうに持ち合わせていない。反論すれば、もっとひどい言葉が返ってくるだけだと知っているから。それに、どこかで自分が悪いのかもしれないと、思ってしまう自分がいる。そのことが、何よりも情けなくて、やるせなかった。「分かったならさっさと作り直してきなさい」お姉様は私の方を一瞥することもなく、冷たく言い放った。その言葉には、感情のかけらもなかった。「はい」私は立ち上がり、配膳を抱えて部屋を出た。背筋を伸ばして歩こうとするけれど、足元がふらつく。それでも、泣くわけにはいかない。この家では、私に人権なんてものはないのだから。この家は、お姉様がすべてだった。父も母も、いつだってお姉様の味方だった。私は、ただの影。いてもいなくても変わらない存在。いや、むしろ邪魔者として扱われていた。お姉様は何でもできる。美しくて、頭が良くて、誰からも愛される。一方の私は、料理ひとつまともに作れない。比べられるたびに、私はどんどん小さくなっていった。どれだけ理不尽に怒鳴られても、どれだけ傷つけられても、両親は見て見ぬふりをするだけだった。廊下に出たそのとき、不意に背後から声がした。
「口説いてるんだよ」 彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけがどんどん大きくなっていくようだった。 心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱を帯びていくのを感じた。息をするのも忘れそうだった。 私は、ずっと思っていた。 私には人権なんてないのだと。 この先もずっと、父の命令に従い、姉の顔色をうかがいながら生きていくのだと。 自分の意思なんて、望むことすら許されない。 でも、壱馬様が現れてから、私の世界は少しずつ変わっていった。 彼は、私に特別をくれた。 私の名前を、まるで宝物のように呼んでくれて、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。 彼の優しい言葉と、あたたかな微笑みが、私の冷えきった心を少しずつ溶かしていった。 彼の隣にいると、世界が少しだけ優しく見えた。 これからは…私も幸せになれるんじゃないかって。 そんな希望が、心の奥に小さな灯をともした。 でも、その灯は、風が吹けばすぐに消えてしまいそうで。 怖かった。 私は何も持っていない。 学もない。美しさもない。誰かに誇れるようなものなんて、ひとつもない。 壱馬様のような人が、どうして私なんかを好きになってくれるのか、分からなかった。 もし、彼の気持ちが変わってしまったら。 もし、私が彼の期待に応えられなかったら。 そんな不安が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。 …やっぱり、上手くはいかないみたい。 私が幸せになるなんて、無理だったんだ。







