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第2話

Author: Hayama
last update Last Updated: 2025-12-26 12:15:45

「俺のせいだよな。俺は花澄と別れたこと、後悔してるよ」

ずっと閉じ込めていた感情が、ふいに呼び起こされる。

あのとき、何も言えなかった自分を思い出す。

別れを告げたのは私だった。

でも、それは私の意思ではなかった。

彼を、守りたかった。

「これ以上、二人きりでいるのはよくありません」

声を潜めながらも、必死に冷静を装った。

けれど、心の中では警鐘が鳴り響いていた。

こんな話がお姉様の耳に入ったら…。

「正直、今でもやり直せると思ってる。いっそのこと、二人で駆け落ちしようよ」

その言葉に、息が止まりそうになった。

夢のような響きだった。

誰にも邪魔されず、彼とふたりで生きていける世界。

そんな未来を、何度も想像したことがある。

けれど、それは夢でしかない。

現実は、そんなに優しくない。

逃げたところで、きっとすぐに見つかる。

お姉様は、そういう人だ。

どんな手を使ってでも、私たちを引き裂こうとする。

その執念深さを、私は誰よりも知っている。

「樹様…」

名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。

心の奥では、彼の言葉に応えたい気持ちが渦巻いていた。

でも、現実を知っているからこそ、踏み出せない。

夢を見てはいけない。希望を抱けば抱くほど、失ったときの痛みは深くなる。

私はそれを、もう何度も味わってきた。

「樹様なんて言わないで、前みたいに樹って呼んでよ」

彼の声が、どこか寂しげだった。

私だって、そう呼びたい。

昔のように名前を呼んで、手を繋いで歩きたい。

でも、今の私は、あの頃の私じゃない。

彼の隣に立つ資格なんて、もうない。

「すみません…」

それが、私にできる精一杯の返事だった。

彼の視線が、まっすぐに私を見つめていた。

その眼差しが、心の奥を揺さぶる。

「俺は、まだ花澄のことが──」

その声が、かすかに震えていた。

彼の想いが言葉になる前に、空気が凍りついた。

「あら、二人でコソコソ、何のお話をしているのかしら」

冷たい声が、私たちの間に割り込んできた。

その声を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。

振り返ると、そこにはお姉様が立っていた。

その視線は氷のように冷たく、私たちを射抜いていた。

「…お姉様」

声がうわずった。

心臓が、早鐘のように打ち始める。

手のひらが汗ばみ、足元がふらつく。

逃げ場は、どこにもなかった。

「まさか浮気でもしてるんじゃないでしょうね」

その場の空気が一瞬で凍りつく。

お姉様の声は、まるで毒を含んだ風のように、私たちの間に吹き込んでくる。

私は言葉を失い、ただ俯いた。

「あのな、そもそも」

樹様が口を開いた。

彼は私を庇おうとしている。

それが分かって、私はとっさに顔を上げた。

彼の言葉が続く前に、止めなければ。

「いえ、そんなはずはありません。私と樹様では、不釣り合いですから」

私は一歩前に出て、頭を下げた。

声は震えていたが、なんとか平静を装った。

私がどれだけ彼を想っていようと、それを口にすることは許されない。

だから私は、自分を貶めることでしか、この場を収める術を持たなかった。

「花澄…」

彼の声が、私の名を呼んだ。

優しさと痛みが混ざったその声に、私は耐えきれそうになかった。

「ふっ、よく分かってるじゃない。完璧な私と、足でまといの貴方。どちらが樹とお似合いなのか、考えなくても分かるわよね?」

お姉様の声は、嘲るように甘く響いた。

その言葉の一つ一つが、鋭い刃となって私の心を切り裂いていく。

けれど、私はうなずくしかなかった。

分かっていた。

分かっていたからこそ、彼の幸せを願って身を引いたのだ。

そもそも、彼の隣に立つ資格なんて、最初からなかったのかもしれない。

「おい、そんな言い方は」

樹様が声を荒げた。

その声には、怒りと悔しさが滲んでいた。

私を庇おうとしてくれるその姿が、嬉しくて、苦しかった。

でも、彼が声を上げれば上げるほど、彼の立場は悪くなる。

「はい。十分、承知しております」

その声は、自分でも驚くほど冷たく、乾いていた。

感情を押し殺し、ただ事実だけを述べるように。そう答えることでしか、彼を守る術がなかった。

それが、私にできる唯一のことだった。

「ならいいわ。ついてきて。お父様が呼んでいるわ」

お姉様は踵を返し、冷たい足音を響かせながら歩き出した。

その背中には、絶対的な自信と支配の影が滲んでいた。

私は一瞬だけ樹様を見た。

彼の目には、まだ何かを言いたげな光が宿っていた。

けれど、私は首を横に振った。

これ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。

「はい」

その一言を残して、私はお姉様の後を追った。

背中に残る彼の視線が、痛いほど熱かった。

けれど、振り返ることはできなかった。

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