LOGIN「俺のせいだよな。俺は花澄と別れたこと、後悔してるよ」
ずっと閉じ込めていた感情が、ふいに呼び起こされる。 あのとき、何も言えなかった自分を思い出す。 別れを告げたのは私だった。 でも、それは私の意思ではなかった。 彼を、守りたかった。 「これ以上、二人きりでいるのはよくありません」 声を潜めながらも、必死に冷静を装った。 けれど、心の中では警鐘が鳴り響いていた。 こんな話がお姉様の耳に入ったら…。 「正直、今でもやり直せると思ってる。いっそのこと、二人で駆け落ちしようよ」 その言葉に、息が止まりそうになった。 夢のような響きだった。 誰にも邪魔されず、彼とふたりで生きていける世界。 そんな未来を、何度も想像したことがある。 けれど、それは夢でしかない。 現実は、そんなに優しくない。 逃げたところで、きっとすぐに見つかる。 お姉様は、そういう人だ。 どんな手を使ってでも、私たちを引き裂こうとする。 その執念深さを、私は誰よりも知っている。 「樹様…」 名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。 心の奥では、彼の言葉に応えたい気持ちが渦巻いていた。 でも、現実を知っているからこそ、踏み出せない。 夢を見てはいけない。希望を抱けば抱くほど、失ったときの痛みは深くなる。 私はそれを、もう何度も味わってきた。 「樹様なんて言わないで、前みたいに樹って呼んでよ」 彼の声が、どこか寂しげだった。 私だって、そう呼びたい。 昔のように名前を呼んで、手を繋いで歩きたい。 でも、今の私は、あの頃の私じゃない。 彼の隣に立つ資格なんて、もうない。 「すみません…」 それが、私にできる精一杯の返事だった。 彼の視線が、まっすぐに私を見つめていた。 その眼差しが、心の奥を揺さぶる。 「俺は、まだ花澄のことが──」 その声が、かすかに震えていた。 彼の想いが言葉になる前に、空気が凍りついた。 「あら、二人でコソコソ、何のお話をしているのかしら」 冷たい声が、私たちの間に割り込んできた。 その声を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。 振り返ると、そこにはお姉様が立っていた。 その視線は氷のように冷たく、私たちを射抜いていた。 「…お姉様」 声がうわずった。 心臓が、早鐘のように打ち始める。 手のひらが汗ばみ、足元がふらつく。 逃げ場は、どこにもなかった。 「まさか浮気でもしてるんじゃないでしょうね」 その場の空気が一瞬で凍りつく。 お姉様の声は、まるで毒を含んだ風のように、私たちの間に吹き込んでくる。 私は言葉を失い、ただ俯いた。 「あのな、そもそも」 樹様が口を開いた。 彼は私を庇おうとしている。 それが分かって、私はとっさに顔を上げた。 彼の言葉が続く前に、止めなければ。 「いえ、そんなはずはありません。私と樹様では、不釣り合いですから」 私は一歩前に出て、頭を下げた。 声は震えていたが、なんとか平静を装った。 私がどれだけ彼を想っていようと、それを口にすることは許されない。 だから私は、自分を貶めることでしか、この場を収める術を持たなかった。 「花澄…」 彼の声が、私の名を呼んだ。 優しさと痛みが混ざったその声に、私は耐えきれそうになかった。 「ふっ、よく分かってるじゃない。完璧な私と、足でまといの貴方。どちらが樹とお似合いなのか、考えなくても分かるわよね?」 お姉様の声は、嘲るように甘く響いた。 その言葉の一つ一つが、鋭い刃となって私の心を切り裂いていく。 けれど、私はうなずくしかなかった。 分かっていた。 分かっていたからこそ、彼の幸せを願って身を引いたのだ。 そもそも、彼の隣に立つ資格なんて、最初からなかったのかもしれない。 「おい、そんな言い方は」 樹様が声を荒げた。 その声には、怒りと悔しさが滲んでいた。 私を庇おうとしてくれるその姿が、嬉しくて、苦しかった。 でも、彼が声を上げれば上げるほど、彼の立場は悪くなる。 「はい。十分、承知しております」 その声は、自分でも驚くほど冷たく、乾いていた。 感情を押し殺し、ただ事実だけを述べるように。そう答えることでしか、彼を守る術がなかった。 それが、私にできる唯一のことだった。 「ならいいわ。ついてきて。お父様が呼んでいるわ」 お姉様は踵を返し、冷たい足音を響かせながら歩き出した。 その背中には、絶対的な自信と支配の影が滲んでいた。 私は一瞬だけ樹様を見た。 彼の目には、まだ何かを言いたげな光が宿っていた。 けれど、私は首を横に振った。 これ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。 「はい」 その一言を残して、私はお姉様の後を追った。 背中に残る彼の視線が、痛いほど熱かった。 けれど、振り返ることはできなかった。「花澄、お前に縁談がきている」お父様の言葉に、私は心が凍りついた。まるで、冬の朝に薄く張った氷の上を、突然誰かに踏み抜かれたような感覚だった。胸の奥が、ひやりと冷たくなる。息を吸うのも忘れて、私はただその言葉を反芻した。縁談。その二文字が、私の未来を一瞬で塗り替えていく。まさか、こんなふうに、何の前触れもなく、運命が決まってしまうなんて。…どこかで分かっていたのかもしれない。それでも、どこかで願っていた。せめて、もう少しだけ自由でいられたらと。せめて、自分の気持ちに正直でいられる時間が、あと少しだけでもあったならと。でも、そんな願いは、やはり甘えだったのだろう。「あら、良かったじゃない」お姉様の声が、わざとらしく明るく響いた。その笑みは、口元だけが動いていて、目はまったく笑っていなかった。むしろ、冷たい光を宿したその瞳は、私の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。お姉様はいつもそうだった。私が困っているときほど、よく笑う。もう慣れていた。この家で生きるには、痛みにも慣れなければならない。「そうですか」私は感情を押し殺して答えた。声が震えないように、喉の奥に力を込める。目を伏せ、まつげの影に表情を隠す。拒絶を口にしたところで、何も変わらない。「嫁ぎ先は東条家の所だ」お父様の言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。東条家といえば、名家ではあるけれど、どこか得体の知れない噂が絶えない家。その家に、私が嫁ぐ?なぜ、私が…そんな疑問が頭の中をぐるぐると
「俺のせいだよな。俺は花澄と別れたこと、後悔してるよ」ずっと閉じ込めていた感情が、ふいに呼び起こされる。あのとき、何も言えなかった自分を思い出す。別れを告げたのは私だった。でも、それは私の意思ではなかった。彼を、守りたかった。「これ以上、二人きりでいるのはよくありません」声を潜めながらも、必死に冷静を装った。けれど、心の中では警鐘が鳴り響いていた。こんな話がお姉様の耳に入ったら…。「正直、今でもやり直せると思ってる。いっそのこと、二人で駆け落ちしようよ」その言葉に、息が止まりそうになった。夢のような響きだった。誰にも邪魔されず、彼とふたりで生きていける世界。そんな未来を、何度も想像したことがある。けれど、それは夢でしかない。現実は、そんなに優しくない。逃げたところで、きっとすぐに見つかる。お姉様は、そういう人だ。どんな手を使ってでも、私たちを引き裂こうとする。その執念深さを、私は誰よりも知っている。「樹様…」名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。心の奥では、彼の言葉に応えたい気持ちが渦巻いていた。でも、現実を知っているからこそ、踏み出せない。夢を見てはいけない。希望を抱けば抱くほど、失ったときの痛みは深くなる。私はそれを、もう何度も味わってきた。「樹様なんて言わないで、前みたいに樹って呼んでよ」彼の声が、どこか寂しげだった。私だって、そう呼びたい。昔のように名前を呼んで、手を繋いで歩きたい。でも、今の私は、あの頃の私じゃない。彼の隣に立つ資格なんて、もうない。「すみません…」それが、私にできる精一杯の返事だった。彼の視線が、まっすぐに私を見つめていた。その眼差しが、心の奥を揺さぶる。「俺は、まだ花澄のことが──」その声が、かすかに震えていた。彼の想いが言葉になる前に、空気が凍りついた。「あら、二人でコソコソ、何のお話をしているのかしら」冷たい声が、私たちの間に割り込んできた。その声を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。振り返ると、そこにはお姉様が立っていた。その視線は氷のように冷たく、私たちを射抜いていた。「…お姉様」声がうわずった。心臓が、早鐘のように打ち始める。手のひらが汗ばみ、足元がふらつく。逃げ場は、どこにもなかった。「まさか浮気でもしてるんじゃないでしょうね」その場
「こんな不味いご飯は食べられないわ!」甲高く響いた声が、食卓の空気を一瞬で凍らせた。お姉様の手が振り下ろされ、陶器の皿がテーブルから弾け飛ぶ。カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた皿は、無惨に割れ、炊きたてのご飯が畳の上に散らばった。味噌汁の椀も倒れ、汁がじわりと染み広がっていく。私は反射的に膝をつき、こぼれた食べ物を拾い集め始めた。指先が熱い汁に触れても、痛みを感じる余裕はなかった。ただ、これ以上怒らせてはいけないという思いだけが、私の体を動かしていた。「申し訳ございません…」声はかすれていた。喉の奥がひりつくほど乾いていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。床に散らばったご飯を、一粒ずつ、指先で拾い上げる。誰にも必要とされていない私が、それでもここにいるという証を、必死に掻き集めるように。「味が濃いと前にも言ったでしょ!?この役立たず!」お姉様の怒声が、背中に突き刺さる。前は味が薄いと怒られた。だから、少しでも美味しくなるようにと、調味料を増やした。それが、また裏目に出た。「はい。すみません」それ以上、何も言えなかった。言い返す言葉なんて、とうに持ち合わせていない。反論すれば、もっとひどい言葉が返ってくるだけだと知っているから。それに、どこかで自分が悪いのかもしれないと、思ってしまう自分がいる。そのことが、何よりも情けなくて、やるせなかった。「分かったならさっさと作り直してきなさい」お姉様は私の方を一瞥することもなく、冷たく言い放った。その言葉には、感情のかけらもなかった。「はい」私は立ち上がり、配膳を抱えて部屋を出た。背筋を伸ばして歩こうとするけれど、足元がふらつく。それでも、泣くわけにはいかない。この家では、私に人権なんてものはないのだから。この家は、お姉様がすべてだった。父も母も、いつだってお姉様の味方だった。私は、ただの影。いてもいなくても変わらない存在。いや、むしろ邪魔者として扱われていた。お姉様は何でもできる。美しくて、頭が良くて、誰からも愛される。一方の私は、料理ひとつまともに作れない。比べられるたびに、私はどんどん小さくなっていった。どれだけ理不尽に怒鳴られても、どれだけ傷つけられても、両親は見て見ぬふりをするだけだった。廊下に出たそのとき、不意に背後から声がした。
「口説いてるんだよ」 彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけがどんどん大きくなっていくようだった。 心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱を帯びていくのを感じた。息をするのも忘れそうだった。 私は、ずっと思っていた。 私には人権なんてないのだと。 この先もずっと、父の命令に従い、姉の顔色をうかがいながら生きていくのだと。 自分の意思なんて、望むことすら許されない。 でも、壱馬様が現れてから、私の世界は少しずつ変わっていった。 彼は、私に特別をくれた。 私の名前を、まるで宝物のように呼んでくれて、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。 彼の優しい言葉と、あたたかな微笑みが、私の冷えきった心を少しずつ溶かしていった。 彼の隣にいると、世界が少しだけ優しく見えた。 これからは…私も幸せになれるんじゃないかって。 そんな希望が、心の奥に小さな灯をともした。 でも、その灯は、風が吹けばすぐに消えてしまいそうで。 怖かった。 私は何も持っていない。 学もない。美しさもない。誰かに誇れるようなものなんて、ひとつもない。 壱馬様のような人が、どうして私なんかを好きになってくれるのか、分からなかった。 もし、彼の気持ちが変わってしまったら。 もし、私が彼の期待に応えられなかったら。 そんな不安が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。 …やっぱり、上手くはいかないみたい。 私が幸せになるなんて、無理だったんだ。