LOGIN「そうみたいって、そんな人と結婚させられるかもしれないんだよ?」
樹様の声が、少しだけ強くなった。 その怒りは、私のためのものだった。 彼の優しさが、私を縛る。 逃げたいのに、逃げられない。 彼の言葉に応えたい気持ちと、応えてはいけないという理性が、胸の中でせめぎ合っていた。 「覚悟は…していたので」 私は小さく息を吐きながら、そう答えた。 いつか、いつかこんな日が来ると。 覚悟していたはずなのに、心はまだ抗おうとしていた。 ほんのわずかでも、奇跡を信じていた自分がいたことに気づいて、私はそっと唇を噛んだ。 痛みで、余計な感情を押し込めるように。 「そんなのダメだよ。破談にするべきだって俺が──」 彼の言葉が、私の心を大きく揺さぶった。 その真っ直ぐな想いが、私の胸に突き刺さる。 けれど、私はそれを受け止めることができなかった。 彼が動けば動くほど、彼が傷つく。 もう、終わったことなのに。 私のために、これ以上、傷つかないで。 「それはいけません」 私は、思わず彼の言葉を遮っていた。 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。 私の中にある最後の理性が、彼を守ろうとした結果だった。 これ以上、彼に踏み込ませてはいけない。 私のために、彼が傷つくのはもう見たくなかった。 彼が声を上げれば上げるほど、この家の怒りは彼に向かう。 それが、どれほど危ういことか、私は誰よりもよく知っていた。 「どうして…」 樹様の声が、かすかに震えていた。 その響きに、胸が締めつけられる。 彼の目が、まっすぐに私を見ていた。 「頼んでみたところで何も変わりません。それどころか父を刺激すると、樹様がここにはいられなくなってしまいます」 私は、できるだけ冷静に言葉を選んだ。 感情を抑えて、事実だけを並べるように。 彼のことを思えばこそ、これ以上の関わりは危険だった。 お父様の怒りを買えば、彼はこの家から追い出されるかもしれない。 それだけでは済まないかもしれない。会社のことだって…。 「俺はそんなのどうでもいい」 その言葉に、私は目を見開いた。 やっぱり、この人は…。 あなたなら。樹なら、きっとそう言うと思った。 でも、私はあなたのように強くなれない。 だからこそ、あなたを守るために、私はあなたを突き放さなければならない。 それが私にできる、最後の優しさだった。 「私が嫌なんです。私のせいで樹様にまで迷惑をかけたくありませんから」 私は、彼の目を見つめて言った。 むしろ、誰よりもあなたと一緒にいたかった。 本当は、もっと一緒にいたかった。 もっと、あなたのそばにいたかった。 でも、私の存在があなたを傷つけるなら、私はあなたの前から消えるべきだ。 「迷惑なんて、」 彼の声が、かすかに震えていた。 私は、彼の幸せを願っている。 だからこそ、ここで終わらせなければならない。 どれだけ辛くても、どれだけ未練があっても。 私は、彼のために手を離すと決めたのだから。 「今までありがとうございました。樹様がいてくれたおかげで、私は私のままでいられました。これからもずっと…幸せでいてください」 言葉を紡ぎながら、胸の奥がじんじんと痛んだ。 これが、きっと最後の会話になる。 だから、せめて感謝だけは伝えたかった。 あなたがいてくれたから、私は自分を見失わずにいられた。あなたのまなざしが、私をひとりの人間として見てくれたから。 それだけが、私の救いだった。 だから、どうか────── あなたはあなたのままで。幸せでいてほしいと。心から願った。 きっと樹様と話せるのも、これで最後になるはずだから、最後に自分の気持ちを伝えたかった。 けれど、口にすることはできなかった。 喉の奥までせり上がってきた言葉は、どうしても声にならなかった。 "これからもずっと、愛しています" たったそれだけの言葉が、どうしてこんなにも遠いのだろう。 言えなかったことを、きっと私は後悔する。 でも、それでもよかった。 この想いは、私の中にだけあればいい。 誰にも知られなくても、 誰にも届かなくても、 それでいい。 私は、心の中でだけ、そっと呟いた。 これからもずっと、あなたを想っています。 「…花澄」 彼の目が、何かを言いたげに揺れていた。 もう少しだけ、違う形で生まれていれば。 もう少しだけ、違う形で出会えていれば。 そんな“もしも”を思い描いてしまう自分も、今日で最後にするから。 「さようなら」 私は微笑みながら言った。 その笑みが、どれほど不自然だったかは、もうどうでもよかった。 彼の前では、最後まで笑っていたかった。 悲しみを見せたくなかった。 だから私は、精一杯の笑顔で、別れを告げた。 あなたが幸せでいてくれることが、私の幸せです。 そう思えるほど、私は彼を愛していた。「ん?」壱馬さんが、少しだけ首を傾けて私を見た。彼の表情はいつも穏やかで、優しくて、でも今日はその奥に、薄い影が差しているように見えた。それは、私が見慣れた彼の表情とは違っていて、胸の奥がふとざわついた。「どうして、悲しそうな顔するんですか」言葉にするまで、少し迷った。聞いてはいけない気もした。でも、どうしても気になってしまった。どこか寂しげだったから。「え、そう?俺どんな顔してる?」壱馬さんが少し笑いながらそう言った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。笑っているのに、その笑顔がどこかぎこちなくて。言葉にできない感情が、彼の目の奥に見えた気がした。それは、悲しみとも、寂しさとも違う。でも、確かに何かがあった。「…なんだか、遠くを見てるみたいな顔です」言葉が口をついて出た瞬間、胸の奥にひやりとした感覚が走った。言ってしまった。壱馬さんの表情に違和感を覚えて、それをそのまま言葉にしてしまった。でも、それが彼を傷つけてしまうかもしれない。その不安が、すぐに心を覆った。「…そっか、心配かけてごめんね」壱馬さんは、少しだけ目を伏せて言った。壱馬さんの「ごめんね」は、自分の気持ちを隠すための言葉のように聞こえた。「私、何か失礼なことを言ってしまったでしょうか」自分でも驚くほど弱々しい声だった。壱馬さんの表情が曇ったのは、きっと私のせいだ。本当の気持ちを何も知らないまま、踏み込んではいけない場所に踏み込んでしまった気がした。「ううん。ただ、花澄があまりにも沢山褒めてくれるから驚いただけだよ」壱馬さんは、嘘が下手だなぁ。彼の目は、まだ少しだけ曇っていた。私の言葉が、彼の中の何かを思い出させてしまったのかもしれない。
「は、はい」声が震えた。なんとか声を絞り出した。心臓が、鼓動を早める。壱馬さんの次の言葉が、私の何かを変えてしまう気がして。「まだ、俺の事好きじゃない?」その言葉が、まるで心の奥をそっと撫でるように響いた。優しくて、でも真っ直ぐで。私の曖昧さを、そっと問いかけてくる。その言葉には、彼の希望が滲んでいた。私がいつか、彼を好きになることを信じてくれている。でも、私はまだ…その答えを持っていない。壱馬さんのことをもっと知りたい。でも、それが好きという気持ちなのかは分からない。もちろん、人としては好きだけど…。壱馬さんの優しさも、強さも、全部、素敵だと思う。好きって、どんな感情だったっけ。誰かを思うとき、胸が苦しくなるのは、恋なの?それとも、ただの憧れ?「…私がここに来て、まだ2日しか経ってません」言葉を口にするまでに、少し時間がかかった。沈黙の中で、心の中の言葉を何度も並べ直していた。壱馬さんの問いかけに、すぐに答えられなかったのは、自分の気持ちがまだ形になっていないから。たった2日。それでも、心は確かに動いていた。でも、それを好きと呼ぶのは、まだ怖かった。「ははっ。確かに。それもそうだ」壱馬さんの笑い声が、少しだけ空気を和らげた。でも、その笑いの奥に、どこか寂しさのようなものが混じっている気がした。「ただ、壱馬さんのことをもっと知りたいと思います」言葉を紡ぎながら、自分の中で何かがほどけていくのを感じた。壱馬さんのことをもっと知りたいと思う気持ちは、心が動いている証。「それって俺に関心あるってこと?」壱馬さんの声は、少しだけ弾んでいた。でも、その奥に、どこか探るような響きがあ
「壱馬さん、もう大丈夫です」壱馬さんの腕の中から、そっと顔を上げた。そんな言葉が、嘘にも似たように聞こえたのは、今の居心地が愛おしかったから。この静かな空間。抱きしめられている温度。それが、当たり前のように自分に向けられていることが嬉しくて、離れるのが怖くなっていた。心臓の音が耳の奥で静かに鳴り続けていて、彼の腕の温度が、背中にじんわりと染みていた。今すぐ離れてしまうのは、ちょっと惜しいと思ってしまうくらい、心地よかった。だけど、このままでは心が持たない。壱馬さんが優しくしてくれるたびに、期待してしまいそうになる。それが、怖かった。このぬくもりが壱馬さんの気まぐれではないかという疑念が、心の奥で静かに重なっていく。この安らぎが一時的なものなら、嬉しさがあとで痛みに変わってしまう気がした。「えぇ、もう少しこうしてちゃ駄目?」その声は、思っていたよりもずっと甘くて、耳元でふわりと響いた。心が跳ねる。もう少しという言葉が、まるで永遠を願っているように感じられた。私の気持ちを揺さぶる言葉を、何の気なしに口にするなんて。「もしかして、本当にこうしてたかっただけですか?」気づけば、ぽつりと問いかけていた。 想像していた理由は、きっと慰めるためだった。私が泣きそうだったから、彼は抱きしめてくれた。そう信じようとしていたのに、今の壱馬さんの言葉が、その前提を静かに揺らしてしまった。「最初からそう言ってるじゃん?」壱馬さんの返事はあまりに軽くて、ちょっと拍子抜けした。でも、同時に心が静かに跳ねる。それは、言葉の軽さとは裏腹に、隠しようもない本音みたいだった。「は、離れてください」声が不自然に高くなってしまった。喉の奥がざわついて
「ただいま〜」壱馬さんの声が、玄関に響いた。壱馬さんの声が、この家に人の気配を運んでくれる。「おかえりなさい」自然に口から出たはずの言葉なのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。おかえりなんて、誰かに向けて言ったのはいつぶりだろう。「花澄も」壱馬さんの言葉に、思わず足が止まった。その一言が、胸の奥に静かに落ちていく。まるで、今までずっと探していた言葉だったみたいに。……そっか。私もこの家の帰る人で、ここには私を待っていてくれる人がいるんだ。それだけのことなのに、どうしてこんなにも胸が熱くなるんだろう。「た、ただいま」言葉がつっかえた。帰っても誰もいない家に向かって「ただいま」と言うことはなかった。言っても返ってこない言葉を、わざわざ口にする意味がなかったから。ただいまとおかえりが交わされる場所。それは、私にとってずっと遠いものだった。 憧れでしかなかった。でも今、彼の言葉がその距離をそっと縮めてくれた。私も、ここにいていい。 帰ってきていい。そう思えるだけで、涙が出そうになった。「おかえり」その言葉が、静かに胸に落ちた。目の奥がじんわりと熱くなる。あの家では、玄関を開けてもそこには誰もいなくて、ただ冷たい空気だけが漂っていた。その空間は、まるで私一人だけが取り残されたみたいで、言葉を交わす意味さえ忘れてしまいそうな日々だった。「ただいまとかおかえりとか、なんかいいよね」壱馬さんの声が、ふっと空気を和らげた。壱馬さんも、私と同じように感じているの?「え」思わず問い返してしまった。彼の言葉の意味を、もっとちゃんと聞きたくて。その声が、どこか遠い記憶に触れた気がした。
「だめ?」壱馬様の声は、少しだけ甘えているようだった。そんな風に言われたら、断れるわけがない。「私ができることなら…」言いながら、視線をそっと伏せた。顔が熱くて、壱馬様の目を見られなかった。でも、心の中では、何を言われても受け止めたいと思ってた。それくらい、彼の存在が大きくなっていた。沈黙が落ちる。空気が、ふっと静かになる。鼓動の音だけが、耳の奥で響いていた。そして─────「俺のこと、壱馬って呼んでよ」その言葉が、静かに落ちてきた。まるで柔らかな羽が胸に触れたみたいに、私の心の奥にそっと届いてきた。一瞬、時間が止まった気がした。本当に、すべての音が消えたようだった。壱馬様の言葉だけが空気の中に残っていて、それ以外のものが、全部遠くに霞んでいく。ずっと“壱馬様”と呼んできた。それが礼儀だと思っていたし、距離を保つための言葉でもあった。名前で呼ぶということは、壱馬様との間にあった線を越えること。心の中にあった壁を壊すこと。呼びたい。でも、呼んでしまったら…もう戻れない気がした。壱馬様との関係が、確かに変わってしまう。それが怖いわけじゃない。彼の隣にいる時間が、少しでも長く続いてほしいと願っていた。でも、いつか来てしまう日に耐えられなくなる。「え、っと…」言葉が喉の奥で引っかかった。名前を口にするだけなのに、心臓がこんなに騒ぐなんて。視線は自然と膝の上に落ちて、指先がぎゅっと握られていた。彼の顔を見られない。見たら、きっと顔が真っ赤になってしまう。「だめ…?」気持ちは前に進もうとしているのに、身体がまだ戸惑っている。「壱馬様は壱馬様なので…」
「か、帰りましょう」言った瞬間、自分の声が自分のものじゃないみたいに震えて聞こえた。これ以上ここにいたら、きっと心が持たない。壱馬様の声も、視線も、全部が近すぎて、触れたら壊れてしまいそうで。「えぇ〜花澄が止めたくせに」その軽い調子の声が、胸の奥にじんわりと広がる。責めているわけじゃない。むしろ、からかうような、甘えるような声。確かに止めたのは私だ。もっと話したかった。あのときはただ、その気持ちだけで動いていた。でも今は違う。自分の心臓の音が、車内の静けさに溶けてしまいそうで怖かった。「もう、話したいことは全て話したので、大丈夫です」言いながら、胸の奥がひどく痛んだ。嘘だった。むしろ、話せなかったことの方が多かった。梨沙さんに突かれた弱さも、自分でも触れたくなかった感情も、全部、胸の奥に残ったまま。「それにしても、残念だなぁ」その声は、少しだけ拗ねたようで。思わず顔を上げると、壱馬様の横顔がほんの少しだけ寂しそうに見えた。胸がざわつく。私の言葉が、どんな風に聞こえたのだろう。「え?」自分でも驚くほど小さくて頼りない声が漏れた。壱馬様の言葉の意味を理解する前に、胸が先に反応してしまう。何を言われるんだろう。怖い。「嫉妬してくれたのかと思ったのに」その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が一気に熱を帯びた。息が止まる。「嫉妬?」嫉妬なんて、そんなこと考えたこともなかった。「俺と梨沙が話してるの、嫌だったりしたのかなって」梨沙さんと話す壱馬様を見て、胸がざわついたのは事実だ。でも、それは嫉妬じゃない。自分自身に対する嫌悪感みたいなものだった。







