LOGINお見合いをすることが決まってから、一週間。
和室の障子をくぐった瞬間から、心臓の鼓動が速くなり、手のひらにはじっとりと汗が滲んだ。 畳の香りが鼻をかすめるたびに、現実を突きつけられるようで、逃げ出したい衝動に駆られる。 けれど、逃げる場所などどこにもない。 私は静かに膝を折り、用意された座布団の上に身を沈めた。 背筋を伸ばし、手を膝の上に揃える。 目の前には、東条壱馬様が座っていた。 彼は俯いたまま、微動だにしない。 顔ははっきりとは見えないけれど、輪郭や首筋の線から察するに、それほど年は離れていないように思えた。 けれど、年齢の近さが、親しみやすさに繋がるわけではない。むしろ、彼の沈黙が、私の緊張をさらに煽っていた。 私たちは向かい合って座り、言葉ひとつ交わさないまま、時間だけが静かに流れていった。 沈黙があまりにも重くて、息が詰まりそうだった。 まるで自分がこの場に存在していないような気がしてきて、その不安を振り払うように私は声を発した。 「初めまして。藤原花澄と申します」 私は、膝の上で組んだ手をそっと解き、両手を畳につけて頭を下げた。 その瞬間、背筋に走る緊張が、まるで冷たい水を浴びたように全身を包んだ。 声が震えないようにと意識しすぎて、逆に喉が乾いてしまう。 頭を下げている間、視界に映るのは自分の膝と、きちんと折りたたまれた袴の裾だけ。 その小さな視界の中で、私は自分の存在をできるだけ小さくしようとしていた。 それでも、礼儀だけはきちんと果たさなければならない。 それが、この家で育った私に課せられた最低限の務めだった。 「東条壱馬と申します」 彼の声は、低く、よく通る音色だった。 けれど、そこに感情の起伏はほとんど感じられなかった。 まるで、何かを測るように、慎重に、しかし確実に言葉を選んでいるような印象。 私はそっと顔を上げ、彼の顔を見た。 その瞬間、思わず息を呑んだ。 お姉様が言っていたような「気持ち悪いおじさん」などではなかった。 むしろ、目の前にいるのは、どこか現実離れした美しさを持つ青年だった。 鋭く整った目元に、無駄のない輪郭。 けれど、その美しさはどこか冷たく、触れたら壊れてしまいそうな儚さをまとっていた。 まるで、誰の手も届かない場所にいる人のようで、私は思わず視線を逸らした。 彼はそれ以上、何も言わなかった。 その無言が、かえって私の心をざわつかせた。 彼の表情は変わらず、まるで仮面のように感情を見せない。 何を考えているのか、まったく読めない。 沈黙が、息苦しかった。 何か話さなければと思うのに、言葉が見つからない。 「え、えっと…」 その先の言葉が出てこなかった。 頭の中が真っ白になっていた。 何を話せばいいのか、どんな話題がふさわしいのか。 考えれば考えるほど、言葉が遠のいていく。 焦りだけが募り、胸の奥で心臓が不規則に跳ねる。 「無理に話そうとしなくていい」 その言葉は、まるで氷のように冷たかった。 そこにある距離の深さを突きつけられたようだった。 話さなくていいと言われたことで、少しだけ肩の力が抜けた。 けれど、それは興味がないと言われたようにも感じられて、胸がちくりと痛んだ。 「はい…」 その返事は、自分でも驚くほど小さな声だった。 まるで、誰にも聞こえなくていいと願っているかのように。 この空間が、耐えられないかった。 お姉様に冷たくあしらわれている方が、まだ気が楽だったかもしれない。 そう思ってしまう自分が、少しだけ怖かった。 「失礼します」 障子が静かに開き、店員さんが料理を運んできた。 その瞬間、張り詰めていた空気がわずかに揺らいだ。 誰かが入ってきてくれるだけで、こんなにも救われるものなのかと、私は内心で安堵の息をついた。 壱馬様と二人きりの空間は、あまりにも静かで、息をする音さえ気になってしまうほどだったから。 足音や器の触れ合う音が、まるで遠くの波音のように心を和らげてくれる。 私はそっと背筋を伸ばし、少しだけ表情を緩めた。 けれど、そのわずかな隙を突くように、思いがけない出来事が起きた。 「あっ」 店員さんの手が滑り、水の入ったグラスが私の袴に倒れた。 冷たい感触が一瞬で広がり、私は思わず身を引いた。 でも、こうして水をかけられること自体には、もう慣れてしまっていた。 お姉様にされてきた数々のしつけに比べれば、こんなこと、日常の延長にすぎない。 私は濡れた布地をそっと押さえながら、微笑みを作った。 「す、すみません!」 店員さんの声が震えていた。 顔は真っ青で、手もわずかに震えている。 故意じゃないなら仕方がない。 「大丈夫です」 驚きはしたけれど、怒ってなどいない。 むしろ、こうして謝ってくれることが、少し新鮮だった。 私は微笑みながら、濡れた袴をそっと押さえた。 冷たさはまだ肌に残っていたけれど、それよりもこの場の空気を和らげることの方が大切だった。 自分が怒っていないことを、どうにかして伝えたかった。 この人が、必要以上に怯えなくて済むように。 「すみません、すみません」 店員さんは何度も頭を下げながら、必死に謝り続けた。 その姿に、私は胸が締めつけられるような思いがした。 私も、いつも失敗を恐れて生きてきた。 誰かの機嫌を損ねないように、怒らせないように、ただ静かに目立たずに。 だからこそ、彼女の震える声が他人事には思えなかった。 ふと視線を上げると、壱馬様は何事もなかったかのように、黙々と食事を続けていた。 その姿に、私は少しだけ寂しさを覚えた。 「ほんとに大丈夫なので顔をあげてください」 私はできるだけ優しい声で言った。 けれど、店員さんはまだ不安そうな顔をしていた。 私の言葉が届いていないのか、それとも信じてもらえていないのか。 この家で育った私の微笑みは、もしかしたら作り物に見えるのかもしれない。 「ですが…」 何を恐れているんだろう。 私がお父様に告げ口してクビにさせるとか? ふふっ。 想像しただけで笑えてしまった。 「私、本当に怒ってないですよ。なので、顔あげてください」 今度は、少しだけ声に力を込めた。 私の中にある本当の気持ちが、ちゃんと伝わってほしかった。この人が、安心できるように。 私は、誰かを怯えさせるような存在にはなりたくなかった。 「ありがとうございます」 ようやく、店員さんが顔を上げてくれた。 その表情には、安堵の色が浮かんでいた。 私はほっとして、小さく微笑んだ。 「こちらこそ、美味しい食事をありがとうございます」 私は、感謝の気持ちを込めてそう言った。 それは、心からの言葉だった。 丁寧に用意された料理に、きっとたくさんの手間と心が込められていたはずだ。 誰かの仕事を、誰かの誠意を、無視するような人間にはなりたくなかった。 壱馬さんは、一瞬だけ驚いたように私を見た。 その目に、かすかな動揺が浮かんだのを私は見逃さなかった。 けれど、それもほんの一瞬のことで、すぐに彼はまた無表情に戻った。 「失礼致します」 店員さんは深くお辞儀をして、静かに部屋を出て行った。 その背中を見送りながら、私はそっと息を吐いた。 ようやく、少しだけ空気が動いた気がした。 けれど、壱馬様との距離は、まだ遠いままだった。「もう飽きたんじゃない?」樹が口にした飽きたという表現は、まるでお姉様の行動を一言で片づけるような響きだった。「飽きた?」目の前の樹の表情を探るが、彼はただ淡々とした顔で私を見返す。その冷静さが、逆に胸を締め付ける。「俺に…いや、花澄に嫌がらせするのも、もう飽きたんだろ」「お姉様が…」言葉が喉で途切れた。続けようとしても、声にならない。彼女は昔から、私を傷つけるためなら何だって利用してきた。私の大切なものを奪い、心を試すように振る舞ってきた。笑顔の裏に隠された冷たい意志を、私は何度も見てきた。そんな彼女が、今さら飽きたなんてあり得るのだろうか。背筋に冷たいものが走り、指先が震える。「多分、花澄が他の人と婚約した時点で、俺と一緒にいる理由なんてなくなったんだと思う。あいつは俺のこと好きじゃなかったし」確かに、お姉様が樹を選んだ理由は、愛ではなく、私への嫌がらせだった。"貴方のものを奪うのが好きだからよ"そう言い放ったお姉様の冷たい笑みは、今でも鮮明に覚えている。あの時の瞳には愛情も迷いもなく、ただ私を苦しめることへの愉悦だけが宿っていた。「そう…なのかな」私の声はかすれていた。問いかけるように呟いたその言葉は、空気に溶けて消えていくように弱々しい。お姉様は、私の幸せを壊すことに執着していた。樹との婚約も、その執念の一部に過ぎなかった。彼女は私を不幸にするために、長年努力してきた。そんな彼女が今さら飽きて、私の幸せを許すなんて…そんなのありえない。けれど、そのことを樹には言えなかった。彼はあまりにも本当のお姉様のことを知らなさすぎるから。彼が見てきたのは、表面だけ。あんな生ぬるいいじめではない。お姉様の本当の残酷さは、心の奥底まで侵食し、内面を枯らしてしまう。それが彼女だった。私は唇を噛みしめ、胸の奥で渦巻く真実を押し殺すしかなかっ
いつものようにスーパーからの帰り道。壱馬さんと過ごす穏やかな時間が続くはずだったのに、突然聞き慣れた声が私を呼び止めた。「花澄」その声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。振り返ると、そこに立っていたのは忘れたはずの人だった。スーパーの袋を握る手が震え、指先から力が抜けていく。壱馬さんと過ごす穏やかな日常の中に、突然昔の自分が割り込んできたようで、呼吸が乱れる。「…っ、どうして」声が震える。どうして今、どうしてこの場所に。「久しぶり」樹は、あの頃のように笑っていた。その笑顔は私の心を一瞬で過去へと引き戻す。「どうしてここに」問いかけながらも、答えを聞くのが怖い。「花澄を連れ戻しに来たんだよ」その言葉に胸が大きく揺れた。もしかして、そのために私に会いに来たの?あそこから抜け出してきたの?彼の真剣な眼差しが、ただの冗談ではないことを告げている。「何言ってるの、そんなことしたらお姉様が」思わず声が荒くなる。お姉様の意志に逆らうことは簡単ではない。それは私が一番よく知っている。あの人の決定は絶対で、従うしかない。だからこそ、壱馬様と出会えたのも、樹と別れることになったのも、すべてはお姉様の意志の延長線上にあった。私自身の選択ではなく、流れに身を任せるしかなかった結果だ。もしあの時、勇気を出してお姉様に逆らえていたら…樹と別れることはなかったかもしれない。彼の隣で笑っていた未来もあったのかもしれない。けれど、そうしていたら壱馬様と出会うこともなく、今の私の幸せは存在しなかった。「大丈夫。あいつとは婚約解消したから」予想もしなかった言葉に息を呑む。「え、どうして」声が震える。混乱が広がり、頭の中で理由を探すが見つからない。会社を守るために、ずっと必死に耐えていたじゃ
「今日はありがとうございました」その言葉を口にすると、胸の奥に温かさと少しの照れが広がった。壱馬さんと過ごした時間は、私にとって特別で、ただ一緒にいるだけで心が満たされていく。けれどありがとうと言うことでしか返せない自分が、やっぱり少し情けなく思えてしまう。「いえいえ」その返事は軽やかで、気にしなくていいと言っているようだった。壱馬さんの声には、見返りを求めない優しさが滲んでいて、私の罪悪感をそっと和らげてくれる。「カバンまで買っていただいて」言葉にすると、改めてその事実が重く感じられる。服だけの予定だったのに、壱馬さんは私のためにカバンまで選んでくれた。自分のために選ばれたものを持つことに慣れていないから、どうしてももらってばかりという罪悪感が膨らんでしまう。おさがりで育った私にとって、自分のために選ばれたものが存在すること自体が特別だった。「花澄の為に作られたみたいに、よく似合ってたから」その言葉は、まるで魔法のように私の不安を溶かしていく。お世辞に決まっているのに、心の奥ではその言葉を信じたいと思ってしまう。「またそんなこと言って」照れ隠しのように返すけれど、心の奥では嬉しかった。たとえ軽い冗談や気遣いでも、私を肯定してくれるその響きは胸に深く染み込んでいく。素直に嬉しいと言えない自分がもどかしくて、つい照れ隠しの言葉を選んでしまう。「これからは、花澄がやりたいこと全部しよう」その言葉に、心臓が大きく跳ねる。やりたいことを全部…。そんな自由を与えられるなんて、今までの私には考えられなかった。ずっと欲しいと言うことを許されず、願いを押し殺してきた私にとって、それは眩しすぎる未来の約束だった。「え?」驚きと戸惑いが混じった声が漏れる。どうしてそんなことを急に言うのか、分からなかった。「食
「そ、そんなことないです。私、本当に欲しいと思ったことがあまりなくて…。おさがりでも十分でしたし、服なんて気にしたこともなくて…」心の奥では誤魔化していると分かっていた。欲しいと思ったことがないわけではない。ただ、欲しいと口にすることが許されない環境で育ち、いつしか欲しいという感情そのものを押し殺すようになっただけ。だから今も、壱馬さんに見透かされるのが怖くて、必死に言葉を並べて誤魔化す。「分かったよ。花澄が言うなら、そうなんだね」壱馬さんは優しく受け止めてくれる。まるで本当に信じたように振る舞いながら。「…すみません。気を使わせてしまって」小さな声で謝る。本当の気持ちを隠していることに気付いているのに、あえて追及せずに気付かないふりをしてくれたことも。おさがりばかりで育った私に、たくさんの服を贈ってくれることも、ただの贈り物ではなく気遣いの形だと分かっている。「俺は、もっと花澄に甘えられたいけどね」その言葉に心臓が跳ねる。甘えることを望まれているなんて、想像したこともなかった。「え?」思わず声が漏れる。甘えるという行為は、ただの迷惑でしかないと…。「本当は、ただ俺が、何でも買ってあげたいだけなんだ」壱馬さんの真剣な声に、胸が強く揺さぶられる。物ではなく、気持ちそのものを与えたいという思いが伝わってくる。「壱馬さん、」名前を呼ぶだけで精一杯だった。心がいっぱいで、言葉が続かない。「もちろん物じゃなくてもいい。花澄の願いを全部叶えてあげたい」その言葉は夢のようで、願いを叶えてもらうことに慣れていない自分には、あまりにも眩しすぎる。幸せを受け取ることが怖い。それでも、心の奥底では叶えられたいと願ってしまう自分がいる。その矛盾に揺れながら、私は壱馬さんの言葉を必死に抱きしめていた。そんなふうに思う資格なんて、私にはないのに。「私は、壱
百貨店の高級ブランドに連れて行かれたとき、私は場違いな場所に足を踏み入れてしまったような気がした。きらびやかな照明、整然と並ぶ服の数々、どれも私には縁のない世界。壱馬さんに導かれるまま、別室に通されて、次々と服を渡される。鏡の前で何度も何度も着替えを繰り返すうちに、時間の感覚が薄れていった。布の質感は柔らかく、肌に触れるたびに、こんな服を着ていいのだろうかと罪悪感が胸を締め付ける。壱馬さんは一着ごとに「似合う」と笑ってくれるけれど、私はその言葉を素直に受け取ることができない。何度も着替えを繰り返し、ようやく一区切りついたと胸をなで下ろした瞬間「ここからここまで全部下さい」ドラマでしか聞いた事のないセリフを、いとも簡単に言ってのける。私にとって服は必要最低限のものでしかなく、誰かに買ってもらうなんて考えたこともなかった。しかも全部なんて。「壱馬さん、いくらなんでも全部は…」慌てて声を上げる。自分には似合わない贅沢だと思うから。「えー、でもよく似合ってるから」壱馬さんは軽く笑いながら言う。その笑顔は本気で、私を褒めるためのものだった。「私は、この一着だけで嬉しいです」私はいちばん安い服を指差した。これなら罪悪感も少ない。誰かに服を買ってもらうこと自体初めてで、それだけで十分すぎるほど幸せだ。これ以上望んではいけないと思う。「えー」壱馬さんの軽い声が響いた瞬間、胸が少しだけ苦しくなった。彼は本気で私に似合うと思ってくれているのだろう。けれど、私にとってはその優しさが重すぎる。「誰かに服を買ってもらうのも初めてなので」震える声でそう告げる。初めてという言葉を口にした途端、胸が熱くなり、涙が込み上げそうになる。幸せを受け取ることに慣れていない自分が情けなくて、でも壱馬さんに伝えずにはいられなかった。幸せを重ねることは、過去の自分
「ふふっ。良かった」その笑みを見た瞬間、胸が温かくなる。壱馬さんの笑顔は作り物ではなく、心からの安堵に満ちていた。私が少しでも前を向けたことを喜んでくれているのだと分かり、涙が込み上げそうになる。こんなふうに誰かに気持ちを受け止めてもらえるのは、いつ以来だろう。「でも、壱馬さんの気持ちには応えられないかもしれないんですよ?それなのに私に優しくする必要なんて」言葉を吐き出すと同時に、胸が締め付けられる。心の奥底から、どうしようもない諦めが滲み出る。壱馬さんのことを大切に思っているのに、選べない未来が見えてしまう。壱馬さんの隣にいたいと願う気持ちは確かにあるのに、その願いを叶える力が自分にはない。唇を噛みしめ、視線を落とす。「俺は、好きな人が幸せならそれでいいんだよ。そう思えるようになったのは花澄のおかげ」その声は真っ直ぐで、迷いがなかった。私の存在が彼を変えた。そう言われて、胸が熱くなる。「幸せに…」小さな声で呟く。自分には縁遠いと思っていた言葉が、壱馬さんの隣では少しだけ現実味を帯びてくる。「だから、花澄はちゃんと幸せになって」「私が…幸せになっていいんでしょうか」 震える声で問い返した瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。幸せを望むことは許されない。ずっとそう思い込んできた。私にとって幸せは、手を伸ばしてはいけない贅沢そのものだった。幼い頃から、全ての愛情や期待はお姉様に注がれるべきものだと教え込まれてきた。だから私が幸せを願うことは、その光を奪うことのように感じてしまう。「いいに決まってる。幸せになることをためらう必要なんてないよ」即答する壱馬さんの声に、胸が強く揺さぶられる。「…そんなふうに言ってもらえるなんて、夢みたいです」言葉を口にした瞬間、視界がじんわりと滲んでいく。